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神戸山口組 1 三代目 田岡一雄組長との出会い

私と「神戸山口組本家」との関わりを初めてお話しします。

今日、お話しする内容は、ヤクザの世界では「吉岡学の名前は口外禁止令」が出ていますし、本当かどうかを「ヤクザの組長の耳」に入れただけで「その人間を殺しても良い命令」も出ていますのでご注意下さい。

 

・・・・・

初めて山口組三代目田岡一雄組長と出会う

1982年4月1日(23歳)、「神戸ポートアイランドホール(ワールド記念ホール)」で「大学卒だけの3000名のダイエーの入社式」が行われました。

中内 㓛(なかうち いさお、1922年〈大正11年〉8月2日 – 2005年〈平成17年〉9月19日没)は、日本の実業家。ダイエー創業者。

 

「ダイエーの入社式」は取締役全員が短いスピーチをしたあと、中内功社長(当時60歳)が「入社式の訓示」を30分程度したあと、会場にいた3000名の大学卒業者全員を一人づつ壇上にあげて「握手」をしてくれたので、私も並んで握手の順番を待っていると、近づくたびに体は小さいのに「オーラ」がデカくて驚きました。

やっと順番が来たので中内功社長に向き合って一礼して「よろしくお願いします!」と言って握手すると、中内功社長がのけぞって倒れそうになったので、掴んだ手を引っ張り後ろに倒れないようにしてから一礼して下がりました。

「きっと、年だから疲れたのだろうなあ」と思いながら入社式を終えて外でタバコを吸っていると、「北海道ダイエーの人事課長」と「ダイエー本社の人部部長」がやってきて、

「吉岡さ、このあと中内功社長がお前と食事をしたいと言っているんだが、時間はあるか?」と聞かれました。

入社前に自分で「中内功社長の本」を読んで惚れた男なので、その人と食事ができるならと了承しましたが、「多分、夕方になると思うのでそれまで時間を潰してからこの番号に電話をくれ!」と「メモに書いた電話番号」を渡されました。(1982年当時は携帯電話はありません)

神戸の三宮駅前には、岡山理科大学時代に同じ寮生だった同級生のお父さんが「テーラーアズマ洋服店」を出していたので、ご挨拶に行くと、お店でお昼ご飯を一緒に食べながらいろんな話をして下さいました。

「息子は大正製薬のプロパー」になったんだが、俺のことが嫌いで家にも寄りつかないので、たまには顔を出せと言っておいてくれな。」と頼まれましたが、我が家もそうだし、どこの長男も親父が嫌いなので困ります。

多分、「初めての男の子」なので親の期待が大きい分、両親の思いを載せすぎた結果だと思います。「次男」で本当に良かったと思いました。

お昼ご飯のあと、コーヒーもご馳走になってゆっくりしていると、午後3時になったのでボツボツ電話をしようと思ってメモの番号に電話すると、その番号は「中内功社長の個人の携帯番号」だったので驚きましたが、中内功社長は、

「今、店を探しているんだが、新入社員の祝いでいっぱいなので、ダメなら最後の当てがあるから午後5時くらいにまた電話を下さい。」

と言いました。

そうだよなあ、今日は4月1日、神戸も全国でも「入社式」が多い日なのできっと居酒屋はいっぱいだし、高い店に俺なんかの「一兵卒」を連れて行くはずはないので、適当な店を探しているんだろうなと思って公園で少し眠り、午後5時に電話してみると、

「どこの料亭も一杯なので、今から言う住所に来て下さい。住所は「兵庫県神戸市灘区篠原本町4丁目6−8」。

神戸の人間はこの住所は誰が住んでいるのかわかるので誰にも聞かないでタクシーで来てくれな!」

と言われましたが、タクシーに乗るお金はもったいないので、公衆電話から同級生のお父さんに場所を確認すると、お父さんの家の近くなので心配そうに行く理由を聞かれましたが、「ちょっとだけ見てすぐに帰ります」と言って、公園から歩いて指定の住所まで行きましたが、4月1日の神戸は暖かいので歩くだけでダラダラ汗をかきながら歩きました。

 

家に近づくと警察官がたくさん並んでいたし、中内功社長が外でいて、

「そこは裏口なのでこっちの表玄関に来てくれ!と連れて行かれ、どこの料亭も隠れ料亭もいっぱいだったので、こんな場所しかなくてすまんな。ここは俺が昔、お世話になった人の家なので、気にしないで中に入ってくれ!」と言われました。

