【外務省】1989年に「第二天安門事件(六四事件)」を解決して国交を回復したので「特別上級国家公務員」に認定されました <2>
1990年に「第二天安門事件(六四事件)」を解決しました <1>の続きです。
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1989年11月から、外務省は中国に対して「日本で余っている備蓄米と野菜と医薬品」を大型タンカーで毎月、送り続けた結果、3ヶ月後の1990年1月に中国担当のキャリア官僚から電話がきました。
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官僚)吉岡さん、あなたの言ったとおり、中国の官僚から電話があり、「今までたくさんの食べ物と薬を本当にありがとうございます」とお礼を言われ、同時に、お礼の手紙も届きました。
そしてお礼のお返しをしたいので、「誰がこの企画を計画をしたのか?」を聞かれたので、つい、吉岡学さんの名前を教えてしまいました。すいません、名前は出すなと言われていたのに・・・。
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それでですね、何か吉岡さんが中国のことでしてほしい事があればやってあげたいと中国政府が言っているので、何か要望を言って下さい。いくつでもいいみたいですよ!
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吉岡)お前なあ、本当にバカだよな・・・俺の名前を出すなんて最低だわ。
俺の部下なら殴りつけて首を絞めてから、しばらく吊るして「放置の刑」だな。
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お礼か?まあ、中国と言えば、やっぱ、「パンダ」だろ。
俺は忙しくて「上野公園のパンダ」は見に行く暇はないし、たかが「パンダ」を見るために並ぶ関東の人間の気持ちがわからんし、どんな美味しい店でも「絶対に並びたくない人間」なので、「北海道までパンダを連れてこい!」
札幌に「円山動物園」があるので、そこがいいんじゃないか?
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官僚)今、電話で答えをもらいましたが、札幌までパンダを移動させると、「パンダが死ぬ」そうです。
「パンダ」という動物は、母親との距離と緯度経度を体内で感じる動物らしく、精一杯、移動しても「函館」までが限界だと言ってましたので、函館まで移動する許可はもらいました。あとで、招待券とお礼文を送りますので、奥様とでも行ってください。
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妻に、「函館にパンダが来るけど見に行くか?」と聞くと、「パンダを見てもお腹が空くだけだから行かない」と言ったので、お友達の女性を連れて車で4時間半かけて札幌から函館へ行きました。
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函館の「函館公園動物施設」に行ってチケットを見せると、大行列を横目にして「係員専用通路」に案内されてパンダの檻の前に行きましたが、そこに中国人女性が二人居て、一人の女性がこう言いました。
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「あなたが吉岡学さんですか?
今回は、本当に中国のためにありがとうございます。
私の父の鄧小平も心から中国民が助かったとお礼を伝えるために私がきましたので握手して下さい。
私の名前は、「鄧林(とうりん)」といいます。」
と言われ、握手しました。
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鄧林(とうりん):では、この軍手をつけて、檻の中の入ってパンダを触ってみて下さい。
パンダの毛は普段は、針のように刺さるので係員でも体は触れませんが、パンダがあなたを認めたら、きっと、触らせてくれると思うので、ぜひ、チャレンジしてみて下さい。
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恐る恐るパンダの毛の上に右手を乗せてみると、手の波動を感じたのか、スッと体毛が斜めになった時、
「今、触ってなぜて下さい!
そして、パンダに抱きついて下さい!」
と、鄧林(とうりん))の声がしたので、その通りにしました。
すると、パンダが体をよじって向きを変えようとするので両手を緩めると、私の顔をベロベロ舐め始めました。
幼稚園の頃、辛くて一人で夜中に山の中で寝ていると、熊のお母さんが「熊の巣」に入れてくれて、ベロベロ舐められた感覚に近かったですが、ベロのザラザラがちょっとだけ痛かったのと、目がとても綺麗でお互いにしばらく見つめあって抱き合っていました。
すると、パンダの目から涙が溢れてきて、私の体に馬乗りに乗っかって、
「お母さん!会いたかった!」
という思いが伝わってきたので、係員に
「大丈夫だよ、今、ホームシックになっているだけだからすぐに治るよ。」
と伝えて、最後にベロベロ舐められたので、パンダにチュウをして檻を出ました。
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パンダの柵の周りにいた人たちは写真を撮りまくっていましたが、きっと、私の顔は写っていないと思います。
男の子が写真を写したので、サインしておいたかも。
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鄧林(とうりん))も中国人のパンダの係員も、そんな体験を見たことがないらしく、呆然としていましたが、平常心に戻ってこう言いました。
鄧林(とうりん):やはり、お父さんが私に吉岡学さんに会ってこいと言われた意味が、今、わかりました。
吉岡学さんの愛情は、パンダの繊細な愛情以上に大きくて、「パンダのお母さん」みたいなのでしょうね。
中国人もパンダは大好きですが、その理由は子供を産んだお母さんたちが、パンダのお母さんの仕草を真似て、「自分の子供に接するコツ」を勉強しに行っているので、中国では誰もがパンダを大事にしています。
そのパンダを上野公園に二頭プレゼントしたのですが、もっとパンダを日本に送らないと行けませんか?
