【イギリス】総資産2兆円越えのイギリス第7代ウェストミンスター公爵ヒュー・リチャード・ルイ・グローヴナーは私の息子です
1996年の1月9日(火)に「マライヤ・キャリー(当時27歳)」から電話が来て、「もうすぐ羽田空港に迎えに行くのでスーツと着替えを持って待ってて下さい!」と言われたので、急いで用意をして千葉県のユーカリヶ丘駅から羽田空港まで車で飛ばして待っていました。
1996年当時の私は、浜松町にある軍艦ビルと呼ばれた「ダイエーの本社」でバイヤーをしていたので、正月休みだけは5日間、自分の好きに取っていいと言われたので良いタイミングでした。
マライヤ・キャリーは、外務省官僚の仕事で「1990年にゲスト」で日本に呼んでから時々会っていましたが、CDの売り上げが伸びなくなっていたので「マライヤ・キャリーの歌い方とイメージを「大人のイメージ」にを変えるアドバイスをしたので違う客層が増えてヒットしている最中でしたし、昔の官僚に頼んで無理やり会場を確保した「東京ドーム公演」も決まっていた時期でした。
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飛行機に乗ると「ビヨンセ(当時15歳)」も乗っていたので久しぶりの3人の再会に話しが盛り上がり、NYまでの時間もあっという間でした。「ニューアーク・リバティー国際空港」に着くとJAZZのメッカの「BLUENOTE」に連れて行かれて、1月9日から2泊3日でマライヤ・キャリー主催の「吉岡学にお礼したい人のVIPパーティ」が開催されて世界のVIPたちが500人ほど集っていました。
会場に来ていた全てのVIPたちは、私が「ビヨンセにダンスを教えた」ことや「マライヤ・キャリー」に歌い方のアドバイスしたことを聞いていたようで、歌手やモデルたちにダンスと歌い方と洋服のデザインとモデルウオークなどのいろんなアドバイスをしながら目一杯、踊って飲んで24時間くらいは経ったと思います。
夜中でもVIPたちは元気に騒いでいたので私は少し横になって寝ていた時に、「マーゴ」が突然、会場に現れたのでVIPの全員が凍りつきました。
「マーゴ」は、「こんにちは、吉岡学さんですか?」と挨拶して近づいてきた途端、「小さい拳銃」で私を撃ちましたが死なないので、今度は男の大きな拳銃でまた撃ちましたがそれでも死なないので、「不死身だと言う噂は本当だったのね?」と言いました。
「もう良いでしょ、おばあちゃん」と言うと、日本語で「おばあちゃんじゃないわよ!孫はいるけど女だから「正式な孫」じゃないの!」と怒りだしました。
マーゴも日本語がわかるのでいろんな話をしましたが、年齢は私の母と1日違いの昭和8年1月31日生まれ(1933年)だったので、どうしてもむげにはできないし、「お年寄りは大事にしないと」と質問されたことはすべて答えてあげました。
マーゴは最後に、「これから行かなきゃ行けない場所があるので吉岡学さんも一緒に来て!」と腕を引っ張るので、「仕方なくついていくか?」と思って立ち上がると、NYの午前11時頃だったので、イギリスに着くまでには時間がかかるし、腹が減ったのでモスバーガーのライスバーガーとエッグバーガーを買ってもらい大きなロングリムジンに乗って「ニューアーク・リバティー国際空港」から「F15ファントム改造戦闘機3人乗り」で「日本のブルーインパルスの退職者」の操縦だったので一眠りしている間にイギリスに着きました。
下着やワイシャツの替えもなかったので途中で買ってくれて、「正式な貴族の燕尾服」を着せられて、「ベルサイユ宮殿」へ向かい行ました。イギリス時間で「1996年1月11日の午後5時半」くらいに着いたので、「イギリスのベルサイユ宮殿の鏡のホールで晩餐会」には「少し早めの晩餐会」が準備されていました。
イギリスのパーティで着る正式な燕尾服は、吉岡一門の総本家の婆ちゃんが「12歳の時の頭領就任式」のお祝いに私の為に作ってくれたので着たことはありますので、その洋服に似た模様の燕尾服を選びました。
