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【ドイツ】1989年11月9日に東西ドイツの「ベルリンの壁」を一晩で壊したのは誰?

「東西ドイツの壁」ウイキペディアより

1989年11月9日夕方、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策としてそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このときドイツ社会主義統一党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーが不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも外国人記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くの東ベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が東ベルリンの通過を認め、なし崩し的にベルリンの壁は開放された。

 

この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、その後の東ドイツの崩壊に至った。

 

1989年11月9日社会主義統一党中央委員会のギュンター・シャボウスキー政治局員は記者会見の際、さして重要でもない様子で、ドイツ民主共和国はただちに出入国を自由化すると述べました。 その後すぐに、数千人の東ドイツ市民が国境検問所に押し寄せました。 建設から28年、壁は崩壊したのです。

 

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どうやって、一晩で「ベルリンの壁」が崩壊したのかを初めて公開しましょう。

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実は、1989年10月から国防のために官僚の仕事を無償で手伝うことになった時に、外務省のドイツ担当の官僚から連絡があり、「ベルリンの壁の問題をどうにかできないか?」と相談されました。

 

日本は、1948年にドイツが二つに分かれる前から交流があったので、東にも西にも古くから交流があったため担当のキャリア官僚たちも2名必要だし、判断する事例も2倍になり、接待費も莫大になるので頭を抱えていたわけです。

 

私は「一晩だけ、考えさせてくれ!」と伝えてから家に帰り、祖父に聞いた第一次大戦の時の日本とドイツの関係を思い出して、「協力した方がいい」と思ったので、翌日、こう電話で伝えました。

 

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吉岡)もともと、東西ドイツの国民は親子であったり親族同士なので行き来したいのは当然なのに、利権と見栄と国際的な立場を変えない頭の硬い政府の人間が国を動かしているので、一気に解決したほうがいいと思うよ。

 

やり方は簡単でね、夜中に両国の時間を合わせて両方のドイツ軍の戦車を自動的に壁にぶつけて壊すのさ。

 

いろいろネットで「ベルリンの壁」のことを調べると、全長は155kmで、ベルリンの中心部を横切る形で西側部分をぐるりと取り囲み、町の西側部分を東ドイツから切り離していると書いてあるので、必ず、カーブの壁の場所はもろいはずだし、民家が無くて大砲がぶち抜けても問題がない場所を50メートル間隔でお互いの戦車を「挟み将棋」みたいに交互に並べて同時刻に大砲を打てば、絶対にどんな厚い壁でもブチ抜けるはずだよ。

 

多分、東西のドイツ軍の兵士たちも家族に会えないで悔しい思いをしているので、政治家に賄賂をもらっている士官たちを外して一気に情報を流して準備しなさい。

 

壁が壊れる時に両軍の兵士がいると誰かに撃ち殺される可能性が高いので、壁から100メートル手前に戦車を並べて、アクセルペダルに石を置いて時間になったら外せば壁に当たった時には誰もいないので「勝手に戦車が暴走した」と上官に処理させれば誰も文句は言えないはずでしょ。

 

政治家っていう奴はゴタゴタいうけど、結局、現場を見ていないし、現場の人間がどういう思いでそこにいるのかを知らないので、絶対に、成功すると思うよ。

 

もし、金をもらっている奴が反対するならみんなで縛り上げて、壁が壊れた後に解放してあげなさい。

 

東西のお互いの家族が別れ別れに生きるなんておかしなことだから、すぐにやりなさい。以上

 

▶️ベルリンの壁Q&A

 

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ドイツ担当の官僚)一晩、考えさせて下さい。東西ドイツの担当官僚たちと話し合いをします。

 

翌日の夕方に電話があり・・・・

 

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官僚)吉岡さん、すいません。東西ドイツの日本担当は2人づついるので、4人で話したので時間がかかってすいませんでした。

 

でも、やっぱり、あなたの言う方法しかないということになり、日時を決めて、一晩で壁を壊す方法と教わった重要ポイントの3つは全員にしっかり教えました。

 

 

(重要ポイント)

1、最も重要なことは「ベルリンの壁」が壊れても誰も不満を言わずに、受け入れやすい形になるよう上手に口裏を合わせて「偶発的な事故なので仕方なかったこと」にすること。

 

2、誰かが得をしたり損をすることが無いように十分、「情報の管理」には注意すること。もし、この情報を誰かに話す人間がいたら殺しなさい。

 

3、そして、この責任を誰も問われない形で、ベルリンの壁を一晩で壊すこと。

 

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私の計画は綿密でした。

そして、全ての計画はうまくいき、一晩で壁は壊れました。

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1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊

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「ベルリンの壁崩壊事件」は、私を含めて日本とドイツの担当官と私の6名だけでやったことなので、誰も知らないことになっていたのに、ある日、日本のドイツ大使館のクレーメンス・フォン・ゲッツェ駐日大使の秘書から電話があり、「東西ドイツの壁の件で大使があなたにお礼をしたいのでドイツ大使館に来て欲しい」と言われ、行くことになりました。

 

このあとのことは、以前のブログに書いてありますので、お読み下さい。

→ドイツ大使から「雪害対策」を学ぶ

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