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「吉岡一門の頭領」が背負う重責と「先祖カルマ」を説明します。

0歳から3歳まで両親に殺される体験をたくさんしました。

赤ちゃんの頃から言葉を覚えて話すので、親のセックスを「うるちゃい!うるちゃい!」と言い続けたので仏間に一人で寝かされましたが、それでも「うるちゃい!うるちゃい!」と言うので、大きな石を私の頭にぶつけようとすると、石が真っ二つに割れました。

父が日本刀で首を切ろうとすると刀が折れるし、母が出刃包丁を持ってくると、包丁が曲がって使えなくなりました。

オッパイも、最低限しかもらえないので、猫の餌を食べて猫の水を飲んでいました。

3歳になるまで毎日のように私を殺そうとしましたが、何をやっても殺せないので両親は狂ったようにいろんなことをしました。

冬山に捨てられた時は、熊の穴に入れてもらっておっぱいを飲ませてくれたし、狐が自分の食べ物を分けてくれたほど、山の動物たちとは仲良くなりました。

川に捨てられても、川の水が向きを変えて岸辺につけてくれるので、近所の人が家まで届けてくれました。

そんなことが3年間も続きましたが、30歳になって自白剤を手に入れたので、両親と兄になぜ、そんなことをしたのか白状させてから、記憶を消す薬を飲ませて楽にしてあげました。

 

3歳の誕生日を迎えた日に、「卵焼き」を兄に取らとれたので、取り返えそうとしたら「腹を切る」ことになりました。

 

兄はイタズラのつもりでやったのに、たまたま私が取り返した瞬間を見た父は、

「吉岡家に盗人は出てはいかん。お前、腹を切れ!」

と言って外へ連れ出されて正座させられました。

 

日本刀の小刀を持ってきて新聞紙を小刀に巻いてから「腹を切る所作」を教えてもらい、上半身を裸にされて股を開き、両手で小刀をつかんで「一気にL字に腹を切れ!」と言い、大刀を持った父は、「俺がお前を介錯してやる!」と言った父の目には涙が出ていました。

「泣くくらいならやらせなきゃいいのに」と言いましたが、「いいから、早く腹を切れ!」と言うので、自分でL字のイメージをして思いっきり腹に小刀を突き刺すと、父は一気に首を切ろうとしましたが、日本刀にヒビが入り、日本刀が折れてしまいました。

「今、もう一本、日本刀を持ってくるから待ってろ!」と言って納屋から新しい日本刀を持ってきましたが、結果は同じでした。

3本目の日本刀も折れたので、父は「もういい!飯にするぞ!」と言って家に戻ると、兄は私の卵焼きを食べてしまっているし、母は私のご飯と味噌汁を食べてしまっていたので私の食べ物は「漬物」だけでした。

 

漬物とお茶で「お茶漬けご飯」にしようと思っていると、母は、

「そのまま仏壇の前に行って、お前のお茶をご先祖に捧げなさい。」

と言うので、言うとおりに手を合わせて目を瞑って拝んでいると、私のお茶を母が飲み切っていたので、「漬物」だけ食べようとしたら、

「それはご先祖に祀ったものだから、勝手に手をつけてはいけないのさ。」

と母が言い、私が立ち上がると、

「さあ、お下がりを食べましょ!」

と母に「漬物」を食べられたので、私の食事は全て無くなりました。

 

仕方なく仏壇に向かって手を合わせて、

「1日でも早く私を死なせて下さい!」

と頼んでいると、父と母が

「頭が痛い!お前!拝むのをやめろ!」

と怒り出し、また日本刀を持って父は怒っていたのに、その日本刀も勝手に折れたので、

「このやろう!俺の大事な日本刀を折りやがったな!」

と私の体に刺そうとしましたが、その折れた日本刀も、また折れたので、父は座り込んで泣いていました。

 

母も腰が抜けて倒れながら泣いていますが、兄は残ったご飯を全部自分で食べて笑っていました。

 

これが私が、3歳から日本刀の訓練をすることになったキッカケです。

 

「正式な武士の訓練をして兄を守る腕を身につけろ!そうじゃないと、この家から追い出すぞ!」

 

