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戦争仕込みの往復ビンタ 6 生きる意味・死ぬ意味

もっとも反抗期が激しかった中学2年生の頃に、母が教えてくれたお話しの続きです。

兵長にビンタを食らって、自分も兵長に一発だけビンタをして、お互いに泣いたあと、俺は兵舎にいるみんなにこう言ったんだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おい!お前たち!

俺たちは、今日、生き残ったよな!!!

でも、今日もたくさんの仲間たちが死んでいったよな!!!

だったらよ、自分の思いだけ掴んで泣いて一晩過ごすより、今日、戦って死んでいった奴らのために、手を合わせないか?

俺は自分のベットの頭に、ハンカチを三角に折って「仏壇の代わり」にしている。

もし、お前たちにその気があるなら、自分のベットに同じようにハンカチを三角に折って、「自分の仏壇」を作れ!

さっき、兵長に許可をもらったので、兵長はこのことを見て、見ぬふりをしてくれる約束をしてくれた!

そして、俺に、その「許可のビンタ」をしてくれた!

だから、あの兵長には、もう二度と、逆らうなよ!

あの人のビンタは、全て「愛情ビンタ」なんだ!

隣の兵舎の上官みたいに、感情で人を殴る人じゃないのは、お前たちも知っているはずだろ!

その兵長は、自分が偉い上官たちに殴られるのを覚悟で「許可」を出してくれたんだぞ!

だから、おい!

俺たちは命を一緒にかけている「仲間」じゃないか!!!

生きるのも、死ぬのも一緒の仲間だから、俺と一緒に、今日、死んでいった奴らに手を合わせようぜ!

そしてな、そっと、最後に、お父さんやお母さん、そして、じいちゃんやばあちゃん、兄弟姉妹にも手を合わせて、「今日、生きていること」を感謝しようぜ!

言葉には、出すなよ!

心の中で静かに静かに「追悼の祈り」をしながら、そっと最後に、自分の家族に思いを向けろ!

こんなところを、もし、他の兵舎の上官が見たら、文句を言うに決まっているが、その時は、こう言え!

俺たちは、今日の戦いで死んでいった仲間に対して、手を合わせています!

自分の兵舎だけでなく、この日本の戦争で毎日、死んでいく仲間の魂に、ただ、ありがとうを伝えたいだけだと言うんだぞ!

絶対に、親兄弟に手を合わせているなんて、口にするなよ!

ボコボコに、殴られるからな!

さあ、朝までもう少し時間があるから、一緒にやろうぜ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俺は、兵隊で行ったいろんな戦地で、いつもこうやって仲間たちを大事にしてきた。(3か所の戦地に行ったそうです)

今、目の前にいる人間が他人でも、何かの縁があって出会った人でも、一緒にいる人間なら「仲間」だし、「仲間」が死ねば一緒に手を合わせるべきだろう!

これは人間として「最低のこと」だと、俺は思う。

天皇様が、神かどうかはわからんが、あの人は「人間」だと俺は思う。

あの当時、俺がこんなことを口にしたら、即、銃殺刑だな。

だからな、お前たち夫婦も「戦友」なんだ。

同じ目的を持って「夫婦」になったのなら、何があっても勝手に死んではならん!

そして、自分の戦友(妻・夫)の悪口を言うなんて、最低の人間がすることだ!わかったな!

だから、お前たちバカな夫婦は死ぬまで、添い遂げろ!!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あなたのじいちゃんはさ、大声で言う時は、「聞こえている全ての人」に対して言っている時なので、私は隣の部屋に居たけど、正座して、頭を下げて、自分に言われていると思って聞いていたよ。

バカな奴らは、「自分の名前を呼ばれない」と自分に言われてないと思って聞いてないから、本当に、「他人の言葉から学ぶつもりが一欠片(ひとかけら)も無いバカな人間」ばっかりでガッカリさ。

だからね、私はどんなに殴られても、この世の中で「じいちゃん」ほど、できた人間はいないと思うんだ。

あんたもよく「じいちゃん」とたくさん話しているので、そうは、思わないかい?

