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精神病院に入れられたおじいちゃん

岡山県の大学にいっている20歳の時、珍しく母から電話があり、借家の大家さんが電話を取り次いでくれました。

受話器を取ると、電話口で母が泣いていました。

「どうしたの?」と聞くと・・・。

「私の父さんが、精神病院へ入れられたのさ。

お見舞いにいってきたけど、あまりにその様子がひどくて、何もできないことがつらくてお前に電話したけど、ゴメンね。

こんな愚痴なんて聞きたくなかったでしょ、本当に、御免なさい。」

とだけ言って電話を切られました。

何が起きているのか分からないので、十円玉をいっぱい手に持って公衆電話へ走りました。

母に詳しい事情を聞くと・・・。

「私の父さんがね、夜中に、自分で天井に紐をくくりつけて、自殺しようとしたらしいんだ。

私の兄さんは父親に優しくしてもらったことがないせいか、「こんな狂った人間は精神病院へ入れた方が良い」と言って、そのまま連れて行ったのさ。

私は「せめて、普通の病院にしてちょうだい」とお願いしたけど、二度と、家には戻って欲しくないみたいで、そういう介護施設があるみたいなんだけど、その施設で働いている人が言っていたけど、「あそこは精神病院と同じだ」と言っていた場所なんだ。

 

夜中に大声で走り回る人や、物や壁を壊す人もいるし、他の部屋の入院患者に物をぶつける人もいるらしいのさ。

だから、そういう人たちや自殺を試みた人は、自分で動けないように手足をタオルやロープで縛り、頭が変になる薬をたくさん飲まされるのさ。

 

私がお見舞いにいってみると、父さんが車椅子で出てくるまで、30分以上もかかったので、どうしたのか聞いても、誰も教えてくれないんだ。

やっと、出てきたと思ったら、父さんは車椅子に縛り付けられているし、手足にはロープの跡が残っていたのさ。

「どうしたの?」と父さんに聞いても、父さんは言葉も話せない状態だし、ただ、涙を流しているだけなのさ。

 

何もしてあげられない自分が悔しいし、自分の父親のことを吉岡家に知られれば、「迷惑な嫁だ!」と言われて、父さんに迷惑をかけるのは困るし、私はどうしていいかわからず、お前に電話するしかなかったのさ。

お前のにいちゃんは、大学に入れてやる金もなかったので、今、札幌で必死に働いているから、こんな話はできるわけがないでしょ。

長男には、心配かけたくないもの。

 

私には何もできないので、ただ、いちにちも早く父さんが亡くなることを、母さんとご先祖さまに毎日、祈っているよ。

お前は何もしなくて良いから、しっかり勉強して偉くなりなさい。

自分の父親を、こんな風にしかできない自分の兄に腹も立つけど、去年の冬に新聞を取りにいって倒れて、脳溢血で死んだ母さんのほうが幸せだと思ったよ。

 

この前、お前と実家にいった時の父さんの話をしたでしょ。

お風呂にも入れてもらえず、オシメを付けっぱなしにされて、「くさいから自分で消臭剤を体にかけなさい」と言われている父親を見て、泣けてしょうがなかったのさ。

 

あのあと、兄さんから「二度と家に来るな!」と怒られたんだよ!

「どうして?」って聞くと、お前がくると、嫁がイライラして、そのあとは、必ず、俺が悪いと文句を言われるんだ。

 

だからもう、「二度と、俺の家には出入りするな!」と言われたんだ。

もう、自分の兄なのに、情けなくて、父さんに申し訳なくて、毎日、泣いてばかりなのさ。

もし、私が父さんと同じように気が狂ったら、殺してね。

お前も偉くなって、自分の親にこういうことをしなくても良い世の中にしておくれ。」

返せる言葉は、ありませんでした。

 

「オヤジに本気でお願いすれば、いいでしょ!」と言うと、そんなこと、吉岡家に言えるわけないでしょ!

私は、実家を出て、吉岡家に嫁に来た身なんだよ!

その人間が、吉岡家に恥をかかすようなことを言うことは、私には言えないよ。

父さんのためにも、本家のために、私は何があっても、我慢するしかないのさ。

それが、吉岡家に嫁に来た「人間の覚悟」ってもんさ!