と言われたので、毎日、朝昼晩のご飯前に「100回腕を振り」続けたので、腕が痺れてご飯は食べられず、誰もいない時にお米を齧りながら水を飲んで我慢していました。

「武士の腕振り訓練」を毎日を続けながら、母の手伝いをしてお米研ぎ、アルミ鍋でご飯を炊き、三徳包丁で野菜を切り、味噌汁を作ることを覚えたので、毎日、母の代わりにご飯を炊いて味噌汁を作り、漬物を切ってから、腕を振る練習をしていました。

 

兄も本当は小学1年生の6歳から武士の訓練をしなければいけなかったのに「やりたくない」と言ったので、私が4歳になった時に8歳の兄が「腕振り練習」を始めましたが、すぐに「面白くないからやめる!」と言って家に入ったので父に殴られましたが、結局、二度と「腕振り練習」はしませんでした。

 

「兄貴がやらないならお前が敵を殺すしかないので、もっと真剣にやれ!」

と毎日の腕振りが100回から1000回、1000回から1万回に変わり、どんどん手が伸びて長くなりました。

「1cmでも手が長くなれば、それだけ敵に刀が近づくので勝てるぞ!」

と言われながら毎日、20kgのお米を両手に持ち「上げ下げする訓練」も加わったので、肩が張り、腕も上がらず、疲れ果てて納屋で寝る生活が続きました。

それでも「ご飯の支度」をしないといけないので、毎日一人で準備をしてからまた腕を振り、「20kgの米袋を上げ下げ100回訓練」を続けました。

 

毎日、「家の床の拭き掃除」も、お風呂に外のポンプの水をバケツに汲んで貯めてから「お風呂を薪で沸かす」ことも「自分の仕事」になったので、アウトドアが流行っても絶対にやりたいとは思えませんでした。

 

防衛省に入った時に、自衛隊の訓練で「サバイバル」な状況下で何日も生き延びれるようになったのは、毎日「ミミズ」と「食べられる草」を食べて生きていたので、春から秋までは「ミミズ」が大事な「タンパク源」でした。

 

30代の頃に、「世界の栄養学のトップ」の人に自分の体験を話すと、

「玄米をそのままかじって水を飲むと、最高に栄養価が高いうえに消化が良いので吉岡さんはそのせいで大きくなったのですね!」と言われたので、「ミミズは体に毒ですか?」

と聞くと、「毒ではないですが、栄養価は低いです。」と言ったので、結局、納屋にあった「玄米」をかじりまくって水で飲み込むことが「強い健康な体」を作ることだとわかりました。

皆さんも「食べ過ぎ太り過ぎ」は病気になるので、どうぞ、「粗食」で生きて下さい。

体についているお肉は、死んだ時には上に持っていけないので「デブは重くて天国に持ち上げられないので下の地獄に落ちる!」と神様も申しておりました!

 

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「吉岡一門の頭領」が背負う責任と「先祖カルマ」

明治19年(1886年)12月20日、私の曽祖父である「吉岡文吉」が吉岡宇右衞門より、「家督」を相続しました。

明治22年10月31日、「本籍地変更届」を受理、明治37年(1904年)4月19日午後7時、53歳で死亡。

「吉岡文吉」:嘉永四年(1851年)12月9日生まれ

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1885年(明治18年)3月に、富山県砺波市五井村から「北海道芦別市常磐町」に移り住んだ「吉岡一門」の頭領である私の曽祖父の「吉岡文吉(34)」は、東京都港区にある「迎賓館赤坂離宮 延床面積は約1万5000㎡」よりも大きな家と高価な家財と庭を75年もかけて少しづつ増築して1960年に完成しました。

迎賓館赤坂離宮 

 

「大きな家」にした理由は、「明治天皇が吉岡一門の新しい家を見に行きたい」と言ったせいですが、3日間の予定が一週間も滞在したので、祖母の吉岡あや婆ちゃんは「とても大変だった」と言ってました。

この大きなお屋敷も、「1971年の吉岡頭領交代式」のあと、叔父の吉岡信に土地と家の権利書を盗まれて売られて取り壊されたので、今は何も残っていないうえに、勘当したはずの「吉岡信の長男・吉岡信一」に土地の権利書をやったので、すぐに小作に売ってお金にしてしまいました。

