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「吉岡流 吉岡一門 頭領の秘伝書」

本日は、「ある場所」に隠してある「吉岡流 吉岡一門の頭領」にだけに伝わる「秘伝書」の一部を公開します。

2000年以上、天皇家を影から支えながら「武士」として行政府の仕事(警察・区役所・官僚・裁判官)をしていた理由は、現在の総理大臣の前の「官職」である「太政官(だじょうかん)」の最初の長官になったのが「吉岡一門の頭領」なので「太政官の印鑑」も伝承箱に保管してあります。

 

「太政官(だじょうかん)(明治時代)」

太政官(だじょうかん)とは、明治維新が開始された慶応4年/明治元年(1868年)、政体書によって設置された最高行政機関である[1]立法行政司法の機能を備えていた。職名は律令制の名称がそのまま使われていたが、その組織に関しては幾度か改革がされた。明治18年(1885年)に内閣制度の発足に伴い、廃止された。

歌川広重 (3代目)による太政官所、駅逓寮、元老院議事堂。

 

当然ながら、「士農工商のトップ」なので小作農たちや商人たちを導いてきたの「南朝の吉岡一門の頭領」たちは、「後世の頭領」に伝えたいと思った時に書く「気づきの巻物」や「血筋を証明する巻物」がたくさん残っています。

 

2000年以上、日本人を「裏から導く重責」を背負う「吉岡一門の頭領」が書いたものは、「日本男児の精神教育」と、「日本女性としての心得」も含まれていますので、文字に書かれていない思いを深く汲み取ってお読み下さい。

なお、この内容は12歳の頃に一回見て記憶しただけの内容ですが、ほぼ正確だと思います。

 

今回、ご紹介する内容は、北海道から南下して日本中の先住民のトップとなった「鹿児島県の薩摩隼人」と名乗り、島根県、京都、富山県と移動した「本州最後の富山藩藩主」になってからの「心得書」でございます。

吉岡一門の頭領たちが、きっと、これが最後になるだろうからと私に書かせてくれた内容です。

どうか、日本を守る前に戦った武士たちが一生抱えて生きた「生きるも地獄、死ぬも地獄の意味」の意味をこの文字から汲み取って下さいませ。

 

・・・・・・

富山藩 越中吉岡庄 藩主 

吉岡流 吉岡一門 頭領の心得の書

・・・・・

 

<初代 頭領>

吉岡一門の頭領になった人間は、「形無し、思いなし、善悪なし」と心得よ。

 

戦いとなれば、無心になりて、敵を殺せ。

まず、これが「吉岡流 吉岡一門」の最初の教えなり。

 

 

<二代 頭領>

 

「戦いにおいて、正義を問うことなかれ」

 

戦いとなれば、全ての心血を注ぎ込んで相手を殺せ。

そして、赤子と子女は殺すな。

 

しかし、熟女は殺して良い。

子を産めぬ女に、用は無し。

 

「女子供」と呼ばれる意味は、子を産める体を持つ女のこと。

それ以外は、ただの「性の道具」なり。

 

 

<三代 頭領>

 

男が命をかけて戦う時に、後ろ髪を引く女子供は斬り殺せ。

 

それが、「武士の情け」なり。

後ろ髪を引く女は、必ず、敵に寝返る。

 

これ、我が吉岡一門の頭領として、後世に残すべき大事な言葉なり。

 

 

<四代 頭領>

 

老いて候。

 

若き心に魂が宿る時、初めて「武士」となる。

それまでは、ただの殺しあい。

 

武士として、いかに生きるか迷うな!

戦さにおいては、命をかけて戦うのみ。

ただ、必死なり。

 

 

<五代頭領>

 

正なるを持って「義」とする。

 

義なるもの、「儀」にあらず。

人の思いは無視せよ。

 

 

<六代頭領>

 

国を守り、天皇を守るとき、迷うこともあろうが、これ、宿命と諦めよ。

 

我が命、天命をかけて「義」をなすことなり。

義は義なり、天皇に対してのみ、「儀」なり。

 

 

 

<七代頭領>

 

一寸先は、暗。

「闇の中の剣術」を見つけよ。

闇に勝てば、己の弱気心に勝てるものなり!