絶対に、私からは父さんに、お願いはできないんだ!」と言って、母は泣いていました。

親父にも言えず、オジサンにもオバサンにも何もできない状況の中で、自分に何ができるかを考えました。

どう考えても、人間として、あれほどすばらしい人の最後が惨めすぎるので、夏休みはまだ早かったのですが、すぐに、岡山から北海道の実家に飛行機で帰りました。

母は急に帰ってきた私に驚いていましたが、顔を見た瞬間、泣き出して倒れ込みました。

ゲッソリ、痩せているのがわかるほど、「食事が喉を通らない」と言っていました。

「まず、じいちゃんの病院へ行こう!」

二人で車に乗って、介護施設へ面会に行くと、本当に30分以上待たされたあと、車椅子に縛られたじいちゃんが出てきました。

大量の薬のせいか、言葉もほとんど話せないのに、涙をボロボロ流しながら、

「出してくれ!まなぶ、出してくれ!」と、一生懸命に言葉にしようとしていました。

母は、「何を言っているのか、分からないでしょ?」と聞くけど、私には心の声がそのまま聞こえるので、「ここから出してくれと言っているよ。」と教えました。

すると、母は泣きながら、「ごめん、ごめん、父さん、私は何もしてあげられないの。

吉岡家に、迷惑をかけるわけにはいかないんだ、わかって父さん・・・。」と泣き崩れました。

こんなことがあって良いわけが無いので、私はじいちゃんにこう言いました。

「僕には何もできないけど、まず、父さんに頼んでみるから待っててね、じいちゃん。」

 

家に帰り、私は父が仕事を終えて帰ってくるまで待ちました。

農作業で泥だらけの父が家の中に入ってきたので、まず、正座して「お願いがあります!」と切り出しました。

「今、じいちゃんが病院に入っていますが、さっき、会ってきました。

あんなに威厳のあるじいちゃんに、あの扱いは、人間としてひどいと思います。

オジサンも、オバサンも、母がいくら頼んでも何もしてくれないと母は毎日、泣き続けているので、どうにかできませんか?」

 

「俺に、何をしろと言うのか!

それは、母さんの実家の問題だから、吉岡家としては、何もできないぞ。」

と言い返されました。

「オヤジ!それでいいのかい!

自分の父親が精神病院みたいなところに入れられて、死ぬまで放置することを見捨てろってことかい!!!

 

俺には、我慢できないよ!!

俺は、自分で何かを決められる立場じゃ無いけど、すくなくても、人間としての尊厳がなさすぎると思います。

オヤジが爺さんを見捨てるなら、俺も、オヤジをいつか同じようにしてやるからな!

それでも、いいのか!!!」

 

本当に頭にきたので、オヤジに殴られても良いと思って言い張りましたが、普段から無口なオヤジは、無言でした。

「オヤジさ、俺はオヤジのお父さんを知らないけど、死ぬ時にどんな状況だったのか、教えてよ。」

 

「俺のオヤジの最後は、家族全員に囲まれて、安らかに家で死んでいったよ。

本人も、死ぬのがわかったみたいで、一週間前から食べ物も飲み物も口にせず、ただ静かに死ぬ準備をしていたみたいだ。

だから、誰にも迷惑をかけずに、死ねたのさ。

俺も、ああいうふうに死にたいなあ。」

 

「俺もオヤジをそういうふうに看取ってあげたいけど、今のじいちゃんを見捨てるなら、俺もオヤジをじいちゃんと同じように見捨てるからね!

人間として俺は、許せないんだ。

 

俺が自分の責任で、じいちゃんを施設から出せるなら自分でやるけど、まだ、その責任は持てないので出せないんだ。

だから、オヤジ、本当に一生のお願いだから、あのじいちゃんを施設から出してあげて下さい!

 

家に連れてきたらお袋も世話をすると思うし、もし、お金が足りないなら俺も学校を辞めて家に戻るし、バイトもするよ。

何でもするから、お願いだから、施設からじいちゃんを出してあげて下さい!!

