2018年6月1日 速開都比売 メッセージ

【神言葉】ハヤアキツヒメ神言葉

(午前の祈り)

どんなときにも…どんなときにも…
心が揺れ動いたときでも…

苦しいときでも…悲しいときでも…
嬉しいときでも、嫌なことがあったときでも…

いつまでも、いつものように見守っている存在たちがおります。

それは、あなたが気づこうが、気づくまいが関係なく、常にあなたを見守り続けている存在がおります。

あなたからすれば、自分のご先祖、父母、祖父母、曾祖父母、その御先祖の繋がりだけは存在していることは、理解できることでしょう。

しかしながら、私は見えぬ、聞こえぬということを理由に、信じないような口ぶりをする人たちがおりまするが、先祖がおらずに存在する人間など、誰一人おりません。

ならば、あなたが存在している限り、その見えなくとも存在している先祖たちに、心合わせることや存在していることを否定すること自体が、自分自身を否定することになるとは思えませんか?

あなたは、「あなただけ」では存在しておりません!!

まずは自分が「存在する」ために関わった全ての人たちの思いに感謝することをしなければ、見えることも、聞こえることも一生ありえません!!!

素直な、とても素直な子どもたちは、見えぬからと、聞こえぬからという言い訳などせずに、ただ「いる」ということを知っておりまする。

それはお母さんのお腹の中から、生まれる前からの繋がりであり、まずは母親との繋がり、それが「命の元」に繋がることは説明せずとも誰もが知っておることでございましょう。

なのに、なぜあなたは「信じぬ」という言葉を口にするのでしょうか?

見えないからといって、聞こえないからといって、先祖を信じぬ、先祖に感謝することを、その心すらないなどとは、言葉にすること自体が自分自身を否定することになるのですよ!!!

あなたが存在するために、一千万個、一億個、一兆個以上の卵子、精子の繋がり、そして、その「命」に繋がる「魂」との繋がりがなければ、あなたは今生きておりません。

貧乏でも、お金持ちでも、豊かでも、辛くても、悲しくても、嬉しくとも、関係ありません。

あなたは今、こうして「生きている」からこそ、全てを「感じる」ことができるのです。

その「存在」していることに対し、どこかに「感謝」する心がないならば、あなたはこの世の中で、誰にも感謝されることはない体験をするでしょう。

感謝するということは、まずは、「存在に感謝する」のです。

自分の思い通りにならぬとも、その思いが、思ったことじゃない辛く苦しいことであったとしても、それこそが「存在している」からこそ、「感じる」ことではありませんか!!!

全てを失い、命を失った時には、その思いすら感じることはできませぬ。

ただ、霊体となって、見ること、知ることまでしかできませぬ。

あなたたちは感じなければ分からないといいまするが、本当にそうでしょうか?

「感じる」とは、何でございましょう。

あなたの手、口の味覚、肌で感じるもの、全ては、あなたの感覚なのでしょうか?

その身体は、その感覚は、その全ての細胞伝達は、誰が司っているのでしょうか?

寝ている間も、全てをコントロールしている存在は、あなたではないことは確かでございまする。

なのに、あなたは自分が感じたか、感じないかという、自分の理解だけで物事を決めようとしておりまする。

愚かなことで、ございまする。

感じることすら、見えるもの、聞こえること、全てが「あなたの意志だけではない」となぜ気づかぬのでしょうか!!!

感じさせていただいていることに感謝、見させていただいていることに感謝、触れることに、味わえることに感謝ではございませぬか!!!

