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WWF(世界野生生物保護基金)のトップであるオランダのベルンハルト殿下にお会いしました。

1996年からイギリスの息子(ヒュー・グローヴナー)が18歳になるまでの2014年まで「マーゴ」と世界中を飛び回った理由は、「世界最高の人身売買組織」のモデルたちを1日も早く「100億円」を稼がせて親元に戻してやりたかったからです。

 

マーゴは、「Facebook」を所有しているので、世界の武器・弾薬・装備・兵隊を売買をするビジネスを行っていますが、宣伝するために「Facebookのリール動画」を作り、短い動画で「売り込み商品の情報」を流し続けて顧客を刺激する「ビジネス」をしている日本人女性(91)です。

 

防衛省の特別統合幕僚長としては、「武器売買の実態調査」が加わり、リールで武器を扱っている人間は全てマーゴが拉致した「商品」を徹底的に訓練して、「世界を滅ぼすための人間殺人マシーン集団の軍隊を本気で作っていることを聞き出しました。

 

「マーゴはFacebookの筆頭株主」ですが、「Instagram」も「X(Twitter)」も世界中のSNSの「全ての筆頭株主」になったので、自分の好き勝手に顧客を刺激するために「Facebookの無料リンク機能」を使ってタダで情報を拡散できるようにしたので全てのリンクを使って「戦争ビジネスと武器売買」を世界中に拡散して「本気で戦争の準備」をしている日本女性です。

 

マーゴ)人間は刺激的な動画ばかり見ているとすぐに飽きるので、「WWF(世界野生生物基金)」という「組織」だけを作ったので、「あとは勝手に寄付でやりなさい」と言ったけど、トップのオランダのベルンハルト殿下の運営は大丈夫かしら?」

と言いながら、何度も「海洋生物の実態調査」にも連れて行ってくれたので、クジラやイルカやシャチの群れの中に入るチャンスがたくさんありました。

海に潜る体験は、39歳の時に「Amwayの3年連続売上2500万円達成」のご褒美で「グアム島無料ご招待ツアー」があったので、グアム島の小さな「ココス島」をAmwayが借り切ってくれて食事もお酒も飲み放題だったので、「無料体験スキューバダイビング」で5mまで潜った時に「呼吸方法」と波に流されないようにする「バランス感覚」も身につけたので海の中が大好きになりました。

海の中を調査する学者たちと一緒に太平洋や大西洋を一緒に潜りましたが、私の波動を感じた哺乳類たちは、自然と私の周りに集まってくるのでイルカやシャチの唇を触り「攻撃しないよ!」と心で思うと伝わるので親しくなり、いつも私が行くたびに「珍しい巨大哺乳類」が集まるようになったので、WWFの学者たちに頼まれて大西洋や太平洋にも一緒に行く機会も増えました。

私は幼稚園の3歳から犬や猫やニワトリなどの「小動物の世話」が私の仕事だったし、小学生になると「馬の世話」も私の仕事になったので、「大きな哺乳類」は顔を触られることを嫌うことは知っていますが、「信頼がおける相手にだけは顔を触らせる」ので、よく馬の顔に自分の顔をくっつけてスリスリしていたので、イルカもシャチも同じように接すると仲良くなりいろんな哺乳類の仲間たちが集まってくるので一緒に遊びながら「テレパシーで情報交換」するといろんな哺乳類の群れが集まりました。

「世界のWWFの学者の目的」は人によって違うので、「海の中の食物連鎖の記録」を取り続けている人もいるし、「イルカの生態と声を録音する専門家」や、「巨大クジラの鳴き声を録音する専門家」や、「シャチが集団で狩りをする動きを調査する専門家」もいたので普段は別々に活動していたのに私が同行するとわかると「全ての巨大哺乳類が一箇所に集まる」ので、WWFの活動資金が集まると電話をくれて飛行機で迎えにきてくれて太平洋の海の中の学術調査に何度も同行しました。

私は北海道中央部の「山育ち」ですのでもともと「海は苦手」でしたが、1990年代に「宇宙で作業するためのNASAの厳しい訓練」を受けた時に深さ100mのプールに入って息を止めて作業をする訓練もしたので、ジャックマイヨールと同じ瞑想状態にして気持ちさえ落ち着かせれば「酸素をあまり必要としない体」にできるので、普通の人の酸素ボンベより長い時間、潜っていられる様子をいろんな海洋学者たちが、Facebookのリール動画にアップしてくれていますのでご覧下さい。

