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命のローソク 11 本気の禅問答

お寺の本堂の全ての扉を開けて、風通しの良い中、二人でご本尊様にご挨拶してから向き合って、禅問答が始まりました。

賢いお坊さんが最初に聞いてきた言葉は、さすがに頭がいい人だとすぐにわかる質問でした。

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私はお寺の長男として、子供の頃からお経を聞いて育ち、大学も京都の仏教の大学に行きました。

そこでたくさんの仏教に関わる勉強をしましたが、いつも何か腑に落ちない気持ちになるので、こうして、今は、「修行の身」となり、大僧正をお支えする立場にまでなりました。

でも、私は大僧正になりたいのではなく、本当の仏教というか、人の苦しみを少しでも癒やし、少しでも生きる希望が与えられる人間になるための修行をと思って、今、ここにおります。

こういう私ですが、この先、私がこの「仏門の世界」で、何を重きに置いて生きれば良いのか、ご指導いただけますか?

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その問いは、私に問うように、自分を問い、つまり、私の答えから自分の悟りを得るという「二重論法」で質問していますよね?

本来、それは「禅問答においては反則」なのですが、あなたがまっすぐな綺麗な魂の持ち主なので、お答えいたします。

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まず、あなたは、今、悩んでおられます。

そして、現世で生きている庶民の皆さんも、同様に悩んでおられます。

これで良いのか?本当に、これで良いのか?と、全てのことにおいて、「悩み」を抱えておられます。

では、そういう人たちをどう救い導くのかというと、その答えは「自分」にあるはずです。

「自分で自分を救えない人間」が、誰を救えましょう?

自分が自分に問いをかけている人間が、どうして、本当の答えに気付けましょう?

ほとんどの人間は、同じことを考えても、途中で諦めてしまいます。

でも、他人様からお金を頂き、食べ物を頂き、無料でいろんなものを頂ける「坊主」という職業は、自分でお金を稼ぐ必要がないので、周りの庶民より、自分に向き合う時間が多いはずです。

本来、「お経」は、お経を読むことが目的なのではなく、自分自身にそのお経の「音」を落とし込み、魂の中から湧き上がる「思い」を声にして読むものだと、亡くなった住職が教えてくれました。

なので、私は「お経」は唱えません。

自分の思いを自分で解決できない人間が、いくらお経を唱えても、幸せにも喜びにもならないと、答えがわかっているからです。

今の時代は、「坊主」が職業になっていますが、本来は、違うはずです。

お釈迦様が悩み苦しみ、長い時間をかけて、インドを歩いたその気持ちや思いを少しでも感じて、お釈迦様の心に近づく過程を「修行」と呼び、その気持ちが本当にわかった時に、「功德(くどく)をひとつ得た」と言うはずです。

だからこそ、本来、「功徳(くどく)」にはお金を払う必要もないはずなのに、なぜか、今は、ひとつの気づきを得るたびに「お金を出す仕組み」になっているので、坊主は食えても、庶民は食えない時代が来ると、住職も言っておられました。

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それでは、まず、あなたの質問に答えましょう。

あなたが苦しみ悩んでいることは、全てこの「現世」のことですよね?

でも、人間は必ず、いつかは「死」にます。

「死」が最初から決まっている短い人生の意味を、生きている人間が、いくら考えても答えはでません。

では、どうやってその答えを気づくのかというと、自分を産んでくれた「母」に直接、聞くことなのです。

どうして、母は自分を産もうと思ったのか?

どうして、堕さず、産むのも、育てるも大変なのに、自分を産んでくれたのかを母に聞いてみて下さい。

ただし、この母に対する問いは、最も母を苦しめる問いになるかもしれないと覚悟して聞いて下さい。

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それと、本来、坊主は全員が「修行僧」のはずです。

「仏門」に入り、修行をして「徳度(とくど)」を積めば、最後は、仏門を出て、世の中のためになる仕事に着くはずですが、どうして、そんなに長い時間を「修行」に費やすのですか?

坊主をやっていれば、黙ってお金が入るからですか?

嫁や子供たちを食べさせるのに、お金が必要なのは庶民も同じですが、あなたち「坊主」は、何も世の中のために働いていません。

私の家は「農家」ですが、坊主の家に生まれた子供たちは、目の前で農家が汗水流して働いていても、クーラーがある家の中でのんびり過ごしています。

私はまだ幼稚園なので、たいしたお手伝いはできませんが、いづれ、父母の役に立つための「修行」をさせてもらえていると思って仕事を手伝っています。

この経験がきっといつか、社会へ出た時に役に立つのはわかっていますが、あなたたち坊主は、社会で身を粉にして働くことを避けて、親のお寺の檀家さんのお金や寄付をあてにして生きる人生が、あなたの目的なのですか?

まず、「生きる意味」を問う前に、自分がどうして、お寺の長男に生まれたのかを考えて、お寺を自分が継ぐべきなのかどうかか考えて下さい。

私が思うに、この世の中で最低の人間は、「不労所得」で生きている人間だと思います。

家賃収入で生きている人や、自分の会社の株や他社の株で生きている人たちもそうだし、その中でも最も最悪の仕事が、「坊主」だと私は思っています。

「死を尊ぶこと」はとても大切ですが、そこに至るまでにかかるお金がかかりすぎでます。

後ろにいる「バカ坊主」の袈裟を見てわかりましたが、あの七色に光る袈裟は、一枚100万円以上するはずですし、その100万円の袈裟を何枚も重ねてきているバカ坊主の生活費は、日本全国のお寺に寄付した人たちのお金のはずです。

そういう生活をしている人間が、どうなのかを「自分ごと」に捉えて、生きる道を考えることをお勧めします。

腹を切って死んだ住職も、自分は坊主になりたくなかったのではなく、たまたま自分が苦しんでいる時に、声をかけてくれた人が「坊主」だったので、その人が生きている間の「恩返し」のつもりで「坊主」をしているが、本当は、お前と一緒に田んぼへ出て、農家をやりたいぞ!と言ったので、僕が住職を誘って農業体験をしてもらったことがあります。

父と母は、「住職に農家をさせるなんて!」と言いましたが、私は一番、「足元の仕事」をしている人こそ、「得度が高い人」だと思っています。

綺麗な住職の洋服を全て脱いでもらって、父のボロボロの洋服を着て田んぼへ出た住職は、田植えをしながらお経を唱えていましたよ。

「これが修行だ!これが修行だ!」と言い続けて、ずっと、一人で暗くなるまで田植えを手伝ってくれました。

夕飯の時間になると、家に帰ろうとしたので、住職に「庶民の食事を一緒に食べて学んでもらえませんか?」と言い、母には、いつも通りの食事を出して下さいとお願いしました。

一人、タクアン3切れ、朝、炊いた冷えたご飯と、残った味噌汁を温めた我が家の食事を一緒に涙を流しながら、住職もご飯を食べてくれました。

父は毎日、自分のために「1号酒」を飲みますが、その1号酒を小さい盃に分けて、二人で飲んでいました。

父は、今日は「今日のご苦労さま」のために、自分で「1日1号」と決めて酒を飲んでいます。

今、我が家は貧乏だからお金を貯めて田んぼを増やして、子供たちを学校へ行けるようなお金を稼ぐ必要があるので、最近、お寺に持っていく物が減っていると思いますので、ごめんなさいね、と住職に謝っていました。

住職は、頂いた盃の酒が飲めなくて、「申し訳ない、申し訳ない」と、震えながら、盃の酒を飲み干して自宅に戻られました。

つづく

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