神戸山口組 2 年頭の挨拶式
1983年1月4日、伊丹空港の到着ゲートを出ると、神戸山口組の組員がずらっと並び、黒塗りの車と白バイが2台迎えに来てくれたのでゆっくり「本家」に入り、全国の山口組の組長や幹部たちに自己紹介をしました。
お酒を目一杯飲まされながら奥様や子供達と遊んでいると、また、芸能プロダクション神戸芸能社を経営していた「美空ひばりさん」がモデルや芸能人の綺麗どころを連れてカラオケに一緒に行くことになり、生で数曲歌ってもらいましたが、やはりテレビなんかよりすごい歌唱力なので感動して、また酔っ払って田岡組長の自宅に泊めてもらいました。
酔っ払いながらうとうと寝ていると夜中に「田岡組長の娘の田岡由伎(たおか ゆき、1954年8月14日 – )」にオチンチンをくわえられて乗られて射精したので、翌年、息子が生まれました。
「田岡一雄組長の初孫」だったのでとても組長は喜んでくれましたが、私の息子だとバレて他のヤクザに命を狙われるといけないし、「田岡由伎は自分で子供を育てる気がない遊び女」だったので、「神戸山口組本家」を守っている井上邦夫組長(当時34歳)が私の子供を育ててくれましたが、真面目なカタギの男(現在41歳)になってどこかで働いていると昔、電話で教えてくれましたが会ったことはありません。
田岡一雄組長の長女 田岡由伎:神戸山手女子短期大学卒業。有限会社ユキオフィス代表取締役。甲陽運輸株式会社監査役。株式会社セルフィール監査役。
そういう関係なので、田岡由伎から電話で「今の収入では足りない」と相談されたので、「ヤクザ関係が嫌いなら日本の実業家・心理カウンセラー・エッセイストという職業を勝手に名乗り、自分の日記をブログで書けば面白がる奴らはいると思うので頑張れ」とアドバイスしました。
「神戸山口組の年始の挨拶ルール」は、「正月3ケ日」は家族と一緒に過ごして家族を大事にすること。
それが終わった「1月4日に山口組本家」に幹部と全国の親分衆が挨拶に来るのが「ルール」になっています。
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「山口組三代目田岡一雄組長は、1981年(昭和56年)7月23日、急性心不全により68歳で死去」とウイキペディアに出ていますが、実は、私と山口組の関わりを消すために「事実を変えて公開するよう指示」を出し、三代目田岡一雄組長の葬儀も「密葬」で行いました。
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実際には、1982年4月1日のダイエーの入社式当日は、田岡一雄組長は「銃弾の鉛の毒」が身体中に周り床に伏せっている中、わざわざ私との食事の席に出てきてくれたほど元気でした。
当時は、69歳でボケたかと思いましたが、「田岡一雄親分」が口にしたことに言い返しても仕方がないので、「神戸山口組本家」にいた「竹中正久組長」と「井上邦雄組長」と「文子姐さん」と「中内功社長」と「松下幸之助社長」だけの秘密にしてもらいました。
「全国の組長の正月挨拶」のあとは、お酒も入り子供たちとも遊んで楽しい時間だったので、2泊させてもらい、翌日は有馬温泉に連れて行ってくれて前身モンモンのヤクザたちとお風呂に入りましたが、また飲み過ぎて田岡組長の家に泊まりました。
そんなことがあったので、ダイエーの同期入社より数日遅れて「新店研修」に行ったほど、中内功社長は田岡一雄組長に頭が上がらない人だったし、松下幸之助社長も同じ「兄弟盃」を交わしている「カタギヤクザ」だったので、よく3人で会って飲んで田岡一雄組長についての話を聞きました。
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山口組四代目跡目問題(やまぐちぐみよんだいめあとめもんだい)とは、1982年(昭和57年)2月4日から1984年(昭和59年)6月5日午後3時まで続いた、「四代目山口組組長を誰にするのか」という問題。山口組内部で、「竹中正久」を支持するグループと「山本広(通称は山広やまひろ)」を支持するグループが対立したそのあとすぐに、「山一抗争」が1984年(昭和59年)8月5日から1989年(平成元年)3月30日まで起きたほど、山口組内部は揉めていました。
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「神戸山口組三代目の田岡一雄組長一周忌法要」を済ませたあと、本家を預かる井上邦雄組長から電話があり、「神戸山口組本家四代目襲名披露を行うので吉岡学さんも来て下さい」と言われ、自分で航空券を買って神戸山口組本家の屋敷まで行き、そこで「大事件」が起きましたが、山口組の幹部組長と、NHK関西と地元週刊誌にお金を渡して「口止め」しました。