※「口と顎の拘束」が、この時、やっと解けたのでこう言いました。

僕は、じいちゃんとよく話しをさせてもらいましたが、じいちゃんは、あえて、僕には直接、感情で「ものごと」を教えてくれません。

教えてくれるのは、人間が生きるために必要な「道理(どおり)」だけです。

なるべく、自分の口で言わないように、息子や娘やおばあちゃんの口を借りて、僕に自分が言いたいことを言わせるので、一度だけ質問したことがあります。

じいちゃん、どうして僕には、真っ直ぐ怒ってくれないの?

僕が、バカだから?

僕が自分の脳みそでわからないほど、バカだから、あえて、直球で言わないの?

できれば、僕にも直球で、怒ってほしいなあ。

そして、じいちゃんのビンタも受けてみたいなあ。

ねえ、じいちゃん、やって!

爺ちゃんの「愛情ビンタ」を僕に・・・。

って、お願いしたことがあるんです。

でも、じいちゃんは、こう言いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

お前は、賢すぎる。

それは、逆に、この「バカな大人たちの世の中」を生き抜くのは、辛いと思う。

もし、俺なら自殺するかもしれん。

でも、お前は自分で死ねないのだろ?

俺はいつでも「死ぬ覚悟」があるし、「お前の覚悟」もわかっているので、一緒に、川に飛び込んで死んでやろうかと思った時もあるが、きっと、お前一人、生き残って、爺さんを殺した殺人犯で捕まるだけだろう。

だから、川で一緒に死ぬのはやめたんじゃ。

だからな、この「バカな世の中を川」に見立てて、生き抜くことを教えたいのじゃが、お前はひとつ教えると三つ、その意味を深く理解するので、もうお前に俺が教えることはないんじゃ。

普通は、「足りない奴」をビンタするが、お前には足りないところはないし、俺以上に「覚悟」がありすぎて、怖いくらいじゃ。

もし、お前が戦争に行ったら、どう戦う?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

僕ですか?

僕なら、みんな敵に向かって「前」から攻めていくはずなので、ずっと「横」に行って遠回りして、三人くらいで敵の一番、後ろにいる「大将」を殺しますね。

声も出ないように、首を絞めて、頸動脈をナイフで切って、そっと静かに眠るように殺します。

今も毎日、ポケットの中には、鉛筆を削る100円ナイフを切れ味がいい「両刃のナイフ」に研ぎ直して持っているので、いざと言う時は、相手の首を切るか、足のアキレス腱を切ってから、心臓に真っ直ぐ刃物を突き立てて、グッと押し込んで、心臓を一気に止めて殺します。

口も同時に押さえて、骨の間をそっと奥まで刺して、うめき声も出ないようにして、人を殺します。

いつでもその「覚悟」はできていますし、その練習も毎日、納屋にある「ワラで人形」を作り、いろんな角度で人を刺し殺す練習をしています。

だからもし、この北海道に敵が攻めてきたら一般人のふりをして、「敵の大将」をそっと殺しに行きます。

そんなんで、いいですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんでお前は、そこまで冷静に「死」に向き合えるのかのう?

・・・・・・・・・・・・・

じいちゃんも知っている通り、僕、幼稚園の頃から何度、死のうと思っても「死ねない人間」なんです。

幼稚園の時に、一番太い木に縄をかけて、自分の両手も縄で縛ってから、自分の首に縄をかけて、全体重をかけて首を絞めたことがあります。

でも、少し頭がボーとして「死の縁」まで行ってきましたが、急に「意識」が戻されて息もできるし、全く首も閉まらないくらい、首の筋肉がカチンコチンになって死ねなかったんです。

小学生の時にも、泳げないのに、川に呼び込もうとすると、体を硬直させられて、飛び込むこともできなかったです。

中学2年生になった時は、自分で台所の果物ナイフを持ってきて、夜の夜中に手首を切ろうとしましたが、その時も体を硬直させられて、何度、試しても死ねませんでした。

だったら、この日本国を守るために、一人くらい「不死身な男」が生まれたのなら、そういう覚悟をしないと生きている意味がわかりません。

つまり、相手を殺すための訓練は、「自分が生きるための意味」を、「死ぬ覚悟」で補っているだけなんだと思います。

かっこいい言葉を言えずに、すいません、

と言ったら、じいちゃんが、泣き出したんだよ。

何で泣いているのかを聞いたら、

「俺がお前に代わってあげられないのが、辛くて辛くて泣いた。」と教えてくれたんです。

だから、僕もつい、「男泣き」してしまいました。

お互いに、人前で涙を流してはいけない「男の教育」を受けているはずなのに、情けないことです。

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だから、母、どうか、こんな私ですが、まだ、「息子」として、この家に置いておいて下さい。

