【先住民】「北海道のアイヌ」は世界中の先住民に生きる知恵と物資を運んだ「母なる神の民族」です!
日本の先住民である「北海道アイヌ」は、世界で最初に「先祖崇拝」と「自然神崇拝」に気づき、全ての存在に「カムイ(神)」という名前をつけた民族です。
生活の中で最も必要な「食べ物に対する感謝の心」と「自然循環を壊さない生き方」を世界中に広げた民族だからこそ、「北海道アイヌ」は世界中の先住民たちから尊敬されている民族なのです。
最大の問題は、「この事実を日本人が知らされていないこと」です。
さらに、日本を動かしている「各省庁の北朝の長官や官僚たち」が「先住民と吉岡一門の頭領の繋がり」を今も消たいので、常に「吉岡学」を監視し、殺そうとし続けています。
なぜ、「日本国の国家公務員」がそんなことをするのかというと、「武士の吉岡一門の頭領」の先祖ルーツは「北海道の先住民アイヌ」であり、その「北海道アイヌ」が南下し戦いをせずに「食べ物に対する感謝の心」と「自然循環を壊さない生き方」を日本中の「先住民」たちに教え広めた結果、「熊本県の薩摩隼人」となり、その「熊本県の薩摩隼人」と「宮崎県の卑弥呼」が交わった子供が「神武天皇」だからこそ、今も天皇家に「男種」を入れ続けている「吉岡一門の最後の頭領の吉岡学の命」を奪って、この事実を消したい人間がたくさんいるからです。
「吉岡一門の頭領」を決める方法は「日本刀の果し合いの勝者」だけでなく、実は「父親の血の伝承」でもなく、過去全ての吉岡一門の頭領の「ご先祖たちの承認」を得られることと、空から地球全体を見守っている「鷹」に選ばれないと「頭領」にはなれません。
私が12歳の「頭領交代儀式」でも、「頭領だけの大きな床間」に父の吉岡忠が挨拶し、次に私が挨拶して最初の承認を得る「自然界の花1輪が動く様子」を父が確認したので、外へ出て、「木の棒」を持って立っていると、空から大きな鷹や子供の鷹が降りてきて、私が掴んでいる木の棒の先端に1羽の鷹が止まって動かなかったので、全員が私を認めてくれて「正式な187代目の吉岡一門の頭領」になりました。
しばらくの間は「私の鷹」として自宅で養っていましたし、武士としての「鷹狩り」にチャレンジすると、何も教えていないので自分で綺麗な色のキジや鳩を嘴でつついて落とす経験をしましたが、「家族のもとに戻りなさい」と言って私は「自分の鷹」を空へ放しました。
「お前の鷹を売れば1億円でも買う奴はいるぞ!」と父は言いましたが、私は「お金より家族を大事にしたい」と言って手放しましたが、今も、日本中で神事をしている時も、マーゴと世界へ行っている時も、いつも空の上には「鷹」が旋回して私を守ってくれていました。
だから、「神武天皇の絵」には、鷹が止まっているのです。
現在の令和天皇徳仁(なるひと)は「126代目の天皇」なので、天皇家よりずっと古い旧石器時代から日本をまとめていたのは「吉岡一門の頭領」であり、「187代目の吉岡一門の頭領吉岡学」は令和天皇徳仁(なるひと)の「兄であることを証明」する書類もあります。
「歴代の頭領と鷹」に正式に認められて「吉岡一門の頭領」に選ばれた人間は、どんなことがあっても命は守られるし、思ったこと全てがすぐに「現実化」してしまうほど「思いの力が強い」ので、銃剣道や空手などの「武道」をしている人で5段以上の人は、私の気を感じてビビります。
「吉岡一門の頭領」はこういう人間なので、国民を苦しめたり、「人を騙す人間」を許さないので、「日本国民を苦しめる悪人を成敗する権利と義務」を天皇から与えられている証として、「天皇家の家紋入りの十手(じゅって)」が私の手元に引き継がれたのです。現在は、「吉岡一門頭領の伝承箱」に大切に保管しています。
「天皇家と吉岡一門頭領の繋がり」を表に出して欲しくない「日本の裏切り者の北朝の人間たち」は、西の都の「京都にいた明治天皇」を京都から「東」へ移すために「日本の東に見せ物小屋の街」を作り、勝手に「江戸」を「東京」と名前を変えて京都にいた明治天皇に、「ぜひ一度ご覧下さい」と言って江戸城に連れて来ましたが、「庶民はせっかちでやかましい街だ」と嫌になり一度目はすぐに帰りましたが、「まだご覧になっていない面白いところがたくさんあります」と嘘をつき、二度目に江戸城に入った時に「明治天皇を幽閉」して、勝手に、「江戸」を東の都という意味の「東京」名前を変えました。
