【VIP】「世界のVIPたち」と知り合いになった理由
外務省を手伝うことになったキッカケ
1989年10月(30歳)から「外務省」の仕事を無償で手伝うことになった理由は、「ダイエー苫小牧店のマネージャー」だった私を勝手にダイエー労働組合の元委員長に「中央執行委員」にされた流れで「国の仕事」を無償で手伝うことになりました。
「元委員長」に東京で会わされたのが、明治大学2年生の嘘つきの「小指チンチン鈴木友康」ですが、頭は悪いのに嘘だけはうまいし、国のお金を盗むことしか口にしないので、「まともな官僚を呼べ!」と部屋を追い出して、東大出の全ての省庁の官僚とキャリア官僚が「浜松町の隠れ料亭」に集まり話し合いをしました。
「官僚でもない鈴木友康」は、お父さんの「入省カード」をチラつかせていろんな省庁を出入りしてお金をばら撒いて悪いことをしていたし、ダイエーの元委員長は「私と鈴木友康を組ませて悪いお金稼ぎの手伝い」をさせたかったようですが、全て断りました。
私は相手が誰であっても絶対に、「賄賂」は受けとらないし嘘を言わない男」なので、よく拳銃で撃たれたりヤクザを使って私を殺そうとされたので、最終的に元委員長と鈴木友康と仲間のヤクザの「世界の隠し口座」をマーゴに調べてもらい、隠してあった全てのお金を日本国に戻してから「霊視」で元委員長の居場所を見つけて脳を破壊して自殺してもらいました。
「外務省の官僚」が最もややこしい問題を抱えていたので「まず、中国の外交問題を解決して下さい。これは1回目のテストです。」と言ったので対応策を教えてやった結果、中国の鄧小平主席からお迎えの飛行機がきたので「中国共産党大会」の真っ最中に会場に入り、鄧小平主席ご本人から「中国国家主席のバッチ」をもらい、「長女の鄧林(とうりん)に子供を授けてくれ」と頼まれて、翌年で男の子が生まれたので親族扱いになりました。
「中国は終わったぞ!全てうまくいったぞ!」と中国担当官僚に電話すると、
「韓国もアメリカと難しい状況だし、終わったはずの従軍慰安婦問題を持ち出して何度もお金をせびるのですぐに行って解決して欲しい」と言うので、政治家では解決できないと思ったので、韓国の経済人のトップの「SAMSUNの李 健煕(イ・ゴンヒ)会長」に合わせてもらって交渉した結果、外交問題は全てなくなり信頼され、「長女の李富真(イ・ブジン)に子供の種を入れて下さい」と頼まれ、翌年、男の子が生まれたので親族扱いになりました。
最も難しい二つの国の国交回復をしたのに、「最後のテストです」と言いやがったので我慢して、誰もできなかった「インドのモディ首相」と仲良しになり、「新しい国交の始まり」と「大東連合の復活」と一番若い側室に「私の息子」が生まれたので、インドの土地と「国王名」も下さり、最も信頼がおける先輩であり義父になりました。
1989年10月から12月までの3ヶ月間で中国・韓国・インドの三つの国の「国交回復」を果たし、新しい「外交上の条約」と「防衛上の条約」と経済的な条約を結んだので、全ての省庁の官僚から頭を下げて仕事をお願いされるようになりました。(全て無償)
翌年の1990年には「外務省」の他の国の手伝いもたくさんしたので、次々に新しい国の「国交回復」をした結果、「ビザ(査証)とパスポートの発行許可(外務省)」、「航空会社の出発到着便の許可(国土交通省)」も与えたし、大東亜連合に「大手一部上場企業の工場を大東亜連合に出す契約(経済産業省)」や「人材交流の留学制度の就労支援金(文部科学省)」も作ったので、多くの企業の輸入コストや人件費も下がり収益改善もできた結果、企業が国に収める「法人税(財務省)」が増えました。
首相たちとの繋がりができた理由
1990年に「第74代竹下登首相」から「全ての省庁の特別上級国家公務員」という資格をもらい全ての省庁の仕事を手伝うようになりました。
1990年当時は「1府22省庁」と数が多かったし、東京で月に一度か二度の全ての省庁のキャリア官僚と課長たちを集めて一気に問題解決をしたので「毎週の札幌の社長会」と同時開催だったので忙しい日々を送りました。