あなたはたったその一つの自分視点だけで、幼き心より愚かな心になってしまった自分を見直すことから始めて下さいませ。

先祖におる全てのものは、賢きものではありませぬが、父母も同様に完全な人間などこの世にはおりませぬ。

だからこそ、新たな命を紡ぎ、その子に夢を託し、「自らを超える人間となりなさい」と、親は子に教えるものなのです。

しかしながら、自分の苦しみをまだ愛に変えられていない人たちは、その苦しみにならぬように、苦しまぬように、辛くならぬように、悲しくならぬようにと手をかけ、手をかけ、手をかけすぎて、子どもを駄目にしてしまいまする。

子どもはもともと自由な「魂」と、親を超える素晴らしき「可能性」を持って生まれておりまする。

生まれる時代を選び、親を選び、何番目の子に生まれるかも子どもは決めてきておりまするが、親が自分の子、自分の持ち物のように思うその愚かな心によって、子どもの心は、砕き裂かれるのでございまする。

夢と希望を持ち、未来に新しき創造をするために生まれてきた子どもたちを、そのまま伸びやかに成長させながら、社会における「責任」だけを教えれば、良いのでございまする。

賢きもの、愚かなもの、知恵のあるもの、ないもの、運動能力が高いもの、低いもの、優しきもの、荒ぶるもの、敵味方ではなく学び相手だと思って下さいませ。

親子も、夫婦も、他人も、男女も、お友だちも、親族も、会社の人たちも、サークルの仲間も、全てあなたの「学びの仲間」でございまする。

ならば、自分がその学んだことが、どれほどの愛であるかが、すぐ「目の前に起きている」とは思えませぬか?

「分かったこと」と、「できること」と、「教えてあげられる」ことは違いまするよ。

いくら賢き知恵を得ても、使えぬならば意味はなし。

 

使ってこそ、人に喜ばれてこそ、その知恵を伝承させてこそ、愛ではありませぬか。

この世のことだけで、終わるような生き方をせぬよう、十分心がけて下さいませ。

本日より、また「新たな光」が降りておりまする。

新しき時代を創る尊き志のものたちへ、そして、その未来を信じ、支え、ともに歩こうとするものたちへ、伝えまする。

心は、常に自由でございます。

そして、社会における責任と覚悟だけはお持ち下さいませ。

年齢を重ねるとは、賢き人となるための経験の道であると思って下さいませ。

生きている限り、学びはなくなりません。

そして、学んだことは、必ず、誰かに教えてあげることをお願い致します。

貴き知恵を持つ、賢き魂たちに新しき光と輝き、そして愛の喜びが溢れんことを、今日、この光の祈りとともにお届けさせていただきまする!!

ありがとうございまする!!!

 

 

(午後の祈り)

神降ろし給うて、我の言葉なり。
それ 我なるば、「我神なり」と同じなり。

神なるば、たれ(誰)ぞ、その思い、しとやかにに遡れば、御先祖を越える元の光の元まで遡る。

慈しみの心を持つ者ならば、わかると思うが、心安らかなる時も思うこともあれば、心穏やかではない時に思う事もあろう。

たれ(誰)ぞ、 責めるか! 誰を責めるか!

誰かを責めたくなる心が出た時には、それは、己れの心の捉え方 思い方が間違っているかも知れぬと一度は考えてみなさい。

誰かを責める心を持つものは、永遠に幸せになる事など出来ません。
この世に責められるべきものなど、おりません。

「明日は我が身」と言う言葉の裏側には、加害者が被害者になったり、被害者が加害者になってしまう事、その両面から見る心を気付きなさいと言う意味なのでございまする。

今 幸せに暮らしている、素晴らしい家族に見えるその人達でさえ、心穏やかでなければ、争い事多く、葛藤多く、自らが命を絶つ子供が出たり、首を吊る夫が出たり、誰かを殺しに行く人が家族・親族に一人でも出たならば、その家族は永遠なる苦しみを背負って生きるこの世の道を歩かなければいけなくなりまする。

「かわいそう」という言葉がございまするが、それはある意味、自分を守り、相手を責めている一方的な言葉でもありまする。

もし、自分がその相手ならばと思った時に、今が不幸であっても、苦しみのどん底であっても、もしかすると 「明日は希望の光 ・チャンス」が訪れるかも知れぬと「思う心」になる事も出来まする。

逆に、「明日は我が身」を高みから見てるいる人ならば、落ちる事など考える事もなく、恐怖心と闘いながら、孤独という闘いの世界に落ちてしまう事でしょう。

「孤独」が、悪い事ではございません。

 

