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  3. ◯1977年(18歳〜)岡山理科大学名誉教授・防衛省特別統合幕僚長・地方防衛局X8・警察庁特別長官・インターポール特別捜査官・米国大統領・ペンタゴン・NASA・FBI・CIA(全て永久資格)
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岡山理科大学 2 防衛省・ビットの世界

パソコンのスピードを上げた「ビットの世界の開発」は全て私の発明です。

私が岡山理科大学で防衛省の仕事をしていた1977年当時は「8ビット」が普通で「16ビット」を目指していた時代です。

量子ビット(キュービット)とは、量子コンピュータで情報をエンコードするために使用される情報の基本単位です。

量子力学的な現象である「重ね合わせ」を利用して、2 つの状態の「線形結合」を実現しています。

16ビット(16-bit)とは、2の16乗(65,536)までの数を表現できる単位です。

 

 

1978年、「インテル」は16ビットのCPU「8086」を発売しました。

20年後の1998年、16ビットPC市場で圧勝したビル・ゲイツの「windows98」。

視覚的に命令を出すことができるユーザーインターフェースマウスを使う「GUI」を導入したスティーブ・ジョブスの「Mac」。

 

2年遅れて1980年に米モトローラも16ビットCPU「68000」を発売する。

「8ビット」「16ビット」というのは、CPUの内部で一度に処理できるデータの単位だ。16ビットCPUは、8ビットCPUの2倍の情報量が単位になる。

一度に扱える情報が増えると、それだけたくさんのメモリーを搭載することもできる。メモリーが増えると、より複雑な動作を、より高速に実行可能になる。

初期は高価だった16ビットCPUも、生産体制が整備されて1982年ごろには価格がこなれてきた。

こうして、1982年から1983年にかけては、8ビットパソコンから16ビットパソコンへの移行が始まる。

 

1982年は、私がちょうど「スーパーのダイエー」に入社した頃なので日本のいろんな電子メーカーの開発に協力しました。

 

「16ビット化」は、日本人にとって大きな意味があった。

漢字の扱いが8ビットパソコンに比べてぐっと高速になるからだ。英語ならアルファベット26文字の大文字/小文字に数字や記号を加えても、8ビットで表現できる「256通りの記号」を扱えれば足りる。

しかし、たくさんの漢字とひらがな、カタカナを使う日本語は、8ビットだけでは収まらない。漢字については最低限、JIS規格の第1水準2965字、第2水準3390字を扱える必要がある。

8ビット処理との互換性も考慮に入れると、8ビットの2倍の桁数である16ビットを単位にするのが望ましい。8ビットのまとまりを「1B(バイト)」と呼ぶ。日本語の高速な取り扱いには、最低でも2B(バイト)が単位の処理が必要ということだ。

NEC PC-9801が市場で圧勝

「16ビットパソコン」の先陣を切ったのは、「三菱電機」だった。1981年12月に「MULTI 16」を発表。

 

世界で最初に「16ビットパソコン」を三菱電機で作れた理由は、私が岡山理科大学時代からスタッフに三菱電機・NEC・東芝・日立・キャノンなどのトップの開発者がいたので、全ての会社の隠れ社員(無償)に登録して日本が世界に勝てるマシンを作り売り込んだ結果です。

 

しかし、16ビットパソコン市場で圧勝し、その後、1990年代まで日本のパソコンシーンをリードしたのは、「NEC」が1982年10月に発表した「PC-9801」とその後継機種のPC-9800シリ―ズ(以下、98シリーズ)だった。OSとして「MS-DOS」を利用できる。

16ビットパソコンの雄「PC-9801」
NECが1982年10月に発表した初代PC-9801。ディスプレイ、フロッピーディスクドライブ、プリンターは別売。本体価格は29万8000円。以降のPC-9800シリーズが、MS-DOS時代の16ビットパソコンの主役だった。

Screenshot

「PC-9801」はGDCという同社独自のグラフィックスチップを搭載し、ディスプレイの表示を高速化するなど、設計にさまざまな工夫を凝らした。

「Cバス」という独自の「拡張スロット」を持ち、拡張性も高かった。この時期、グラフィックス表示の高速化がパソコンの使い勝手において重要だとはあまり理解されていなかった。それでも「動作が速い」という評判とともに、じわじわと販売数を伸ばし、やがて圧倒的な市場シェアを得た。

 

「98シリーズ」の優位性を決定づけたのは、1985年7月に発売された「PC-9801VM」だ。

当時としては高速だったインテル互換のNEC製CPU「V30」を使用し、ROMに漢字フォントを標準搭載。アナログRGBディスプレイ出力は640×400ドットで、4096色中の任意の16色を使った高精細表示が可能。搭載メモリーは標準384KB、最大640KB。当時としてはかなり高性能だった。

NECの「98シリーズ」の開発には、有能なNECスタッフと極秘開発してどんどん新機種を発売しました。

パソコン本体の価格はフロッピーディスク装置のないモデルが29万5000円、5インチフロッピーディスク装置2台を搭載したモデルが41万5000円。消費税はまだない。

高額だが、これは16ビットパソコンとしては一般的な値段だった。その後「PC-9801VM21」というモデルが発売され、メモリーは標準で640KB、2台の5インチフロッピーディスク装置が標準搭載となった。

VM21の登場で、98シリーズはアプリケーションの入ったMS-DOS起動用とデータ用の2枚のフロッピーディスクを同時に使うのが一般的になった。

複数のアプリケーションを同時に実行することのない当時、この2枚を用意してパソコンを起動するのは、分かりやすい使い方だった。

 