話を聞けば聞くほど「各省庁の仕事の無駄」がたくさんわかったので、森喜朗内閣総理大臣に頼んで、総理府、法務省、外務省、大蔵省、文部省、厚生省、農林水産省、通商産業省、運輸省、労働省、郵政省建設省、郵政省、労働省、建設省、自治省の「1府22省庁」を減らす法案を通して、内閣府、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省の「1府12省庁」にしてもらいました。(2001年1月6日中央省庁再編)
1992年に、「外務省の渡辺美智雄(ミッチー)外務大臣」が「アメリカとの国交を今以上に滑らかにしたいし手柄を立てたい」と言い出し、私に依頼の電話が来ました。
▶️平成4年版(第36号) 外交青書 「転換期の世界と日本」
当時の私(33歳)が決めたことは「アメリカ大統領補佐官ジョン・ボルトン(44)ご夫妻を日本へ招待して接待する」と決めて、会場となるホテルを選びました。
私が会場に決めたホテルは、「箱根宮ノ下 富士屋ホテル」です。
1992年当時はバブル崩壊の影響で倒産寸前でしたが、もともとの作りが良かったし、山側の窓から見える朝の景色も素晴らしいので決めました。
たった半日のための「工事費は36億円、工期は3ヶ月間」でしたが、外務省が全て払い、終わったあとで気に入らない部分は国のお金で直して「現場復帰すると約束した」のでとても素敵な高級ホテルとなり、現在も経営は順調のようです。
お迎えする「ホテルの入り口」から「メイン会場」や、「温泉施設」や「部屋のデザイン」も全て私が一人で「設計施工装飾総合プロデューサー兼デザイナー」となって作ったので、自分のやり方にこだわる職人たちと大喧嘩しながらも最高の舞台が用意できました。
「吉岡設計総合プロデューサーのこだわりポイント」
日本がお願いする立場の「外務省の交渉の場」ですが、アメリカ人に偉そうにされるのは嫌なので、ホテルの入り口に「大きな赤い鳥居」を設置して、ジョン・ボルトンの奥様のヒールの高さも計算して「頭を下げて入らないといけない高さ」に低くしました。
「鳥居」を潜ると「1枚の自動ドア」が開き、アメリカの高級ホテルにある「二人が同時に入れる回転式ドア」をアメリカから取り寄せようとすると、日本一のプラスチック業者の「NIPPURA株式会社 | NIPPURA CO.,LTD」の敷山 靖洋社長が、「俺が絶対に作ってやるから俺にやらせろ!」と言ったので任せて成功しましたので、終わった後は彼の会社に差し上げました。沖縄美ら海水族館の成功によって世界中の水族館の水槽を作ることになり、大東亜連合にもたくさん収めてもらいました。
「正面玄関のメインホール」はホテルの顔なので、「日本の美」を演出する庭園をイメージしたので、池坊のトップの「池坊専永」に私がオーダーして、「直径15メートルの三段式ターンテーブル」の上に花を生けてもらいましたが、2度も失敗したので、3度目は私が一人で一晩で作り直して完成させました。
もともと「お花の池坊」も「お茶の裏千家」も、「吉岡一門の武士の嗜み」として始めた流派ですが、「池坊専永」がごちゃごちゃ言うので「自分で先祖の資料を調べてみろ!」と怒ったほどお金が大好きなボンボンでした。
たった半日のために作った花ですが、「池坊専永」がどうしても欲しいと言うので、ギャラの3億円を1億円にネギってを渡したあと、京都からトラックでやってきて自宅に持ち帰り植えたそうです。
「せこい男」で吉岡一門に非礼したので、「女」しか生まれない家系です。
大きな花を生ける「三段式回転テーブル」の一番下には、ジョン・ボルトンの奥様の「グレチェン・ボルトン」の好きなお花を調べて周りにいっぱい並べたので、絶対に「手で触れたくなる演出」をしました。
思ったとおり、奥様は一段二段と両足を乗せたので、ゆっくり時計回りに回転し始めて、「三段目だけは逆に回転」するようにしたので、周りの風景を360度見ながら、「一番上の池坊の山水」や「天井絵」を360度見れるようにしました。
