【外務省】ミャンマーのアウンサンスーチー女史が軟禁されていたので、解放してあげました。
「ミャンマーのスーチー女史(アウンサンスーチー)との体験談」を大親友の「シルベスター・スタローン」に話すと、「映画 ランボー/最後の戦場(2008年)」で表現してくれて、ミャンマー政府が感謝の意味で「スーチー女史を解放」してくれました。さすが、シルベスター・スタローンは監督も役者もできるすごい男だと褒めてあげました!
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ことの始まりは、「ウイキペディア」を読んでもらうとわかりますが、「日本とミャンマー」は昔から深いつながりがあり、大東亜戦争では「日本軍として一緒に軍服を着て戦ってくれた国」だからこそ、日本の官僚たちに聞くとこう答えました。
「ミャンマー」に関わると、「昭和天皇」が日本を裏切って「戦争」を始めたことや、「大東亜戦争は日本からの攻撃したのではなくアジアの植民地開放の戦争だった証の国」なので、「当時の外務省官僚たち」と「歴代の外務省大臣」の国の裏切り」がバレるので、外務省官僚も国会議員たちも誰も口にしないので吉岡さんは手を出さないで下さい!
ミャンマー人権問題に対する日本の「二枚舌」外交
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戦後の日本政府はGHQと手を組んで、「大東亜戦争前の日本の大切な記録を全て焼き払った」し、「戦後の日本教育」を「アメリカ式教育」にするためにあらゆる洗脳情報を国民に流して国民を騙していたことがバレるからこそ、「ミャンマーの扱い」はとても難しい状態が続いていたので、「これは自分が動くしかない!」と決断しました。
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ミャンマーの「アウン・サン・スー・チー女史」は、日本が「大東亜戦争」に負けた1945年6月にミャンマーの首都ヤンゴンで生まれた女性で、当時はたくさん本にもなった「ビルマの戦い」の末期に、自国を守るために日本を裏切るしかなかった父アウンサンらの攻勢もあり、5月にラングーンから日本軍が駆逐され、日本の支援を受けていた「ビルマ国」も崩壊しました。
日本がビルマを植民地から開放して統治していた時代が終わり、「イギリスの支配」に戻ったばかりのころでした。
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こんな大事なことさえ自分で勉強していない「平和ボケした日本人」のためにNHKを脅して「事実を公開しろ!」と作らせた「ビルマの戦い インパール作戦」をまずお読み下さい。
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私とスーチー女史との出会い
私が「テレビのニュース」でスーチー女子を見たのは、1985年10月から国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日して大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。当時の受け入れを行ったのは、当時同センター長の石井米雄(前・神田外語大学学長)らとの語らいのニュースでした。
14歳も年上の女性ですが、日本軍が支援していたことへのお礼と同時に、「戦後の日本政府に対する批判」をテレビで口にしたのでとても気になった女性でした。
頭は良いし、言葉の表現がとても美しいし、日本が戦争に負けたあとの日本人は、「大東亜戦争は日本がアメリカを攻撃したから日本が悪いんだ」と間違った教育をされていることも口にしたので、本当に戦う覚悟がある女性だとお尊敬しました
同じテレビを母も見ていたので、母に聞いてみると、「スーチーさんのミャンマーは、日本に支援されてお世話になったはずなのに、女として男たちを潰すような発言をするから私は嫌いだ」と言った言葉が特に気になりました。
私の母はいつもNHKニュースで流れる言葉を表面的にしかとらえず、すぐに「自分の価値観の好き嫌い」を口にする人なので、「そんな簡単な問題ではない」と思ったので自分でも色々、調べました。
特に、「大日本帝国軍関係者への聞き取り調査」や、「外務省外交史料館」、「旧防衛庁戦史部」、「国会図書館」などでの資料調査を行ったと記録されていますが、私の父に聞いてみるとこう言いました。