 

屋敷を壊す前にいろんな人たちがこんな素晴らしいお屋敷は日本にも世界にもないと写真をたくさん撮っていましたが、全て芦別市役所の職員がやってきて「裏切り者の北朝の指示」でカメラも写真も全て没収されたので、私の家の家族も本家の家族も「1枚も家の写真」は残っていません。

それほど、裏切り者の北朝たちは「吉岡一門の存在」が怖いし消したいからこそ、私が1989年から官僚の仕事をした時に、すぐに、官僚たちの顔が変わりました。

 

今、日本全国を動かしている上級国家公務員の官僚たちは、全国の知事や市役所に「命令書」を出して、「一切、吉岡一門に関わる資料を公開してはならず、全て焼却処理にしろ!この命令書を破った場合は、死刑とする!」と文書を送ったので、「吉岡一門の最後の頭領」が、どこにいて何をしているのかは誰も知りません。

 

「私が背負っている役目」を誰にも言わなかった理由は、北朝の奴らが私や私の家族を殺しにくるので、家族を守るために一切、自分の大事な役目のことは誰にも話しませんでした。

 

そこまで「北朝の裏切り者」たちに色々された私ですが、「国の仕事」を無償でたくさんし続けた理由は、「防衛省のトップの特別統合幕僚長」になった時に、吉岡一門の頭領たちが守ってきたものと同じだからこそ、誰にも自分の素性を言わず、ただ、「ダイエーの社員」としか言わなかったので、誰も私の素性は知りません。

 

2024年8月12日に「日本が戦争」になれば、国立図書館の裏に隠された書類も全て焼けて無くなるので「全ての事実を公開」していますので、どうか、嘘の事実を信じないで「正しい真実」を今日、学んで下さい。

 

私個人の思いだけ言えば、「日本を裏切り続けている官僚たちの家族や、北朝の家族も子供も全て切り殺したい!」ほど頭にきていますが、国防の仕事の「防衛省のトップの資格」があるので自分の思いを押し殺し、味方は誰もいないなか、「一人で戦争に対する準備をしてきた人間」ですので、実際に戦争になるまでの時間を、「今までの日本の仕組みや自分の価値観で生きて良かったのか?」を反省して子供達と話し合って下さい。

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1885年は、「太政官制が廃止」され、「内閣制度」が定められ、初代首相は「伊藤博文」になりました。

山口県光市出身の伊藤博文は、「南朝」を裏切って「北朝の武士」と手を組んだ吉田松陰(よしだしょういん)の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」の最初の塾生だったので、明治政府後の「初代首相」になりました。

 

吉田松陰(よしだしょういん)

黒船で密航を計画

1854年、24歳のとき、ペリー艦隊が2度目に日本に来たのを機会に、進んだ海外の文化に触れようと、下田に停泊中の軍艦に小舟で乗りつけ、海外に連れて行ってほしいと頼みます。しかし、この密航の申し出はペリーに受け入れられず、陸に戻った松陰らは牢に入ることになります。松陰の申し出はペリーの『日本遠征記』に書き留められました。やがて、イギリスの小説家で『宝島』の作者R・L・スティヴンスン(Stevenson)が「ヨシダ・トラジロウ」という短い伝記を書きました。

 

松下村塾(しょうかそんじゅく)

江戸の牢屋から長州藩の「野山獄(のやまごく)」という牢屋に移された松陰は、1年間に約600冊もの本を読み、また黒船への密航を振り返った『幽囚録』も書きます。

翌年「免獄」となり実家杉家に幽閉(ゆうへい)の身となりました。その間松下村塾(しょうかそんじゅく)を開き、高杉晋作(たかすぎしんさく)伊藤博文(いとうひろぶみ)ら約80人の門人を集め、幕末から明治にかけて活躍した人材を育成しました。

松陰は諸国を遍歴して見たことや、歴史書などを読んで得た知識などから、50冊以上の著作を書き残しました。1859年、29歳のときに安政の大獄(あんせいのたいごく) により、江戸で処刑されました。処刑前日に書いたのが『留魂録(りゅうこんろく)』です。松陰に教えを受けた人びとは、その後の明治維新や日本の近代化で活躍しました。