餌を持って待っていると大きな「ハンマーシャーク」がやってきますが、「その時に上手に顔を触れれば襲われない」のでたくさんの「ハンマーシャーク」とお友達になりました。

ハンマーシャークのお母さんと仲良しになったので、家族がごっそりお礼にやってきた時の様子

太い海藻が体に巻き付いて取れなくなったので、全員にお願いして私がナイフで切って救助した様子

私のお友達のイルカたちがサーフボードの練習をしている私の周りを飛び交っている様子(ハワイ)

 

「WWF(世界野生生物基金)」の活動をボランティアでしている学者たちとも親しくなったので、ぜひ、WWFのトップをしていたオランダのベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルトにも会って欲しいと言われたのでお会いすることにしました。

オランダ語: Bernhard van Lippe-Biesterfeld, 1911年6月29日2004年12月1日)は、オランダのユリアナ女王の王配。リッペ=ビースターフェルト侯子。ビルダーバーグ会議提唱者で、ロッキード事件で失脚するまで初代議長。

 

WWFのトップをしていたオランダのベルンハルト・ファン・リッペ=ビーステルフェルトさんは、田中角栄首相がアメリカの官僚たちにはめられた「ロッキード事件」にも関わって失脚してお金がなかったので、「海部俊樹首相」にお願いして「WWFジャパン 取り組みの軌跡」というホームページでWWFの活動を支援してもらい、WWFジャパンの大来佐武郎会長」とも情報交換してもらうことで「日本国の予算」もつけたので、絶滅危惧種の「トキ」や「タンチョウツル」の保護がやりやすくなりました。

 

WWFジャパン 取り組みの軌跡

ベルンハルト殿下の来日から4年後、「WWFの一員にはなれなくても、日本国内でWWFの活動に協力できる組織を作ろう」と、当時東京動物園協会の理事長であった古賀忠道氏を中心とする十数名の人々が、WWFJC(野生生物保護基金日本委員会)を設立。

世界の野生動物保護活動に必要な資金を募る、募金活動を展開し、集まった支援金をWWFインターナショナルに送付したのです。

一方で、WWFも日本の自然保護に関心を向け、WWFアメリカやイギリスは、絶滅寸前の状態だった日本のトキの保護のため、2年わたり合計300万円近い支援を行ないました。

日本では折しも、1960年代以降、熊本県水俣市の水俣病やイタイイタイ病に代表される公害の実態が次々と明らかにされ、国内でも環境問題が大きな社会問題となっていました。

そして政府は環境庁(現在の環境省)の発足を決断。世論もこの方針を強く支持したのです。(写真:設立当初の事務局)

始まった取り組み

この環境庁の設置について、WWFジャパンの前身であったWWFJCをはじめとする国内の自然保護団体は、自然保護と環境保全に対する有効な行政を求める「環境庁設置のあり方についての声明」を発表しました。

当時生き残っていた野生のトキはわずかに11羽。ニホンカワウソも、すでにその姿はほとんど見られなくなるなど、日本でも自然環境の悪化と野生生物の絶滅の危機は、年々深刻になりつつあったためです。

そうした中、1971年7月に環境庁が発足。ここに日本の「環境行政」がスタートしました。そして同年、WWFJCは総会で、WWFジャパンとして新しく出発することを決議し、役員の選任を行ないました。

1971年9月22日、環境庁に遅れること2カ月で、WWFジャパン(当時は世界野生生物基金日本委員会)は正式に発足したのです。

当時の会員数は約1,500人。規模としては小さな団体でしたが、それでも、当時の日本で絶滅の危機に瀕していた野生生物の保護活動への支援を中心に、新しい活動の一歩を踏み出すことになりました。

(写真:WWFジャパン初代会長の古賀忠道氏(1903~1986年)と設立当初、サポーターの皆さまに活動をお伝えしていた会報誌。 会報誌の歴史も50年にわたり続いています。 )

立当初、WWFジャパンが力を入れた取り組みは、大きく2つありました。

一つは、WWFインターナショナルへの寄付金の送付などを通じた、世界の絶滅危機種の保全活動の支援。

もう一つは、トキやコウノトリ、ニホンカワウソ、タンチョウ、アマミノクロウサギ、ゼニガタアザラシなど、当時日本で絶滅が心配されていた、国内の野生動物の保全です。

設立初期の活動の一つとして、1965年に発見されたばかりの、イリオモテヤマネコの保護・調査支援も実施。1973年からIUCNの一員として行なった調査では、大まかな生態と生息個体数(58~77頭)を推定し、1977年、「イリオモテヤマネコの保護施策推進についての要望書」を、環境庁、文化庁、沖縄県庁に提出しました。