私は汗をかくとオデコからダラダラ汗が流れる発汗が良い人間なので、外で水撒きをしていた男にホースを貸してもらって顔を洗い、頭も洗ってオールバックにしてハンカチで拭いて家に中に入りました。

家の中に入ると「黒服の男」たちがずらっと並んでいて「ご苦労様です」と声をかけられたので、「あー、ここが有名な神戸山口組の本家なんだな。」と思い立派だと思いました。

 

私が5年間住んでいた「岡山市内のアパート」の周りにも、バス停の目の前にも、いくつも「ヤクザの事務所」があったし、黒い車や黒服の人たちは見慣れていたので驚きませんでした。

1977年当時は、しょっちゅうテレビで「山口組の抗争のニュース」が流れていたし、広島と四国と神戸と大阪のヤクザが喧嘩する場所は、新幹線も港もある「岡山県」だったので、大学の2年生の夏休みが終わって岡山市内のアパートに戻ると、近くのヤクザの組長の家に数名が拳銃とマシンガンを打ち込まれて「組長が死んだニュース」が流れていたほど「山口組同士の日本統一の激しい内部抗争時期」でした。

それに、高校生の頃、北海道芦別市常磐町の実家に中学の時に殴り合いになった「共産党のボス」が出世して「東京の共産党幹部」になってから、「吉岡学は化け物だから殺してこい!」と命令されたヤクザたちが黒塗りの車2台でやってきて、トランクから拳銃やマシンガンや長ドスを用意していたので、裏口から家に入り木刀と包丁数本と日本刀を用意して待ちました。

ピンポンチャイムを鳴らして入るほど礼儀正しいヤクザだったので、私の家に来た理由を聞くと、「吉岡学は化け物で社会の迷惑になるので殺せと言われてきた。」と言いました。

「そんなアホなことを言う共産党員の言葉をまともに聞いて動くあなたたちも大人としておかしいと思います。任侠道としてのヤクザの品格が落ちますので、どうぞお帰り下さい!」と言ってから、「一歩でも玄関に入ったら殺します!」

と言って相手を睨みつけると、「お前、気に入ったわ。俺たちの世界に入らないか?」と気に入られたので何もせずに帰りましたので、ヤクザ屋さんとのお付き合いは長いのです。

神戸三宮駅近くの同級生のお母さんとお父さんは私を気に入ってくれたので、何度も家に泊めてもらった時に、

このあたりはラブホもあるし、学校もあるし、ヤクザの家もあるけど、あの人たちは挨拶もするし、毎朝、小学生に「おはようございます」と声をかけながら道路の清掃をしているので優しい人たちだよ。

毎年、地元のお祭りにはたくさんのお酒やお菓子を持ってきて子供たちに配ってくれるので「神戸でヤクザを悪くいう人は誰もいないよ」と言われていたので「神戸本家」に入る時の礼儀正しさを見て納得しました。

中内功社長に案内されるまま、一番奥の部屋に入ると、「床の間」を背にした一段高い場所に、テレビで見たことがある「神戸山口組三代目 田岡一雄組長(69)」が紋付袴で座ったまま挨拶してくれました。

中内功社長が「私の自己紹介」をしてくれたので、私も自分で「北海道芦別市常磐町の吉岡一門総本家の分家の次男で、吉岡一門の最後の頭領の吉岡学です。」と言うと、田岡組長の顔がこわばり姿勢を正して座り直そうとしましたが、どうやら右手右足が負傷していたようで、何とか座り直してお辞儀をしてくれました。

年上の人が膝爪でお辞儀をしたなら、「正式にお返しのお辞儀」をしないといけないので、手持ちカバンを後ろに置いて正座し直して、両手を畳について相手の目を離さず、そのまま頭を下げて背筋を伸ばしたままの一礼しました。

すると、田岡一雄組長も奥様の田岡文子(フミ子)さんも声を出さずに固まりましたし、中内功社長は「尻もち」を付いて座り込んでしまいました。

 

中内功社長が一言、「田岡組長、こんな気迫がある男が私の会社に入ってくれたので、組長に合わせたくて連れてきました。」というので驚きました。

 

田岡組長)吉岡さんとやら、ちょっと俺の目の前に座ってくれんか?

