命のローソク 8 若い修行僧
若い修行僧のために、朝10時まで時間をあげたので、ゆっくりできたかと思ってお寺に行くと、修行僧は、本堂前の石階段に一人で座って寂しくしていました。
「あれ?もう、追い出されたの?もう少し、中にいればいいのに?」
俺もそうしたかったんだが、あの住職は、
「マナブはあえて、気を使って遅く来るつもりだろうが、俺はお前をこの家に長く置く気はない。
だから、お前は外で待っていろ。
俺からお前に話すことはもうないので、あとは、あの幼稚園児のマナブから教わりなさい。
あいつは、体は幼稚園児だが、心は俺以上の大人だし、この世の中の「是非」を悩み苦しんでいる子供だから、お前も正直になって、あの子供から教わりなさい。
俺より上手に、お前を諭し、気づかせてくれるはずだ。
最後に、「お礼の気持ち」を行動で示せよ!
多分、人生で一生、会えないタイプだから、俺もこの歳になって驚いているのさ。
ここまで長い人生を悩み苦しんできたが、あの子の心の中のほうが、もっと苦しいはずだぞ!
そういう苦しい人間に向き合って道を示すことも坊主の仕事だから、お前はできる限り、あの子の心に添えることを考えなさい。
絶対に、「答え」を聞こうとするなよ!
「自分がその時に思った答え」というものは、足りない自分が気づいたことなので、100点なことなど絶対にないものだ。
どれだけ良い大学を出ても、どれほど金を稼いでも、人一人を癒せないのなら、人間として失格さ。
俺もまだ人生の修行中なので、マナブから教わりなさい。以上」
そんなことを住職が言ったんですか?
へえー、俺のことを認めてくれていたんだ、住職・・・。
お前の感動はわかるが、最後に何か俺に教えることはないかい?
俺、今回の体験は本当に恥ずかしいことだと分かったんだが、このあと、どう生きればいいのか目標が立てられないのさ。
恥ずかしい話だが、こんなことを聞けるのは、お前しかいないみたいなので、教えてもらえないか?
あのう、お坊さん、まず、あなたはこれからいろんな場所へ行こうと思っていると思いますが、それはやめたほうがいいですよ。
だって、あなたは自分でお金を稼がず、自分のやりたいことをやれるのは、お父さんがお寺でお金を稼いでくれているおかげでしょ!
いつになったら、その「御恩し」をお返しするのですか?
僕は、このお寺が年に一度、「報恩講」という誰でも、ほとんどタダでご飯を食べさせる行事が三日間、あるので、素晴らしいことだと思っています。
僕の家は米農家なので食べる米はありますが、同級生や先輩たちは、白いご飯を食べられず、麦やヒエやアワを食べている人たちもいます。
同じ町内に住みながら、なんでこんな「貧富の差」があるんですか?
僕はまず、自分を正す前に、こういう「世の中の常識を正すべき」だと思うのです。
大人たちはいつも、これは当然だ!仕方がないことだ!と言いますが、まだ小さい子供たちにとっては、隣の家では真っ白いご飯を腹一杯食べているのに、自分の家はヒエやアワや麦ご飯ですよ!
どうして、大人たちは、こんな世の中を作ったのですか?!
それに、あなたがなろうとしているお寺の坊主も、これから一生、檀家さんに食べさせてもらうんでしょ!
それにあなたが行った大学のお金も、旅費も、着ている洋服も、全部、檀家さんからの寄付でしょ!
どうして「自分の口ブチ」くらい、自分で労働して稼ごうとしないのですか?
僕は、甘えていると思います。
世の中、そんなに甘くないですよ!
僕の家の農家でさえ、お天道様が晴れずに曇りや雨が続けば、稲も育たず食べるお米もたくさん取れません。
その少ないお米からお坊さんたちに分ける「振る舞い」をしていることを考えたことはありますか?