 

 

<八代頭領>

 

闇なるものを味方につけよ。

闇を恐れるものは、死に惑わされると心得よ。

女は闇から生まれたものなり。

男は光じゃ。

 

 

<九代頭領>

 

魏、魂、志。

これ以上、大事なものはなし。

 

 

<十代 頭領>

 

内なる弱さを愛せよ。

 

愛さなければ、闇に落ちる。

苦しいぞ。

 

 

<十一代 頭領>

 

美しき世を作るために汚れ仕事をすることに嘆くな。

 

この世は、誰かが支えねばならぬもの。

 

 

<十二代 頭領>

 

大義、忠義、小義。

 

己は何のために戦うのかを問い続けよ!

 

 

 

<十三代 頭領> 父・吉岡忠

 

主人(あるじ)を持たぬまま戦う意味は、何ぞ?

これ、生涯の問いとなす。

 

 

 

<十四代 頭領> 吉岡学 12歳自書

武士となりて思うこと。

これ、愚問なり。

武士は、武士。

いつ、どのような時代になろうとも、武士は武士。

 

 

<十四代頭領 その2> 吉岡学 15歳 追加自書

 

「北朝」なるもの、全て斬り殺せ!

 

北朝どもは、子々孫々、足らぬものたちばかりで呆れる。

民においても、世においても、先祖においても、存在の意味なし。

「北朝」は、ただの「因縁カルマの集合体」なり。

北海道に移住した北朝の者のみ、生かせ。

それ以外は、全て斬り殺してよしとする。

 

・・・・・・

 

<前頭領の父・吉岡忠と現頭領吉岡学の対話>

1971年1月11日 12歳になった日の「統領交代式」の翌日、兄と母は温泉へでかけたので、家に父と戻り残り物で夕食を済ませたあと、父と一緒に、時代劇のテレビドラマを一緒に見た時に私が質問したやりとり。

 

・・・・・

 

学)ねえ、父さん、この「織田信長」って人は正しいことをした人なのかな?時代劇によってイメージが違うのでよくわからないので詳しく教えて!

 

忠)織田信長がしたことは、間違ってはおらん。

庶民はろくな勉強をせずに間違ったことを覚えてとやかく言うが、あの時代はどこの国の殿様たちも、商人と手を組んで「金儲け」に走っていたし、仏教の坊主たちもそういう殿様たちを金で動かして、天皇に取り入ったので、女子供を犯すし殺すし、好き勝手をし放題な時代だったんだ。

だから、「下剋上」と言われたように家臣が殿様を殺すようなことを織田信長はしたが、アイツがしたことは間違ってはいない。

俺がもし、同じ時代に生きていたら、同じことをしたと思う。

まず、「比叡山延暦寺」のことを学校の図書館で自分で調べて来い!

 

翌日、学校の図書館の鍵は持っていたので武士に関係ある全ての書物を一気に読み、暗記して家に戻りました。

 

・・・・・

 

学)図書館の全部の本を調べたけど、「織田信長」はやっぱり悪いことをした「罪人扱い」の本ばかりだよ。

 

父)いいか、その教科書や本を書いたのは、全部、「北朝の奴ら」なので、真実はどこにも出ないようになっているのさ。

吉岡一門の巻物には、当時のことが詳しく書かれているからこの巻物を読んでみろ!

 

・・・3本の巻物を一気に暗記する・・・

 

 

学)全然、事実は違うんだね・・・。

なんで、嘘の本をたくさん「北朝」の奴らは作って学校で習わせるの?