拳銃で撃たれて体が思うように動かないので、俺の目の前に座って、お前さんの目を見せてくれ!!

と言われたので、失礼を承知で真正面に座り、一礼して手が届く場所で座り直しました。田岡一雄組長はじっと私の目を見てから、体の骨格を手で確かめると、

「やはりな、お前が吉岡一門の頭領になったとお父さんからも電話が来ていたので会うのを楽しみしていたんだ。

ちょっと、頼みがあるので聞いてもらえるか?」

 

吉岡)はい、何でございましょうか?

 

田岡組長)今な、「山口組の次の跡目」のことで揉めているので、吉岡学さんが「四代目組長」になってくれんか?

 

吉岡)何を急に言い出すのかと思えば、さすがにそれはおかしいでしょう。

私は中内功社長の経営学の本を読んで感動したので、一生をかけダイエーという会社に尽くすと決めて選んだのに、いまさら「ヤクザ」になるなんて誰にも言えないでしょ!

それに、わざわざ親の金で岡山理科大学の数学科を5年もかけて出たので、きちんとした人間として働かないと「社会人」として自分に自信が持てません。

これは内緒ですが、私は18歳の時から「防衛省の陸将補の役職」に付いて防衛省の全てのコンピューターを設計した人間なので、給料は1円も国からもらっていませんが、一応、「国の国家公務員に登録」されている人間なので、それで「ヤクザ」はまずいでしょう。

きっと、そんなことを親が知ったら泣くと思いますよ。

 

田岡組長)お前のお父さんはそうは言ってなかったぞ!!

もし、「山口組」で吉岡学が使えそうなら使ってやって下さい。

どうせ、次男だし家も継げないので、「山口組」に就職させてあげて下さい、と言われたんだぞ!!

 

吉岡)でたー!また、俺を見殺しにするのか・・・。

子供の頃からそういう両親なので、生まれた時から私を殺そうとした両親ですので、やっと岡山県に逃げてちゃんと学生をやったし、ダイエーにも自力で就職できたのに、それで「ヤクザに就職」したらおかしいでしょ!!

もう、田岡組長もお年なので、ボケたんですか?

まあ、酒のつまみにはいい話ですが、中内功社長もきっと困ると思うので、聞いてみますね。

ねえ、中内功社長!絶対におかしいでしょ!こんな話!!!

 

中内社長)俺ももとは「山口組のヤクザ」なので、お前がいいならそれでいいと思うぞ!!

給料は俺が払ってやるから、遠慮なくヤクザになれよ!!

親の都合なら「ダイエーに席」は残してやるから、思いっきり「ヤクザ」で暴れてこい!!

俺も今日の入社式で3000人と握手したが、吉岡学が目の前に立っただけで、ぶっ倒れそうになったので必死に堪えたんだぞ!!

お前が俺の手を引いてくれたので倒れなかったが、お前の気迫はすごすぎるので「ヤクザ」にはぴったりの男だ。

俺は、お前がヤクザになることは太鼓判を押して認めるぞ!!!

 

なんで「普通のスーパーの店員」だと思って入った会社なのに、「中内功社長がヤクザ」なのか理解できなかったので、飲みながらいろんな経緯を聞きました。

そんな話をしているところに、「パナソニックの松下幸之助社長」がやってきて、「いやあ、遅れてすまん。もう始まったのか?」と声をあげたので、振り向いてまた「正式なお辞儀」をすると、松下幸之助社長も「尻もち」をついて座り込んでしまいました。

 

「武士の正式な所作」は、「正座」をしても「足の指」は立てておくので、「いつでも相手を殺す所作」なので気迫が伝わってしまったようです。

しばらく誰も口を開かないので、「大変失礼いたしました」と私がお辞儀をしようとすると、田岡一雄組長が、「もう、やめてくれ!!お前の所作は怖い!!」と言い出したので、足の指を伸ばして「普通の正座」に直しました。

 

すると中内功社長が偉そうに、

「どうですか?組長!こんなすごい男が俺の会社に入ってきたので、これはきっと俺の人徳だと思うけど、なあ、幸之助よ、いいだろう!!羨ましいだろう?」

と言いました。

すると、松下幸之助社長が、

「なあ、吉岡さんとやら、どうしてこんなバカな中内功のスーパーのダイエーなんかに入ったのか理由を教えてくれ!」と言うので素直に教えました。

 

