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【札幌市】地球交響曲ガイアシンフォニー第四番 札幌上映会を終えて

 

12 月3日(土)の札幌で行われた第3番・第4番の上映会は、ボランティアスタッフ20数名のおかげで、無事、終了することができました。観客動員数は、なんとか赤字にならずにすむ670名ほどの方がみえられたと思います。

私とこの地球交響曲という映画の出会いは、8年ほど前になりますが、人に教えられて、見たくて見たくてずっと待っていて、やっと見れたのが、その3年後でした。

なぜこの映画が、レンタルビデオ屋にも置いてないし、知らない人が多いのかということも、4年前に、上映のボランティアスタッフに参加してみてから、初めて納得しました。

この映画を初めてみたときの感動は、今でも忘れません。こんな映画が、世の中にあったんだ~。こんなメッセージをダイレクトに伝えることが、許される時代になったんだなあと、じわじわ喜びを感
じたものです。

私自身、生まれつきの霊媒体質のおかげで、目にみえない霊的な世界のことを、周りに理解してもらえないことが、人生最大の苦しみでした。

今でも、目に見えないことを、周りの人に話すことを躊躇する方は、少なくないでしょう。それは、自分が周りにどう思われるとか、社会的地位や社会的な責任が重くのしかかっているからある面、仕方がないでしょう。

社会や団体生活の中では、ほとんどの人が、まず自分の居場所を守るために、傷つくことを恐れます。だから本能的に、安全な言葉や、さしさわりのない態度で接します。

でも、私がこの映画を観てまず考えたことは、この映画は10前に世の中に出た事実や、その映画が、延べ200万人も観ている人がいると知り、やっぱり本当は、みんな目に見えない世界を信じたいし、、認めて欲しいのだと感じていました。

この映画の製作にあたった龍村仁監督が、私の知人に伝えたメッセージは、「魂を語ることを恐れるなかれ!」でした。

龍村監督自身、20世紀の高度成長の時代を生き抜く戦士であったことを考えると、そのメッセージは、自分自身が、社会的な批判や軋轢(あつれき)に押しつぶされた経験から、物語っていると感じられます。

2005 年現在で、50代の半ば以上の方の共通意識は、ある意味、過去批判と自己批判、そして、社会批判を繰り返してきている世代です。

理由は、個人の意識や価値感よりも、もっと大切なものがあると、抑え続けられてきた世代でもあるからです。

混沌・破壊・意義・思想etc自分の意見を言うたびに、大きな責任を負わされてきた時代を経験して
きているからです。

そしてその方たちが、悩んだあげくに自分の求めていたものが、「愛」だと、今、知ったのです。

そのことはまず、自己愛から始まりました。今までの自分を認めて、許してあげることに、どれくらい長い時間を要したことでしょう。

「だれも、本当の自分のことをわかって、くれてはいない」

「だれも、本当の意味で、この私を認めて、くれてはいない」

この苦しみを根底に抱えた人は、無限に”愛”を求めて、ある意味、自分や周りを傷つけてきています。それは、私自身も同様の生き方をしてきているから、よくわかります。

自分の心のなかにある大切なものを受け止めてもらえない苦しみは、苦しみのすべての根源とも言える大きなものです。

ある意味、今の若い世代の悩みや問題も同じかもしれません。

どう考えても、今の時代をそのまま受け入れなさいとは教えられないですし、うまく生きるコツや、生きぬく方法を教えないと、強く激しいこの時代の隙間に、取り残されてしまいそうで、自分をごましても、ウソをついてでも、現実をうまくやることしか、思いつかないのだと思います。

でもどんなに悪いことをしてきた人にも、人間として生まれた人に、魂や心が無い人は、いません。人を殺したり、自分を傷つける人でさえも、そうです。

では、そういう人たちには、何が足りないのでしょう?