 

父)いいか、まず、バカな奴らは自分で事実を探して確認しようとしないので、「嘘を書いた本」でも、そのまま信じるものなのさ。

織田信長が唯一、正しかったことは、「延暦寺の坊主」を殺して寺を焼いたことだな。

https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/727/#

 

当時の延暦寺の坊主は、女子供を犯して殺し、公家を味方にして天皇に近づき、金と力を得て好き勝手に生きていたので、織田信長はバカな坊主たちを「成敗」しただけのことさ。

 

「敵に手を貸した女子供」を斬り殺した理由は、そういう裏切り行為をしてはいかんぞ!と世に知らしめるためなのさ。

 

だから、武士に情けは禁物なんだぞ!

 

自分の親でも兄弟姉妹でも、「裏切り者」は殺さないと、一生、騙され続けることになるから用心しろよ!

 

しかし、「北朝」の奴らに騙された「明石光秀」も頭が悪いから、小作上がりの豊臣秀吉(サル)も最後は騙されて殺されたのさ。

 

あの戦いで最後に勝った人間は、「徳川家康」だけだろう?

お前、「泣くまで待とうホトトギス」の意味は知っているか?

 

学)いいえ、知りません。教えて下さい。

 

父)まず、織田信長が家臣の二人に質問したのさ。

 

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」といった 織田信長。

 

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」と言った豊臣秀吉。

 

「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」と言った徳川家康。

 

お前ならどうする?

 

学)僕なら「泣かせてみよう」かな?

でも、どういう状況でホトトギスを泣かせる必要があるかによって一概には言えないので、保留にします。

 

父)状況によって違うか・・・。

 

当時の武士の殿様たちは、「鷹狩り」という遊びがあってな、その鷹を捕まえるために「ホトトギス」を空に離すのさ。

でも、「ホトトギス」はあまり普段は泣かないので、首を少し切って空に離すか、殺してしまうか、泣くまで待つかという問いなのさ。

さあ、お前ならどうする?

 

学)僕だったら、鳴き声がうるさいスズメを数羽捕まえて一気に空に放ちます。

絶対に、子供を探す親鳥が泣くので、子供のスズメを捕まえて離しますね。

 

父)お前、頭が良すぎるわ。

それは俺も考えつかなかったなあ。

 

俺は、「泣かぬなら殺してしまえ」のほうだな。

まあ、世の中には簡単に決められないことも多いが、「吉岡一門の頭領」は、どんな問題でも一気に解決しないと次々に問題がやってくるので覚悟しろよ!

 

・・・・・

ここから父と禅問答の時間になりました。

・・・・

 

父)「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄は、孤独であった。

我も同じ。

 

お前は、きっと俺より辛い人生になるだろうなあ。

 

さあ、この問いにどう答える?

 

吉岡学)

 

我、死すこともできず、思いを成すこともできず。

「存在の意味」を我に問う人生なり。

 

 

父)織田信長が、「あとは頼む」と徳川家康に言った意味は、このことなり。

自分を愛する者がわかれば、「信ずる者」に託すことができるもの。

 

学)教えてもらったことはわかったけど、やっぱり、疑問が残るからもう一度、聞くけど、本当に、織田信長は悪い人間じゃなかったの?

 

父)家紋を見ればわかるだろ!!!

自分で「家紋の意味」を調べてみろ!

俺は、織田信長は間違っていないと思う。

 

ただ、時代的にそうするしか奴はできなかったのだろうな。

だからこそ最後に、徳川家康に「最後を託した」のだと思う。

「あとはよろしく」とな。

 

「南朝の吉岡一門の頭領」は、日本全国から戦いがあったあとに、いろんな文句や不満を書いた文(ふみ)が送られてくるので、それにひとつひとつ応える役目もあるので、日本全国でどんな小さい戦さが起きても現場で戦った武士たちの思いをすべて読めば「本意」に気づくものさ。

 

俺も親父から「頭領」を譲られた時に、その手紙をすべて読め!と言われて渡されたが、北朝が書いたものとは真反対のものばかりで驚いたぞ!

