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じいちゃんに聞いた「北海道開拓」の話

母の実家のおじいちゃんに、中学生の時に聞いた「北海道開拓」の体験談をお話しします。

大切なことは、「身分を超えた人の思いやり」です。

当時、岩手県奥州市胆沢区から祖父に連れられて来た時、町には本州からの移住者でいっぱいだったそうです。

 

家柄は武士で、伊達家子孫の家老として水沢地区にいたそうです。

数件の親族と暮らしていましたが、戊辰戦争(1868年から1869年)で追われた一族は、北海道や東北に散り散りに逃げ延びたそうです。

 

明治になり、多くの人たちが北海道の開拓に入りましたが、それはそれは厳しい山林に囲まれた土地ですし、冬の厳しさに耐えきれず、本州へ逃げ帰った人たちも多かったそうです。

旧幕府軍側と扱われたため、逆賊として岩手県を追われた一族ですので、逃げ帰ることもできないので親子三代で開拓をしている労働者たちと一緒に毎日、汗を流して働いたそうです。

 

男兄弟は、次々に、戦争に駆り出され、行方不明になった家族の消息を探す術もなかったと言います。

毎日毎日、木を切り、自分たちの手で削って板にした「掘っ建て小屋」に家族全員で住んだそうです。

食べ物が無くなると、体の弱い子供達からドンドン亡くなっていくのを毎日、見ていたそうです。

 

自分は体が大きいので、大人と一緒に働けたからこそ、最低限の食事を分けてもらえたそうですが、体が小さい男や女子供は労働力にならないので、「家族3人でお茶碗一杯分のご飯」しか与えられなかったそうです。

一人前に働いた人だけが、「一人前のご飯を」食べられるルールだったので、どんな子供でも必死に、大人に混じって仕事をしたそうです。

 

病人が出ても、助ける人は誰もいませんし、薬もないし、医者もいないのです。

体が弱い人は働けないので、食べ物は与えられず、死んで行くだけなのです。

農家が持ってきたいろんな野菜の種を植えて、育つのを待つのが楽しみだったそうです。

 

そんな状況の中でも子供が産まれると、みんながお祝いしてくれますが、しっかり食べ物を食べていないお母さんはオッパイが出なくて、産まれたばかりの子供が死ぬのは、日常だったといいます。

願うのは、その子供の生命力しかないので、「強い子だけが生き残る」ことを身をもって体験したそうです。

少しだけ食べ物ができると一緒に周りにいる人たちと「食べ物を分ける話しあい」が始まりますが、やはり、ルールは、「一人前に働いた人」だけ食べられるルールなので、女子供はいつも、夫の食べ物を分け合って生きるしか、なかったといいます。

 

「武士は食わねど、高楊枝」という言葉のとおり、自分の父親も自分も腹は減っているのに、絶対に弱音は吐かないのが、「武士のプライド」だったそうです。

そんな厳しい開拓時代に、第二次世界大戦が始まり、「戦争へ行けば腹一杯、食べられる」と聞いた男たちが大勢、戦争へいったそうです。

負けるとわかっていた戦争だったので、最後まで行きたくなかったが、自分が戦争に行くことで、家族にお祝いの食べ物が集まるので、仕方なく戦争へいったそうです。

 

 

自分が住んでいる家の周りの人たちは、日本語がわからない中国、朝鮮、台湾、アイヌの人たちもいたそうで、自分が日本語を教えて「日本人の言葉を話して、日本人として生きろ!」と教えたそうです。

そうしなければ、殺されるか、強制労働に連れていかれる可能性が高い時代だったからです。

 

北海道の強制労働の実態は、記録には残っていませんが、北海道の全ての道路や、川にかかっている「橋掛けの仕事」は命懸けだからこそ、第三国人が一番、最初に強制的に連れていかれたそうです。

自分たちは親から教育を受けた武士だからこそ、どんな立場の人間も同じように人間として扱うことが必要だと、おじいちゃんは思っていたそうです。

時代的に、そういう教育はされていなかったはずですが、父親にそのことを言うと殴られたそうです。

でももし、自分が相手の立場だったらと考えると、隣で泣いている中国人の子供と、日本人の子供の「命の重みに差はないんだぞ!」と教えてくれました。

 

「もし、お前も同じ立場になったらどうするか?」と聞かれましたが、「自分もやはり、人として対等に扱いたいです」と答えました。

当時の学校教育では、「自由・平等・平和」というスローガンが、学校の黒板の上に貼ってあるが、実際にはその反対が現実だからこそ、希望を持たせるために教えるのが学校教育だから、お前も学校教育で教わることを”うのみ”にしてはいけないぞ!、と教わりました。

 

自分の足で歩いて、相手と対話して、しっかりコミュニケーションを取ってから自分の本音を言わないと、相手が自分の家族を殺そうと思っている敵かもしれないと考えて、他人と付き合いなさいと教えてくれました。

俺も、戦争で足を1本取られたが、戦争は誰も悪くないんだとも、教えてくれました。

 

人はな、「勝てば官軍、負ければ賊軍」なんだ。

だから、結果だけで人を見てはいけないぞ!と強く教えてくれました。

学校教育で教えられないものは、「生きる価値と意味」だからこそ、自分で自分の道を見つけなさいとも教わりました。

 

私の母は、自分の父親が戦争で足を1本、無くしたことを本当に悔しがっていますし、だからこそ、「あんたは五体満足なんだから、真面目に生きなさい」といつも怒られていると言うと、「ほんとに、アイツは俺と同じだから、男気はわかるが、女としての教育がたりなかったのかなあ?」と、おじいちゃんも笑っていました。

いいか、どんなことがあっても、生き残れよ!

 

人がお前を馬鹿にしようが、何と言われようが、生き残ればまた、やり直せるから、つらい時は、しゃがんで我慢しなさいと教えてくれました。

必ず、朝になれば太陽は登るんだから、決して、後ろを振り向かず、前に向かって進みなさいと教えてくれました。

 

最初は、北海道の開拓の写真を見せながら思い出を説明してくれていたおじいちゃんも、自分が戦争で生き残って戻ってきたことを後悔しないように生きていることがわかりました。

北海道に希望を持ってやって来た人たちも、つらくて、寒くてたくさん逃げ帰ったけど、俺の家族は逃げ帰る土地がなかったのさ。

 

だから、どうやって生き延びるかだけを毎日、考えてここまで生きて来たんだ。

それが正しいか間違いかはわからんけど、俺にはこれしかできないし、教えられることはこれだけだ。

あとは、自分が考えて生きなさい。」、と言ってくれました。

 

歴史を調べて、なぜ、岩手県に帰れなかったのかはあとでわかりましたが、その覚悟と思いに感謝したくて、2008年にご先祖地、岩手県にお詫びとご挨拶に行きました。

亡くなったおじいちゃんが教えてくれた教えが、今も私の「生きる指針」になっています。

ありがとうございます、おじいちゃん!

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