私は、やはり、”愛”だと思います。

でも、皆さんが考える愛とは、少し違うことをご説明しておきます。

まず愛には、たくさんの種類がありますし、愛と言いながら、たくさんの情をやりとりする”愛情”と勘違いされている方がたくさんいらっしゃいます。

ここで必要な愛を言い表すと・・・

厳しい愛、やさしい愛、きつい愛、うるおう愛、なごむ愛、受け入れる愛、あきらめる愛、見放す愛、拾う愛が、必要です。

社会のすべての人が、自分にできないことを人のためにすることで、自分の役割を見つけるための人間関係だと、まず、あなたが誰かに教えてあげなければ、どんなに上手な生き方のすべを子供たちに教えても、自分で生き延びる知恵には、ならないからです。

皆さんにとって、多分、一番難しいのが、「見放す愛」だと思います。

ここで、あえて”見放す愛”書いたのは、みなさんは、”見守る愛”をご存知だからです。

でも、他人の子供や大切な人には、それができても、自分の子供には、ついつい、小言や説教、自分の情の思いをぶつけたくなります。だから、あえて”見捨てる愛”と表現しました。

人や周りに見放されたと感じた人が、それからの人生に、反発して、抵抗して、自分や周りを傷つけて生きてきた過程こそが、実は、愛を学ぶためだと、もし誰かに知らされていたら、今まで誰かを傷つけきたとわかったときに、大切なことを学べる時期が、もう少し早くやってくることでしょう。

こういう人は、恋愛でも、結婚でも、仕事の上でも、自分の存在価値を認めて欲しい行動に出ることが、多いものです。そのときに、誰か一人が、わかってあげるだけで、ものすごい自信になりますし、生きる勇気が沸いてきます。

受け入れる愛をしてくださるのが、妻や夫、母や父の場合、うれしいのでが、まだ、一人で社会に受け入れたれたという勇気には、なりづらいのです。

だからこそ、他人の誰かが、「あなたは、すばらしいですよ。周りのみんなが何と言ったとしても、私はあなたを信じていますからね!」と、言ってくださる人に逢えることは、神に出会えたようなものなのです。

もう一方で、今、苦しんでいる我が子の未来を信じてあげて、社会の荒波に押し出してあげるときの親の気持ちが、どれほど苦しいものかも感じますので、それは私自身も心が痛みます。

でも親は、我が子に対して、ある時期、すべてを知っていながら、大きな意味で、”見てみないふり”が必要なのでは、ないのでしょうか?

昔から、私の親も、子供の私のすることを、たくさん「見て見ないふり」をしてくれました。

盗み食いをしたときも、そっと、財布から50円を盗んだときも、学校帰りに寄り道して、イタズラしたときも・・・。

でも、自我が目覚めて、大人になる過程で、今まで、人を傷つけないで生きてきた人は、誰一人いないのです。

だからこそ、その経験をした親たちが教える最大の教えは、「人に迷惑だけ、かけない人間になりなさい」と言います。自分ができなかったことを、しなさいと教えるわけです。

だから、子供は、自我の表現を失い、迷います。

私の尊敬する母は、そのことを私にこう言い換えて教えてくれました。

”自分がされたら嫌なことは、人にするんじゃないよ!”

そんなすばらしい母の教えをいただいた私でも、今まで、たくさんの人を傷つけて生きてきました。だから、今の自分は、その罪滅ぼしの時間だとも感じていますし、そのことをさせていただけることに心から感謝しています。

この世では、自分のしたことは、必ず自分に返されるというルールがあります。

そのこと知りながら、覚悟して悪いことをするのなら、必ず、自分で起き上がる知恵を身につけることができるはずです。

また、この世に親という役をいただいた人で、死ぬ最後まで、自分の親役を忘れる人は、いません。

相手のことを信じてあげる心、自分にはどうにもならないことさえも、自分の責任と、覚悟できる強い心。それは、この人間という弱く幼い生き物だからこそ、学ぶべき最大のテーマなのでしょう。

そのためにも、まず、人とのつながりや、家族以外の人とのつながりを信じれて、利害のない、責任のない人でさえも、自分を本当に愛してくれているということを経験する必要があります。

そのためには、お互いの心や未来、また相手の思いを受け入れてあげられる大きな愛の大人たちが、増えていって欲しいと切に願います。

愛は、あるのに、見えない。

だからこそ、あなたの愛が必要なのです。

あなたの傷ついた心と想い、そして、それを乗り越えたすばらしい力。

そのためにたくさんの出会いと経験をさせてきてくれたことへの感謝を教えることが、今、一番必要な時代なのです。

苦しむのは、心が苦しいからです。辛いのは、心が泣いているからです。

その大切な心や、感じるものを信じてあげられない人は、この世にいないと私は思っています。

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