(写真:タンチョウとアマミノクロウサギ。WWFジャパンの設立時から、日本を代表する絶滅危機種でした。)

© WWF Japan

1990年代「持続可能な社会」を目指す取り組み

1991年、設立から30年を迎えたWWFインターナショナルは、IUCN(国際自然保護連合)、UNEP(国連環境計画)とともに「新・世界環境保全戦略かけがえのない地球を大切に:Caring for the earth : a strategy for sustainable living」を発表しました。

この戦略で示した、持続可能な社会を実現するための、9の原則と、132の行動規範は、現在の「SDGs(持続可能な開発目標)」の考え方や指針を、ほぼ内包するもので、この後、世界の環境保全の基本的な概念として、さまざまな取り組みをリードすることになります。

(写真:「新・世界環境保全戦略」と1992年のブラジルでの「地球サミット」への参加)

WWFジャパンが、日本でこの「持続可能」な社会を実現する活動を開始したのも、1990年代のことでした。その大きな例が、「FSC認証」や「MSC認証」といった、持続可能な木材や紙、水産物の国際認証を日本に導入する活動です。これは、日本が大量に輸入し、消費しているこれらの産品を、環境に配慮して生産されたものに切り替えることで、原産国の森や海を保全する取り組みでした。

(写真:FSC認証マーク)

FSC認証マークと認証林

 

また当時、WWFジャパンが力を入れていた、ウェットランド(湿地環境)の保全活動でも、湿地の「ワイズユース(賢明な利用)」が国際的な主流の考え方となりました。こうした中、WWFジャパンは、1991年の「日本湿地ネットワーク」の設立支援や、1993年の釧路での第5回ラムサール条約会議の開催に合わせたウェットランド保全キャンペーンを全国で実施したほか、藤前干潟、諫早湾干潟など開発の危機にあった干潟の保全に尽力。国際的なつながりのもと、国内外の貴重な自然と野生生物を守る取り組みを展開しました。

(写真:干拓事業によって失われた九州有明海の諫早湾干潟)

 

21世紀に向けて

1990年代以降になると、学校やニュースなどでも、地球環境問題が取り上げられ、問題意識が高まると共に、さまざまな活動が行なわれるようになりました。しかしその一方で、世界のグローバル化に伴い、環境問題はより複雑になり、他のさまざまな社会的な問題とも絡みあって、解決の難しい問題となってきました。(写真:海部俊樹首相に面会し、持続可能な社会の重要性を訴える WWFインターナショナルのクロード・マータン事務局長と WWFジャパンの大来佐武郎会長(いずれも当時))

海部俊樹首相に面会し、持続可能な社会の重要性を訴えるWWFインターナショナルのクロード・マータン事務局長とWWFジャパンの大来佐武郎会長(いずれも当時)
© WWF Japan

その代表例が気候変動、すなわち「地球温暖化」です。石油や石炭の消費によって生じる温室効果が、地球規模で環境を変えてしまうこの問題は、直接自然を破壊する開発などとは異なる、目には見えない環境問題。解決にもエネルギー政策の改善という、自然や野生生物とは一見関係のない取り組みが求められます。1990年代の後半からは、こうしたより複雑かつ規模の大きくなった環境問題が、WWFの取り組む主なテーマとなってきました。

(写真:1997年の国連気候変動会議「京都会議」)

1997年の国連気候変動会議「京都会議」
© WWF Japan

そして、その規模の深刻さを伝えるため、WWFは1998年に初めて、『生きている地球レポート(LivingPlanetReport)』を初めて発表しました。その後、2年ごとに発表されることになるこの報告書は、次の2つの点を主に指摘するものでした。

1)地球全体の生物多様性が1970年代以降、どれくらい劣化しているか

2)人の消費による圧力が、どれくらい地球環境に影響に負荷を及ぼしているか

そして、最初の報告書が出された当初から、地球環境は生物多様性の豊かさを30%以上失い、人の消費は地球が1年間に生産し吸収するさまざまな恩恵を超える規模で、拡大していることが指摘されていました。

(写真:WWFのLiving Planet Report(2000年版)
生物多様性の劣化を示す「生きている地球指数(LPI)」と 人による環境負荷を示す「エコロジカル・フットプリント」)

WWFのLiving Planet Report(2000年版)生物多様性の劣化を示す「生きている地球指数(LPI)」と人による環境負荷を示す「エコロジカル・フットプリント」
© WWF Japan