ま、庶民は死ぬまで「真実」を知らないまま死んでいくので、カルマが残るのは当然なのさ。

 

でもな、こういう現場で戦って生き残った奴らの文章は「公開禁止」と決まっているが、それでも「武士の吉岡一門の頭領」に聞いてもらいたい人間はいるから聞くだけは聞いてやるのさ。

 

戦さに勝っても負けても、「戦さ」はただの殺し合いなので、その意味をどういう意味にするかは、後世の人間次第だと思うな。

 

お前の時代には「武士同士の戦さ」は無いと思うが、大東亜戦争みたいに、他の国と戦争をしなきゃいけない状況になるかもしれないので、お前なら、どうする?

 

戦争に行きたいか?

 

学)行きたいか行きたくないか?と聞かれれば、「行きたい」です。

だって、戦争でもし死ねるなら本望だし、それでも死なないなら僕はきっと数百人か数千人の敵を殺せると思います。

その宿命は、受け入れていますのでご安心下さい。

 

 

武士の吉岡一門の配下の家紋

 

 

武田信長の家紋

 

 

織田信長の織田家の家紋は、織田木瓜(真ん中に一葉は吉岡一門の頭領に従うという意味の紋)

 

そして、織田信長を認めて娘を嫁に出した「武田信玄」の家紋は、「武田菱」

武田菱は、「四方相身互い(しほうそうごみたがい)」と読み、割りきれない奇数ではなく「偶数」にして共に仲良く暮らせよ!という意味の家紋

 

・・・・

 

そして、吉岡学の祖父・吉岡西蔵が、北海道芦別市常磐町に来てから決めた家紋は、「北海道くらいは、北朝と南朝が仲良く手を取り合って暮らせ!」という意味を込めた「二重四つ菱紋(ふたえよつびしもん)」を作り、吉岡家のお金で建てた「班渓神社(ぱんけいじんじゃ)」の横の壁に祀ってあります。

この家紋が祀られているのは、北海道芦別市常磐町564番地にある「班渓神社(ぱんけいじんじゃ)」のみ。

班渓神社 芦別市常磐町564番地 0124-22-5731

 

この「班渓神社(ぱんけいじんじゃ)は、祖父の吉岡西蔵が寄付して建てた「吉岡家の神社」であり、現在も「吉岡一門の氏子」が守っています。

 

また、私の実家の家の前にある「真宗大谷派の光明寺(本山は京都・東本願寺)」も、「祖父の吉岡西蔵」が「ご本尊を京都から手配」し、建物も全てお金を出して建てたお寺ですが、「相河了端住職」の息子の「相河孔明」が家の中で花火をして遊んだ火遊びが原因で坊主の家とお寺が全焼しました。

その結果、父に「寺の再建」を頼みにきたので、檀家と吉岡本家が「3億円」のお金を集めて再建し、2012年1月6日の私の父の葬儀まで、毎年、米と野菜とお金を持って家族を支え続けました。

 

一番最初にお寺を建ててあげて入った坊主は、赤平市のお寺で終業していた若い坊主ですが、「常磐町は雪が深いし遊ぶ場所がない」と勝手に出ていったので、赤平市の坊主たちの中で「常磐町に来てもいい」と言った「相河了瑞住職が2代目の住職になりました。

自分で「元武士」と言う人で、時々、日本刀を見せびらかした人ですが、日本中を回った「流れ者」だった時に人を切り殺してしまったので、全国のお寺に隠れて修行しながら全ての宗派のトップと「禅問答」で勝ったので、仏教界では有名な人ですが、目立つと警察に捕まるので、北海道赤平市まで逃げてきて修行僧をしている時に「芦別市常磐町」にきてくれて、私の父の願いで「幼稚園の園長先生」をしてくれました。

 

もともと「武士は教育者」だったので、「寺子屋」で教えることが仕事ですが、いろんな仕事が忙しい父に代わって「寺子屋の先生」をしながら「幼稚園の園長」と「坊主」をしてくれた頭の良い人でした。

しかし、相河了瑞住職の息子の「相河孔明住職は、大阪の大学時代に付き合った女をはらませたので、大学を自分でやめて子供を抱えて戻ってきました。

自分は大学を出た「学士の坊主」だから教養の無い父親は引退して、自分を住職にしろ!」と言い出し、もともと「禅宗」だった吉岡一門のお寺を勝手に改宗して、嫁の実家の大阪にある「浄土真宗 光明寺」に名前と宗派に変更してから、私の父に「許可印」だけをもらいにきた人です。