天井には、「京都・大徳寺本坊:国宝の唐門や狩野探幽」に「竜の天井画」を描いてもらい、京都のお寺にプレゼントしました。
それと「お寺の天井」によくある綺麗なお花の絵を描く職人を見つけたので実際に手で描いてもらいましたので、奥様のグレチェン・ボルトンは感動で大きな声をあげて泣いて喜んでくれました。
▶️「群馬県の地球屋」に、「世界一の吊るし雛を作って下さい」とお願いしてギリギリで完成し、奥様のグレチェン・ボルトンも感動してくれたので、「全ての吊るし雛を自分の会社に吊りたい」と言ったので制作費や旅費を払ってから差し上げました。(ギネス世界記録に登録されました)
古い作りの階段をそのまま生かして使いたいけど、階段の向きが変わる「踊り場」に壁を作ってある画家に絵を描いてもらいました。
その画家は、北海道札幌市東区出身の「赤富士」で有名な「片岡球子さん」です。
1992年で87歳の片岡球子さんは、「もう歳なので絵は描けない」と言われたと官僚の言葉に頭に来たので、住所を聞いて小樽で有名な「あまとう」の甘くて美味しいお饅頭を持ってお話に行きました。
吉岡)私は球子さんの絵を初めて見た時に、息を呑んで立ち尽くしたほど「心に刺さる赤」がすごくて感動しました。
あの「赤の色」を見ていると「怒り」を感じるので、きっと、子供の頃からご苦労されてきたのだと思います。
いろんな作家の富士山の絵を見ましたが、あの山は富士山じゃないですよね?
きっと、「北海道の羊蹄山」じゃないですか?
今日はただご本人が生きている間にお会いしたかったのと、できれば「お願いしたいこと」があるのでやってきました。
片岡球子さん)あらま、あなたは私の絵を褒めているのかと思えば、けなしているのかしら?
でも、確かにあの山は「羊蹄山」よ。
そんなこと気づいた人は誰もいないのに、どうしてわかったの?
吉岡)だって、富士山は近づくとあんな木は周りにないので、あり得ないと思います。
私も「羊蹄山」が大好きでよく女の子を連れてドライブに行きますが、あの山は「お母さんの山」なのでとても癒されます。
羊蹄山がよく見える温泉もありますが、あまりに近すぎて夕日や朝日が見えないので、できれば「希望の朝日が昇る赤富士の絵」を1枚描いてほしくてやってきました。
片岡球子さん)大きさはどれくらいなの?
吉岡)畳6枚ほどですので、3畳ほどになると思います。
飾る場所は、「箱根宮ノ下 富士屋ホテル」ですが、アメリカの有名な政府関係者を呼んで「国の仕事」として接待するのに、どうしても「日本人の日の丸の赤と同じ色の富士山」を描いて、日本の素晴らしさを一目で印象づけたいのです。
「日本国旗の赤」は、大東亜戦争が終わったあと、私の祖父が2度戦争に行って天皇陛下に「岩淵安治陸軍中佐」として表彰されていた隣の部屋で、「日本の陸海空のトップ」と「アメリカの陸海空のトップ」が「戦後の日本の国旗をどうするか?」で揉めていたそうです。
「大日本帝国憲法」の国旗は「植民地開放の戦争」だったので「日章旗」が正しいのですが、アメリカ人は絶対にダメだと喧嘩していたそうです。
昭和天皇は「象徴天皇」なので、会議の場に参加していけないルールがあったので、私の祖父が「大東亜戦争は世界のいろんな国の人間がたくさん死んだ戦争だから、全員の国の人間の血を大きな皿に入れて新しい日本国旗を作ったらいいんじゃないか?」と祖父が言ったおかげで、全員の血を入れてから、昭和天皇の血を入れたら色が濁ったので、そのあと最後に「祖父の血」を入れると「綺麗な赤」になったので、それを白い布に染め写して、「初めて日本人の血とアメリカ人の血が混じった国の赤の国旗ができた」と祖父から聞いております。
その「赤」が、片岡球子さんしか描けない「赤」なので、死ぬ前にぜひ、描いて下さい。代金は1億円払います。
片岡球子さん)「箱根宮ノ下 富士屋ホテル」は何度も泊まったことがあるけど、いいホテルよね?