吉岡)実は、私は「岡山理科大学の数学科」なので「パナソニック」も迷ったのですが、パナソニックグループを「会社四季報」で調べると、日本にも海外にもたくさん工場を出しているし、優秀な人たちが多いので、「俺なんかの田舎者が入れる会社じゃない」と思ったので、食べ物を売っているスーパーで「日本一がダイエー」だったので、日本一の企業で頑張ろうと思って決めた会社です。

今はスーパー業界は「上り坂調子」なので、その先に何をしようとしているかも気になったし、今でも競合他者が多い業界で「オーバーストア気味」なので、きっと激しい戦いになると思ったし、中内功さんの自伝を読むと、「常識外の破天荒な人だ」と思ったので、自分も破天荒なのでやっていけるかもと思ってダイエーに入りました。

私の選択は間違っていましたかね?」

 

松下幸之助社長)それはお前、絶対に間違ってるわ!

今から俺がお前を雇ってやるから、ダイエーはすぐにやめてうちにこい!!

ねえ、田岡組長もそう思いますよね?

こんなにすごい男はそうはいないので、どこかに盗られる前にうちでもらっておきますわ。

ダイエーの給料の2倍は出すので、どうだい?うちに来ないかい?

 

吉岡)あのう、今日のついさっき、「ダイエーの入社式」が終わったばかりだし、同期入社の仲間たちと1ヶ月前から研修したので、「たかがお金で同期の桜を裏切るわけにはいきません。とてもありがたいお言葉ですが、お断りします。

 

・・・沈黙・・・

 

松下幸之助社長)文子姐さん、俺の分の飯も用意して下さい!

今、東京でパナソニックの入社式を終わって中内から電話がきたので、焦って新幹線できたので昼飯も食べてないのでお願いします!

 

文子姐さん)あのう、ちょっ待ってね。私もだけど、多分、組長も今、オシッコを漏らしたと思うので、すぐには立てないのさ。ねえ、そうだよね、あんた!

 

田岡組長)いやあ、参った!本当に、参った!

どうして「挨拶の所作」だけで「殺気」が出るのかわからん奴だ。

お前は、どういう環境で育った人間なんだ?

 

吉岡)では、初めて人様に公開しますが、今まで誰にも言ったことがないことなのでご内密にお願いします。

私の家は日本中の武士の大元の「吉岡憲法 吉岡一門 頭領」の家柄でして、私の父は「最後の頭領」でしたが、私は次男なので3歳から「腕振り100回朝昼晩の訓練」をしながら家の手伝いをして育ちました。

家は米と野菜を作っている農家なので、自然に腕の筋肉も付いて高校時代には両手の握力は70kgもありました。

3歳から毎日「日本刀の腕振り訓練」をしましたが、途中から腕振り訓練が毎日朝昼晩1000回づつになっても頑張ったし、時々、父が木の枝や木刀で「果し合い」を仕掛けてくるので、「いつも気を抜けない生き方」をして参りました。

私が8歳になった時に「父との真剣勝負」で勝ったので、4つ上の兄貴の12歳の誕生日に、吉岡本家の従兄弟2人と「真剣勝負」をした時に、兄が負けて私が従兄弟2人に勝ったため、「吉岡一門の責任と資産を全て私が引き継ぐ頭領」になりました。

でも正式には「12歳の元服の誕生日」まで日本全国には知らせないと父は言ったのに、「吉岡一門総本家の祖母」が富山県の本家に伝えたせいで、毎日のように「北朝の武士」たちが日本刀を持って私と父を切り殺しにくるので、仕方なくやって来た北朝の馬鹿どもの全員の首を刎ねてから、遺体は山に運んで「第三国人」に食べてもらう日々が18歳まで続きました。

 

・・・沈黙・・・

 

文子姐さん)ねえ、田岡組長、あんたは今まで何人くらいの人を殺したの?人数を教えて!!

 

田岡一雄組長)多分、17人くらいかな。あとは、舎弟たちが上手に始末するので、俺が殺した人数は17人で終わりだ。

 

文子姐さん)じゃあ、吉岡さんは、今まで何人の首を刎ねたの?