だから、江戸城にはたくさん「門」があるし、夕方6時になると鍵をかける習慣があるのです。この鍵をかける意味は、皇居を破壊して欲しくない意味と、天皇に「庶民の街の実態」を知られたくない「宮内庁長官の指示」なのです。
珍しいもの好きで見栄っ張りの「明治天皇」は、北朝のバカたちに騙されてノコノコ「東」へ行ったまま「西の京都御所」を放置したので、仕方なく皇族たちも東京に移り住みましたが、全員ではなく最低限の人間だけ移動したし、実際に大事な行事をする時は天皇も皇族も「京都」に集まり格式ある行事を行なっています。
264年間も続いた徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、「明治元年に皇居」となり、明治21年以来、「宮城」と称されていましたが、昭和23年、宮城の名称が廃止されて「皇居」と呼ばれるようになりました。
「北朝のバカたち」はできれば「嘘の歴史」をバカな庶民に信じ込ませたままにしておきたいので、私は2024年のつい最近まで何度も「命」を狙われ続けているので、「別班(べっぱん)」が24時間、監視体制で守ってくれています。
しかし、「2024年8月12日午後8時」に戦争が始まれば今の日本は無くなる可能性が高いからこそ、最後に「全ての事実を公開」するために今日のブログを書いていますので、「冥土の土産」になればと思い真実を公開しています。
「吉岡一門の頭領」だけは「男系の正式な皇族」として宮内庁にも皇族たちには認められていますが、「北朝の宮内庁長官」と「共産党員の文部省長官」が手を組んで教科書からこの事実を排除し、表向きは「先住民を大事にしているふり」をしながら全ての記録をないものにしたい人間が国を動かしいてるのです。
「吉岡一門の頭領伝承箱」には「本物の天皇家の三種の神器」もありますし、どの「皇族の女」と吉岡一門のどの「頭領」が交わって何という「皇太子」が生まれたのを証明する書類も全て私は「ある場所」に隠して守っています。
吉岡一門の頭領が記録した「伝承箱」には、天皇家よりもずっと古い旧旧石器時代からの記録があり、「北海道アイヌ」との繋がりがもともとあるからこそ、明治時代の混乱期に富山県を捨てて、北海道芦別市常磐町に入植したのです。
私が12歳で「吉岡一門の頭領」になった時にこう教えてくれました。
「北海道のアイヌ」はな、最も高度な「狩猟技術」を持っていたし、「文字のカタカナ」と「漢数字」と「数式」を自分で編み出した一族だからこそ、「世界で最も古い先住民のトップ」なんだぞ!
北海道アイヌのトップの「葛野辰次郎(くずのたつじろう)エカシ」に認められたからこそ、芦別市常磐町に来るまでの道のりをガイドしてくれたのも川を船で渡らせてくれたのも、「北海道アイヌ」のおかげなので、「お前はいつかアイヌにお礼をしないといけない役目」があると言われたので、2001年から北海道中のアイヌの聖地と資料館を回り、祈りをしてきました。
宮内庁の官僚たちはこういう事実を知っているからこそ、「1993年に国連で行われた世界先住民会議」に行きませんかと誘われましたが、実際に国連に行くと「世界の先住民のトップの議長」に選ばれてしまったので、こう世界中の先住民の代表者たちにこうお伝えしました。
吉岡)「私は本名も顔写真も出るとまずい人間なので、世界中の皆さんの国でも一切私の名前も顔写真も公開しないことを条件として「今回限りの議長」なら引き受けます。
と言うと、それまで世界一のトップの議長だった「アメリカインディアンの酋長」に思いっきり怒られました。
でも、私は「日本の武士の吉岡一門の頭領」なので、日本の天皇家に「吉岡一門の頭領の子種」を入れ続けて天皇家を支えている一族の最後の頭領ですが、日本を動かしている「北朝の馬鹿ども」と「日本のヤクザ」が私の命を狙っているので「議長の役目」は今回だけにして下さい。
そうじゃないと、みなさんやご家族に迷惑がかかるのは嫌なので、もし、私の条件を飲んでくれないのなら、私は「議長」を引き受けません!