でも古いから改装するのね?もし、まだ生きていたら行ってみたいわ。
吉岡さんも一緒にお泊まりする?
お金は腐るほどあるけど、もう欲がないのでいらないわよ。
それよりも、あなたが私のホッペにキスをしてちょうだい。
それで代金の支払いにしましょう!
吉岡)はい、喜んでキスさせて頂きます。
※ほっぺたのはずが「唇」でした。
吉岡)期間は3ヶ月を切ったので、できるだけ早くお願いします。
片岡球子さん)わかったわよ、これは簡単には死ねないわね。
今から取り掛かるからあなたが画材を用意して、私が言うとおりに色を合わせてちょうだい。
さ、勝負よ!
片岡球子の最後の絵だもの。
絶対に描き切ってみせるわ!!
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こんな体験をしたあと、本当に3ヶ月間のギリギリまでかかったので、片岡球子さんの絵は、防衛省のヘリで横浜のホテルまで運んでもらいましたが、意外にしぶとい女性で2008年1月16日(103歳没)まで生きました。
亡くなったことを家族から電話で聞いたので自宅にお邪魔すると、球子さんが「私に家にある全ての絵を差し上げたい」と描いた手紙を見せられましたが、「きっと、老人ボケだと思うので、どうぞ、ご家族の遺産にして下さい。」と言って終わりました。
ジョン・ボルトン夫妻は、この片岡球子さんの絵を見て足が止まり、階段から降りたり登ったりしてしばらく見とれていました。
片岡球子さんの最後の遺言は、「この絵と一緒に私の体を焼いてね!」と手紙に書いてあったので、そのとおり、ご自宅までお届けして焼き場で焼いたとご家族から連絡を頂きました。
この時の写真は全て外務省に保管されていますが、「隠れ接待」だったので正式には「ないこと」になっています。
国の仕事は何でもかんでも隠すので、「公開」したらすごい芸術の記録写真なのになあ・・・。
外務省にデジタルチップで保管されているので、ぜひまともな外務省の人間は公開して下さい。
「336億円の予算」に対して「36億円」で済ませたのに、1円もお礼をもらっていない私は自分でも呆れたほどですが、逆に「336億円の仕事をするチャンス」も人生ではしないので良い経験をしたと思って諦めました。
「スペインのガウディ」を修復しているサグラダ・ファミリアは、日本人の外尾悦郎に石を彫らせていますが、工事が止まった時に「アドバイス」したのも私ですが、しつこく電話で次はどうしたらいい?と聞くホモ男だったので縁を切りました。
イギリスで開催される世界最古にして最も権威がある「チェルシーフラワーショー」に「マーゴ」が連れて行ってくれた時、「株式会社石原和幸デザイン研究所 代表の石原 和幸さん」が悩んでいたので「奥の庭園のアドバイス」した結果、優勝しました。
エリザベス女王からも“緑の魔術師”と称えられた、石原和幸氏。
世界に認められた豊かなデザイン性と確かな施工技術力で、これまで数々の作品を生み出す。東京と長崎、福岡を拠点に個人・企業問わず、デザインにこだわったガーデンや壁面緑化のランドスケープデザイン・施工と総合プロデュースを国内外で手がけている。
▶️【外務省】1992年にマライヤ・キャリーとビヨンセと、シルベスター・スタローンとトムクルーズを日本に招待しました。
接待の場のメインゲストは、「映画ロッキー(1976)」のシルベスター・スタローン (1946年7月6日生まれ当時46歳)と、女性は1991年にグラミー賞を取った「マライヤ・キャリー(1969年3月27日生まれ当時23歳)」をメインゲストに決めました。
「シルベスター・スタローン」が連れてきた俳優は、イギリスの「トム・クルーズ(1962年7月3日生まれ当時30歳)で、「マライヤ・キャリー」が連れてきたのは「ビヨンセ(1981年9月4日生まれ当時11歳)」でした。
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▶️マライヤ・キャリーのウイキペディアには、以下のように書かれています。
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ベネズエラ系移民の父アルフレッド・ロイ(アフリカ系ベネズエラ人とアフリカ系アメリカ人の血を引く)とアイルランド系アメリカ人の母パトリシア(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれました。