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パナソニックの松下幸之助社長のご先祖を聞いた時、この「松下村塾(しょうかそんじゅく)の「長州藩」の出だとわかったからこそ、私に「松下財産の全てのお金と資産を私に譲りたい」と言いましたが、お断りました。

吉岡一門の当時の頭領は、「外国の船が日本の周りをうろついているので、自分の藩を勝手に出るな!絶対に戦いをするな!」と全国の殿様に命令が出ていたのに、坂本龍馬は勝手に「土佐藩」を抜け出してあちこち動き回ったので、坂本龍馬は「脱藩の罪人」になり、「武士の資格は剥奪」されて小作になりました。

 

ただの「小作」に落ちた坂本龍馬は、日本刀の「二本差し帯刀禁止令」が出たので返却し、「土佐藩の家紋 土佐柏(とさかしわ)」を身につけることも禁止され「家紋入り着物」は全て没収されたので、

江戸の質屋から「葬式に出る時の着物」を借りて着て、その中に着ているものは外国の女物のブラウスを着て、「小刀1本」で写真を写したほど、金もなく、知恵もなく、肘をついて写真を写すほど、「正式な所作も知らない人を騙す天才」だと全国の武士たちには有名な「うつけもの」でしたので、「坂本龍馬は人を騙して金儲けだけはできる男」と有名でした。

土佐柏紋

 

 

「脱藩の罪人となり武士と口にすることを禁止された坂本龍馬」は、日本の武士制度を転覆させたい「長州藩の吉田松陰」に「金儲け話」を持っていき、真っ二つに割れていた「薩摩藩 大久保利通(おおくぼとしみつ」長州藩 木戸孝允(きどたかよし)のちの桂小五郎」に金を渡して手を組ませ、鹿児島県の西郷隆盛を動かして「薩長連合」を作り、「江戸城無血開城」をした人間です。

江戸城無血開城

「江戸城無血開城」は「吉岡一門の頭領の許可」なく勝手にやったことなので、「江戸城無血開城」に関わった人間は全員、「武士の資格剥奪・日本刀の二本差し帯刀禁止・財産没収」となったので、誰も自分の藩の「家紋」が入った着物を着れないし、「日本刀を2本持つことも禁止」されたので、写真を見ると「家紋がない着物」か「他の藩の着物」を着て写真を写しているほど、「吉岡一門頭領のおふれ(命令書)」は絶大なる力があった時代です。

もし、「吉岡一門頭領の命令」を破った場合は、「本人だけでなく、親子兄弟姉妹の全てを切り殺して良い」という「おふれ(命令書)」が全国の殿様に出たので、身を隠すように生きながら「西洋の洋服」を着ていた「うつけもの奴ら」です。

長州藩 高杉晋作 

長州藩毛利家家紋 一文字三星(長門星)

薩摩藩 大久保俊充

薩摩藩 島津氏の家紋は「丸に十字」

 

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吉岡文吉の四男である「吉岡西蔵」は7歳の時に「吉岡一門の頭領」となった時、父親の「吉岡文吉」に真剣勝負で勝ったので、自分の父親を自害させて介錯したあと、自分の兄弟である「長男 吉岡幸蔵」、「次男 吉岡大八郎」、「四女 キヨ」、「三男 吉岡菊蔵」、「五男 興作」に「自害せよ!」と命令しました。

腹に子供がいた女だけは生かしたと父が教えてくれましたので、嫁に出た姉も斬り殺すのか?を父に聞くと、

「苗字」が違うから放置し、自害しなかった兄弟姉妹を小作農たちが縄で縛り、目と口に縄を噛ませて白いサラシを巻いてリヤカーに乗せて、パンケホロナイ川の河原に並べてから、一気に首をはねて切り殺した事実が、「戸籍謄本」には記録されています。長男・吉岡幸蔵の側室の女も子供も全て同じ日に、切り殺しました。

明治30年(1897年)4月29日 パンケホロナイ川で全員死亡

 

吉岡一門の武士の「家訓」は、「非情・無情・ただ役目を果たすのみ」だから、当然なのです。

 