多分、古い日本は、もともとは「お互い様」という思いから、お互いを支える生き方をしていたはずです。
「報恩講」のことをお寺の住職から聞いた時、お金や食べ物を与えるほうと、与えらえるほうと、どちらが「罪」かを考えました。
「この世に本当は、罪も罰もない」ことは私も知っていますが、でも、この世は「罪と罰」を作って、人を捌くことを良いと思っている人たちもたくさんいます。
なので、辛い日々や悲しい日々を過ごした人たちが、犯罪を犯したり、人を殺めることもあります。
戦争だって、結局、「食べ物の領地の奪い合い」じゃないですか?!
僕は自然界の神様たちとよく話をしますが、人間がいくら山を削っても、木を切って、山を丸裸にしても、痛いとも悲しいとも自然界の神々は何も言いません。
ただ、じっと、人間が自分で気づいて行動を変えることを待っているのです。
その自然の神様たちの思いを知ると、僕は悲しくてたまりません。
これから生まれてくる子供たちに、教える言葉もありません。
だから、お兄さん!あなたはせっかく、お坊さんになったのですから、どうか、一人でもいいので、人を救ってあげて下さい。
目の前の一人の人を救えば、必ず、次に「救ってほしい人」が目に入ります。
この前も母と街へ出かけると、おばあちゃんが重い荷物を持っていたので、そっと、後ろから支えてあげて、坂道が終わると離れました。
また、次のおばあちゃんがやって来るので、坂道の前で待っていて、そっと後ろから荷物を支えることをずっとやっていると、一人のおばあちゃんに、こう言われたんです。
私たち老人は、自分一人で生きられるかどうかは、この坂道を一人で登れるかどうかだと思っているのさ。
あんたの気持ちは嬉しいけど、私の荷物は手を出さないでね。
これが、「私のあたわり」なの。
※「あたわり」とは、自分に与えられた役割の意味
今の自分ができることを精一杯やっているかどうかなんて、自分しかわからないでしょ。
あなたの気持ちは嬉しいけど、今度、もし、この坂道で登れないで休んでいる婆さんがいたら、助けてあげてね!
人生はね、一人で生まれて、一人で死ぬもんなの。
だから一人で生きられない人間になったら、自然に死を受け入れて待つものなんだよ。
あなたはまだ、若いんだから、こんな婆さんと話をするんじゃなくて、自分のやりたいことを精一杯、やりなさい。
自分がやっていることを不安に思うこともあると思うけど、迷うんじゃないよ!
どうしてもダメだとハッキリ結果が出るまでは、諦めるんじゃないよ!
人生は、負けたら終わりさ。それは、死ぬ時さ。じゃあね・・・。
僕はそのお婆さんに会った時、自分に何ができるかわからないけど、今、できることは目の前のあなたに、精一杯、思いを伝えることだと思ったので、今、あなたにお話をさせてもらいました。
こんな話でいいですか?
・・・・・・・・・・・・・
若い修行僧は、泣いて泣いて、泣き続けて声が出ませんでした。
あなたの気持ちはわかるので、言葉はいりません。
ただ、いつか、元気で働いている姿を見せて下さい。
僕は多分、18歳まではこの家にいます。
いつかまた、このお寺に来る機会があれば、家に寄って声をかけて下さい。
そして、僕が自分勝手なことを言っていたら、「禅問答」を仕掛けて下さい。
お兄さんと本気の勝負をすることを楽しみに僕も大きくなります!
では、さようなら!