 

吉岡)正直に言いますと、中学3年生までに26名でしたが、高校に入ると、私の強さが全国に広まったみたいで「北朝の奴らが10人単位」で攻めてくるので仕方なく、36名、46名、56名と増えていきましたが細い人数は覚えていません。多分、65名は超えていると思います。

 

文子姐さん)あらあ、お父さんの人数をとっくに超えている人なんて、あったことがないわ。すごいね、吉岡さん!

さあ、美味しい料理でも作るからちょっと待っててね!!

 

田岡一雄組長)いやあ、文子、その前に俺のこの「左手の拳銃」の指を外してくれ!

さっきから力が抜けないので、困っているんだ。

吉岡さんが挨拶した瞬間に「拳銃」を握ったまま離せなくなったし、俺もションベンをしたいので肩を貸してトイレに連れて行ってくれ!!

 

吉岡)あのう、田岡組長!その後ろの「床の間」に日本刀が二本飾ってあるのは「本物」ですか?

 

田岡一雄組長)あー、そうだった、これはすまん。俺がこんな高い席にいてはいかんのだが、今、足が悪くて歩けんので、自分で刀を持って抜いて見てくれ。

 

失礼して御膳の横を通って、田岡一雄組長の後ろにある日本刀を持って自分の席に戻り、「大刀」を抜いてみました。

「手に持った重さ」ですぐに「南朝の刀」だとわかりましたが、どうして田岡一雄組長が持っているのか確認したいので、「柄(つか」の紐を外していいですか?」と聞くとうなづいたので、紐をほどいて「柄の目釘」を押して柄を抜くと、「私の父の吉岡一門の父の名前が入った刀」だったので、なぜここにあるかをトイレに行ったあとに詳しく説明してもらいました。

 

 

1946年(昭和21年)10月、山口組三代目田岡一雄組長の襲名式(当時33歳)のあと、田岡一雄組長が「吉岡一門総本家」(芦別市常磐町)までやってきて父・吉岡忠(当時17歳)とやりとりした話

 

田岡一雄組長)どうか、1本で良いから「吉岡一門の本物の刀」をお分け下さい。

「吉岡一門」が日本と天皇家を守ったご活躍を知った時、同じ精神でこの日本国を「裏」から守りたいと思い、その精神と魂の証となる「吉岡一門の本物の刀」を戴くために日本中の手下が調べてやっとここまで辿り着きました。

今までたくさんの日本刀を買って試しましたが、どれも「偽物ばかり」だったので、命をかけて日本をお守りしますので、「吉岡一門の本物の刀」を1本だけお分け下さいますようお願いいたします。

刀を1本戴くまでは、私はここから動きません!

 

私の父(吉岡忠)も12歳で元服した日に正式に「吉岡一門の頭領」になったので、私の祖父の「吉岡西蔵」さんは「全てお前の判断に任せる!」とだけ言ったそうで、「分家の家」にいた父は呼び出されたそうです。

1954年(昭和29年)当時17歳の父はまだ「独身」でしたが、実家の本家に兄も兄嫁もいたので、自分で「小作」になると決めて、新しく建てた「分家の家」に一人で住んでいた時期でした。

 

吉岡一門 吉岡西蔵 前頭領 1890年(明治23年)7月2日生まれ(当時56歳)

 

吉岡一門 吉岡忠頭領 1929年(昭和4年)9月24日生まれ(当時17歳)

 

山口組 田岡一雄組長 1913年(大正2年)3月28日生まれ(当時33歳)

 

「三日経てば腹が減って帰るだろう!」と思っていた父は、見て見ぬふりをしていましたが、三日三晩、経っても帰らず小雨が雪に変わってもずっと座った場所から動かなかったそうです。

私の祖父の吉岡西蔵さんに、「きっと、大便も小便もあの場所でしているはずなので見てこい!」と言われた父は、実際に、脱糞している田岡一雄組長を見ると、目を開いて真剣な眼差しのまま、寝ていることがわかり安心しました。

でもこのまま放置すれば死ぬかミイラになると思った父は、「3本の日本刀(大刀、中刀、小刀)」を持って外へ出て、「これを持ってお帰りなさい」と言ったそうです。

それでもその場を動かなかったので、肩を貸して担いで体を持ち上げようとすると、田岡一雄組長はこう言ったそうです。

 