これは「吉岡一門の頭領になった人間の宿命」で、「家督は長男」に一時的に渡しますが、長男が12歳になった時、兄弟一緒に「日本刀の果し合い」で勝ったものが「頭領」になり、12歳になると「元服」して正式な男として社会的に認められるしきたりなのです。

だから私は、父にも兄にも従兄弟たちにも真剣勝負で勝ったので、「全員を殺しても良い資格」はあるのですが、父が「俺は殺して良いが、長男だけは生かして欲しい」と言ったので、本当にこの「優しさが仇」になっていると泣いたこともありましたが、自分の兄貴に金を奪われても一切、反論しない父の「優しさの裏側にある覚悟」を見たので殺すのはやめました。

 

吉岡一門のルールは、「真剣勝負」で負けた家の「長男」とその家族兄弟子供を全てを切り殺して因縁が残らないようにすることが「掟」となっていますので、とても辛い思いを抱えて生きることが「吉岡一門の頭領」という役目なのだとご理解下さい。

家族親族を殺してでも守る苦しみと辛さを背負って、天皇家を守り、日本国を守ってきた一族なので、どうか、自分の子供に何を伝え、何を家訓とするのかを話し合って下さい。

こんな事情を抱えながら、「吉岡一門の全ての家や土地や財産」、「世界中にある全ての吉岡一門の資産」に加えて、日本全国の全ての小作農たちに貸し与えてお米を作らせた「土地も家も全て引き継ぐルール」になっていますので、世界中で「吉岡一門の頭領」は恐れられる存在だからこそ、私は自分が「吉岡一門の最後の頭領」だとは決して誰にも言いませんでした。

 

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私の祖父の「吉岡西蔵」は、明治43年(1910年)8月23日に「一の分家(吉岡忠)」に届出し除籍」と書かれていますので、吉岡西蔵の六男である私の父の吉岡忠は1929年生まれなので、19歳で吉岡西蔵を切り殺し、長男が受け継いだ全ての資産を相続したことがわかります。

北海道芦別市常磐町に来て、田んぼでお米ができて生活ができるようになるまで「果し合い」はできなかったと父は言っていました。

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私の父の吉岡忠は、「12歳で吉岡一門の頭領」になりましたが、親兄弟姉妹父母を殺さなければいけない宿命があるので、自分から「小作になるから、一切の財産はいらん!』と、父・西蔵と母あやに伝え、家を出る許可をもらいました。

「小作農になるにも家はいるだろう」と、小さな家をお寺の近くに「親から借金」して家を建ててもらい、3反(たん)3畝(せ)(約1000坪)だけ田んぼを貸してもらい小作農になりました。

「武士の頭領」は常に「3両3分3銭」を持っていることが「たしなみ」で、「吉岡小判の金の純度」は高いので、1両が60万円から350万円もしたので「現在の価値」で言えば、「1000万円」を常に持ち歩いたことになりますが、私はクレジットカードがあるので大丈夫かな?

 

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「吉岡忠」は、昭和29年(1954年)3月8日に25歳で母・岩渕榮子(21歳)と結婚しました。

この結婚も、「娘二八か二九からず(結婚適齢期は16歳から18歳)の時代」に行き遅れた母(21)の母を戦争に二度行った名誉傷痍軍人の岩渕安治に土下座された「母・吉岡あや」が認めた結果の結婚です。

私は中学1年生になる前に「頭領」になったので、「祖母の吉岡あや」に当時のことを聞いた時、

「岩渕の爺さんが松葉杖を捨てて、玄関の外に三日三晩座り込んで、どうか、うちの娘の榮子を嫁にもらって下さい。行き遅れの21歳の気が強い女ですので、吉岡の厳しい家に嫁ぐ覚悟はできております。もし、それが無理なら、この場で私を切り殺して下さい。」

と自分の北朝の日本刀を出して、腹を切ろうとしたそうです。

祖母の吉岡あや婆ちゃんは、「男にそこまでされたら許すしかないでしょ」と笑っていましたが、本当は薙刀で斬り殺すつもりだったのに、足が痺れて立てなかったからだと笑っていました。

 