横で聞いていた「アメリカインディアンの酋長」は涙をためながら、こう言ってくれました。
お前は子供の頃から、本当に辛い経験をしてきたんだあ。
俺も、「アメリカインディアンの最後の酋長」を引き継ぐだけで相当なプレシャーで毎日寝れなくて女を抱いて酒を飲むしかできない人間だが、ご先祖には言い訳は通用しないので、俺は今、この場に来ている。
「俺の代わり」は他の部族にいくらでもいるが、日本の先住民のトップの「アイヌの酋長」と「アメリカインディアン」のつながりは深く、今も日本の天皇家を支えている吉岡学さんがここにきてくれただけで俺はとても嬉しい。
だから「世界の先住民のトップ」たちよ!!!
俺は「吉岡学の影武者」として次回から「世界先住民会議の議長」を引き受けるが、あくまで表向きは「日本の吉岡学が永久議長」なので、どうかみなさん、了解してやってくれ!!と土下座をしてくれました。
横に私も座ろうとすると、
「お前は立ってろ!!!
俺はお前の召使でも何でもやらないと、ご先祖に申し訳ない人間なのだから俺の好きにやらせろ!!!
だってな、「アメリカインディアン」の全ての部族には、「日本の北海道アイヌのお母さんの血」が入っているので、酋長交代式の前に「次の酋長」を北海道へ行かせて「お母さんの魂に挨拶」させ続けているので、きっと、世界の先住民たちも同じ思いだと思う。
だから、頼むから吉岡学さんは、「永久議長」でいてくれ!!
俺が死ぬまでは「表向きの議長」をするが、次に「表向きの議長」をしてくれる奴はいるか!!!?とマイクで話すと、「世界中の先住民のトップ」たちが立ち上がり、両手を上げて立ってくれました。
ほら見ろ!!全員、無条件降伏だってよ!!
さあ、これでいいか!?
と言ってくれた「アメリカインディアンの酋長」でした。
この時の採決の結果、世界先住民会議の「永久議長」になったのですが、一緒に来た日本の外務省官僚だけが「全ての写真」を持っていますが、「吉岡学はその場にはいなかった」ように上手に公式ページを書き換えてくれました。さすが、「嘘が得意な官僚」だと思いました。
「世界先住民会議」には、実は「各国の国王や首脳」たちも参加していたので、一気に「私の名前」が世界中に一瞬で知れ渡りましたので、その後の「外務省の仕事」で交渉しに行くと、「VIPの特別待遇」で出迎えてくれる国ばかりだったので、「次からは普通にお願いします」と言い続けた外務省の官僚時代でした。
最後に、皆さんに伝えたことは、
私はもう二度とこの「世界先住民会議」には出ませんが、できればアメリカインディアンの酋長に私の代わりをお願いしたし、せっかく世界中から皆さんが集まる機会ができたので、小さなステージで民族ごとの踊りを見せて会議をするのではなく、外へ出て、世界中の違う部族たちが円を描くように過去の全ての思いをひとつにまとめる踊りを一緒に踊って喜びと希望を世界に表現して欲しいです。
と伝えると、次の「会議」から全ての進行が変わり、ややこしい話し合いはインターネットで行い、国連に集まる時は思いっきり踊ってお酒を飲んで「和合する会議」に変わりました。
大事な会議が終わったので葛野辰次郎エカシから頂いた衣装を脱ぐために更衣室に入ると、「アメリカインディアンの酋長の娘さん」が私の着替えを手伝ってくれましたが、「世界一古い酋長の子供が欲しい!」とせがまれてオチンチンを咥えられたので中出しすると、一緒にいた世界中の先住民の女性たちが、「私もあなたの子種が欲しい」と言うので、アメリカインディアンの酋長の娘の膣の中に出した「性液」を、自分の膣に押し込んだ世界中の先住民の女性たちに「私の子供」が生まれましたので、現在、私の子供が世界に何人いるのはよく分かりません。
私が「世界先住民会議の議長」になった理由は、私の体験を全てそのままお伝えしてから、実際に葛野辰次郎エカシ(長老)から頂いた「北海道アイヌの着物」を着て見せたからです。