 

先代の「相河孔明住職」の名前は、中国の戦いで最も賢いと有名な「諸葛孔明」のように「賢い知恵者」になれと思いを込めて「孔明」と名付けたそうですが、よく子供の頃に「孔明ちゃん」と呼んで一緒に遊びましたが、私より頭が悪いので大事なことを質問するのはやめたくらい勉強も嫌い、修行も嫌いな人でした。

 

子供の頃から度重なる問題を起こした「孔明ちゃん」ですが、自分勝手に嫁と子供を連れて帰ってきたので「相河了瑞住職」は息子と毎日大喧嘩になり、よく家を飛び出して芦別市の飲み屋に入り浸りになり、また、飲み屋の女に子供を作りお金で解決したほど、どうしようもない男でした。

 

自分の息子の不甲斐なさに腹を立てたお父さんの「相河了瑞住職」は、私の誕生日の真冬の1月10日の朝、大広間の「ご本尊の扉」を開けて「冥界につながる祈り」をしてから、本堂のど真ん中に真っ白い大きなシーツを数枚広げて「武士の所作」を真似て腹を切り、自分の血で畳に「吉岡に申し訳ない」と文字を書いてあるのを見つけた奥様が、私と父を呼んだので、二人で現場に駆けつけて綺麗に文字を消してから、「正式に自害した形」に整えてから「私が介錯」して、無念な思いを天に上げる役目をしました。

 

「武士の自害」にはルールがあり、ただ左から右に腹を切るだけではダメなので、父が「おい!この男は最後まで綺麗に腹を切ったのか見てみろ!!」と言うので、私が倒れた死体を起こして、日本刀の小刀で切った切り口を見ましたが、「真一文字」だったので、私の手で、最後を「L字」に切ってあげて、「正式な自害」にしてあげました。

 

それを見ていた父は、「どうせなら、お前の幼稚園の園長だったのだから、お前がこの坊主を解釈してあげなさい。きっと、そうして欲しくて10歳のお前の誕生日に腹を切ったのだと思うぞ!」と言い、父は納屋から自分の日本刀を持ってきて、私に日本刀を渡しました。

 

二人で「死後硬直した住職の体」を座る形にしてから、少しだけ首を前に出してから、一気に私が「硬直した首」を切り落として「冥界の仏様」に御霊を預けて連れて行ってもらう祈りをしました。

そうしないと、「息子の無念で死んだ思い」が永遠にお寺に住み着くので、とんでもないお寺になるからこそ、私と父の二人だけで処理をしてから白い布団を出して「首」を本堂へ向けて、その下に体を置いて、布団をかけて白い布を被せてから奥様を呼びに行きました。

 

1969年1月10日の夜中の3時に起きたことだったので、誰も他の家族は起きていなかったので、私の母も兄も知らないし、相河了瑞住職の息子の「相河孔明」も何が起きたのかは知りませんでした。

お父さんが死んだ日も、息子の「相河孔明」は芦別市の飲み屋の別な女の家に泊まったいたので、お母さんが連れ戻すと、「最後まで親父は自分勝手だった!」と言ったので、私は切り殺したかったですが、父に止められました。

 

現在の光明寺の住職は、「相河孔明住職の息子」に代替わりしましたが、その息子も父親と同じように大阪の大学で「大阪の女」をはらませて、「嫁の実家のお寺に婿養子」で入ったので、「相河家」の苗字を名乗らず、お父さんとは違う名前で現在も坊主を続けていますが、嫁には逃げられたのでまた次の女を嫁の代わりにしているようです。

 

「坊主丸儲け」なので、葬式だけ年に数回あれば儲かる商売なので、田舎でも十分生きていけるし、芦別市は老人ばかりの街になったので、これからまた儲かるでしょうが、私たち家族は、もう光明寺とは関わるのをやめようと決めています。