祖父の「吉岡西蔵」は、私の1歳の時の「昭和35年4月6日午後7時30分、札幌市南一条西16丁目291番地で死亡」と戸籍謄本に書いてありますが、持病を持っていたので札幌市の「NTT東日本病院」に行った帰りに、吉岡本家の代理長男である「吉岡信(四男)」が小作農に小判を渡して殺させたことを父・吉岡忠から聞き、驚きました。

 

吉岡信が12歳になった時、父である「吉岡西蔵との果し合い」で負けたし、弟である私の父(吉岡忠六男)にも負けたのに、自分の兄を斬り殺さなかった父・吉岡忠の恩を忘れて、自分の父親の「財産欲しさ」に父親を殺し、吉岡一門の財産を独り占めして好き勝手に使っていたそうです。

 

吉岡あや婆ちゃんに聞いてみると、

「吉岡西蔵は賢い人で、吉岡信と、吉岡忠と、あや婆ちゃんに「小判がびっしり詰まった1000両箱」を3箱、残していたそうですが、自分の1000両箱は使い果たしたあと、吉岡忠の1000両箱も使い果たしたし、最後のあや婆ちゃんの1000両箱にも手をつけていたので、残っていたのは「700両だけだ」

と教えてくれ、私の教育が間違っていたと泣いていました。

 

そんな頭がおかしい吉岡信は、1971年の「私の12歳の頭領襲名式」の時にさらに酷いことをしました。

吉岡一門のルーツは、「見栄っ張りの明治天皇」とは違い、「本当のお金持ち」は見える場所に豪華なものはおかないし、高価なものを身につけるのは冠婚葬祭だけと決まっています。

だから、貧乏人が高価なブランド品を身に身につけている女性を見ると、「親の躾が悪い!育ちがわかる!」と、とても怒っていたほど、躾に厳しい家です。

 

もともと、吉岡一門の頭領は、「十手持ち」、つまり、警察官のトップであり、裁判官のトップであり、市役所・区役所・都道府県知事・消防署・防衛省のトップの人間だったので、人を切り殺しても一切、罪に問われる立場ではありませんし、その場で全てを判断して斬り殺す役目でしたので、自分から人を切ることはしない一族です。

自分勝手に刀を振り回し、庶民や商人を斬り殺すのは、全て「北朝の愚かな武士」だとご理解下さい。「北海道の五稜郭」をアイヌからもらったのに、「アイヌと戦ってたくさん殺した」のも、日本国の裏切り者の「北朝の奴ら」です。

 

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迎賓館赤坂離宮の延床面積は約1万5000㎡」よりも大きな家には、世界中の国王たちから送られてきた品物がたくさんありましたが、多くの場所で保管されているのを見つけましたので場所を教えます。

薩摩藩の西郷隆盛が「吉岡一門を裏切ったお詫び」に「最高級の薩摩焼」で作ったものをたくさん送ってきたので、そのまま「島津藩の商人」に引き取るよう父が電話して、日本通運の大型トラック20台以上で運んだものが、鹿児島県に二箇所展示してありました。

 

薩摩伝承館 鹿児島県指宿市東方12131−4

ここに展示されているものは、北海道芦別市常磐町の吉岡本家にあったものです。

 

別な場所でも「屋敷の一部」をそのまま移した場所を見つけました。名勝 仙巌園 – 薩摩藩 島津家別邸  仙巌園」にあるものは全て北海道芦別市常磐町の吉岡一門の本家にあったものです。

 

北海道に残っている物もいくつも見つけました。

明治天皇に見せるための豪華な大きな庭と露天風呂が見えないように竹と木で中を隠した庭がそのまま、北海道苫小牧市のオーリゾートアルテンの中にある「湯のみの湯」という温泉施設の「男女の庭」になっています。

このお湯を飲むと男性はオチンチンが元気になるし「子種」もできるし、女性は婦人科の病気が全て治る「お湯」だからこそ、「湯のみの湯」と父が名づけました。現在は、第三セクターの行政施設になっています。

もともと、この「アルテンの温泉」は、富山県から船でやってきた吉岡一門の500名の団体が入った温泉だったので、毎日のように仕事が終わると温泉に入り、下半身が元気になるので地元のアイヌの女性と交わり、苫小牧や白老に住み着いた人たちがたくさんいます。

 

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