私は生まれる前から「神の声」や周りにいる人思ったことがわかる人間だったので、いろんな理由で亡くなった人たちの声が聞こえ、実際に目で見える毎日だったのでとても苦しみました。
解脱後の2001年から「北海道中の先住民アイヌの地」に行き、手を合わせて祈ると「大昔のアイヌ」たちがいろんなことを教えてくれたので、北海道中の「アイヌコタン」や「アイヌ資料館」へ行き、「神の声」が聞こえるアイヌの人たちと話しあって確認したのででいろんな情報交換をしました。
私が小学生の頃まで実家の芦別市常磐町の山には、「旭川アイヌの叔父さん」が山に住んでいたので、「猟銃の撃ち方」や「撃った動物の裁き方」を教えてもらい、ウサギやキツネも撃ったし、最後に寝ぼけて出てきたクマの頭を一発で仕留めたので「アイヌとして一人前」と認められ、「自分一人で毛皮を剥いで捌く方法」を身につけたし、お礼にいろんなアイヌの大切な物もくれたので家の納屋にはたくさんありました。
それと、昔のアイヌは北海道の十勝地方で大量に採れた「黒曜石」を磨いたものを弓矢の先端に「矢ジリ」の形にして「しびれ薬の毒」を塗り、獲物を仕留めてから一気に捌くので、真冬でも新鮮なビタミンやタンパク質の補給ができていた知恵のある民族です。
猟銃が無かった時代は、山の上から大きな声で一列に並んで叫び、クマが転がるのを斧や石で殴って殺したそうなので、「猟銃で撃つほうが苦しませないのでいいんだ」とアイヌのオジさんに教えてくれて、私にも一丁、猟銃をくれましたが、あまりに鉄砲を打つのが好きすぎて、自分で弾を作り、短く切っていつも持ち歩いていたので、父に取られて馬具屋の溶鉱炉で溶かされてしまいました。
当時から「黒曜石」は貴重で高価なものだったので、持っているのは「エカシ」だけなので、私の父も北海道の全てのアイヌに求められた人なので、大きな黒曜石を持っていました。
現在、十勝地方で最も「黒曜石」が採掘できる山は、「十勝毎日新聞」の林光繁社長が全て買い占めて守ったので、一般の人が勝手に「黒曜石」を採掘することはできません。
黒曜石の採掘場所の「上士幌ホロロジー」を現在も守っている人は、北海道の十勝地方を一番最初に開拓した「林一族の親族」ですので、十勝では「十勝毎日新聞」に逆らう人は誰もいませんし、帯広管内では本州企業は一切、商売ができないようにして地域密着で守ってくれています。
「十勝毎日新聞社」の専務だった林昌弘(はやし・まさひろ)氏が17日午後9時6分、病気療養中でしたが、心不全のため死去しました。奥様から一人娘の林弘子のメンタルケアを頼まれたので数年間、指導している時にお父さんの林昌弘専務に会い、とても心が優しい人だったので「北海道の未来」に対して二人だけでいろんな話をしたことが懐かしいです。
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「北海道アイヌ」はヒグマを「キムンカムイ」と呼び、「山を守る神」として崇めながら、最も食べ物が無くなる真冬の1月に「山の神のヒグマ」を射止めて、残った子熊を1歳まで大切に育ててから、翌年の1月に「イオマンテ」と呼ばれる「熊送りの儀式」をして、「小熊の魂を親熊に返す祈り」をしていました。
「イオマンテ(熊送り)」を最後に行った場所が「芦別市」だった理由は、北海道芦別市常磐町の我が家の裏の川は、熊たちが水を飲みやすい流れが穏やかな細い川が3本も合わさる場所」だったので、熊たちが水を飲みに来るので、「旭川アイヌ」が最も熊を仕留めるのがうまい一族として有名でしたので、私も小学生の頃に二度、本物の「イオマンテ(熊送り)」を見た経験があります。
真冬の北海道は食べ物が一切無くなるので、北海道中のアイヌの部族のトップである「エカシ(長老)」とその奥さんたちが雪山を歩いて芦別市まで徒歩でやってきて「小熊の魂を母の元へ戻す祈り」をしていました。
