神戸山口組 3 四代目竹中正久組長 襲名披露会
2年後の1984年7月10日、当時25歳の時に「神戸山口組本家」に行くと、「私に四代目を継いで欲しい」と田岡文子姉さんと、井上組長と、竹中正久が言いましたが、「弘道会の司忍」や「稲川会の稲川聖城」が反対して揉めに揉めた結果、
竹中正久が「俺で良ければやります」と言ってくれたので、「四代目吉岡学組長」から竹中正久に「兄弟盃」を授けて「襲名披露」させました。
しかし、1984年当時はどんなことがあっても「私の名前」が表に出るのはまずいので、「正式な取り決め」をしてその場を納めました。
1984年6月5日 山口組正式通達文書
(表)神戸山口組本家四代目 竹中正久組長(当時51歳)襲名
(裏)神戸山口組本家四代目 吉岡学組長(25歳)襲名
出身小学校の同窓会には時折、顔を見せていたが、その際には護衛をつけなかった。関係者や同級生が心配しても、当人は「ええんや」と意に介さなかったという。また普段から「人間、死ぬ時は何したって死ぬ。モチ食うたかて運が悪きゃ死ぬやろ」と護衛をつけることを嫌い、結果的に刺客を防げず、凶弾に倒れることとなった。
金はうなるほど持っていたが、四代目に就任するまで豪邸を建てるなどのことはしなかった。元側近の小林昭によると非常にストイックな性格で贅沢には全く興味を示さず、飲み歩きやゴルフなども好まず、用のない限り極力事務所を離れなかった。
また普段の事務所では毎朝配達される全国紙と地元紙を時間をかけて隅々まで目を通し、六法全書や政治、経済、歴史などの書物を読んで勉強したり、将棋をよく指したりして過ごし、普段の食事も子分と全く同じものを食べていた。
ただし、ホステスや芸能人に接した際にはチップをはずんだという。また地方に出た際、系列組織が一夜の妻を提供しても手を付けなかった。このことは警察当局も認めていた。
長年、中山きよみという女性と同棲していたが、生涯独身を通した。山口組の顧問弁護士を務めた山之内幸夫によれば「子供がいるとこの世にしがらみを残す。
極道に女房、子供は不要」との考えを持っていたという。ヤクザの組長ながら、刺青は入れていなかった。これは実弟の竹中武も同じであった。
1984年6月26日 竹中正久暗殺される
三代目の妻であった田岡文子(フミ子)の強い意向で、1984年6月5日、遂に山口組四代目を受諾。同年7月10日に継承式が執り行われた。それに反発した山広派は山口組を脱退、一和会を結成し山一抗争へと発展した。
勢力数こそ当初は一和会が山口組を上回っていたものの、武闘派・竹中四代目の怒濤の攻撃(切り崩し)を前にして一和会は徐々に弱体化、焦った一和会側は密かに竹中暗殺を計画し、同年9月には暗殺部隊を結成。翌1985年1月に竹中に懲役6ヶ月の有罪判決が確定。
1984年6月26日、収監前の竹中は神戸の山口組新本部の上棟式の後、大阪府吹田市の愛人が住むマンションで、待ち伏せていた一和会 二代目山広組系組員に銃撃され、意識不明のまま翌27日に死亡した。
山口組は短期間の間に、再びトップとナンバー2を失う事態となった。(山一抗争)