パーティ会場の「ベルサイユ宮殿の鏡の間」に行ってみると、正面右側に、イギリス女王陛下の家族と首相家族全員とイギリス貴族の家族がずらっと一列で並んでいました。
私の「正面左側」には「フランス国王家族と貴族」がいたので、「ねえ、マーゴ、正式な座る位置は、私の正面左の「上座」にイギリス女王陛下が座ると思うんだけど、なんで反対なの?」と聞くと、マーゴは拳銃を上に撃ちまくって怒り、「今すぐ、座る位置を反対にしなさい!」と怒鳴り、あっという間にイギリスとフランスの座る位置が逆になりました。
「全員が揃ったので、吉岡学さんが正式な挨拶をして下さい。そうじゃないと、パーティが始まらないのでお願いします。」
とマーゴに言われたので椅子を引いて立ち上がり、ワインを入れたグラスを高く上げて、「サー!」と大声で言うと正式に夕食会が始まりました。
「イギリス式の食事」と「フランス式の食事」が出ましたがほとんど食べられない味付けだし、全てに肉が入っていので「日本食の食事」をお願いしてお茶漬けを食べながらいろんな話をしましたが、「イギリスとフランスの両国の貴族のトップである最高の「公爵」の爵位を吉岡学さんに与えるわ!」と急にマーゴに言われ、特別な「弁護士の衣装」を着せられて別室に移り、「イギリスとフランスの公爵として認める裁判」を両国の弁護士たちの前で行い、頭の上に裁判官よりも長い白い純毛のカツラを被せられて「正式にイギリス式の法廷」で認められました。
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主文を読み上げたあと、「全員意義なし」と全員が立ち上がり裁判が終わったあと、「正式にイギリスとフランスの両国の特別公爵」に認められたので、チャールズ皇太子と同じようなオーダー衣装を着せられて写真を撮られて、
「今日の記念にイギリス国王以上の資格を与えた日本人として写した写真を世界中の国王に送るわ。それと私が持っているイギリスとフランスの植民地のドバイの油田や、世界中のお城や島もたくさんあげるわ。」と言いましたが、「体はひとつしかないし日本が好きなので入りません」と言うと、マーゴは勝手にドバイの油田とイラクの油田と・・・と紙に書いて弁護士に渡していました。
そんな儀式をしたあと、「一生のお願い」を聞いてあげたので、定期的に「マーゴ」は世界中に遊びに連れて行ってくれていろんな経験をしましたが、その理由は、
マーゴの家系には「男の子」が生まれなかったので、自分の父親の「アメリカ モルガン家の財産」も、嫁ぎ先の「イギリスのイングランド銀行の財産」も、「3代男の子がいない家系は全ての財産が国に没収されるルール」があるので、
「男の子がどうしても必要なので吉岡学さんのタネを娘に入れて下さい。娘はもうすぐ離婚するのでお願いします」
と言われたので、娘にトイレでタネを入れた翌年、第7代ウェストミンスター公爵ヒュー・リチャード・ルイ・グローヴナー( 1991年1月29日生まれ)が生まれました。
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息子のヒュー・リチャード・ルイ・グローヴナーが18歳になるまでは正式に財産の譲渡が認められないようなので、2009年の12月までは、私を世界中へ遊びに連れ回してくれましたが、最後に電話がきて、
「ねえ、吉岡学さん、今まで本当にありがとうございます。
でも最後だから言っておくけど、あなたにあげると言った油田やお城のすべての資産をあなたにあげると言ったのは、全部嘘なの!!
だって、人生って騙すか騙されるかしかないので、騙されたあなたが悪いのよ!!
じゃあね、吉岡学さん!」と言われたので、まあそんなものだと思って諦めました。
“英国一結婚したい男 資産2兆円”と言われた、第7代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーは結婚しました。おめでとう!!
ヒュー・グローヴナーってどんな人?