両親は、アメリカで白人と黒人が結婚することが合法的に許されるようになってまだ2年という時代に結婚し、マライアと彼女の兄弟は「ミックス人種」として人種差別を受けていました。
マライアが3歳の時に両親は離婚しているが、実兄による家庭内暴力や、中学生の時に、実姉に売春宿に売られそうなったり、薬物を飲まされるという過酷な幼少期を過ごした。
実兄モーガンや実姉パトリシアを告発後のインタビューやスピーチ、自伝本でその頃からの生きる糧が「音楽」であったと度々語っている。
この頃から自身で作曲や作詞をするようになった。 だが、自伝について兄と姉から名誉毀損で訴訟を起こされ、実姉も幼い頃に実母から性的虐待を受けたとして実母を訴訟したと書かれていますが、事実はもっとひどい状態だったので泣きながら全てを教えてくれました。
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「自分の辛い体験を本にしなさい」と教えたのも私ですが、理由は、同じような体験をした人たちがたくさんいるが、誰も表にできない人たちがたくさんいるからこそ、世界で有名なマライヤが実体験本を書いて世の中の人が知るべきだと伝えたからです。
子供の頃に父親から性暴力DVを受けていたし、「近所の大人たちに体を売って稼いでこい!」と言われて母親に相談すると、「お姉ちゃんも体を売って家庭を支えているのでお前たちも遊んでないで早く体を売って稼いでこい!!」と母親と姉に言われ、仕方なく近所の大人たちに体を売り続け、両親がお金が欲しい時に自分の体を売る「ATMみたいだった」と教えてくれました。
こんな生活を続けたくないと思い、家を飛び出して「NYのスラム街」で同じような経験をした人たちと一緒に暮らしたそうですが、定期的にスラム街の子供達を拉致していたのが、「マーゴ」でした。
1996年のマライヤ・パーティのあと、一緒にNYのスラム街を見に行きましたが、「私がマフィアのボス」だと知った瞬間に拳銃を隠して「お金を下さい」と言ったほど、「命の保証がない場所」がスラム街で警察も近づかない場所でした。
マライヤは歌上手いので、犯されることはあったけど、誰も殺さなかったから運がよかったと教えてくれました。
マライヤ・キャリーは有名になってからも、自分が育った「スラム街」に定期的に食べ物を持って渡していたそうですが、自分と同じような体験をして股間から血を流しながら一人で歌を歌っていた「ビヨンセの声」を聞いて、「親代わりに育てる」と決めたので「お姉さんとお母さんの役目」をしていた「マライヤ・キャリーとビヨンセ」でした。
「1992年の外務省の接待は大成功」でしたが、パーティが終わり、ジョン・ボルトン夫妻が部屋に入ったのを確認してから自分の部屋に行こうとすると、マライヤ・キャリーが、「アメリカで仕事があるのを思い出したのですぐに一緒に来て!!」と手を引かれてプライベートジェット機に乗り込みました。
自分用に買っておいたメロンパンとアンパンを2個づつと、「かりんとう1袋」と「1リットルの牛乳」と自分のカバンを持って飛行機に乗り込んでから、「ゲスト料の話」をしようとするとエンジンがかかり発進してしまいました。
それほど予定に遅れていると言うし、「帰りは私の飛行機で送る」と言われたので諦めていろんな話をしました。
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マライヤ)Who did that wonderful production?(あの素晴らしい演出は誰がしたの?)
吉岡)It’s all me.All produced by me.(全てのプロデュースは私です)
マライヤ)Unbelievable!(信じられない!)
Since you don’t seem like a bureaucrat, what is your real job as someone who does what you do?
(あなたは官僚らしくないので本当の仕事は何をしている人なの?)
吉岡)「スーパーの店員」・・・・、food,toy,style clothes・・more sale man & all free business・・・NO money business
マライヤ)Unbelievable!(信じられない!)