今回はお礼を伝えに来た私のほうが感動したので、これでは気がすみません。
ですので、後日、連絡しますので、中国まで来て下さい。
お迎えは、父のプライベートジェット機で迎えに参ります。
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吉岡)別に、お礼なんていいですよ、私はもう十分、満足したし・・・。
鄧林(とうりん)):いいえ、これは私のケジメです。
日本人もそうだと思いますが、「人から恩」を受けて放っておけば、一生、自分の運気が下がることを中国人は誰もが知っていますので、どんな形でも今日の感動のお礼をさせてもらわないと私が不幸になります。
中国に来てくれないと言うなら、私、きっと、結婚もできないし、子供も授かることはできないと思います。
見てのとおり、「気が強い長女」なので、父にもよく叱られますが、これは性分だと思って諦めています。
母の代わりに父を支えるのは「長女の役目」だからこそ、私は今回、自分が日本にこれて本当に良かったと思いました。
日本に来るまでは、本当に嫌だったし、今も、本当は日本人が集まっているこの動物園にいるだけで辛いのです。
中国人同士は、相当、仲が良くても体と体をくっつけることは誰もしません。
そんなことをするのは、「奴隷と同じ下級民族」だけです。
さっき見ていると、ここのパンダのチケットを買うだけで電車に乗るようにギュウギュウ詰めになっている様子を見た時に、「日本人は奴隷と同じ下級民族」だと思ったので本当は帰りたかったのですが、吉岡学さんに会わないと父に叱られるので、我慢して待っていました。
ですので、もう、私は帰りますので、電話番号だけを教えて下さい。
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後日、鄧林(とうりん))から電話があり、指定の日時に千歳空港に行くと、中国国旗が付いた大型ジャンボジェット機があり、その横に中国軍の戦闘機ID-20が3機いたので、「護衛機」だとわかりました。
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あとで聞くと、鄧小平主席のプライベートジェット機は15機ほどあるそうですが、私を迎えにきた機体は、鄧小平主席が認めた最高の人しか乗せない機体らしく、前に飛ばしたのは「アメリカ大統領」だと教えてくれました。
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千歳空港から4時間半、ゆったりとお酒を飲みながら「北京首都国際空港」に着くと、黒塗りの高級車が15台ほど並んでいて「国賓扱い」だとすぐにわかりましたが、「30分ほどで人民大会堂に着きます」と言うのでうたた寝をしていると、テレビで見た「天安門広場」が見えたので止まってもらいました。
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鄧林(とうりん))は、見るだけかと思っていたみたいですが、ここで日本人も死んだし中国人も死んだと聞いたので、「御霊上げ」をしたくなって車のドアを開けて、一人で「立ち入り禁止の柵」を越えて、天安門広場のど真ん中に立ちました。
殺気を感じたので振り返ると、マシンガンを持った護衛の黒服たちが私を狙っていたので「まあ、いいか」と思っていると、鄧林(とうりん))が右手を上げて、「銃を下ろしなさい!」と言ってくれたので、蜂の巣にならずに済みました。
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(祈り言葉)
「ここで命を落とした日本人と中国人の御霊たちよ、そして、ここに集まって中国の未来を考えてぶつかり合った全ての中国人の思いを、どうか、ひとつにして和合させて下さい。」
と心の中で祈り、正座して、正式に頭を下げて祈りました。
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「もう、十分、気持ちは伝わったし、御霊も上がったので、どうか、頭を上げて下さい」と女性の声が心の中に聞こえたので、立ち上がって振り返ると機関銃を持った兵隊たちも、鄧林(とうりん))も、泣いていました。
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車に戻ると、涙を拭きながら、鄧林(とうりん))にこう言われました。
鄧林(とうりん):「本当は、みんなここであなたが今、したようにしたかったのですが、私の父の鄧小平主席の命令は絶対で、親族でも言うこと守らないと銃で撃ち殺されます。
でも、あなたが祈っている声が聞こえたのか、誰も機関銃を撃たなかったし、私も涙が溢れてたまりませんでした。
今、ここで亡くなった人たちの魂を上げてくれたのですね?