どれだけ人に世話になって生きたのかを子々孫々、語り継げ、永遠にご先祖カルマが続く一族ですので母が亡くなった時の葬儀は兄に任せています。

 

私の役目は、日本中の武士の総本山である吉岡一門の総本家が、私の襲名披露の時に「これから芦別市常磐町の頭領がいる場所を総本家とする」と電話が来たので、私のボロな実家が「総本家」になっていますので、私と思いある人たちのお金で新しい希望が生まれる場所にしたいと思い、今、計画中です。

1年間の約半分が冬だし、とても雪が多く寒い場所だからこそ、美味しいお米や野菜ができるので、私は「吉岡一門の最後の頭領」として、あらゆる御霊鎮魂の魂の場所として芦別市常磐町に自分の骨を散骨したいと思っています。私がうまく死ねればの話ですが・・・。

 

※「相河家という苗字」は二つの河の両側に分かれて住むほど「家族トラブル」が多い一族についた名前ですので、「ご先祖カルマ」が終わっていない人たちなので、永遠に「家族トラブル」が続くと思って下さい。どんなに好きな相手でも、結婚して相川の苗字を名乗ると、自分も子供の親子トラブルが増えるのでご覚悟下さい。

 

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ここで、日本中の武士を束ねていた吉岡一門」の戸籍謄本に出ている事実を公開しますが、いかに「吉岡一門の頭領に乗るカルマ」がすごいのかをご理解下さい。

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(戸籍謄本)北海道空知郡芦別村(滝川村)字下班渓、

前戸主亡 吉岡宇右エ門(5代前の先祖)

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亡父・吉岡宇右エ門 長男 吉岡文吉 戸主(4代前の先祖)

嘉永四年(1851年)12月29日生まれ

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明治19年12月20日相続、明治22年10月31日 本籍地変更届受付、

明治37年4月19日午後7時死亡 20日届出受付

明治28年(廿:二十)1895年3月 富山県砺波郡東五位村より転籍来住

 

・・・・・

 

ここで気づいて欲しいことは、吉岡一門が北海道に来てから2024年現在でも「129年」しか経っていないのに、「北朝のバカども」は北海道神宮内にある「開拓神社」で「北海道150年祭」を行いましたが、これはお金をもらった「開拓神社の問題宮司」がやったことですので、北海道知事も、北海道神宮の宮司も「北海道150年祭」は認めていません。

 

北海道に最初に入って北海道中を占領したのは、「吉岡一門の吉岡西蔵頭領」だからこそ、勝手に北朝のバカどもが作った作り話を信じないで下さい。

「函館五稜郭」は1857年に完成しましたが「函館エリア」までが「北朝の領地」だし、1895年以前に富山県から苫小牧市に着いた時に、アイヌの葛野辰次郎エカシとの話し合いで、「北海道の地を吉岡一門に譲ると約束手形」を書いてくれた瞬間から「北海道」は吉岡一門のご領地と正式に決まったのです。

 

明治19年(1886年)に富山県を出た船が苫小牧市に着いた時から北海道は吉岡一門のものなので、お間違えないようにお願いします。

さらに言えば、その10年以上前から「小作たち」が北海道中を回って田んぼができる場所を探し回った結果として、1870年代から北海道は吉岡一門の持ち物なのに、勝手に使用料も払わずにいるので、2024年8月12日の「812戦争」が終わったあとに、生き残った「バカ者の北朝」たちまとめて請求しようと思っています。

 

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全戸主・吉岡文吉は、明治40年9月20日、本籍地変更届同日代理書記、昭和20年1月17日、午前、11時50分、本籍において死亡、同居者吉岡幸七郎届出、同月18日受付

昭和2年1月29日長男幸七郎の家督相続届出ありたるに依り、本戸籍を抹消す。

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<吉岡一門の現頭領 吉岡学の系図>

父・吉岡忠(六男・昭和4年9月24日生まれ)と妻・栄子(昭和8年1月30日生まれ)が守り、本家は四男の「吉岡信」が守ることとする。

祖父・吉岡西蔵(四男・明治23年7月2日生まれ)妻・あや・長男は吉岡幸蔵

曽祖父・吉岡文吉 嘉永四年(1851年)12月29日生まれ

 