2000年代 多様化、重層化する環境問題への挑戦

WWFが『生きている地球レポート』で示した、過剰な消費行動を変え、持続可能生産と消費を実現していかなければ、環境の悪化の傾向は変えられない―
2000年以降、WWFジャパンもこの認識を基に、従来よりも幅と対象を広げた活動を展開しました。FSCやMSCなどの持続可能な認証については、国内だけでなく、極東ロシアやインドネシア、中国など、日本が木材や水産物を輸入している生産国でも、認証の取得や適切な林業、漁業の管理推進に取り組みました。同時に、渡り鳥やオランウータン、シベリアトラなど、現地の野生生物や、その生息環境の保全も促進。海外のWWFとも深く連携した、規模の大きなプロジェクトがいくつも実現するようになりました。

(写真:トラの生きるスマトラ島の熱帯林保全に、 協力して取り組むWWFインドネシアとWWFジャパンのスタッフたち)

トラの生きるスマトラ島の熱帯林保全に、協力して取り組むWWFインドネシアとWWFジャパンのスタッフたち
© WWF-Indonesia / Tiger Research Team
トラの生きるスマトラ島の熱帯林保全に、協力して取り組むWWFインドネシアとWWFジャパンのスタッフたち
© WWF Japan

また、地球温暖化についても、その脅威の証言を世界各地から集めた「温暖化の目撃者」プロジェクトを展開。一方で、太陽光や風力といった再生可能な自然エネルギーによるエネルギー社会の実現を、より強く日本政府や産業界に働きかけるようになりました。1980年代から取り組んできた、沖縄を中心とする南西諸島の自然保護活動も、2000年以降、大きく転換してきました。

従来のサンゴ礁や生物の調査などに加え、地域の人々が主体となった保全活動を全面的に支援。WWFのプロジェクトが完了しても、地域で保全が継続されるよう、科学的な面だけでなく、文化や伝統にも注目した、持続可能性を追求する試みが行なわれたのです。

2000年4月に、多くの方々のご支援のもと、沖縄県石垣島の白保に開設された、WWFサンゴ礁保護研究センター「しらほサンゴ村」は、そうした新しい活動の拠点となりました。

(写真:温暖化とエネルギーをテーマに実施した2つのイベント「地球温暖化の目撃者」「Green Power week」と石垣島白保のサンゴ礁)

© WWF Japan
Green Power week
© WWF Japan
石垣島白保のサンゴ礁と「しらほサンゴ村」
© WWF Japan

2010年代 愛知目標と変化する環境問題

21世紀に入ってから10年が経つと、環境問題への認識や関心はさらに高まり、捉え方や取り組みも、さらに変化していきました。各国の利害が衝突するさまざまな国際条約の会議では、一進一退を繰り返しながらも、毎年のように新たな決議がなされ、それが各国政府の政策に徐々に反映されてゆきます。

2010年には、「WWFジャパン」からも多くのスタッフが参加した、名古屋での「生物多様性条約」第10回締約国会議で、「愛知目標」が採択されました。これは世界の国々が交わした、生物多様性保全の目標を定めた約束です。

(写真:2010年に愛知県名古屋市で開催された生物多様性条約の第10回締約国会議(CBD-COP10))

トラの生きるスマトラ島の熱帯林保全に、協力して取り組むWWFインドネシアとWWFジャパンのスタッフたち
© WWF Japan

さらに企業の中でも、環境保全活動は社会貢献のような慈善活動ではなく、自らのビジネスに必要な要素、投資の対象と見るところが増えてきはじめました。しかし、『生きている地球レポート』が示す、生物多様性の豊かさの劣化は、その後も改善されることなく、下降線をたどり続け、絶滅の危機にある世界の野生生物も、2010年にはついに1万8,000種を突破。

「新・世界環境保全戦略かけがえのない地球を大切に」を発表し、WWFが「持続可能な社会」の実現を訴え始めてから20年。このままでは、未来の世代に大きな負荷と困難を強いることになります。

(写真:年に1度、世界中の人と共に地球の自然と環境の未来を考える、WWFの国際環境イベント「アースアワー」。2007年に始まったこの取り組みは、日本でも毎年開催されるようになりました。)

 

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マーゴに言われてプロレースに参戦し命を賭けて戦ったスポーツ

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「マーゴ」は私をピストルで殺そうとしても死なないので、大事な情報を教える代わりに「命懸けのレースに出て勝って!そうじゃないと何も教えないよ!」と言われたので、全てやり切って勝つしかないので、死ぬ気で戦って全てに勝ったのでとても悔しがっていましたが、必ず、口にした約束は守る女なので「日本を守るためだ!」と思って言われるままに全てのスポーツに本気で突っ込み勝ちました。