やはり、吉岡学さんという人間は私がおいそれと近づける人ではないので、私は後ろの車に乗りますね。
まもなく「人民大会堂」に着きますが、着いたら私がご案内しますので勝手に歩かないで下さいね。
今回は、お父さんが、中国共産党の全ての政治家と、中国軍の幹部全員を集めているので、あなたを殺したい人がたくさんいるので私が盾になってあなたを守ります。さあ、行きましょう!
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中国の「人民大会堂」に入ると、予想を越えた大きさに驚きましたし、さらに、私が座る席がとんでもない場所にあるので、さらに驚きました。
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壇上の正面左には、「中国軍の幹部全員」が制服を着て座っているし、右半分は、「中国共産党の幹部全員」が正装したスーツで座っているし、その向かいの壇上のど真ん中にテーブルがひとつ椅子ひとつ置いてあり、客席には扇状に中国軍の兵士と政治家たちがびっしり座って私を睨んでいるので、さすがにビビりました。
鄧林(とうりん):「吉岡学さんが先ほど天安門広場で祈ったので予定時間を超えていますので、みなさん、相当、お待ちですので、あの真ん中の席に早く座って下さい。
それと、全員、拳銃を持っているので、自分の身を守るためにこの拳銃をお持ち下さい。」
と言われごっつい拳銃を渡されましたが、スーツに入れるとポケットが膨らむので必要ないと伝えて一人で歩き出しました。
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開き直って「中央の席」まで歩いて立ちましたが、勝手に座ると失礼にあたるので、「司会者の挨拶」を待ちました。
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すると、司会者が日本語で、
「日本の官僚の吉岡学さんが来て下さいましたので、みなさん、ご起立して一礼をお願いします!」
と言うと会場の全員が声も出さずに、ビシッと立ち上がり、号令もなく全員が一礼したまま立っていました。
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この礼儀作法は、吉岡の祖母に教わっていたので、一呼吸置いてから軽く一礼して、席に座ろうとしましたが、誰も座る気配がありません。
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これはまずいと思って座るのをやめて立っていると、「通訳が必要ね!」と言って、鄧林(とうりん))が椅子を持って私の隣に立ちました。
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鄧林(とうりん):「吉岡学さん、中国人は、どこにいても「一番偉い人が座らない限り座れないルール」があるので、あそこにいる私の父の鄧小平主席の前に歩いて行って、何かお礼の言葉を言って下さい。私が通訳しますので。」
と言ったので歩いて行くと、鄧小平主席が「鄧林(とうりん))はくるな!」と手で合図したので私一人で行くことになりました。
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日本語が通じるかは分かりませんでしたが、素直に、自分が思った思いを鄧小平主席に伝えました。
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吉岡)今日はこんなに素晴らしい中国の人民大会堂で、軍の幹部と政治家の幹部の皆さんが、私のために集まって頂き、本当にありがとうございます。(一礼)
私は日本の北海道に住む吉岡学と申しますが、北海道の中でも札幌市という世界的に有名な毎年2月に行う「雪まつり」の会場は私の家のすぐ近くです。
ですので、いつでも北海道に来られた時は遊びに来て下さい。
北海道は空気も水も美味しいですし、美味しい海の幸もたくさんありますので、ご家族一緒に、どうぞ、お越し下さい。
今回は、鄧小平主席に招かれたおかげで、こんなすごい場に来てしまいましたが、私はただの日本のスーパーの店員ですが、たまたま「国の仕事」を手伝っただけなのにこんなにすごい「おもてなし」をして頂きまして本当にありがとうございます。
私がこの席にいるのは自分でも不釣り合いだと思うので、早めに帰りますので、どうぞ、私の挨拶が終わったらこの席から離れることをお許し下さい。(一礼)
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私の挨拶を鄧林(とうりん))が通訳してくれたおかげだと思いますが、軍の幹部と政治家の幹部の皆さんが全員、拍手をしてくれました。
あまりに拍手が長いので、「いつまでつ続くの?この拍?手」と鄧林(とうりん))に聞くと、「私のお父さん(鄧小平主席)が座らない限り、絶対に、鳴り止みません。」と言われたので驚きました。
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私は改めて、一礼をしてしばらく頭を上げないままでいるとやっと拍手が鳴り止み、鄧小平主席が座ったとわかりましたので、自分の席に戻ろうとすると、鄧小平主席に止められて、自分の胸につけていた「中国国家主席の胸のバッチ」を外して、私の胸につけてくれました。
