【政治家】塩爺(塩川正十郎)さんと「兄弟盃」を交わしました。

1989年10月から「国の官僚」の仕事を「無償」で手伝うことになり、いろんな国に行って「外交交渉」や「経済交渉」や「防衛交渉」をしたので、いくつもの省庁の「特別上級国家公務員(キャリア官僚)」になりましたが「特別」と付いている意味は、各省庁のトップの「長官と同格の資格保有者」だからです。
そういう立場になったので1990年から毎月、「キャリア官僚だけの特別会議」を聞いてアドバイスしていた東京都浜松町にある「隠れ料亭」に、1989年6月まで「内閣官房長官」だった「塩爺(塩川正十郎)国会議員」が急に現れました。
私が東京に行く日時は「極秘の連絡網」で集まっていた会議なのに、どうして日付や場所がわかったのかをキャリア官僚たちに聞いてみると「誰にも話していない」と言うのです。
テレビで「塩爺」の言葉を聞いているだけで、この人は知力と気力がすごいし、優しい言葉の裏に人を無言で押さえつける目力があるので、まさか「ヤクザ」と関係しているのかとも思い緊張しましたが、笑顔が素敵なのでゆっくりお話しを聞こうとすると、「しばらくはいつもどおりにやって下さい。」と言われたので、塩爺は気にせず、いつもどうおり各省庁の問題点を5以内でまとめて聞いて1分半以内で対策を教えました。
▶️詳しくは、1990年【政治家】塩川正十郎さん(塩爺)が、会いに来てくれました!をお読み下さい。
キャリア官僚たちの相談事には、ズバリ問題点を明確にして、いつまでに誰がそう動くかを教えてすぐにやらせたので、毎月の結果報告を先に聞いてから「今月取り組むテーマ」を決める会議をしていました。
決断の速さと正確さを横で聞いていた塩爺は、
塩爺)「私は吉岡さんの決断力と考え方は好きだなあ。でも、もう少し、優しく言ったほうが人に深く思いが伝わると思うので覚えておいて下さい。」
とアドバイスされました。
顔は笑っていても、目が笑っていない塩爺に言われたらやるしかないので、「心して努力いたします」と答えておきました。
塩爺)「ところで、日本酒を飲む器はないのかな?「とっくり」とか「お銚子」とか?」と言われたので、慌てて用意させて、持参してくれた高級な日本酒を全員で飲もうと思っていると、こう言われました。
塩爺)いやあ、吉岡さん、私がこの酒を持ってきたのは、私が吉岡さんから「兄弟盃」をもらおうと思ってきたので、他の人は関係ないのですこんなジジイでも兄弟盃をもらえますか?
と言われて驚きました。
吉岡)あのう、塩爺のお生まれは、どちらですか?
塩爺)私は大阪の大阪府中河内郡布施村(のちの東大阪)です。ご存じですか?
吉岡)はい、昔、岡山理科大学の先輩と「三人麻雀」をしたのですが、負けが混んできたら「イカサマの積み込み」をしたので、それよりも早いイカサマの積み込みを訓練していたのでボロボロにしてやりました。
すると、その大阪の河内の先輩はガラが悪くてこう言うんです。
「ワレ!なめとんのか!!!こら、ボケナス!
下級生のくせに何をしとるんじゃい!!
ワレはワレの言うことを黙って聞いておけば良いだけだから言葉を喋るな!
(河内の人は、自分もワレ、相手もワレと言います)
ワレ、何をタラタラ言っとんじゃい!!
ワレ、ツラかせ!!外で出るぞ!!」
と言ったので、「やめたほうがいいですよ」と言ったのに、私の腕を取って首に拳をぶつけようとしたので「ブチっ!」と頭の中で血管が切れる音が聞こえました。
そのまま相手の右手を自分の左手で捻って体を倒したまま、体に乗っかり、ミゾオチに膝を当てて体重をかけて息を吸えなくしてから、優しく「手を離して下さいよ」と言うと、口からアブクを拭いたので力を抜いてぐったりしました。
でも、また立ち上がって殴ろうとしたので、仕方なく、「弁慶の泣きどころ」を思っいきり「回し蹴り」して、倒して首を両手で絞め直しました。
すると、また、アブクを吹いたので、仕方なく首を横に思いっきり捻って軽く「捻挫」させてから、左腕も捻って少し骨がきしむ音がしたので、あとは先輩を連れてきた同級生に任せましたが、その先輩が「大阪の東河内」の人だったので「ガラ悪い街」だという印象だけあります。
塩爺)いやあ、そこまで知られているとは、お恥ずかしい。
私は大学は慶應義塾大学だったので、高校を出たら東京弁ですが、実家に戻るとやはりガラ悪い人はたくさんいますね。
あそこは、「神戸山口組の傘下の稲川会のシマ」ですのでそこは諦めています。
それに私は46歳から国会議員になったので、いつも「SP」が付くので恐ろしいことを体験することはなくなりました。
でも、日銀の三重野康総裁から「絶対に会っておいて損はない人なので、一度でいいので会って下さい」と言われたので今日、ここに来ました。
目的は、ひとつです。
吉岡学さんから「兄弟盃」を頂くまでは、私は帰りませんので、どうか、このジジイにあなたの「盃」を当てて下さい。
周りに官僚たちは塩爺が言っていることがわからず変な顔をしていました。
塩爺)吉岡さん、よくもこんな汚いことをしている官僚たちに、真面目にアドバイスしてるあなたを見て感動しました。だから、どうか、このジジイにも「兄弟盃」を恵んで下さいませ。あの、竹中正久さんみたいにお願いします。(土下座)
吉岡)ちょっと待って下さいよ!!
