【社長会】松下電器産業の松下幸之助さん死去について
1989年4月27日、松下幸之助さんが94歳で死去されました。
1982年から私は株式会社ダイエーに勤めており、中内功社長と松下幸之助社長と、個人的に懇意にしてもらっていたので、松下幸之助さんと、個人的に東京で何度も会ってたくさんお酒をご馳走してもらいました。
松下電器産業グループの取締役会にも、札幌の「パナソニック ショウルーム 札幌」からテレビ電話会議に何度も出席して経営のアドバイスをしたり、東京の会議室まで行って、グループ関連企業や工場の統廃合のアドバイスをしました。
松下電器産業の取締役会の役員全員が、私を役員にすることを賛成してくれましたが、中内功社長の義理を守り、ご辞退させていただきました。
契約金3億円、年俸1億円を生涯払うと言ってくれた松下幸之助さんの言葉を聞いても断りましたが、「お前に渡す金は、松下財団で管理しているからいつでも請求しろ!」と言って下さいました。
どうして、そこまで中内功さんと松下幸之助さんと仲が良かったのは、▶️スーパータントラセミナーでお話ししています。ご興味があれば、ご覧下さい。
「ダイエー労働組合の中央執行委員」としても全産業でも有名になりましたが、それよりも、驚いたのは、テレビやラジオでは、ダイエーがパナソニック商品の「不買運動」をしている最中に、いつも、松下幸之助さんと中内功さんは、二人で予定を合わせて札幌にいる私に会いにきてくれて、突然、「おい、飲みに来い!」と、売り場に電話が来るほどの親しく付き合う関係でした。
30年前の私は、実は、▶️ダイエーロジスティクスの6000億円の投資をやめさせたり、▶️ハワイのアラモアナショッピングセンターの買収を計画して、大幅に収益の改善をした結果、個人的に、中内功社長に認められて、「次期社長候補」として、関東のスーパーバイザー(SV)、東京本社のバイヤーと、出世街道をまっしぐらでしたが、自己都合で1996年に退職しました。
お二人の子供の頃からの体験談も全て聞きましたが、お二人とも戦争体験者だったので、神戸の闇市で知り合った仲でした。
このあとの体験談は、ご家族も社員も誰も知らないことですので、▶️「スーパータントラセミナー」の中でお話ししました。
実は、1989年4月27日に松下幸之助さんが亡くなった時に、パナソニックの筆頭取締役の男性にだけ札幌でお会いしたことがあるので、私に電話をくれて、「葬儀に出ませんか?松下幸之助も喜ぶと思います。」と言ってくれましたが、私は、香典とお酒を送って、行きませんでした。
ご家族も会社の役員も誰も知らない中内功社長と松下幸之助社長の二人だけの秘密を聞いていたので、私は会場へ行くと涙が止まらないと思ったからです。
あとで中内功社長からも電話がありましたが、私の胸のうちを話すと、電話越しに涙が止まらず、「それでいい、それでいい。俺が、お前の代わりに松下に伝えておく」と言って下さいました。
今、こうして、ブログに松下幸之助さんのことを書けるようになるまでには、長い時間がかかりました。
2005年9月19日に、中内功さんが84歳で亡くなられた時にも、ダイエーの取締役全員から電話が来ましたが、ご家族に会うことを避けて、お酒と香典を送って終わらせました。