第7代ウェストミンスター公爵ヒュー・グローヴナーは、1991年1月29日、ロンドン生まれの現在33歳。第6代ウェストミンスター公爵ジェラルド・グローヴナーと、ロシア系イギリス人ナタリア・フィリップスの間の4人姉弟の第3子・長男として誕生。
幼少期からヒューの父は、裕福な家庭に生まれた息子に対し、“自己節制”を教え、厳しく接してきたそう。一般的な教育を受けさせるため小学校は公立に通わせ、その後は私立校に進み、2013年ニューキャッスル大学を卒業しました。
この写真は、生まれて数日後のヒューが両親と共に。
父の突然の死で、突如大富豪に
2016年 8月、父ジェラルド・グローヴナーが突然の心臓発作により64歳で逝去したことで、その莫大な遺産のほぼ全部を25歳という若さのヒューが相続することに。ヒューには姉2人と妹がいるものの、イギリスは長子相続制度であることから、父親の遺産は長男であるヒューが受け継ぐことになったのです。
ヒューの父は亡くなる前、世界で68番目、英国で3番目という大富豪でした。
なんと2兆円越え! 驚愕の総資産をもつ超リッチ
ヒューの総資産はなんと、101億2,700万ポンド(2兆200億円超え)! 2024年5月に発表された、サンデー・タイムズ紙による2024年版“年間富豪リスト”によると、40歳未満では英国NO.1、全世代では英国で14位というお金持ちなんだそう。
グローヴナー家は代々、広大な土地を所有し続けており、ヒューの父は、世界の不動産王ランキングで10位以内にランクインしていたことも。そして先代から受け継がれてきた不動産グループ(グローヴナー・グループ)で、高級住宅地の開発や海外不動産投資などをして、莫大な財産を築いてきたのです。
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「男子のタネの3代ルール」は、天皇家を支える皇族(宮家)も同じで、「3代男子が生まれないとお家断絶・財産没収」です。
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ジョン・モルガンに拉致されたマーゴのお母さんの思い出話
マーゴおばちゃんのお母さんは、北海道の釧路市の漁師の娘でお金がたくさんあったので「アメリカに高校の卒業旅行」に行った時に拉致された女性ですが、拉致して妊娠させた自分のお父さんの「ジョン・モルガン」に対する恨みや憎しみを目一杯聞いてあげたあと、私にこう教えてくれました。
「ジョン・モルガン一族」は世界で禁止されていた「枯葉剤」と、砂漠化する「細菌兵器」を何度も戦争で使った男だし、先祖代々「戦争ゲーム(War Game)を仕掛けた一族だったので、「自分はそのあとを引き継いだだけ」だとマーゴおばちゃんは教えてくれました。
「そうでなければ、そんなに世界に戦争が長く続くわけなんてないでしょ!」と言われて、とても納得しました。
つまり、日清戦争も、日露戦争も、第一次大戦も、大東亜戦争も、モルガン一族が仕掛けた「war(戦争)ゲーム」だとこの時、初めて知りました。
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1989年から「外務省」の仕事で世界中の国王や首相たちに会ってわかりましたが、誰も戦争をしたい国なんて無いのに、戦争ゲーム(Wargame)に乗る国があるせいで、自衛の為に武器を揃える必要があるし、「中国だけは他人のものを奪うことを当然だ」と思っているし、「韓国人」は日本とアメリカと中国と手を組んでいるように見せて、必ず、「裏切る国」ですので、「国内のお金がない中国」は必ず戦争を仕掛けてくることは確実だと思っていました。
泣きながら一人で抱えていたいろんな思いを語ってくれたマーゴに、「吉岡学さんは子供の頃はどういう子供だったの?」の聞かれたので、初めて他人に自分の体験談を話しました。
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吉岡学の体験談
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私は生まれてすぐに言葉を話したそうで、人の言うことの嘘と本当がわかる子供だったので、「どうして嘘をつくの?」と近所のおばさんたちに言うので、母は私を産んだことをとても辛かったと言ってました。
頭が良すぎて大人が言うことを言い返してしまうので、どこにいても「のけ者扱い」で一人ぼっちだし、両親は赤ちゃんの頃から毎日、私を殺そうとするし、最後は兄も手伝って3人で殺そうとされましたが、どんなことをされても「死なない体」なので諦めたようです。
「お前は賢すぎるから小学校には行かなくていい」と母親に言われて小学校は行かせてもらえなかったので、納屋にあった古い従兄弟の教科書を見て一人で勉強しました。
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セックスは10歳の時に、産休の臨時教員でやってきた「みどり先生」に犯されたのが、初めての性体験でした。
赤ちゃんの頃からたくさん親戚や親兄弟にもいじめられたので、「人間」に生まれた事を心の底から恨んで生きていたので、誰一人、信用できる人間なんて誰一人もいませんでした。
