2016年4月1日 速開都比売 メッセージ

(午前の神言葉)

時計らい給いて、神祈りする全ての皆々様方にお伝えいたしまする。

この日、迎えまするは、「時の運」。

全てのこと、計らい給いて、この日を迎えますること、心より感謝申し上げ奉り申す。

「己の身を削ぎ給え!」と、われ申します。

想いはばからず、健康足らずという日々が続くのであればこそ、「心ここに在らず」と神は申しまする。

これ、己の心の整いの足らなさ一魂にて、「自らの身を削ぎ給え!」とわれ申します。

想いはばからず、この世を生きるということは、互いの想いを掛け合い、育み合う中で育つもの。

そこに想いを積み上げさえすれば良いというものでは無く、事おろそかにならぬよう、常に、身を削ぎ給えと申します。

事はばからず、焦らずと共に、心を一新するものあるならば、互いを信じ、神を信ずるように、わが身を信じ給えと申します。

心愚かに整わずは、それ愚かな証となりて、そわそわ惑い心、急がし心、ごまかし心、勇み心となりまして、行く末には「うつむきかけた心」となりましょう。

おのずの心禊ぎ給いて、焦らずに心を決めたならば、それ揺り動かさずに、目の前にあること一心不乱に心を集中させ、出来ることを自らの精一杯の力を出しながらも、全体を見定める心を揺り動かさずに、自らの立つ位置が「ここで良いか?」と問い給えて、心おろそかに言葉を吐くのではなく、想い携え給いて、支え合う仲間や身の回りの人達の事を想い、常に、「自らの立ち位置」を柔軟に変えれるよう、心を柔軟にしたまえと申します。

われ、ここに在らずんば、それ神なりきとなりしこと、

それ、神と一体になれば我が無くなるという意味なればこそ、「神」という目線を持ちて世をはばからずんば、皆の幸せを願い、自らの心、一心に生き給え!と我申します。

他人を問う心、自らを問う心、愚かでございまする。

そのあなたを見守りまする神の想いと離れているからこそ、自らの我の視点を変えず、立ち位置を変えられず、苦しむものでございまする。

常に、人は、「我がまま」でございまする。

自分の思いしか、言わぬもの。

だからこそ、その想いを束ねられるような大きな心を作り上げる為にも、日々、「自らを削ぎ給え!」と申します。

想い大きかな・・・高きかな・・・心ある者たちへ告ぐ!

この世を救うは、たれぞ!

この世を救うは神では無く、神の心を持ち合わせる人の心と言葉と行動なりて、この世を作り上げるものなり!

その過程において、うまく行く時もあれば、行かぬ時もあるでしょう。

しかしながら、その時の経験こそが、次へ進む大切な学びだからこそ、目の前の問題や苦難苦悩から逃れる事を考えるよりも、より大きな愛と幸せを育む為に、また、自らがその喜びを感ずるために、どう自らの心や想いを柔軟にするべきかを考えなさい。

この世にあるもの起きるもの、全て「人の心で出来ている」ものだからこそ、心大きく目を開き給いて、この世を幸せにすると極めたならばこそ、己の心を禊ぎ給いて、計らい給いて、心に癒しと安らぎを与え給えと、われ申します。

「時すでに遅し」とは、まだ、変わる可能性がある時の言葉。

本当に駄目ならば、言葉はありませぬ。

だからこそ、焦らずに、日々の神行に、日常の行い全てにおいて、心を込めて過ごしなさいよ。

われと共に拝みをする皆々様に、この愛と浄化の光を送り届けましょう。

(午後の祈り言葉)

行くすえ給いて、神祀りおわします皆々様方の想い様々あれど、これ事なきを得ず、われに存じて世が見えまする。

この世にあるものは、全てあなたの心に映ったものでございます。

どの出来事も、どの想いも、誰かの言葉も、全てあなたの心に映った思いだけでございます。

 

その想いが美しい言霊か、悔しい思いなのか、はたまた、感謝せざるおえないほど哀れ慈しみ深き想いなのか、いやまた、こんな嫌な想いをまたするのかと自分に投影し、苦しむ時間にするのかは、全てあなたの心次第でございます。

 

やがて、この世が一掃されればよいと思う方も居るでしょう。

はたまた、誰かが、突然、いやおうなしに、この世を遮断するかの様に、平和な幸せな世にするために、一掃する方が出てくる。

もしくは、それに伴うようなとんでもない出来事が起きる事を、心の底で望んでいる方も居るかもしれませんが、それは起こりませぬ。

 

なぜかと言えば、この世は、自分の想いを叶えるために一生懸命、人の想いを動かす方と、また反対に、人の想いに動かされたくないという想いで自らの想いを何とかしようと、もがき苦しむ方々との戦いの場であるからであります。

 

それはひとえに、人間という愚かさの表れの行動のようであり、我々から見れば「たかが人間の想い」としか見えません。

動物たちにも、当然、同じように、葛藤の想いがございまする。

今、この仲間たちが敵に襲われ、獲物を狩るように仲間が殺されていくかいかないかを必死に考えながら、思考しながら生きている者たちがほとんどでございまする。

 

皆、生きていくために、必死になっております。

それが、「自然界の摂理」でございまする。

 

時には、「自然界の淘汰」もございましょう。

突然、大雨が続いたり、恐ろしいほどの風が吹き、津波が起こり、山からあらゆるものが流れ出る事もございましょう。

しかしながら、それはただの「自然界の淘汰」であり、ただ一部の出来事でございます。

皆さんが世界中で起きている事を、まさに今、目の前で起きているかのように、目で見たり聞いたりする事が出来る時代になったということの意味を、どうお考えになるかは、あなた次第でございます。