あともう少し、高校を卒業したら、この家を出ていくので、父と母に迷惑をかけないように「嘘つきの大人の社会」を生きてみます。

自分がどうなるのか、他人からどう思われるのかなんて、結局、どうでもいいことなのに、みんなそんなことばっかり気にして生きているバカな人たちの中で、自分も生きてみます。

僕みたいに「バカな子供」が生まれて、親にも祖父母にも迷惑をかけながら生きないといけない人間が生まれたことには、きっと、「何か意味がある」と思うんですが、今はわかりません。

母が産んでくれたことに対しては、本当に心から感謝しかありません。

でも、俺、いつかは死ぬと思います。

でも、なるべくなら、父と母を見送ってから死にたいです。

子供が先に死ぬと、「親は大変辛い」と聞いていますので、それまでは生きているので、本当に、すいません。

「ご迷惑をかける息子」ですが、あきらめて下さい。

僕は、僕が自分で「生きる意味」を見つけるまで、必死に生きてみます。

そして、神やご先祖が、「もういいよ」と言うまでは死ねないので、それまで必死に生きてみます。

だから、どうか、母、少しでも長く生きて下さいませ。

・・・・・・・・・・・・・・・・

僕は「母が生きている分」、きっと、まだ、やることがあるのだと思って生きてみます。

母が死んだら、きっと、「自分の役目」も終わるかもしれませんが、それでいいんです。

僕は、母の息子なので、「母が死ね!」と言えば、いつでも死にます!

だって、そういう強いお母さんたちのおかげで、この国を守るためにたくさんの若者が戦争で死んでいったはずです!

今は、戦争はありませんが、いつか、必ず、戦争は起きます。

その時の戦争の理由は、食べ物の奪い合いか、エネルギーの奪い合いしかありません。

なので、僕は日本のどこへ行ったとしても、食べ物と水の確保は考えて生きます!

それが母に教えてもらったことなので、ここまで大切に育てて下さり、本当にありがとうございます!!!

・・・・・・・・・・・・・・・

反抗期最高潮の中学2年生の私にこう言われた母は、目から涙を流しながら黙って聞いていました。

このあと私は精神不安定な自分が周りに迷惑をかけていることを自覚したので、中学、高校の間は、最低限の会話以外は「家族にも口を開かない子供」になりました。

それでも親は頑張ってお金を貯めて岡山県の大学にも行かせてくれたので、こんな人間が一人で生きていけるか5年間も悩みながら大学にいましたが、昭和57年、全国規模のスーパーに就職し、札幌勤務になりました。

・・・・・・・・・・・・・・・

翌年、昭和58年2月2日、に急に祖母が倒れて亡くなり、愚痴をこぼす相手もいなくなった祖父は、毎日、「一人で生きるのが辛い」と呟くだけの人になり、見ているだけで悲しくなりました。

部屋に閉じこもり、自分で首を吊ろうとしたため、息子に精神病院に入れられたことを母の電話で聞いたので、急いで実家に帰って、私は母と一緒に精神病院に面会に行きました。

「祖父の死期が近い」と感じたのも、焦っていた理由です。

祖父が亡くなるまでの時間は、母が最も辛かった時間ですので、私は精一杯、「母の思いを成就させるため」に、父に土下座して頭を下げたことがあります。

母と一緒に精神病院に行ってみると、30分も待たされてから、両手両足を縛られた跡を見て何があったか分かりましたし、薬のせいで言葉もまともに話せなくなっている祖父は、目に大粒の涙をボロボロ流しがら・・・、

マナブ、出してくれ!

俺は、こんなところで死にたくはない!

だから、頼む!

ここから出してくれ!!