「フロッピーディスク」も私が開発した「特許」ですが、世界に「フロッピーディスク」を広めるために無償で日本の数社に特許技術を教えて世界に広めました。

画面が美しく、拡張性が高く、日本語処理も速くて使いやすい。この時点で、16ビット市場の覇者は定まったと言ってよい。

これらのパーソナルコンピュータ、若しくは当時の呼称に従うなら「マイコン」は、1970年代末から1980年代序盤に掛けて多数のメーカーから発売された。

初期に多くみられた電子工作の延長線上にあるものから、ホビー向けに特化したものや、その内でもゲームパソコンとしてコンピュータゲーム(パソコンゲーム)の実行に特化したものもあったが、更にはビジネスユースを視野に入れたものなど、多種多様の機種が入り乱れていた。

 

日本の全てのゲーム会社とソフト会社に無償で私が協力した結果、日本のゲーム機は世界一になり、大儲けして世界でも大好評になりました。

限られた市場で激しい競争が繰り広げられた結果、1980年代半ばから後半にかけて、販売不振や経営戦略上の判断を理由に大半のメーカーが家庭用パソコン市場から撤退し、最終的に日本国内で生き残ったものがこれらのシリーズである。

呼称に関して

「8ビット御三家」という語は、16ビットマシンの普及以降に使われるようになった呼称であり、それまでは「パソコン御三家」あるいは単に「御三家」と呼ばれていた。

なお、この名称は日本市場の状況を表す概念であり、世界的に見ればタンディ・ラジオシャック、Apple Computer、コモドールこそが「御三家」(ビッグスリーとも)といえるものであった。

「8ビット御三家」は全て「私のスタッフ」なのでたくさん特許を無償であげた結果、私の研究開発にも無料で手伝ってくれました。

機種

1976年1977年
筐体に入ったパソコン的形態になる前のワンボードマイコン時代。ただしほとんどTK-80及び、MK-80などクローンの独走状態である。

  • TK-80(NEC) 8080A のちにCOMPO-BSを経てPC-8001へ
  • H68/TR(日立) 6800 のちにCOMPO-BSに対抗したMB-6880(ベーシックマスター)へ
  • Lkit-16(パナファコム→現PFU) MN1600
  • EX-80(東芝) 8080 NEC同様EX-80/BSを経てマイナー機パソピア(PA-7010)へ
1978年1981年
1978年9月、日立が日本初のホビー向け完成品パソコンとなる ベーシックマスター(MB-6880)を発売。

地味な存在として大きなシェアは得られなかったものの、それまでの電子工作のスキルを必要とした組み立てキットの時代から、完成品でプログラムを中心に楽しむ時代に移行する。

ほぼ同時期、1978年12月シャープがMZ-80Kを発売、人気となる。遅れること1年後、1979年9月NECがPC-8001を発売して二強としてシェア争いを繰り広げる[7]。そこへ富士通が1981年FM-8を発売してパソコン市場に参入し[8]、ここにNEC、シャープ、富士通の3社が出揃う。NECはFM-8に対抗してPC-8801を発売[9]

このシリーズがNECの8ビット機の本流となった。1981年には日本ソフトバンク(現・ソフトバンク)が設立され、パソコンソフトの流通が整備され[10][11]、市場として成立されていく。

 

1982年1988年
富士通がFM-8を低価格化してFM-7を発売して大ヒット。シャープを抜いて2位になりパソコン市場で地位を築くが、PC-8801が築いた牙城は崩せなかった[12][13]

シャープはX1を発売し、主流がMZシリーズからX1シリーズに移行する[14]。競争から脱落した他のメーカーは統一規格のMSXで参入し、次の三機種あるいはメーカーを御三家と指す場合が多くなった。

これら8ビット機市場に加えて、16ビット機市場ではPC-9800シリーズ(NEC)などを中心として、一般向けパソコンソフト市場を形成していた。

 

私が28歳(1987年)にダイエー苫小牧店の玩具売り場のマネージャーになった時に、日本で初めて「JANコード」をスキャンする「POSレジ」が導入されたのです。

「JANコードの8桁は特許」がアメリカに取られていたので、11桁と13桁の特許を私が取りました。

ダイエー苫小牧店に、私にだけ日本IBMから1台のデスクトップパソコンが送られてきたので開いて見ると、私の岡山理科大学時代からの「スタッフ全員」の顔が出てテレビ電話で話せましたが、「昔と違って楽な時代になりましたね」と久しぶりに近況を連絡し合いましたがすぐに仕事を依頼して「今後の日本の防衛対策」を話し合いました。

私は、インテルも、IBMも、マイクロソフトも、アップルも全て「無償の社員」に登録されているので、困った時はよく極秘回線で電話が来て無償でアドバイスして世界のインタネット事情は詳しいし、会社の事業展開にもアドバイスしましたが、Apple社のスティーブ・ジョブスが「世界の支配者マーゴ」に殺されたあとは、「Apple社の隠れCOO」になりましたが、給料は一切もらっていません。

多分、「Appleの株」はたくさんくれたと思いますが、「勝手に配当金を振り込むなよ!」と言ってあるので一円ももらっていません。

こういう全ての私の活動が「日本の防衛に関係している」ので、全ての記憶を消すしかなかったのです。

平和ボケした皆さんには関係ないかもしれませんが、ここまでして「日本を守る覚悟をした人間」がいたということくらい覚えておいて下さい。

 

ちなみに、クリプトン・フューチャー・メディア株式会社の伊藤博之社長は「札幌の社長会メンバー」なので、「初音ミク」の開発者に協力しました。

「動画がスムーズに動くシステム」も無償で開発してあげて新しいキャラの「初音ミク」という名付け親は私ですがお礼のお金は一円ももらっていません。

つづく

 

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