田岡組長)あなたが今の頭領ですか?多分、そうなのでしょうね。

私にこの大事な吉岡一門の刀を下さることができるのは「頭領」しかできませんので、きっと、あなたが「本物の頭領」なのでしょう。

ですが、こんなに素晴らしい刀を3本も戴くわけにはいきませんので、1本だけ頂いて帰ります。

それと、俺みたい人間に「カタギ」のあなたが肩を貸してはいけません。

私は人間としてクズで最低だし、だからこそ、こんな人間でも日本と天皇家をお守りできるかを自分に問うために自分はここに座っていました。

でも、あなたが手を貸してくれた時、「日本を裏から守る人間は自分一人ではない」と感じたので、これから自分の手下だけでなく、日本国民を守る「裏の警察」として動きますので、どうか、この手を離して下さい。

そう言って、その場を離れようとすると、自分が脱糞したクソとションベンを見て立ち上がり、素手でクソを掴み、納屋の裏側の堆肥の中に運んでから田んぼの水で自分が汚した場所をきれいに手で洗ったそうです。

その姿を見た父は、「これではいかん!」と思い、安物の日本刀を渡した自分が恥ずかしくなり、自分の父(吉岡西蔵)から譲り受けた自分の刀の「大刀(だいとう)」と「中刀(ちゅうとう)」と自分の「小刀(しょうとう)」の3本を渡したそうです。

大刀(だいとう)は、馬に乗って切る刀で長いので、通常、床の間には飾らず、「中刀と小刀の2本」を飾るのが「武士の習わし」です。

 

「日本刀を1本だけ飾るのは足りない男の証」と思われるので、「中刀は敵を切るための1本」、そして、「自分が自害するための小刀1本」の2本セットで床間に置くのが正式な置き方です。

「刀の置き方」も客人に合わせて4種類の置き方があります。

あとで父は、あの「中刀」だけでたぶん当時の価格で「5億円はするぞ!」と教えてくれました。今の価値なら5倍なので25億円もする刀をタダであげたわけです。

「吉岡一文字の刀」は「偽物」が多いので「横に一」と傷を付けたものが「吉岡一門の刀」ですが、絶対に私が見れば本物かどうかわかります。

だって、日本全国の吉岡一門の日本刀に「一の傷」を付けたのは小学生の私の仕事だったので、全ての「刀の傷」を見れば、すぐに本物か偽物かは見分けられます。

「前頭領・吉岡忠の命令」で「日本全国の武士の日本刀を全て北海道芦別市常磐町に送れ」と命令したので数百本の日本刀が納屋に送られてきたので、1本づつ手に持てば本物かどうかはわかるし、「南朝刀」か「北朝刀」かわかるように「二つの違いの傷」をノミと金槌で傷をつけました。

「日本刀」は昔から男たちに大人気で、普通の人が見ても南朝刀か北朝刀かわからないので、いつも父のところに刀を買った人たちが聞きに来るので、私が全ての「南朝の刀に傷」を付けてわかるようにしたので、私が見ればすぐにわかります。

 

「まともな南朝の武士」なら絶対に「南朝の刀」は隠して売らないはずなので、世の中に出回っている刀は「ほとんど北朝の安物か偽物の吉岡一文字」ばかりですのでご注意下さい。

 

東京で行われた「刀剣ワールド」も行っていろんな日本刀を見て触りましたが、「偽物か北朝の安っぽい刀」ばかり並んでいたし、「吉岡一文字の本物」は一本もありません」でしたが、5000万円とか1億円以上で売れていたほど世界中のバイヤーたちが買いに来ていたし、実際の売値は5倍から10倍で売れるそうでどんなものも「本物がわかる人間」は少数なのです。

 

結局、このあといろんな話をして田岡一雄組長と仲良くなり、最後に「日本酒は飲めるか?」と聞かれたので、「大好きですが、できれば純米酒以上でお願いします!」と言うと、文子姐さんが、白い徳利と盃を2つ持ってきましたが、田岡一雄組長は、「おい、入れ物だけでなく、「三宝に白い紙を引いてもってこい!!」と言い、正式な「挨拶酒」になりました。

 

歩けないので私が田岡一雄組長の前に座り、お酌をして自分の分と組長のお酒も入れて乾杯しようとすると、田岡一雄組長は

「この盃は、親子盃とする!」

と口にしたので私を見ていた松下幸之助社長と中内功社長と文子姐さんは固まりました。

 

この「親子盃」の意味は、田岡一雄組長の「次の組長になる可能性」があるので、「全国の山口組の組長と同格以上」になってしまったからです。

 