Don’t lie to me.(嘘は言わないで!)
お互いに辞書を調べて指で刺しながらの会話
マライヤ)part-time job?
吉岡)あ、パートタイムのことね、
半分パートタイム、harf parttime
でも本当は別に another full time business
マライヤ)But、no money? part time?
吉岡)Yes!
官僚は、パートタイムで無償
bureaucracy part time no money
fu
マライヤ)Unbelievable!
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吉岡)i`m japanese Bushi,・・・「Samurai」 OK?
マライヤ)OK!「 Bushi Sumurai」OK!OK!
吉岡)But.「Bushi is no money !」(^^)
マライヤ)Unbelievable!
お互いに英和辞典と和英辞典を見比べながら、パンと牛乳を3人で分けて一眠りしました。
11歳のビヨンセは寒いみたいで震えていたので、上着を着せてあげて寝させましたが、プライベートジェット機と言ってもボーイング社の中古の機体のシートを全て外したものなので、飛行機が傾くと3人が一緒に壁にぶつかるので、壁側に私が寝て、ビニールシートを「袋状」にして3人を包み込んでロープで壁に二人の足を縛って自分の体に固定して床に寝ました。
アメリカまでの行きは「12時間半」もかかるので、寝たり起きたり、通訳したりといろんな話をしましたが、二人とも「子供の頃からの体験談」があまりにひどかったので、初めて自分の体験談も話しました。
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吉岡)俺の3歳までの育ての親は、熊(bear)さ。
父も母も兄もDVばかりだったけど、なぜか死なない体なのさ。(NO death)
理由(reason)、不明(unknown)
多分(probably)、先祖(ancestor)
マライヤ)Why is the bear the mother?(どうして熊がお母さんなの?)
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・・・・
何時間も辞書を調べながら説明しましたが、結局、「私はお金をもらっていないで仕事をした」とわかったので、「マライヤはそんな人から私はもらえない」と言うし、「シルベスター・スタローンに電話する!」と言って電話すると、シルベスター・スタローンも「俺ももらえない」と「二人のギャラがゼロ」になりました。
外務省官僚からは、「二人とも150億円くらいすると思うし、いくらかかっても大丈夫です」と言ったので、なんでこうなるのか悩みました。
本当は、「マライヤの歌は1曲だけの予定」だったのに3曲も歌ってくれたし、ビヨンセとコーラスもするし、私も最後に3人でハモったのでとても盛り上がりました。
アメリカのジョン・ボルトンの娘さんがマライヤ・キャリーのファンだったおかげで「日米交渉」もうまく進み、大成功して「外務省の渡辺美智雄(ミッチー)外務大臣」も喜んでいましたが、謝礼も賄賂も一切、受け取りませんでした。
世界で有名な二人のゲストを呼びつけて「タダではいけない」と思ったので、住所を聞いて日本に戻ってから、「実家の美味しいお米と野菜」と「健康になる食べ物の選び方と調理の仕方」を動画に撮って添えて、「北海道の甘いスイーツセット」をたっぷり郵便小包でアメリカに送りました。
シルベスター・スタローンの奥さんも娘も大喜びだったし、ビヨンセもマライヤも「もっと欲しい」と言うので、「札幌の社長会」でアドバイスした「六花亭」・「北菓楼」・「ロイズ」・「札幌シャトレーゼ」・「もりもと」などの社長たちに電話して、大きな箱でたっぷりアメリカに送ってもらいました。
それから「マライヤ・キャリーとビヨンセ」との「個人的な付き合い」が長く続いたので、健康になるための「無農薬の食事療法」とタイガー炊飯器とお茶碗汁椀セット5人分、「無農薬のお味噌とお箸と箸置き」など、「和食に必要なもの」をたくさん箱に入れて送りました。