 

温かな中で暮らしをしながらも、その反対側で苦しんでいる、今まさに、死にそうな子供たちや、人を殺す為に戦う人たちや、殺さなければいけない人たちの葛藤を見て、可哀そうだ、哀れだ・・・なぜそんな事が起きるのだろう?と思う人もいるかもしれませぬが、それはその国に生まれ育った者たちの「宿命」ございまする。

 

「その想いをどうするか?」、今、あなたが目の前で起きてる事も同じ事でございます。

あなたが今、想った思いをどうするのかは、あなた次第でございます。

誰かのせいにするのか、社会体制・権力者のせいにするのか、自らが出来る範囲をしようと思うのかは、ただ、あなたの心次第でございます。

 

「事すでに遅し」と諦めて、儚きかなと人生をたむろう人たちもいまするが、それは平和にあぐらをかいている姿ではありませぬか?

明日をも知れぬ、パンをも食べれぬ人たちにおいては、そんな不作法な想いなど、考えすらできません。

「心を慈しむ」などという、言葉も知りませぬ。

「憐れみ」という、言葉を学ぶために、幾千年かかった事でございましょう。

まだ、その事を知らぬ民は、たくさんおりまする。

 

心静かに眠ることのできない民が、どれほど多く世界に居るかはご存知でしょうか?

あなたが悩んでいるというのは、あなたに関わる事ではございませぬか?

ほとんどの民は、自分の事ではない親兄弟、周りに居る人たちの命にかかった想いで、悩み苦しんでおります。

 

あなたは、「まだ、幸せ」なのでございます。

「恵まれている」のでございます。

「豊か」なのでございます。

 

永遠なるその中の想いについて、まさに天空の星から神が宿るかのような想いを願い、この世を誰かが救ってくれるなどという「願望」を望む者たちは、もう居ないと思いまする。

 

なぜかと言えば、皆さま方は、もう「神」という概念が、自らの心の中にある事をご存じのはずでございます。

神を外に置くものは、「ただ崇め祀るだけ」でございます。

また、「誰か人を神」と奉ることにより依存することで、自らの安心を得る方法もございまするが、その学びも、もう終わりでございましょう。

 

神は外側にもあるし、自らの内側にもある!

そして、その神は同じものである!

というところに辿り着いた方たちは、自分も決して言い訳や言い逃れなど出来ない事を知っております。

心おろそかに、見るものが音なきものとするならば、幼き年はもいかない幼い子供たちが、誰よりも大我を描くような想いで、この世の理不尽さを問う言葉について、誰がその答えを出してあげるのでしょうか?

 

どうして、戦争をするの?

どうして、人のものを奪うの?

どうして、人は殺し合うの?

どうして、戦い続けなければいけないの?

どうして・・・?どうして・・・

 

誰もが一度は思った子供の時の想いについて、あなたは無かった事のように、過ごしていませんか?

誰もが思ったこの想いを、神が与えたものだとは思ってくれませぬか?

子供だけには、素直に伝える事が出来まする。

戦いを望む神など、おりませぬ。

 

人には、念がございまするが、その念の学びを終え、成就しきった神という存在においては、誰も戦いなど望みはしません。

ただ、この世が互いに救われるように知恵を出し、分別を持ち、心のあり方を問うよりも、生き方を教えられる人たちが、たくさん増える事を願っているのでございます。

 

だからこそ、もう「外に逃げる事」はおやめ下さいませ。

「外」とは、自分以外の世界、逃げ道を探す事をおやめ下さいと言っているのです。

心の世界は、あなたの中にあるものの映し世だからこそ、それがまさに、想いとして言葉として現実化させる力が人間にはあるからこそ、人間が逃避をしては、結末は責任をおえません。

誰も、その責任を負いません。

生きている証は、「想いに対しての答えを出すこと」、ただ、それだけでございます。

自らの想いに対して、嘘を付かず、正直に生きる事に葛藤するならば、葛藤を悩むよりも、いかに正直に生きるか、素直に生きるかについて、子供から学んで下さいませ。

「生き上手」になった大人ほど、心が苦しんでおりまする。

子供である事も社会で苦しみまするが、子供ほど尊いものはございませぬ。

 

子供の心を忘れた親が、なぜ子供を産むのか?

子供の心を思い出させるためでございます。

そして、命を繋ぐためでございます。

 

この二つ以外に人間が、子供・子孫を残す意味などございませぬ。

「霊性の天下」、それはまた別な次元の話しにございます。

命を繋ぐとは、ただ、それだけでございまする。

どうか、この世に生きる事の意味を、あなたが賢く、ずるく上手に生きる事がただ正しいのではなく、子供のように素直に生きられなかった自分を思い出し、その理不尽さを解消するために大人の知恵を持ったのだと思って下さいませ。

 

そうすれば、あなたがいくつであっても、理不尽さが子供の心になるための、素直になるための「脱皮の意味」だと分かりまする。

そう、皆さんは、もうぼつぼつ「脱皮の時期」が来ています。

自らの殻を破り、社会に問われることなく、上手に生きながらも、自らの素直さを表現できるように、素直に、そして賢く、そして上手に、生きて下さいませ。

その為には、そうある姿を大人たちが背中を見せなければいけません。

あなたがその一人となって誰からも、うとまれるほど素敵な生き方を人生をお過ごし下さいますよう心から願いますと共に、皆様と一緒に、心の悲しみ、苦しみ、想いの浄化を務めさせていただきまする。

私の役目、その想いに対して心から感謝申し上げ奉りまする。

いつもいつも、心合わせて頂き本当にありがとうございます。



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