この「中国国家主席」のバッチを含めて、世界中の首相や国王からもらったバッチを「財務省の小指ちんちん鈴木友康」に奪われたので今は持っていませんが、「外務省官僚」としての報告書には、私の本名と印鑑を押して、状況説明文を細かく書き、当時の外務省の課長がデジタルチップにして保管して絶対に誰も開けることができない私のパスワードをいくつも入れて外務省の特別金庫に保管されていますので、この真実は絶対に消えません。
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翌年の1990年(平成2年)の首相は、海部 俊樹首相(平成2年2月28日~平成3年11月5日)でしたが、私の仕事の結果が首相に報告されるまでに1年以上かかったようで、1991年(平成3年)6月くらいに、海部 俊樹首相と、宮澤 喜一首相の二人に呼び出されて、
「特別上級国家公務員」という資格をいただきました。
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1990年1月以降も一気に、いろんな国との交渉をまとめたので、「こんな資格で申し訳ありません」と宮澤 喜一首相に言われましたが、「給与はいずれまとめて頂きますので、今は振り込まないで下さい」とお願いしておきました
有名になるのも嫌だし、人は必ず、嫉妬するし、お金をたかるし、そういう輩に噂になるのが嫌だったからですが、誰か、きちんと過去の給与と賞与と年金を精算してくれる人はいないのでしょうかね?
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これが日本国に無償で尽くした人間へのお礼なら残念でたまりません。日本国民の皆様、どう思われますか?
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このあと、中国の鄧林(とうりん)と鄧小平主席とは、幾度もホームパーティに招待されて家族も全員よく知っていますが、「日本の裏切り者」がたくさんいるのでご迷惑にならないように一切の交流をやめましたが、鄧小平主席の長女の鄧林(とうりん)は、中国で最も資産を持っている「華僑のトップの一族」なので、私へのお礼の気持ちで「中国華僑の暗殺集団のプロ」たちが日本中に住んでいて私の身を守ってくれています。
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「中国華僑の暗殺集団」は日本全国にいて普通に働いていますが、見た目は日本人と変わりがない日本人と中国人のハーフで、北海道の札幌、苫小牧付近だけでも100名以上、私の安全を守りながら、私や私の仲間に手をかける人たちは、あっという間に処分するプロですので、どうぞ、ご注意下さい。
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中国共産党の幹部も、全員、いつでも拳銃を所持していますし、裁判をしなくても撃ち殺して良い権利を持っている人たちですので、日本を裏切っている人たちや私を騙した人は早めに自分の罪を認めて下さい。暗殺期限は決まっていますので悪しからず。
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鄧小平主席の長女の「鄧林(とうりん)」が、父親の死後に「父との思い出を記録に残したい」と言うので、私がお手伝いして書いたブログを中国のサイトにアップしましたので、ぜひ、お読み下さい。
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鄧小平主席 1997年2月19日(92歳)死亡
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なお、(編集部)として書いている文面は私が書いた文ですし、鄧小平家族の写真の中に「私の息子の写真」も写っていますので、中国人でも日本人でも絶対に私に手出ししてはいけない人間だとご理解下さい。
もし、私や息子に手を出した場合、あなたの血の繋がりがある人間は「全員根絶やし」にされますのでご注意下さい。それが、中国人の「家族を大事にする血のつながりの強さ」です。
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鄧小平主席は、本当の意味で中国人民のことを考えた人だからこそ、あえて嫌われる役目を引き受けたし、「鉄の男 鄧小平」とも呼ばれた人ですが、私は個人的に何度も家族の付き合いをさせてもらい、「吉岡さんの好きな言葉は?」と聞きかれたので、「立てばシャクヤク、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」と日本の言葉を教えると大好きになり、よく日本語の勉強をしたいからと日本の諺の本や、古事記や日本書紀を解説本と一緒に送ってあげましたが、鄧小平さんの家族以外は誰もこのことを知りませんし、郊外はしません。口外した人は、「国家反逆罪」で殺されるからです。
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長女があかす「人間鄧小平」――逝去5周年に際して
文 写真・鄧林
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/teji/200203/teji200203.htm
1989年11月9日、父は正式に退職した。4人の孫たちがとくにお祖父さんにお祝いのカードを作った。写真は右から萌萌、眠眠、左から二人目は羊羊。小弟児は何処かに遊びに行ってしまって写っていない