こんな、「たかがスーパーのダイエーの社員」に、国を動かせる塩爺に土下座されたらが私が困りますので頭を上げて下さい。
普通の乾杯でいいじゃないですか?それでは、ダメですか?
塩爺)吉岡さん、私は東河内の人間ですよ!!
そんな人間を騙してはいけません!
私の口からは言いたくないですが、「あの人の親子盃」を直接、受けたのは吉岡さん一人だけなので、その「おこぼれ」を欲しいだけです。
「親子盃」とは言いませんので「兄弟盃」で結構ですので、今後の仕事の出来次第でいつか「親子盃」を頂けるような人間に努力しますので、まずは「兄弟盃」を頂きたいのです。
さすが、国を動かすだけの人間なので、頑固は当然ですが、目からくる鋭い眼差しは、よほど厳しい世界を見てきた人だと思ったので覚悟しました。
吉岡)では、失礼ですが、「座」がこれではいけないので、私が「北」を背にして座り、その前に座って下さい。天地天命にかけて、もう、誰にもこの盃は渡すまいと思っていましたが、塩爺を最後にお渡ししますので、恐れ入りますが正座して下さい。
「親は、あぐら」、「子供は正座」と決まっておりますので、よろしくお願いいたします。
背筋を伸ばし、両手で「盃」を持って、目を下にして、腕を伸ばして下さい。
私が自分で酒を注ぎますので、動かないて下さい。
お互いの盃がぶつかったら、そのまま一気に飲み干して下さい。
では、よろしくお願いいたします。
この盃を持って、神戸山口組の四代目の「兄弟盃」とします!
塩爺は、一気に飲み干し、深々と土下座してくれました。
塩爺は69歳、私は31歳の「兄弟盃」です。
塩爺)私はこれでもういつ死んでも悔いがありません。東大阪に生まれても、「あの人」に会うことなんて普通はできませんが、「あの人」から直接、「親子盃」をもらった唯一の人だからこそ、お会いできる日を楽しみにしていました。本当は私は酒が弱いので、もうフラフラなので少し横になってもよろしいでしょうか?
吉岡)どうぞどうぞ。ゆっくり、休んで下さい。
キャリア官僚たちに小声でアドバイスしていると、「塩爺のすすり泣く声」が聞こえたので、本当にまっすぐな人だと思いました。
小一時間ほどしてから「もう帰ります」と言いましたが、「最後に私に何かアドバイスを下さい」と言われたので、こう言いました。
吉岡)できればもう少し国会議員に「女性」を入れないと、世界から遅れていると思われるし、公の場で「女性差別」はアメリカやヨーロッパでは絶対禁止なので、頭の良い女を見つけて閣僚に育てて下さい。
最後に、自分の携帯電話の番号を書いた名刺を渡してくれたので、出口までお送りしてから頂いた酒をみんなで飲みました。
キャリア官僚たちは、「何の兄弟盃ですか?」と聞くので、「吉岡一門の頭領としての親子盃だ」と言っておきました。
本当のことなんて言えるわけないじゃないですか・・・。
塩爺の生い立ち
大阪府中河内郡布施村(現在の東大阪市)で生まれる。父は旧布施市市長の塩川正三で、大阪府立八尾中学校(現大阪府立八尾高等学校)出身。郷里の高等学校にでも進学するつもりだったところ、父から「田舎の学校へ行ったってしょうがない。都会の、それも慶應へ行け。慶應へ行くんだったら、経済じゃないか。それ以外は、あかんぞ」と言われ、「慶應義塾大学経済学部経済学科」へ入学。在学中、学徒出陣により出征する。大学では高橋誠一郎の講義を熱心に聴講し、登山にも熱中した。
終戦後、会社を設立し経営者となる。1957年(昭和32年)布施市青年会議所理事長、1958年(昭和33年)弘容信用組合理事、1964年(昭和39年)布施市役所の助役[4]を経て1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で旧大阪4区から立候補し当選、衆議院議員となる(当選同期に山下元利・増岡博之・河野洋平・中尾栄一・藤波孝生・武藤嘉文・坂本三十次・塩谷一夫・山口敏夫・水野清など。)。当選後は「福田派」に入会し、福田赳夫内閣の発足時には内閣官房副長官に抜擢された。
政界入り

党内では森喜朗、三塚博、加藤六月らと共に「安倍派四天王」と称され、安倍晋太郎の総裁就任が悲願だった。
税制など経済政策に精通しており、「地価税」を導入した時の党税調会長として知られる。塩川も鈴木善幸内閣で運輸大臣として入閣したのを皮切りに文部大臣(第3次中曽根内閣)、内閣官房長官(宇野内閣)、自治大臣・国家公安委員会委員長(宮澤内閣)を務めた。