・・・・

 

嘉永四年(1851年)生まれの亡き吉岡文吉戸主が、北海道に渡ることを決めた理由は、徳川家家老の水野忠邦が行った天保の改革(てんぽうのかいかく)によって農民も商人も食べ物がないのに重税で苦しめられたうえに、天候不順が続き食べ物ができなかったため、全国で「百姓一揆」が増発したため、富山県の民たちに食べ物を渡すために「食いぶちを減らす目的」として武士と農民を連れて500名が北海道へ移住する決断をしたそうです。

 

未開の地 北海道で生き残れるかどうかは、頭領の判断だったそうです。

 

「百姓一揆」は「北朝の武士」が自分のふところにばかりお金を溜め込み、庶民を苦しめ続けた結果ですが、「南朝の武士」たちは小作農や商人たちに少しづつお粥ができるように、コメとムギとヒエを分けて与えていたので日本海側のほとんどの地域で「百姓一揆」は起きなかったそうです。

 

そんな状況でも天皇家にだけは、美味しいお米と野菜を吉岡あやばあちゃんが送り続けていたそうです。

 

日本国がここまで悪くなった原因は、「天保の改革(てんぽうのかいかく)」を推し進めた先祖が第三国人で「家紋」さえない「水野忠邦が悪い」と父から聞いております。

水野忠邦像

 

※「水野」という苗字は、野っ原に水しか湧かない湿地帯に住んでいた奴らなので、食べ物もできない土地なので、他人のものを掻っ払う人間の集まりだと父から聞いております。つまり、「水野家」はもともと武士ではなく、武士を殺して勝手に武士だと名乗った「第三国人」だと言う意味です。

 

・・・・・・

私は「苗字」を見ただけで過去の一族がわかる「大名辞典」を覚えた人間だし、さらに「生まれつきの霊能者」なので、過去も現在も未来のことも分かりますし、相手のご先祖とも話ができますし、さらに「時間を超えて人間を霊力で殺す力」も持っていますので、余計な念は飛ばさないようにお願いします。私に念を飛ばした人間は、すぐに自分と家族にトラブルが起きます。

 

さらに言えば、「家の家紋でその家のルーツがわかる」ように吉岡一門の頭領が日本全国の武士に与えたので、自分の先祖は武士だと言っても家紋がない家は武士ではありません。勝手に、どこかの家紋をつけている馬鹿者もおりますが、ほとんどは「第三国人」です。

 

天皇家の菊家紋も「北朝」と「南朝」で違いますので、「家紋」を見ればすぐにわかります。

「天皇家だけに使う許可」を出した「丸に五三桐」も勝手に「豊臣秀吉」が使ったので「お取り潰し」になりました。

「吉岡一門が決めたルール」に従わない家は、必ず、3代続かず、「お家断絶」になります。

南朝家紋

北朝家紋

 

天皇家を守った「公家の藤原家の丸に上がり藤」も、吉岡一門の頭領が決めたのです。

藤原家 丸に上り藤

 

ご商売をする人がお店の玄関に垂らす暖簾(のれん)はもともと「野連(のれん)」と書き、自然界の草花が連なる意味がございます。

吉岡家は別れていない「一つのれん」、結婚した家が使う「二つのれん」、子供がかまどを持った家の「三つのれん」、子供が三人になった家の「5つのれん」という意味があり、5枚以上に分かれたものを「連のれん」と言います。

 

北海道芦別市常磐町にあった吉岡総本家は「のれん」ではなく、部屋の仕切りの「ランマ」に家紋を入れておりました。

 

 

歴史の真実を学びたい人は、「武士」が守った正しい歴史を理解するためにも、「映画 エイジオブ・サムライ」をぜひご覧下さい。

https://www.netflix.com/jp/title/80237990

 

 

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