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ちり紙交換のバイトで学んだこと

大学生時代に、1年間留年しました。

原因は、失恋のショックで試験勉強が頭に入らなかったことが原因です。

でも、失恋の話は横においといて・・・

 

留年の1年間は、親から「学費は出すけど、自分勝手に留年したんだから仕送りは半額にするからね!」と言われ、慌てていくつものバイトをしました。

この時に経験したアルバイトは、世の中の底辺で生きている人たちのことを知るもっとも重要な期間だったと思います。

子供の頃から「世の中で最も最低な人間は、ものもらい=乞食だ!」と教育されてきたからこそ、大学まで行かせてもらったのに、自分勝手な理由で親に迷惑をかけてしまいました。

仕送りは親父の給与からではなく、母が裁縫の仕立てのアルバイトで貯めたお金から送ってくれたからこそ、母は私の身勝手さを泣き、さらに父さんに申し訳ないと泣かれたので、1年間、実家に帰ることを諦めました。

北海道から岡山へ行った私は当時、帰省すると往復の旅費だけで7万円かかりますので、毎回、仕送りとは別に旅費を送ってもらわないと実家に帰れない身勝手な学生でした。

「1年間、実家に帰らない」と決めた20歳の私はお金を稼ぐためならどんな仕事でもすると決めていましたが、先輩たちから止められたバイトもありました。

大学病院でホルマリン漬けの死体を一晩中、棒で沈めるバイトと、「汲み取り車の中の清掃」ですが、この2つだけは寮の先輩たちが、体に染み付いた匂いは風呂に入っても消えないので、頼むからやめてくれと頼まれました。

※日給は当時としてはとても高い一晩八千円でした。

だから、短期も長期も含めていろんなバイトを1年間で10種類ほどやりましたが、最も印象的だったのが、「ちり紙交換車」のバイトでした。

「日給5000円+歩合でアップ・運転免許必要」と書かれていたので、やる気だけはある私にピッタリと思って電話をかけて募集会場に行きました。

アルバイト情報誌で集まった学生は10名、みんなやる気でいっぱいです。

40代の男性が、仕事の内容を説明してくれました。

この1.5トンのトラックに2名人組で乗り込んで下さい。

1日だけは教えますが、明日からは自分一人で運転して新聞紙や雑誌や段ボールを集めて下さい。

1日の終わりに計量所へ行き、500Kgを超えたら5000円、600kgなら6000円、1トン集まれば日給10000円になる仕事ですから頑張って下さいと言われました。

ただし、お客さんに渡すチリ紙やトイレットペーパーは自己負担だし、ガソリンも給料天引きです。

よくわからないけどたくさん集めれば、給料がたくさんもらえると思って全員、車に乗り込みました。

岡山の夏の直射日光は40度を超えますし、蒸し風呂のように湿度90%の日が続きますが、トラックにはクーラーはありません。

拡声器で「ちり紙交換車が参りました。古新聞、古雑誌、ご利用にならないものがあれば声をかけて下さい」とスピーカで流し続けました。

トロトロ時速10kmで住宅街に入ると、「子供が昼寝をしているので、うるさいよ!音量を下げて!」と奥さんに文句を言われ、「お前たち、こんな仕事以外にすることはないのか!若いもんが!」と年配者にも怒られながら新聞紙を集めていましたが、全然、手をあげる人を見つけられませんでした。

後でわかったのですが、お客さんはちり紙交換車の声が聞こえると、自分の家の新聞紙の量を見てから玄関に出てきますが、もうその時には車は通り過ぎているので、バックミラーを見ていないとお客さんは見つけられないのです。

1日目、全然集まらないので先輩に「これは今日、持ち帰って、明日、2倍にすれば(1トン)、1万円になるぞ」と言われたので、軽量場所には行かずに車庫へ戻りました。

翌日の朝礼には数名欠けて7名になり、翌々日には5名になり、3日後には3名になり、5日目には新人は私一人になりました。

7日目には、先輩の大学生も「今日でやめます」と挨拶をしたので、ついに私一人だけになってしまいました。

40代の男性が、「一人で大丈夫か?」と聞くので、「きっと、この仕事を私は一生やらないと思います。

だからこそ、どこまでできるか自分にチャレンジしてみたいので1ヶ月間はやらせて下さい。」と言いました。

1週間の結果は、500kgを集められた日は3回のみ。あとは400kgでも、450kgでも、収入はゼロなのです。

さらに渡したティッシュやトイレットペーパー代金とガソリン代を引かれますので、毎日、2500円近くマイナスになっていました。

理不尽です。他の会社の情報を調べると、悪徳企業だとわかりましたが、私には意地があります。

どうせやめるんなら、自分に言い訳できないくらい必死にやってみろ!と自分に言い聞かせ、毎日、35度を超える炎天下の中で車を走らせていました。

仕送りは最低限だったので、好きなものは食べられないし、ジュースなどの飲み物も買えません。

毎日、水を水筒に入れて持って行きますが、お昼頃には熱湯になるほど日差しが強い毎日でした。

菓子パン1個、自分で作ったおにぎり2個と水筒の水が、私の昼飯でした。

夕方6時に仕事が終わり、唯一のご褒美は居酒屋へ行き、1杯のビールと、白いご飯と味噌汁を頼み、アサリの酒蒸しだけを頼んで晩御飯としました。

毎日、決まった時間の、決まったお店の席に着くと、常連客もわかります。

偶然、横に居た中年男性に、こう聞きました。

「人生って、楽しいですか?」

その男性は、こう答えました。

「そのうち、わかるよ」

毎日生きてる意味がわからず、悩んでいた20歳の私は救いを求めて聞いた先輩の言葉で「自分は甘いんだ!」と気付かされました。

それからは毎晩、同じメニューの晩御飯を食べに行く店ですが、誰とも話をせずに、空腹に耐えながらアルバイトに行きました。

約束の1ヶ月が終わった日、40代の先輩にお礼を言うと、「2階の事務所に社長がいるので給料をもらっていけ」と言います。

「ただし、ドアの前で大きな声で名前を言えよ」と言われました。

相当、耳が悪い年寄りかと思って大声で名前を言うと、「おー、入れ!」とドスの聞いた太い声が聞こえました。

ドアを開けると、半袖シャツからモンモン(入れ墨)が見えるごっつい体の社長がソファーに寝そべっていました。

「吉岡です、1ヶ月間、ありがとうございます。給料をもらいにきました!」と言うと・・・

おー、ご苦労さん、またいつでも金が無くなったら仕事に来いよ」と言われましたが、心の中では「二度と来るかい!」と思っていても、頭を深々下げて、「失礼します!」と言ってからドアを出ました。

どう考えても、あの社長はヤクザです。

そうかあ、この散り紙交換のバイトもヤクザの資金源なのだと学びましたが、よりによってここまで過酷なバイトを選んだ自分に笑えたし、人生で2度とやりたいくない仕事を1ヶ月間、頑張り抜いた自分を褒めてあげました。

給料は思ったよりも少なく、当然、毎日引かれるガソリン代とティッシュ代に消えたのだと思います。

もし、あなたやあなたの子供が同じように辞めたくなる仕事についていたら、「悔いのないくらいトコトンやって、スッパリやめなさい」と教えてあげて下さい。

20歳の学生時代に経験したこの時間は、自分の中で最低ランクの仕事をした自信と誇りになりました。

ご静聴、ありがとうございます!

 

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