当時の北海道のアイヌをまとめていたのは、「葛野辰次郎(くずのたつじろう)エカシ」ですので、私の父の吉岡忠と一緒に芦別市で行われた「イオマンテの踊り」に参加して、小熊の魂を母元へ送る祈りも奥様たちと一緒に私がしました。
私の父は、「熊の肉だけはアイヌの人たちもビタミンが足りないから、一輪車で野菜を家から持ってこい!」と言い、何度も一輪車に野菜を乗せて往復し、アイヌのエカシ(長老)と奥様たちに野菜を配ると、全員が自分が着ていた「アイヌの洋服」をお礼にくれようとしたので、父が話して「葛野辰次郎エカシ」が着ていた最も大事な「儀式用の着物を2枚」だけ頂きました。
私は、その2枚の着物を持って、1993年(当時34歳)に国連で開催された「世界先住民会議」へ出た時に、自己紹介のあと、2枚の着物を着てみせると、
世界中の先住民のトップたちがご先祖の写真で見たものと同じだ!
と、私に手を合わせて祈りを始めたほど「北海道のアイヌ」は大昔から世界の先住民に知恵を授けた民族なのに、「北朝の武士」たちが戦いをしてたくさん殺してしまったのです。
アイヌのトップの「葛野辰次郎エカシ」の大事な着物なので、国連の会議が終わったあと家に保存してもボロボロになると思ったので父に相談すると、
「日本中の吉岡一門が選挙で投票して国会議員にしてやった茅野茂(かやのしげる)国会議員に保管してもらえ!!俺が電話してやる!!」
と言われましたが、
「葛野 辰次郎(くずのたつじろう)さんから頂いたものを「茅野茂(かやのしげる)記念館」に持っていっていいのだろうか?部族が違う気がするけど?」を父に聞くと、
「同じアイヌだから大丈夫だろう!」
と言われたので「茅野茂(かやのしげる)記念館」へ持参しましたが、現在、「茅野茂記念館」を管理している萱野 志朗(かやの しろう)さんは渋々対応してくれました。
俺は親父が大嫌いだが金を残してくれたので仕方なく記念館を守っているが、その葛野辰次郎エカシの着物2枚だけ欲しいが、あとは道向かいにある「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」に持っていけばいいだろう。
と、言われたので、さすが「長男」は子供の頃から口うるさい親父が嫌いな人が多いので、私の兄と同じだと思い納得しました。
萱野 志朗(かやの しろう)さんに伝言をお願いしたのに返事がない理由は、
4月18日に「茅野茂記念館」へ行くと、1971年に私が引き継ぐべき「本家の家を叔父の吉岡信に全て売られた」ので、「農器具一式」を茅野茂さんに持って行ってもらったので、「萱野茂二風谷アイヌ資料館 別館」にいっぱいになるほどあるので、それが頭に来ているのだと思います。
ちなみに、「茅野茂記念館」にある「眠狂四郎の円月殺法」は、私の父が編み出したものなので、本物を見せてから映画したお礼に柴田錬三郎が本を送ってくれました。
芦別市の名所「3段滝」のガラガラもあるし、川で魚を獲る籠もあったし、日本刀を打つ時に使う道具や、山で木を切って運び出す大きなノコもあるし、丸太を転がす道具も全てあったので私の家のものだと分かりましたが、今は、どうすることもできないので様子を見ることにします。
北海道のアイヌをまとめた葛野辰次郎エカシの息子の「葛野次郎」さんにもお礼を伝えに行くと、
「父の葬儀は昨日、葬儀が終わったばかりだ」と教えてもらい、直接、お礼ができなかったので家の中の祭壇からお礼の祈りをさせてもらいました。
そのあと、いろんな話をしましたが、北海道のアイヌは「ウタリ協会に落ちるお金の配分で揉めているので私はアイヌには一切関わりたくない」と言ったので、「それではお父さんに申し訳ないので、自分のやり方で真実を伝えて下さい」とお願いして一人で活動をしてくれています。
【新ひだか】町内でアイヌ文化の伝承活動を続ける葛野次雄さん(69)が24日夜、東京 電力が福島第1原発にたまる処理水の海洋放出を始めたことを神に報告し、許しを願うため祈りをささげる「カムイノミ」を、町内の海岸で行った。