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「自動車の運転」は、中学1年生の時に稲刈りあとの田んぼの中でトラックを運転しろ!と父が言うので大好きになり、自分の車を持ってからは一人で夜中にカーブに突っ込んで「高速でカーブに入り車体を斜めにせずに安全にカーブを曲がる訓練」をしていたので、ドバイで行った「王族だけのF1車持ち込みレース」で優勝すると「日本人の鈴木亜久里選手」にプロだと間違われて「絶対にプロになったほうがいいよ!俺が推薦するから!」とも言われましたがそんな暇もお金もありませんでした。

 

「オートバイ」は、「母が絶対にお前はスピードを出しすぎて死ぬか他人に迷惑をかけるからバイクの免許は取らせない」と言われましたが、小学4年生の時から親父の50ccバイクをこっそり乗り回していたし、中学1年生になると同級生たちが親父のバイクを持ち寄って山に集まり、「モトクロスバイク」でも遊んだので、「モトクロスバイク」や「スーパーバイクレース」にも急に出て優勝すると世界のプロドライバーたちから「日本の吉岡学はクレージー」と呼ばれました。

※画像をクリックするとFacebookリールの動画が見れます。

時速287kmまで出した時の録画、もっと出せたのに!!

 

 

マーゴチームは、「モンスターエナジードリンク」のマークが車体についています。「モンスタースーパーバイクレース」の主催者はマーゴです。私が運転したバイクは最高速度360kmの「MotoGPクラス(1000㏄)」です。

バイクレースに出るための1回だけプロドライバーの ruchemoodley21に指導を受けた時の様子

吉岡学の練習走行の様子

また味方のはずの男が「体当たり」してきたので、身を低くして避けて吹き飛ばしてやったシーン

突然、前に切り込んできたので「前ブレーキ」を思いっきりかけて後ろの車輪を浮かして重心で車体を浮かした瞬間

最後のトップ争いのまともなレース

私の前で急にブレーキをかけて倒そうとしたけど、ギリギリに避けてセーフで優勝したシーン

一番最初は93番で最下位スタートで優勝しました。

 

優勝したオレンジヘルメットの48番は私です

次のレースは12番で優勝しました。

優勝した黒スーツの6番は私です

「エースNo.1」をつけられるのはシーズントータルでポイントが最高得点の人間だけににつけられる番号でシーズンタイトルを取りました!

マーゴは、私が負ける方に賭け続けたので全て勝ってやりましたが、最後に、私が勝つ方に全財産を賭けたので負けてやったので一文無しにしてやりました。結果的に、シーズンタイトルを取ったので「MotoGPクラス(1000㏄)」の年間グランプリを獲得しました。

プロライダーたちは私のレースシーンを録画していたので、Facebookリールにアップして記録を残してくれました。世界の全てのプロチームからお誘いがありましたが、「素人で無免許」だと言うと「クレージー吉岡!」と叫んでくれました!

マーゴに、バイクレースはスピードだけじゃなくて「芸術得点で勝負よ!」

と言われたのに、また、勝ってしまいました。

それ以外にもたくさんの危険な競技スポーツに出場しましたが、全て勝ってしまったので、「海は苦手なんだ」と言うとハワイに連れて行かれて、一度もやったことがない「サーフボード」に乗せられて最大の「パイプライン」を乗りこなすまで海に「サーフボード」押しながらも、三度目に綺麗にパイプラインの波に乗れました。

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俺は、子供の頃から打楽器が好きで太鼓は最も好きだと言うと、「じゃあ、次は音楽で勝負よ!!」と「青いマスク」を被せられて何かの「お笑いショー」に3人で出されて「打楽器と踊り」のパフォーマンスで勝たないと「2人を殺すわよ!」と言うので、軽く打ち合わせをしてパフォーマンスを見せて大受けしてマーゴから世界戦略の「新しい情報」を聞き聞き出した30代40代でした。

全ての戦いは「日本を守るため」にやったことですが、「日本の極秘防衛情報が記憶」にあるので、最後は、自分で「記憶を消す薬」を飲んで異次元パラレルワールドに「記憶」を送って、普通にスピリチュアルな世界に身を置いて過ごした20年間でした。

 

「マーゴ」は、「最後は、私が得意な経済ビジネスで勝負よ!!」と言ったので、日本で私にできることは全てやりましたが、あとは「自分で命を守る対策」をして下さい。

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