今の日本政府が本当のことを伝えるわけはないし、大事な資料は全て戦後すぐに日本の官僚たちが燃やしたので、いくらスーチーさんが素晴らしい女性でも、本当のことを知ることはできないさ。
と言ったことが、さらに私に火をつけました。
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日本の官僚や国会議員たちは、「スーチー女子」に対して否定的な表現をしていたので、「こいつら本に書いてあることしか受け入れないバカ」だと思ったので、とても仲良しのインドのモディ首相に電話で聞いてみると、
「私の考えよりもインド国としては立場が難しいので公式でには言えないですが、非公式なら私は個人的に応援しますので、吉岡学さんをスーチー女史に会わせることはできます」
と言って下さり、「ミャンマーのスーチー女史」に電話を入れてくれました。
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1992年で「表向きは組合の仕事と官僚の仕事」は辞めましたが、ダイエーの売り場の仕事のあとすぐに、SV(スーパーバイザー)なり、翌年、北海道から千葉県へ転勤になり、すぐに「浜松町の本社勤務のバイヤー」になったので土日が休みを利用して「ミャンマー」へ行くことを決めました。
「当時の外務省官僚」はアジア担当の人間の担当国がよく変わるので、一番言うことを素直に聞く官僚から「ミャンマーに行く方法」を聞くと、「公式ではミャンマーとは関わらないことになっています」と言いやがったので、宮澤喜一首相がお友達だったので電話一本を入れてもらい、「非公式」で裏からミャンマーに入れてもらい、帰りの飛行機も官僚のジェット機がお迎えに来てくれました。
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1泊2日でしたが、私が行くことを宮沢首相も非公式でスーチー女子に電話してくれていたので、ミャンマーの外務省の人間がお迎えに来てくれて、スーチー女子の自宅に招いてくれました。
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「ご主人と会うことも禁止」されていたので、二人だけで徹底的に政治のあり方や国のあり方を議論し合いましたが、とても頭の回転が良い女性なので久しぶりに嘘やだましがない会話ができたのでとても満足しました。
お土産に買っていた「日本の美味しい甘いお菓子」に感動してくれたので紅茶にブランデーを入れて一緒に飲みましたが、脳を使いすぎたので眠たくなりそのまま寝てしまいました。
私は33歳、スーチー女史は47歳ですので、暖かい午後の日差しの中で二人ともウトウトと寝てしまいました。
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夕方、目が覚めて起きるとスーチー女史が自分でミャンマーの手料理を作ってくれたので、二人で夕食を食べてお酒を飲みながら、日本国の本当のルーツと、天皇家のルーツと、そして、「吉岡一門のルーツ」を話すと目を輝かせたので夜遅くまで質問攻めでした。
どんな質問にも答えられる私に対して、「初めて自分より頭が良い人に会えたので嬉しい」と抱き付かれるほど、仲良しになりました。
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翌朝、「今後のミャンマーと日本と世界の国の方向性」の話になりましたが、スーチー女史は「自分が強く意識を主張すると家族に迷惑がかかるし、自分を支援してくれている人たちにも迷惑になるので控えている」と言ったので、ある提案をしました。
「もし、あなたのことを題材にした映画を作ったら映画に出てくれますか?」
そんなことができるのですか?
はい、私の友人にアメリカのロッキーの映画に出ていたシルベスター・スタローンがいるので、今、電話してみます。
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ロッキー)あ!吉岡さん、了解だよ!
本当は君のことを映画にしたいくらいだけど、嫌だよね?
だったらその代わりに映画を作るので、その中でミャンマーの立場とスーチー女史に思いを表現するから楽しみしておいてね!じゃあ!また!