と、心と心で会話しましたが、「モゴモゴ言って何を言っているのかわからない」と言う母に、「祖父の思い」を伝えましたが、母は、こう口にしました。

自分を産み育ててくれた「親の苗字」を捨てて、嫁に行った女が、実家の父親が死ぬからといって、吉岡家の家長代理(父)に言えるわけがないでしょ!!!

入る墓も違うし、他人なんだよ!!

私は自分の父親をこんな形では送りたくはないけれど、これだけは、自分の夫に話すことはできないよ!!!

だから、父さん、本当に、ごめんなさい!!!

私には何もできないの・・・・!!!

と、大声で精神病院の床に泣きくずれて倒れてしまいました。

・・・・・・・・・・・・・・・

母を家に連れて帰り、どうするかを話し合っても、「自分には言えない!自分からは言えない!」としか言わないので、私は「決断」しました。

父が仕事から帰るのを待って、土下座して、こうお願いしました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

父上、一生のお願いがあります!!

今、私の母の父が、精神病院で苦しい最後の時間を過ごしています。

僕は、人間として、あんなに素晴らしい人間の最後を、精神病院で終わらせることは許せません。

だから、父上!

どうか、一生のお願いなので、じいちゃんを精神病院から出して、普通の病院へ転院させて下さい!

僕はまだ社会的責任を負える人間ではないので、自分では何もできませんので、「祖父の命」をどうこうできる立場にありません!

だから、お願いです!

どうか、「父の責任」で、私の祖父を精神病院から出して下さい!!!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の父は、しばらく黙って私の目を見つめて、こう言いました。

・・・・・・・・・・・・・・・

お前の祖父ってことは、俺にとっては、「義理の父親」だ。

俺の父はお前が生まれる前の年に死んだので、義理の父が俺にとっての、「最後の父親」だ。

しかし、このことに対して俺が動けば、吉岡の本家や親族に迷惑がかかるし、町内でも笑いものになるだろう。

お前の兄貴やお前も、一生、この芦別市で笑いものになるかもしれん。

・・・・・・・・・・・・・・・

でも、俺は今、決めた!

じいちゃんを精神病院から出してやる!

俺が全ての責任を背負って、じいちゃんを精神病院から出してやる!

自分の父親を精神病院に入れる義理の兄貴も頭がおかしいが、そんなことより、俺も人間として最後は「普通」に死にたい。

だから、全ての責任を俺が背負って、精神病院から出してやる!

もし、本家にこのことを問われたら、本家に隠してあるあの日本刀で、俺は腹を切って死んでやる!!!

どうだ、それでいいか?

・・・・・・・・・・・・

僕と母は、顔を床に擦り付けて、父に「ありがとうございますの土下座」をし続けました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そこへ、急に札幌市にいる兄が、珍しく帰ってきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「何やってんの?なんで、三人で泣いてるの?」・・・と聞くので、私が事情を話してお願いし、兄も一緒に、父に土下座をしてもらいました。

精神病院から出すには「入れた人間の許可がいる」と言われたので、母の兄がいる岩渕家へ車を飛ばして書類にハンコを押させ、

「全て自分の責任でやりますし、葬式も吉岡家で出しますので、どうか、お願いします!」

と義理の兄に頭を下げたそうです。

昭和62年4月ごろ、病院から祖父を連れ出して背中に担いで車に乗せて、

「家の周りの田んぼの稲の成長を見たいかい?」

と祖父に聞くと、うなづくので、大きな体の祖父を背中に担いで、自分の腕に縄を何重にもグルグル巻きにして祖父が落ちないようにしてから、大きな6町歩の田んぼを担いで見せていると、

「背中で泣いている義父の体の暖かさが、自分の親父と同じだった」

と、あとで父が教えてくれました。

「実の父親」が亡くなる時も、自分から「親父に田んぼの成長を見せてやりたい!」と言い出して、一番年下の自分が父親を背中に背負ってから、腕を縄で何重にもグルグル巻きにして見せてあげたことを思い出したそうです。