私が中学2年生の時に4つ上の兄は札幌の会社に就職したし、父親は冬の間ずっと出稼ぎで家にいないので、毎日、「母とバトル」する生活だったので真剣に「自殺」を考えて家に火をつけようとした時に母親に見つかって消されましたが、そこからの「反抗期」は高校生活が終わる時までずっと続き、ほとんど母とは会話せずに、紙に文字を書いてやりとりしていた日々でした。
高校2年生になると、クラスの奴らが勝手に「学級委員長」にしたので、クラスだけでなく学校全体の生徒の問題を先生たちと喧嘩しながら「学校のルール」を変更をさせましたが、誰も私の本当の気持ちをわかってくれる人などいませんでしたので孤独でした。
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1日も早く実家を出たかったので岡山県の大学に行かせてもらいましたが、家賃を含めて5万円の仕送りなので、自分が使えるお金は1万円ちょっとしなかったので、自分で食事を毎日、作ってギリギリ生きていました。
大学時代は周りの同級生と遊びたかったので、アルバイトを16種類くらいのしたおかげで、「大人の社会の裏表」もわかりましたので、学生時代のアルバイトは「良い社会勉強の時間」だと思いますので推奨しています。
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私の父は日本中の武士の「吉岡一門の頭領」だったのに、実家を出て「小作農家」になったおかげで、親に借金があるしとても貧乏だったので、子供の頃から「自分が遊びたいお金は自分で稼ぎなさい」と母に言われて育ったし、私の中学1年生の時に初めてやったアルバイトは年末の冬休みに「住み込みの葬儀屋」でしたので、仕事に好き嫌いを言う人間の甘えは理解できません。
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岡山理科大学の数学科に入ると、隣の「情報処理課」の先生と喧嘩になり、日本最高のストアコンピューター(ストコン)を修理する機会があったので、その時に「防衛省の陸将補」をいう資格を統合幕僚議長にもらって防衛省本部のコンピューターを何度も直しましたが、「父は北朝の公務員が大嫌い」だし、母は仕送り以外のお金をもらっていることがバレると仕送りを止めるので、給与は一切、貰わないことに決めて普通の大学生をしながら「国の仕事」を無償で手伝っていました。
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大学2年生の時に、女に裏切られたショックで留年したので、仕送りを止められてからニチイ系の「ビブレ」のオーディオショップで1年間、社員と同じ時間帯で働き、社員以上の給料を稼ぎましたが、世界最高級のオーディオでいろんなジャンルの音楽を聴いて「最高の音で聴覚が磨かれた」のでアルバイト代は全てオーディオに消えてしまいました。
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ダイエーというスーパーのサラリーマンになった理由は、当時は全産業の中でも最高の「成長産業」だったので給料も高いし、休みも「週休2日制」だったから決めましたが、「入社した1977年に会社の借金を1億円以上」減らしたし、辞めるまでには2億6000万円くらいの借金を消したのに、ケチな中内功社長は最後まで一般社員と同じ給料しかくれなかったので頭に来て37歳で会社はやめました。
国の仕事も頼まれたので手伝いましたが、いろんな省庁の仕事を無償でしていると、日本のすべての政治家にも全員に会いましたが、「会う人すべてがお金のために生きている」と気づいたので、「人間という種族の新しい設定が必要だ」とずっと思っていました。
世界中のすべての人間の望むことが実現する前に、必ず、「食糧危機」になりますし、食糧を作れる土地を奪いあう「第三次世界戦争」は必ず起きると思っていろいろ対策はしましたが、「人間を作った存在」が今の地球の人間を見ているのであれば、「人間に対して審判を下す時が来る」と私は思っていますので、どうぞ、自分で自分の生き方を変えて次の時代を生き抜いて下さいと、マーゴに伝えました。
マーゴ)初めて意見があったわね、やっぱり、今の人間は死んだほうがいいのよ!
だから私はせっせとお金を溜め込んで、世界のどこにも所属しない「最強の軍隊」も作ったし、武器も弾薬も核爆弾もたくさん作ったので、いつでも戦争は始められるのよ!!
あとは、キッカケよね!
みんながどこか違う方向を見てボヤッとしている時に「戦争」を仕掛けたら、きっと、誰も対抗できないので勝てると思うので、やっぱり「オリンピック」よね?
ねえ、いつがいい?いつのオリンピックに戦争を始めたら勝てるか未来を見て教えてちょうだい?
私は何も答えませんでしたので、「次に会う時にまでに決めてね!」と言ったので、最後に会った時に詳しい情報交換をした結果、マーゴは「自分の寿命」を決めていたのでオリンピックの年も決まりました。
それが、2024年7月26日から8月11日にまで開催される「パリオリンピック」です。
戦争、大地震、津波、食糧危機が一気に日本を襲いますので、平和ボケした人たちは自分の力で生き残って下さい。