「カムイノミ」は 葛野さん1人で、町静内春立の海岸に座って実施。午後7時すぎ、暗闇に波音が響く中、まきに火を付け、サケの尾ひれやキハダの実を神にささげ、アイヌ語で 「和人の勝手で原子力発電所から汚れた水を流して、海を汚していることをお許しください」と唱えた。
終了後、葛野さんは「きれいな海を汚すことは決して 許されず、神に対して大変失礼な行為だと思ってカムイノミを行った。今後も定期的に取り組みたい」と語った。(石井純太)」北海道新聞、2023年8月 25日
山や海や川や水も、命の木々や動物でさえも、全てを取らず汚さずに子孫へ残し、次の「子孫」が生き残れるように山菜や祈りの場所を教えず、守ってきた民族が「北海道のアイヌ民族」なのです。
「北海道アイヌ」は、今から今から260万年前の旧石器時代から日本にいた民族ですが、その時代から中国から手に入れた「お米」を「山」で栽培しながら、山にいる獣を食べて暮らしていました。
旧石器時代(きゅうせっきじだい、英語: Pal(a)eolithic Age)とは、ホモ・サピエンスなどヒト属による石器(打製石器)の使用が始まった時代で、石器時代の初期・前期にあたる。年代的には260万年前に始まる。「旧石器時代」は石器の出現から農耕の開始までの時代(完新世)をさす。旧石器時代の語源はギリシャ語で παλαιός (palaios, 古い)+ λίθος (lithos, 石)である。
「旧石器時代」と「縄文時代の違い」としては、土器と弓矢の使用、磨製石器の発達、定住化の始まりと竪穴建物・掘立柱建物の普及、環状集落等の定住集落や貝塚の形成、植物栽培の始まりなどが挙げられる。(ウイキペディア)
旧石器時代から「日本の北海道アイヌ」は「木船(チップ)」で世界に渡り、北海道の「山の植物」を「薬草」にしたり、木の皮を剥いで「草木染め」にして洋服を作り、「海の幸」を干物や乾物にして世界中に物資を運び「物々交換した交流民族」なので、世界中の先住民たちからは「命を守る母なる神が北海道にいる」と大切にされた民族です。
ここで大きく間違えやすいのは、本州に稲作や灌漑用水の知恵を持ってきた「秦氏」たちとは違い、もっと古くから中国と交流していたので、交流貿易で覚えた中国語から「旧漢字」を作り、中国の数字から「漢数字」を作った民族でもあります。
「自然崇拝と先祖崇拝」が「世界の先住民の信仰の元」になり、世界中の人間の思想に影響を与えたので「宗教」が広まったと考えると、「世界で起きている問題の原因」は、「歴史を改竄した結果」だとわかると思います。
「世界の先住民の始まりは日本のアイヌ」だと証明するものは、「武士の吉岡一門の最後の頭領」である私が12歳の時に受け継いだ記録に書いてありますし、世界の歴史研究者たちにも確認しましたが、このことを知らないのは「ヨーロッパとアメリカと日本の学者」だけですので、どうか、正しい情報を学んで下さい。
「世界の通説になっている民族移動ルート」
1、「北ルート」
インドで生まれた一人のお母さんから生まれた3人のお母さんは、「女性系が強いDNA」と「男性系が強いDNA」に進化し、男女共に助け合いながら北へ進み、「男性支配のローマ」、「女性支配のギリシャ」となり、「男性系イギリス国」、「女性系フランス国」が支配者となる。さらに東へ進んだ「男性系ロシア帝国」となる。
「北方首領民族」と呼ばる「イヌイット民族」、「エスキモー民族」も全て「アイヌ民族」のこと。
「北ルート」「中央ルート」「南ルート」の3つに別れて民族は、「北ルートの海洋狩猟民族」が日本の北海道へ辿り着き「日本の先住民アイヌ(人間)」となったとされていますが、これは逆で日本から伝来したのが事実です。