山口組のヤクザの組長は、全員、最初に「兄弟盃」をしてから、「人の上に立つ資格のある人間」にだけ「親子盃を交わす」とあとで聞いたので、「私しか山口組を正式に継ぐ人間がいない」ことになりました。

松下幸之助社長が、どうして俺たちみたいに「カタギとの兄弟盃(カタギヤクザ)」じゃなくて、「ヤクザの親子盃」にしたのか理由を教えて下さいと言うと、こう田岡組長は話してくれました。

 

田岡一雄組長)俺が今まであったたくさんの荒くれ者たちの目つき顔つきを見ても全く違う静かな目だし、吉岡さんは一切、目線を離さず会話をするし、一切、言葉に嘘がないので、こんな人間はおらんと思ったのさ。

これから日本は大きな高度成長期で大変な時代になるので、昔気質の力ずくのヤクザでは通用しない時代になるので、こういう筋が通った頭のいい奴を手放したら「日本統一」はできないだろう!!

 

この俺が見込んだ男に「親子盃」を与えて文句がある奴はいるか!!

いるなら、今、ここにきてかかってこい!!!撃ち殺してやる!!!

 

「奥様の田岡文子姉さん」の子供達にも会わせてくれて食事を一緒にしましたが、「親子盃」をもらっても「ハイ、山口組の組長をやります」とは言えるはずもないので、高校の同級生の警察庁の警視になった有名なお父さんに言われた言葉を思い出しました。

「吉岡君はヤクザでも警察官でもどちらでもできると思うが、警察官からヤクザに落ちることは簡単だしそんな奴はゴロゴロいるが、「ヤクザ」から警察にはなれんので先に「警察官」になってから「ヤクザ」になるほうを俺は進めるぞ!」

と「芦別市警察署の土橋署長」に言われていたのを思い出しました。

美味しい田岡文子姉さんの手料理を食べて腹一杯になったあと、カラオケに言って歌いまくっていると、私より22歳年上の「美空ひばりさん(当時45歳)と息子の加藤和也(当時12歳)」が東京からやって来たので「大カラオケ大会」になり、酔っ払ってしまい田岡一雄組長の家に2泊泊めてもらいました。

2001年から美空ひばりさんの息子の加藤和也 (ひばりプロダクション)が日本テレビ系の「マネーの虎」に出ていたので、久しぶりに会いたくて、神戸山口組本家を預かる「井上邦夫組長」から事務所に連絡を取ってもらい二人で会うと、「自分の母親は美空ひばりだが、本当の父親は誰かわからないと母が言うのでよく喧嘩しました。」と教えてくれました。

ウイキペディア情報:実父は美空ひばりの実弟のかとう哲也(旧芸名は小野透)で、血縁上、和也は「ひばりの甥」にあたる。7歳の時に伯母・ひばりと養子縁組をした。 ひばりには実子がいなかったので、ひばりに溺愛されて育つ

 

・・・・・・・

 

「1995年1月17日の阪神淡路大震災」の時にも3日目に、神戸市内に入ってお店の立て直しをしたので、神戸山口組の井上康雄組長に電話して様子を聞きましたが、「こちらは大丈夫ですので、どうかダイエーのお店の救済をお願いします。」と言ってくれた優しい人なので、何かある時は井上康雄組長からよく電話が来たのでアドバイスしていました。

 

田岡一雄組長は奥様の文子姐さんの手料理が大好きで、「他の女の手料理はまずいので食べたくない」というほど食通ですが、私と違って「女好き」ではないので、美空ひばりさんは「私はいいんだけど、田岡組長は手さえ握ってくれない」と、美空ひばりさんご本人が言ってました。

「さすが、美空ひばりさんでさえも芸能界は女が体を売って稼ぐ世界なのだ!」

と理解したしパトロンもたくさんいたので「父親不明」も理解できました。

 

翌朝の4月2日は、神戸市内の観光名所をヤクザが黒塗りの車数台で案内してくれてから夜はまた宴会になり、2泊した4月3日の朝、田岡一雄組長からこう言われました。

 

「来年の1983年1月4日に、日本中の山口組の組長が挨拶に全員集まるので、お前を紹介したいので吉岡学も来い!」

と往復航空券を渡されたので、ダイエーの正月休みで芦別の実家に帰る暇もなく、「神戸の山口組本家」にまた行くことになりました。

 

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