マライヤ・キャリーは仕事が忙しくなったのでビヨンセだけが勝手にマライヤ・キャリーのジェット機でやってきて、「吉岡先生のおむすびが食べたい」、「北海道の温泉にも入りたい」、「札幌ラーメンが食べたい」と、いつも日本にこっそりやって来ておねだりされていました。
ビヨンセが「ヨーロッパコンサートツアー」にも行くようになったので、必ず、行きと帰りに日本に寄るので、他の女とのスケジュール管理が大変でした。
「薬を飲まないで体を健康にする方法」や、「歌や踊りのアドバイス」と「ストレッチ方法」を教えながら長い間、お付き合いしましたが、2020年に「マーゴの日本攻撃の対策」ができたので全てのVIPとの連絡を断ちました。
4年後の1996年に「NYのブルーノート」で開いてくれた「吉岡学さんにお礼したい人のパーティ」は、私が教えた健康になる方法を「世界中のVIPたち」に二人が教えてくれたので、VIPたちは健康になったお礼をしたいと集まってくれたパーティでした。
その1996年のパーティの3日目に、会場に「マーゴ」がやってきたので全員が驚きましたが、その時から「マーゴとの付き合い」が始まり、息子が18歳になる2015年までは、「見たことがない世界」をたくさん体験させてくれました。
2010年、「マライヤ・キャリー」が41歳の時には卵巣をひとつ取っていたし「子宮」も半分以下だったので「体外妊娠」にすると決めて、私の精子と卵子を「体外受精」して妊娠したため、モンローとモロッカンの双子(男と女)が2011年4月30日に産まれました。
私がマリリン・モンローが好きだったので、長女は「モンロー」と名付け、息子の「モロッカン」は、マライヤ・キャリーの血筋にモロッコ人が入っていたのでモロッコ風の意味でモロッカンと名付けました。
2010年にマライヤキャリーが出産したので、ビヨンセが「私も子供が欲しい」と言われて作った子供が、ビヨンセの長女「ブルー・アイビー」2012年1月7日生まれが私の子供です。
私の目の瞳の周りは青い色をしているのを見つけたビヨンセは、その名前を娘につけました。
西歴2000年、マフィアの私の部下の「ジェイ・Z 30歳」がビヨンセ18歳と結婚したいと言ったので許可しました。
マライア・キャリーが母親(パトリシア・ヒッキー(87)と姉(アリソン・キャリー(63)
を同日に亡くしたことを公表 死因などは明かされず2024.08.28
「マーゴ」に殺された「マイケル・ジャクソン」は私の大親友だったので、
ビヨンセの親友のマイケル・ジャクソンの妹のジャネット・ジャクソン(1966年5月16日生まれ)も子供が欲しいとせがまれて、種を入れました。
2017年1月、50歳にして第一子となる「男児エイサ君」を出産したジャネット・ジャクソン。
北海道のよさこいーソーラン節の動画を見せたので、「よさこい」を沖縄の「エイサー」と間違えたけど、まあいいでしょう。
出産直後に夫ウィサム・アル・マナとの離婚を表明し、現在はシングルマザーとして子育てを行っている。
他にもたくさん世界のVIPの女性たちに私の子供はいますが多すぎて数えられませんし、みんなお金持ちなので何も問題なく子供を育ててくれています。
<吉岡学の世界のお友達VIPリスト>
- アル・ジャロウ
- ウィリー・ネルソン
- ウェイロン・ジェニングス
- キム・カーンズ
- クインシー・ジョーンズ(プロデューサー及び指揮)
- ケニー・ロギンス
- ケニー・ロジャース
- ジェフリー・オズボーン
- ジェームス・イングラム
- ジャッキー・ジャクソン
- シンディ・ローパー
- シーラ・E
- スティーヴィー・ワンダー
- スティーヴ・ペリー
- スモーキー・ロビンソン
- ダイアナ・ロス
- ダリル・ホール&ジョン・オーツ
- ダン・エイクロイド
- ディオンヌ・ワーウィック
- ティト・ジャクソン
- ティナ・ターナー
- ハリー・ベラフォンテ
- ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース
- ビリー・ジョエル
- ブルース・スプリングスティーン
- ベット・ミドラー
- ポインター・シスターズ
- ボブ・ゲルドフ
- ボブ・ディラン
- ポール・サイモン
- マイケル・ジャクソン
- マーロン・ジャクソン
- ライオネル・リッチー
- ラトーヤ・ジャクソン
- ランディ・ジャクソン
- リンジー・バッキンガム
- レイ・チャールズ