これは、私が幼稚園の時の体験談ですが、全て実話です。
そして、残念なことに、家の真向かいのお寺の住職が、ある日の早朝に、本堂の前で、自分で腹を切り、「切腹自殺」をしました。
本堂の全ての扉を開けて、畳の上に真っ白い布を何枚も重ねて中央に座り、本堂の「浄土真宗 東本願寺 大谷派」のご本尊を祀る最も大事な最後の扉も開けて、一人の高僧が自害しました。
そのことを母に聞いた時、どれほど辛い思いがあったのかを魂で聞きましたが、さすが武士の家の出のお坊さんなので、こういう死に方もあるのかと感心しました。
母に、「なぜ、全ての扉を開けているのかご家族も、他の坊主もわからない」と言うので、「冥道の光に誘われて向こうに行かれたのだと思います」と答えました。
自分で死ぬことを選ぶほど、「生きていることが恥ずかしい」と最後にテレパシーで言ってくれた言葉の意味を深く感じながら、いつ死んでもいいほど、真剣に学び、遊び、生きようと決意した時間でした。
この高僧が亡くなる前に、私は何度か個人的に住職に呼ばれて「特別講義」を本堂の前で教わったことがあります。
1、「シャカマンダーラ(釈迦曼荼羅)」と住職が口にする理由は、浄土真宗の最高の京都のお寺にある巻物を全て読破し、お釈迦様の最後の悟りが「胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅」だからこそ、二つの中心にお釈迦様がいることを唱える最高レベルのお経の言葉で、この言葉を口にできるものは、日本には自分以外にいないと言っていました。
2、もう一つの体験談は、この高僧に勝てば、日本中で有名な坊主になるので、全国からたくさんの坊主たちが訪れてくるので、月に一度、日を決めて、「禅問答の対決」を本堂で行なっていました。
小学校の帰り道、偶然、立っていた住職に、「今日、3時に寺に来い」と言われた日が「禅問答の日」だったので、本堂の最も下段に正座して「禅問答」を聞いていましたが、あまりにバカな質問が多いので、負けた人を「バカ」と呼ぶ理由も納得しました。
幼稚園時代の寺子屋の先生であるお寺の住職は、若い坊主を全員を打ち負かしたあと、私を「禅問答の戦いの場」に出るよう命じ、自分から「問い」を仕掛けてきました。
大人たちが見守る中、私も負けじと「問い」を返し、お互いに引き分けに持っていくことを考えていると、
「おい、マナブ!」本気で来い!
お前の力を本気で示してみろ!
ここに来ているバカ坊主たちより、ずっとお前のほうが賢いぞ!
さあ、勝負だ!」
ここから約3時間、夕方になったのを気づかないほど、正座したまま私と住職は、問いと答えを問答(もんどう)し合いました。
周りで聞いていた禅問答の戦いに全国から来た僧侶たちは、自分の愚かさを知り、一人、一人、また一人とお寺を去って行きました。
なんで、こんな夕暮れまで私と禅問答をしたのかをあとで聞くと、
「アイツら、負けたら今度は、この寺で修行させて下さいと言うのさ。
そうしたら、ここで飯を食わせてやらんといかんし、お金や食べ物の無駄になる。
ああいうバカは世間に戻って、辱めを受けて生きるのが「修行」さ。
さあ、マナブ。最後の問いだ!これで終わりにしよう!
最後の問いは、何ですか?
「お前は今、幸せか?・・・・、・・・・」
住職のこの言葉に乗った「心の中の辛い思い」が体中に感じて、とても辛くなりました。
現実的に、自分の子供といざこざがあって、事件を起こしたり、親としても僧侶としても辛いだろうと母に聞いていましたが、本人から「逆質問」されるとは・・・。
※「質問の質問返し」は失礼にあたりますが、「答えの答え」を逆質問することは、最高の質問とされています。
その時、私が答えたのは、こうです。
「私は、今、最高に幸せです。
こうして、住職と一対一でお話をしたのは、幼稚園の時くらいからです。
そして、私は、住職が大好きです!
口も悪いし、よく怒りますますが、私は住職が怒っている「本意」をいつも感じています。
「真意」ではなく、「本意」と言葉を添えたのは、これはお釈迦様の思いだからです。
どうか、いつまでもお元気で、ここにいらして下さい。
また、こういう時間が持てますことを心より、楽しみにしております。
・・・・・・・・・・・・・・
住職は、目から涙をいっぱい流しながら、正座しなおし土下座し、「参りました!」とお言葉を下さいました。
礼には、礼を。私も土下座し、「参りました!」と言ったので、禅問答の戦いは引き分けです。
このあとすぐに、住職が自害したのを母から聞きました。
天に召され、神仏となり、人々をお守り下さいますことを祈りました。
「命のローソクシリーズ」は、私の体験談が皆様の気づきや、人に対する心の在り方を気づくキッカケになれば幸いです。
ここまで、お読み頂きまして、本当にありがとうございます。