自分の親父も、義理の父も、俺にとっては大事な父親だし、「人間として、自分が最も尊敬しているのは、この二人の父親だ」と、教えてくれました。

数日間、家で母が看病していると、祖父は薬が切れて、口がきけるようになった時、

「いくら吉岡さんのお願いでも、俺は吉岡の家では死ぬことはできないので、どんな形でもいいので、俺の実家の家の前に捨ててきてくれ!」と、私の父に土下座したそうです。

突然、家に連れてきた母と父に向かって、「俺たちが最後まで看病するので、一切、お前はこの家には来るな!」と言われて我慢していた母の目の前に、同年8月6日、母の兄が「自分の父親」を家の玄関に捨てるように下ろしてから、

「もう、俺たちには何もできないし、こんな爺さんの葬式にお金は一切、出したくないので、お前が自分の金で葬式を出せ!」

と、母の目の前に、自分の父親を捨てて行ったそうです。

祖父の遺産は全て自分が取ったうえに、老人介護保険や障害者年金の「家族支援金」も全部、「自分名義」にしたし、高級な腕時計や祖母の真珠のネックレスも奪ったんだよと、母は、当時のことを思い出して泣きながら話してくれました。

吉岡の父は、ヨボヨボになって歩けない父を見た時、「これは食べ物を食べさせてないからだ」とすぐに分かったので、母に、お米を炊かせて、お湯で溶かした「米汁」をスプーンで少しづつ飲ませてあげて、言葉が話せるまで回復させる毎日が、続いたそうです。

毎日、少しづつ、米汁を飲ませていると、自分の意志を言葉で言えるまでに回復し、

「他の病院に入れてくれ!

吉岡の家で死ねば、一生、俺はご先祖たちに申し訳ない!」

と最後の岩渕家の「祖父のプライド」を理解した私の父は、「泣いて爺さんが頼むので、隣町の普通の病院に入れてやったぞ。

本当は、俺たち夫婦で最後の時間を一緒に過ごしたかったが、やっぱり、あのプライドの高い爺さんは、俺たちに世話をかけるのが、自分で許せなかったみたいだな。

最後は、ゆっくり自分で食べ物を食べられるまでに回復したみたいだし、優しい看護師さんに救われたと話していたぞ。」と教えてくれました。

母は、18歳で嫁に出てから初めて父に毎日、逢いに行けたことを「ありがたい、ありがたい、お前の父さんは、神様だ」と言いながら、毎日、父に逢いに行かせてくれた時間が、「この人生で最も幸せな時間だった」と教えてくれました。

正気に戻った祖父の最後は、自分で食べ物を絶食し、水も飲まなくなって静かに「死を受け入れる時間」をしばらく過ごしたあと、母の手を握りながら眠るように静かに息を引き取ったと、母が教えてくれました。

昭和62年10月6日、祖父は天へ召されました。

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「生きる意味」を知るために、「死」から学ぶことはたくさんあります。

私が葬儀に来ることを最も嫌がった岩渕家の人たちは、「祖父の葬儀の日時は、マナブには絶対に知らせるな!」と母に言って家の電話線を引き抜いて、自分の娘たちを一人づつ見張りをつけて、母が私に電話できないようにしていたそうです。

私は急に、『母の願いと、祖父の死が近い!』と強く感じたので、電話に出ない母の心を読み取り、岡山県から時間を遡って、祖父の「最後の心音」を聞きながら時を数えて、葬儀に間に合うようご先祖たちにお願いして、急いで飛行機に乗って家の前の葬儀会場にギリギリ飛び込みました。

出棺ギリギリの祖父の顔を見て触り、最後のお礼の言葉と一緒に、祖父に頂いた品物を棺の中にそっと入れて送り出しました。

今は、「自分の親の死に目にも会えない死に方」しかできない時代になりましたが、「これで本当にいいのか?」を皆様に考えて欲しくて、吉岡家と岩渕家の恥を偲んで、皆様に大切な人の「人生の最後の時間」の体験談を公開しました。

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今の日本は、大東亜戦争で亡くなった「多くの若者たちの死の上に今がある」ことを忘れてはいけないと思います。

だからこそ、世の中のお母さんたち!、そして、女性たち!、どうか、強い日本男児を育てて命の尊さを子供達に伝えて下さいませ!

心から、どうか、よろしくお願いいたします!!

 

あなたが生まれた意味や生きる覚悟を本気で学び、本当に目覚めたい人は、このセミナーを受けて下さい!!

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