選挙では中選挙区時代に10回連続当選したが、小選挙区比例代表並立制導入後初めての選挙である第41回衆議院議員総選挙では重複立候補を辞退し、大阪13区から立候補した。しかし、新進党の新人である西野陽に破れ、現職の党総務会長ながら落選の憂き目を見る。2000年の第42回衆議院議員総選挙で当選し、国政に復帰した。
小泉政権
2001年自由民主党総裁選挙で森派の後輩・小泉純一郎の選対本部長を務める。塩川も同選挙に立候補していた亀井静香に「もともと亀井君も同じ清和会にいたんだから、この際、小泉にしてやってくれんかね」と頼み、そこで亀井は議員投票の前に小泉と9項目の政策協定を結んで辞退した(しかし9項目の1つにあった人事は両派で相談して決めるという項目がいきなり反故にされた)。
塩川はその後、成立した第1次小泉内閣で「財務大臣」に就任した。
最重要ポストの財務相には財界人などの名が取り沙汰されており、塩川の就任は全くの予想外で、女性・民間人・若手を多く起用して「驚天動地」と評された人事の中で逆にサプライズの一つとされた。
金融実務や党税調会長の経験を生かし、小泉構造改革の旗振り役を務めた。第1次小泉第1次改造内閣でも留任、第1次小泉第2次改造内閣発足時に退任すると第43回衆議院議員総選挙にも立候補せず、政界から引退する。
「塩爺」で第18回新語・流行語大賞のトップテン入りとなる。
小泉首相とは「30年来の朋友」(2001年の小泉内閣メールマガジン)という間柄で、青木幹雄と組んで党内融和を説く森元首相とは一線を画し、「小泉首相の後見人」として影響力を行使した。
政界引退後
日本相撲協会運営審議委員会委員、東洋大学総長、財団法人尾崎行雄記念財団顧問、財団法人国民政治協会会長、自由国民会議代表、時代を刷新する会会長(三代目)、ベストヒット歌謡祭実行委員会名誉会長を務めた。また『産経新聞』にて毎月第3木曜日にコラム「塩爺のよく聞いてください」(2008年4月 – 2013年2月)を連載していた。
2004年には東洋大学において国際交流ならびに外国人留学生の育成を対象とした奨学金『塩川正十郎奨学金』を創設した。
2015年9月19日午前10時15分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。93歳没。塩川の葬儀では小泉元首相が弔辞を読み上げた。日本国政府は、塩川に正三位追叙と銀杯一組の追贈を閣議決定した。
亡くなる前に、スタッフから連絡をもらい、病院に日本酒と盃を持っていき、ベットに寝ている塩爺に、「親子盃を授けます」と言って乾杯しましたが、静かに涙を流して嗚咽していました。
私は長い間、「首相専用裏番頭」をしていたので、多くの国会議員から名刺や個人の電話番号を教えてもらいましたが、ほとんどの人の名刺は捨てましたが、「塩爺」のことだけは忘れられないので、「あの人」の名刺と一緒に実家でお焚き上げしました。
「あの人」とは、任侠道を貫いた「神戸山口組三代目田岡一雄組長」のことですが、大阪闇市の時にダイエーの中内功と、パナソニックの松下幸之助が田岡一雄組長に拾われて、ヤクザになったのです。
しかし、二人とも喧嘩が弱かったのでヤクザをクビになり、カタギとして「兄弟盃」をもらったので、田岡一雄組長が亡くなるまでは、自分が稼いだお金を神戸山口組に渡していたので、本当に信頼しあう関係でした。
日本全国の山口組のヤクザをまとめる田岡一雄組長は、「兄弟盃」しか渡さないで、自分の子分の働きを見て判断する人なので、誰にも渡さない「田岡一雄組長の親子盃」を私だけが頂いたせいで、 40年間、弘道会と稲川会に命を狙われる身となり大変でしたが、まもなく成敗されることでしょう。
日本を裏から守りつづけた吉岡一門の頭領は、常に、「全ての世界の裏」を知り、表に出ずに働いてきたのですが、日本刀を持てないし、拳銃も持てないのでとても不便でしたが、なぜか、死なない体に生まれたので何度、暗殺を企てる実行犯が来ても、全員始末してきたので早く辞めにしたいものです。
「神戸山口組の田岡一雄組長はシャブは御法度」なので、私も全国の山口組の幹部に通達しているので、「シャブを扱う全ての芸能界の人間もヤクザも売人も始末せよ」と命令してありますので、突然、有名な芸能人が亡くなった時は「シャブを扱っていた人だ」と思って下さい。