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こんな会話をスピーカーで聞いていたスーチー女史は、さらに詳しく聞いてきたので、世界のVIPたちとの付き合いのことや、いろんな国のVIPたちに「私の子供」がいることを話ししました。
「吉岡さんは、スーパースターだったのね」と言われましたが、「いえ、ただの無償で働くアルバイトのサラリーマンです」とだけ言っておきました。
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2008年5月4日に公開された「ランボー/最後の戦場」が、ミャンマーとスーチー女子の思いを表現した映画ですので、ぜひ、女性たちも見て下さい。
スーチ女子ととことん話して昼食を食べた午後に、当時、ミャンマーの首相だった「タン・シュエさんがお友達何です」と言って自宅に呼び出してくれて、3人でいろんな話をたくさんしました。
タン・シュエ首相からは、
「あなたが正式に表で官僚をしてくれていたら、もっと、日本とアメリカとの問題も解決できたと思いますし、ミャンマーと日本の関わりももっと良くなったでしょうね」
と言われましたが、私の仲良くなった人間をマーゴが殺したことや私自身が命を狙われ続けて何度も死に目にあったことを話すと、「やはり、本物ですね」とだけ言って笑って握手して空港まで送ってくれました。
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空港までの車の中で、▶️タン・シュエ首相はこう教えてくれました。
「私はスーチー女子とはお友達じゃなくて、政治的に意見が合わない同士なのに、私を呼んだ理由は吉岡さんをダシにして私の力を利用したいからだと思いますが、それでも私は3人で話したことがとても楽しかったし、本当にあなたのような真面目な日本人との付き合いをしたかったので何かあったら連絡下さい。」と言ったので、
もし、日本が戦争に巻き込まれる事態になった時は力を貸して下さいね。
その代わりに、「防衛省の特別統合幕僚長」としての権限をフルに使って、ミャンマー軍に必要な武器でも何でも送りますので欲しいものをリストアップして電話して下さい。
と固い握手をしたあと、たくさん無償で武器や弾薬や装備をお渡ししたので、必ず、日本を攻撃する国を一緒に叩き潰してくれると思います。
こんなことを体験したので、日本政府はミャンマーに対して冷たい態度を取り続けるので、「お友達のオバマ大統領」とスーチー女子を会わせたり、「安倍晋三首相」に事情を話して家族ぐるみでスーチー女史とお付き合いしてもらった時にスーチ女史が「活動費が足りない」と言うので、私が「特別客員教授」となっている京都大学からの支援と、安倍晋三総理からも支援してもらってスーチ女史を支えていました。
度重なる自宅軟禁
2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らの仲介のもと、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まり、2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後、NLDの党組織再建のために各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。
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2002年5月14日、アウンサンスーチーと「久米宏」が5分間の電話対談を行い、録音した音声がテレビ朝日系列の「ニュースステーション」で放送されたと、アウンサンスーチーのウイキペディアに出ていますが、これは私の企画で突撃電話を入れて、生で世界にスーチ女子の想いを配信してもらいました。
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しかし、日本の官僚たちは毎日、「ミャンマーの記事」に限らず日本政府に邪魔なものはどんどん勝手に消すので、「日本の真実の情報」を守るために、私が世界の言語学者たちを集めてボランティアで「ウイキペディア」を作らせたので、「絶対に、スーチー女史のウイキペディアを操作せるなと伝えてあります」ので興味がある人は事実を知ることができるようにはしてあります。
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2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者は、のちに首相となるソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、3度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。9月に手術入院したあとは自宅に移され、自宅軟禁状態となる。
2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのにともない、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマーを訪れたイブラヒム・ガンバリ国連事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。
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こんなことがミャンマーで続いていたので、1990年代に私の「社長会」に来られていた「三野輪賢二さん」にお願いして「ミャンマーとの繋がりを経済的に作って下さい」とお願いし、知り合いの官僚に「一般社団法人」を認めさせて、▶️「一般社団法人 建設技能人材機構(JAC)」を作ったので、JACのトラックをミャンマーに寄付してもらい、同時にいくつもの組織を国に認めさせました。
▶️JAC(一般社団法人建設技能人材機構)は、建設分野で特定技能を持つ外国人を受け入れるために、受入れ機関が直接加入する団体です。JACは、外国人共生講座「ミャンマーを知る!」を開催しており、2023年12月14日に第4回が開催されました。
【JAC主催・オンライン無料講座】外国人共生講座~第4回ミャンマーを知る …2023/11/15 — 【JAC主催・オンライン無料講座】外国人共生講座~第4回ミャンマーを知る~(12/14開催). 2023年11月15日. この度、(一社)建設技能人材機構(JAC)より、 …
ミャンマー人を特定技能外国人として受け入れる方法や費用について2024/03/04 — 建設分野で特定技能を持つ外国人を受け入れるには、受入れ機関は一般社団法人建設技能人材機構(JAC)に直接的に加入するか、またはJACの正会員である …
また、JACはミャンマーの最大都市ヤンゴンで全寮制の日本語学校を運営しています。この学校では、常駐する日本人職員と一緒に生活し、日本の生活様式を徹底的に教育しています。
ミャンマーの「スーシー女史」と「タン・シュエ首相 兼 国防防大臣」は、何があっても「日本を守る約束の書類にサイン」してくれたので、多くの武器と弾薬と戦闘機を差し上げて、「日本の味方」になってくれた為、日本を攻撃する国を徹底的に潰してくれます。
あとは、日本人が自分の力で生き残るだけです。