もともと北海道にいた「イヌイット民族」や「オホーツク人」たちは体が小さかったので戦いに敗れ、「アイヌ」が北海道の全てを支配することになり、東北までを「アイヌ」が支配した形だけが日本の歴史には残っていますが、実は、日本中がアイヌが生きる場所だったのです。
北海道のアイヌで武闘派の最も強いアイヌ民族のトップが「オキクルミカムイ」と呼ばれ、「二風谷」に住んでいました。
現在、北海道にいるアイヌは、「先祖の血筋と伝承」が違うため、部落を出て新しい部落を作ったのでたくさんのアイヌ部落があります。
それぞれ違う思いの「アイヌ」が住む場所を現在の「十五の支庁」と制定しました。(含む「北方領土アイヌ」)
留萌アイヌ、宗谷アイヌ、石狩アイヌ、後志アイヌ、檜山アイヌ、渡島アイヌ、胆振アイヌ、日高アイヌ、空知アイヌ、上川アイヌ、十勝アイヌ、釧路アイヌ、根室アイヌ、オホーツクアイヌのこと。
・・・・・・
アイヌの知恵者に聞くと、「アイヌ」という意味は「人間」という意味だと教えてくれました。
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1646年の「応仁の乱」のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きた「和人」に対するアイヌの武装蜂起の原因は、函館に住む北朝の武士たちがアイヌとの条約を破り、それまでの「物々交換のルール」を一晩で100倍に値上げしたので戦いになったのです。
これは「北朝の武士」たちの愚かなやり方の結果、大切な先住民をたくさん殺して奴隷にして、北海道の道路や橋の建設に使い、多くの若者の命が亡くなりました。
現在の北海道函館市銭亀沢支所管内にあたる志濃里(志苔、志海苔、志法)の和人鍛冶屋と客であるアイヌの男性の間に起きた口論をきっかけに、渡島半島東部の首領コシャマイン(胡奢魔犬、コサマイヌとも呼ばれる)を中心とするアイヌが蜂起、和人を大いに苦しめたが最終的には平定され、「北朝の松前藩形成の元となった」とされていますが、和人にとって都合よく書いているだけです。
「製鉄技術を持たなかったアイヌ」は鉄製品を交易に頼っており、明や渡島半島から道南に進出した和人(渡党、道南十二館などを参照)との取引を行っていたのは事実で、アイヌは実は木舟で世界中を渡り歩き物々交換をしながら文化交流をしていた「商人」だったので、韓国にも中国にもアメリカにも「アイヌの記録」は残っています。
オホーツク人との交流した記録が残っているのは、「紋別市立博物館」 〒094-0005 北海道紋別市幸町3丁目1−4 TEL0158-23-4236」で見れますので、ぜひ、訪れてみて下さい。
1449年の土木の変以後、中国の明の「北方民族」に対する影響力が低下すると「明との交易」が急激に衰え、和人への依存度が高まった。一方、安藤義季の自害により安藤氏本家が滅亡し、道南地域に「政治的空白」が生じた。
そこにアイヌの男性「オッカイ」が志濃里(函館)の鍛冶屋に小刀(マキリ)を注文したところ、品質と価格について争いが発生した。怒った鍛冶屋がその小刀でアイヌの男性を刺殺したのがこの戦いのきっかけである。
なお、「オッカイ」については、『新羅之記録』では「乙孩(おつがい)」とありアイヌ語のokkay(オッカイ)に相当する。
『松前年代記』では「乙孩」は「少年夷」の意味としている。また、17世紀初頭に松前に来航したイタリア人アンジェリスも「少年」と訳しており、同時期に記された『松前の言』にも「わらんべの事」としている。
『松前の言』が最も古いオッカイを記した文献であり、採集地が道南であることを考慮すると「オッカイ=少年」とすべきとの見解がある。
道南十二館