お願いします!!」

 

正座して土下座して、何度も何度も頭を下げていると、私の後ろに母も正座して土下座していました。

「吉岡家に迷惑をかける事になると思うので、オヤジには本当に申し訳ないけど、これは吉岡の姓を受けた人間の責任だと思うので、どうか、よろしくお願いします!!!」と頭を下げ続けました。

そんな場面に、珍しく札幌にいる兄が突然、帰ってきて、「どうした?」と聞くので、事情を説明し、吉岡家の恥になるので、「一緒に、オヤジに頼んで!」とお願いしました。

長男である兄貴は、子供の頃から何もしてくれず、ただ指示をする一方的な親父が大嫌いだったのですが、「俺の一生のお願い」に協力してくれました。

吉岡家の分家の長男として、次の家長として、こんなことをやってはいけないので、兄貴も納得して、大嫌いなオヤジに土下座をしてくれました。

じっと、空を見て考えていたオヤジは、農作業の汚れた服のまま立ち上がって、

「病院へ行くぞ!」とだけ言って、車を運転して家を出て行きました。

しばらくして帰ってくると、

「入院させた人間が、じいちゃんの息子なので、まずは、オジサンの許可がいるそうだ。

明日、俺がオジサンに会って話すからそれまで我慢しろ!

 

どうなるかまだ分からんけど、悪いようにはしない。

おい、せっかく、まなぶが帰ってきたんだから、美味しいご飯くらい作れ!」

 

と言って、オヤジはテレビを付けました。 

自分のオヤジながら、すごい人だと思ったので、母の代わりにお風呂に水を貯めて、火をつけて、オヤジの疲れを癒したいと思いました。

小学3年生からお風呂の準備は自分の仕事だったから懐かしく感じましたが、母が「覚えているかい?」と聞いてくるほど、久しぶりでした。

先日、「父親の背中を流した母の言葉」を思い出し、オヤジの背中を流してあげたくなったので、お風呂が沸いたら背中を流させて!と、オヤジに頼みました。

無言でうなづく父と、台所で料理を作る母の目からは滝のように涙が流れて嗚咽していました。

「母さん、そんなに泣いたら味がわかんなくなるでしょ。味、わかる?」

「わかるわけないでしょ!

ただ、切って入れてるだけだから、味見はお前がしなさい!」

子供の頃に母に教わったことが、いろんな場面で役に立って、自分でも嬉しく思いました。

お風呂が湧いたので父の背中を流していると、知らない間に親父の背中が小さくなっているのを気づきました。

「オヤジ、痩せた?」

「いや、変わらん。」

 

いや、絶対に痩せてるはずだけど、認めたくないのか、歳のせいなのか分からないけど、これは定期的にオヤジの背中は流さなきゃダメだと思いました。

親が弱っていく姿を見るのが、こんなに悲しいこととは知りませんでしたが、生きてる間に、少しでも「恩返し」できることをありがたく思いました。

私のおじいちゃんの最後は、オヤジが母の兄であるオジサンに頼み込んで、

「全てのお金もこちらで払うし、何かあってもこちらで責任を取るし、葬式もこちらで出すので、施設から出す許可を下さい。」

と、お願いして、おじいちゃんを施設から出してくれて、隣まちのとても良い普通の病院に入れてくれて、お葬式もオヤジが出してくれました。

母が最後に言っていたのは、

「あんたの父さんがさ、私の片足の父親を背負ってね、

「お父さん、お米の成長を見たいかい?」と言って、田んぼの「あぜ道」を私の父さんを背負ったまま、ずっと見せて歩いてくれたんだよ。

 

私の父さんは、もう嬉しくて申し訳なくて、ボロボロ涙を流していたよ。

その数ヶ月後に亡くなったけど、本当に自分の父親にしてあげられた事は、あんたの父さんのおかげで、感謝しかないんだ。

あんたからも、お礼を言っておいてね、お願いします。」

 

20歳の時のこの体験のおかげで、自分にできることがどこまでなのかを考えることができたし、親の見取り方の覚悟もできました。

今の時代は、多くの人たちがいろんな状況で親の介護をしたり、施設に預けていますが、最後に親にしたことは結果として、必ず、子供に返されてしまいます。

「因果応報。」

自分の父親を精神病院のような施設に入れたオジサンとオバサンには、娘が3人もいるし、結婚して孫もいるのに、誰も介護も看病もしたくないらしく、両親が自分の親を施設に入れたように、自分たちも両親を施設に入れて、一切、面会にも行かず、最後を迎えたと、母に聞きました。

この世は全て、「因果応報。」

自分がしたことは全て回り回って自分に戻ってくることを考えて行動して下さい。

私は自分の父の素晴らしさを、この時に、本当にわかりました。

「尊厳なき人間」として生きるならば、「尊厳を持って死にたい」と、私はいつも思って生きています。

オヤジ、ありがとう!!!

 

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