孤独は、「個・我」のあり方を気付く為の一つの視点でございまする。

しかしながら、孤独から人を羨む事をしてはいけません。

今、生きている事が、今の瞬間に終わる者もおれば、手足・身体・心 大切な家族を一瞬で失う人もおりまする。

同時に今、新たな命を産む母も、家族もおりまする。

その一瞬一瞬をどんな心で見つめているかによって、この世の幸せの価値感も、苦しみの価値感も違うのでございまする。

『永遠侮蔑』、自らの事を悟す心もなく、誰かを責める心を持ち続けるならば無限・無限に、奈落の底まで落ち、底には更に、同じ様な者たちが集う世界がございまする。

反対に、そんな地獄の中でも「人を信じ、人の尊き」を導く人ならば、どんな場面に置いても必ずや、いっこう(一光)の光が訪れ、その人を導き、奉る事になるでしょう。

生きている事が苦しいと、もし今 思う人がいるならば、必ずや、貴方には希望のチャンスが訪れると伝えておきまする。

 

それが、私達の務めだからでございまする。

チャンスは無限・永遠に、そして、どんな人にも平等に与えておりまするが、チャンスをチャンスと見えるかどうかが、問題でございまする。

人を羨む心を持つ者は、チャンスには見えず、その出来事が、又、自分を責めている、何でこんな事ばかり続くのかと思うだけでございましょう。

「チャンス」を信じている者ならば今、目の前で起きたことの意味を考え、その意味から何を気付けば良いかを考えまする。

そして、今までの自分と違った たった一つだけ 、「よし これを変えてみよう」、「これをやってみよう」、「これを信じてみよう」、「この人を信じてみよう」と思うものでございまする。

チャンスは内側の心によって、見え方が変わるのでございまする。

良き人に出会いたければ、まず 自分が「良き人」になればよいのです。

良き人とは、人が喜ぶ事を知っている事。それを実践で来る事、そして、それを教えられる人でございまする。

「悪しき人」とは、自分だけの事ばかり考え、自分だけの事ばかりを言葉にする人でございまする。

この世に、善悪も、善人も悪者も、本来はおりません。

しかしながら、「悪しき心」を持つ人は、僻み・妬み・嫉妬し、 そして又、愛情を疑い、完全なるものを追い求めまするが、この世に完全などございません。

「不完全を認め許す心」こそが、完全な心なのでございまする。

不完全な子供を見て、希望を感じる親もいれば、不完全な子供を見て、どうせ、私の子だと、諦める親もいれば、不完全な子供を見て、きっと私には理解出来ない可能性を持っている子だと思う親もおりまする。

つまり、「親の心次第」で、子供達は変わるのでございまする。

信じてあげる事、子供も、人も、誰かも、ただ信じていさえすれば、信じる事が起き始めまする。

ただ、「信じる事」をするだけなのですが、それが難しいと言う方達もたくさんおりまする。

「信じる事」は、言葉にする事なのです。

人が言うと書いて「信じる」、言葉こそが信じる者を作り上げるのでございまする。

 

思うだけでは、なりません。

どうか、心に本当に思った事を言葉にして下さい。

それが「希望ならば、愛ならば、喜びならば、本心の言葉ならば」、必ずや、貴方の周りに同じ様な人が増えまする。

今、苦しい人でも、辛い人でも関係ございませぬ。

ただ、「信じる言葉」を発するだけでございまする。

人が信じたくなる言葉、そして、自分も信じたい言葉、その言葉だけを使う人は、神に愛されまする。

神は信じた人にしか、聞こえぬ・見えぬものなのですから、どうか、「自分を信じる事」からまず始め、そして、出会う人すべてに、「信じる言葉だけ」を信じられる言葉だけをお使い下さいませ。

貴方が信じた分だけ現実に物事が動き、人が現れ、出来事が起きまする。

それが、「信じる力」でございまする。

世をはばからん事多かれど、思い果てしなき。

 

可能な限り夢を追い、喜びを口にし、笑顔でいるすべてのものに、愛と喜びが訪れます様に、我々も力をお貸しいたしまする。

心の中にいる神を立たせ、「信じる言葉」をお使い下さいませ。

神と共にあらん事を心より願い給う。



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