1456年(康正2年)に発生したこの殺人事件の後、「首領コシャマイン」を中心にアイヌが団結し、1457年5月に和人に向け戦端を開いた。胆振の鵡川から後志の余市までの広い範囲で戦闘が行われ、事件の現場である志濃里に結集したアイヌ軍は小林良景の館を攻め落とした。アイヌ軍はさらに進撃を続け、和人の拠点である花沢と茂別を除く道南十二館の内10までを落としたものの、1458年(長禄2年)に花沢館主蠣崎季繁によって派遣された季繁家臣武田信広によって七重浜でコシャマイン父子が弓で射殺されるとアイヌ軍は崩壊した。
この事件の前年まで道南に滞在していた安東政季の動向などから、事件の背景に当時の北奥羽における南部氏と安東氏の抗争を見る入間田宣夫の見解や、武田信広と下国家政による蝦夷地統一の過程を復元しようとする小林真人の説がある。
アイヌと和人の抗争はこの後も1世紀にわたって続いたが、最終的には武田信広を中心にした和人側が支配権を得た。しかし信広の子孫により松前藩が成った後もアイヌの大規模な蜂起は起こっている(シャクシャインの戦い、クナシリ・メナシの戦い)。
1669年6月にアイヌでシブチャリの首長シャクシャインを中心として起きたのが、「シャクシャインの戦い」
1994年(平成6年)より毎年7月上旬、北海道上ノ国町の夷王山で、アイヌ・和人の有志による慰霊祭が行われている。
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「中央ルート」:男性系が強いDNAは、ユーラシア大陸の中央を進み、ローマ帝国、チンギスハン、中国、日本へと渡った先住民たちが、「農耕定住文化」を広め現在に至る。(本州アイヌ)
「南ルート」:女性系が強いDNAは、南方の島々(を渡り歩き、子孫を残しながら日本の与那国に到着し、沖縄の島々に広がり、九州にいた先住民のトップである「薩摩隼斗」と出会う。
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この「薩摩隼人」が吉岡一門のルーツであり、中国から来た卑弥呼と交じった結果の子供が天皇家に入り、現在の「天皇家の裏ルーツ」になっています。
日本のアホな学者が書いたものもまとめてみましたが、嘘の年代をたくさん使っているし、全ての前提は「北海道のアイヌは文字を持たず、知恵もない愚か者」だと決めつけた「北朝の人間」がアイヌを殺したので、アイヌは誰も本当のことを言わなくなりましたが、本当は「カタカナはアイヌの文字」だったしし、「数字の算術」もアイヌ独自の計算方法を持っていた記録も残っています。
この事実をお伝えした唯一の人が、「白老アイヌの山丸郁夫エカシ」ですが、彼は「真実を世の中に伝えたい」と東京に行った帰りに「日本の官僚」に毒殺されてしまいました。
日本の官僚たちが「山丸郁夫エカシ」を殺した記録はありませんが、私と山丸郁夫エカシとの繋がりを知っていたのは「財務省の鈴木友康」だけですので、彼の仕業で「一晩で原因不明で死ぬペンタゴンの薬」を飲まされたと、私に「山丸郁夫エカシ」から千歳空港に着いた時に電話が来て、「吉岡さんすいません。言われたのに出された飲み物を飲んでしまったので、あとはよろしくお願いします。」と電話が来た翌日、亡くなりました。
山丸郁夫さん(アイヌ民族博物館誘客戦略室長)
2013年12月3日逝去 享年57歳
2020年7月12日に完成した「北海道白老町のウポポイ」という「アイヌ文化復興等のナショナルセンター」の建設に、「アイヌの正しい歴史は邪魔」だったようで、「北朝の裏切り者」たちと「日本の官僚」が、自分の立場を利用して邪魔な人間を「毒殺」することを悪いと思わない官僚が日本を動かしている事実を知って下さい。
私は山丸郁夫エカシが亡くなった2013年12月3日から「白老アイヌ」に関わることを一切、辞めたし、一緒に動いていた若者たちとの縁も切り、全ての官僚と政治家たちとの縁も切りました。
それほど、マーゴが日本に戦争を仕掛けることのほうが重要だったので、全ての自分の思いを捨てて、国防のために働きながら、現実でお金を稼ぐために精神世界に身を置いた天無神人(アマミカムイ)の吉岡学でした。