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母:私の父は障害者だから・・・

子供の頃から昭和8年生まれの母に「私の父は障害者だから」と言われ続けてきましたが、その言葉はとても悲しく、つらい思いを抱えていると感じたので、その理由を聞いた時のお話です。

母が小学生の頃、「お前の親父は障害者だろ!カタワ!チンバの娘!」と、いじめられたことが本当につらかったけど、そのイジメを親には言えないことが、もっともつらかったと話してくれました。

母は悔しくて「学校に行きたくない」と父に言うと、父に殴られ、「学校は行きたくても行けない人もいるのに何を贅沢、言っているのか!と、また殴られたそうです。

母の父は、明治生まれで、第二次大戦で右足を膝の上から失っています。

母も相当な意地っ張りなので、何度、ビンタを貼られても「学校には行きたく無い!」と言い張る娘を見て、「理由を言え」と父に怒鳴られたそうです。

「理由は言えません」と母が言うと、また、父にビンタをされたそうです。

何度、殴られても母はガンとして態度を変えないので、さすがに父も何かあると思ったようで、「俺に言えないなら婆さんに言っておけ!」と言われたそうです。

身長170cm以上の大きな体の祖父を150cmもない小さな体の祖母が支える姿をいつも見ていましたが、その祖母に聞かれて打ち明けた内容は、「学校で父の体のことをいじめられて悔しいけど、父には言えない!」と泣きながら言ったそうです。

祖母は、あとから夫にそっと事実を話すと、「娘を呼べ!」と、私の母を正座させました。

「お前が学校でいじめられたことはわかった。

頭ごなしに殴って、すまなかった。」

と、生まれて初めて父親が正式に頭を下げて謝罪したそうです。

その父の姿を見て、また、母は涙したそうです。

岩手県の武士の家から祖父と父に連れられて北海道にやってきて、移住者たちと原野の雑林を毎日、切り開いた祖父は、戦争から戻ったあと、頭も良く、熱心に人の世話をするので町内会長を頼まれましたが断ったそうです。

逆に、一番面倒な「会計仕事」を引き受け、町内の揉め事が起きると話し合いの仲裁をするほど人望がある人だったので、母はその父が娘のために謝罪したことが申し訳なくてたまらなかったと話してくれました。

祖父は、あとから「生き残ったことに対しての罪滅ぼし」だと教えてくれました。 

でも、学校に行きたくなかった母に、「どうして学校に行くことにしたの?」と聞くと、祖父は娘(母)にこう言いなさいと教えてくれたそうです。

 

「俺も好き好んで、戦争に行ったわけじゃない。

でも、国を守るために、家族を守るために、集落の人たちを守るためには行かなくては行けなかったんだ。

その代償がこの右足1本で済んだことは、申し訳なく思っている。

俺と一緒に戦争に行った奴らは、皆、死んだんだ。

だから、生き残って申し訳ないからこそ、町内でできることをさせてもらっている。

俺のことを知らない奴はおらんはずだから、お前を馬鹿にした奴に言っておけ。

岩渕家の片足の爺さんが、そう言っていたと。」

 

母は喧嘩の仕方でも教えてくれるのかと思っていたようですが、自分が言われた言葉を一文一句、間違えないように文字に書いて翌日、学校へ行ったそうです。

先生が来る前の朝礼の時間に、黒板の前に立って大声で父に言われた言葉を叫んだそうです。

教室の全員がおかしなことを言う奴だと笑っていましたが、翌日、何人かの同級生が親に確認したようで、クラスの誰一人、二度と、母のことを馬鹿にする人がいなくなったと教えてくれました。

それでも、母はいつも、テレビで戦争体験者の映像を見ては泣き、障害者のテレビを見ては泣いていました。

私が岡山県で大学生になり、寮で出会った同級生の左手首が義手だとわかって理由を聞いた時、その彼は、私を部屋に呼んでコーヒーを入れてくれました。

「この左手首が無いのは、母親が俺の妊娠中に風邪薬を飲んだせいなんだ。

だから、誰も悪くは無いんだ。

俺も母を恨んではいないし、左手首が無くても、ちゃんと産んで育ててくれた母には感謝しかない。

 

俺が一番嫌いな人間は、自分を障害者と言って、国からお金をたくさんもらうことばかり考えている奴が大嫌いなんだ。

俺も国に申請しなおせば、もっと障害者保険が降りるんだけど、そういう奴らと関わりたくないので、自分がバイトしたお金で義手の一番安いものを買って付けているんだ。

だからほら、見栄えが悪いだろう?」と笑顔で教えてくれました。

 

私は初めて同級生に、祖父も右足が無くても頑張って生きていることを話すと、そうかそうか、お前のお母さんはつらかったろうなと泣いてくれました。

同級生の彼が、今度の日曜日、空いてるか?」と聞かれ、一緒に花火大会へ行きましたが、そこは「重度障害者施設の花火大会」でした。

誘われたのは、私一人で、同級生の彼は、その重度障害者施設のお手伝いをしているそうです。

大きな施設の窓から看護師さんと花火を見ている子供達や、移動ベットに乗せられて外まで出てきた子供は手が無かったり、足が無かったり、ダウン症だったりと正常な体の人は誰一人いませんでした。

子供たちに接する看護師さんや付き添いの人たちの笑顔は明るくて、誰も心がくすんでいる人はいません。

私はこの光景を見た時に、いかに自分が五体満足で幸せなのかを感謝していなかった愚かさを反省し、ただただ、涙が溢れて止まりませんでした

ここへ連れてきた同級生に私を誘った理由を聞くと、「お前なら俺の気持ちがわかると思ったんだ」とだけ言って、彼も涙を流していました。

会社に入ってすぐに、労働組合の事前活動で10年以上、養護施設に毎年通ったり、お店の近くの重度障害施設と仲良くなり、お店の広場で重度障害者たちのバンド演奏をしてもらったりしました。

自分も、いつ交通事故で手足を失うかを考えながら、五体満足な体に産んでくれた母に感謝して生きています。

 

大学の夏休みで実家に帰った時、またテレビを見て泣いている母がいたので、こう言いました。

「もう、障害者を見て泣くのは、やめようよ。

じいちゃんも喜ばないし、俺の同級生も、左手首が生まれた時から無いんだけど、被害者意識の障害者が大嫌いだと言っていたよ。

母は、同情して泣いてるんでしょ。

でも、障害者本人たちは、その涙は嬉しくないんだよ。

普通に扱ってくれることを望んでいたのも、母の子供の頃と同じだよね。

だからもう、障害者や戦争被害者を見て泣くのは、やめてね。」

母は、ただうなづくだけで、泣いていました。

親に返せない恩をたくさん受けているからこそ、少しでも親の気持ちを支えてあげようと思ったときのお話しです。

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