【防衛省】「第三次大戦」が始まる前に「第二次大戦の真実」を学んで下さい。
吉岡一門 頭領にだけ伝わる「真実の日本史」
昭和天皇(北朝)が「マーゴのWarGame」に乗って「日本が大東亜戦争に負けるほうに賭けた」せいで、「1945年8月12日 ポツダム宣言に調印」した結果、「日本の負け」が決まってしまいました。
正しい終戦記念日は「1945年8月12日」なのに、「お盆と終戦記念日を一緒にすると私の名前を忘れないと思う」と昭和天皇が言ったせいで、終戦記念日を「8月15日」に変えてしまいました。
この事実は私が「官僚」の時代に、「19代藤森昭一宮内庁長官」と「20代鎌倉節宮内庁長官」に文句を言いに行くと、「今さら変えても国民が信じないですよ」と言ったので、
「お前たちが勝手に馬鹿な昭和天皇の言いなりになったせいなのだから、自分たちの責任で北朝の嘘を世の中に公開しろ!!!」
と怒鳴ってやりましたが、「二人の宮内庁の長官」も「財務省の小指チンチン鈴木友康」から賄賂をたっぷりもらっていたので、今も誤魔化し続けて国民を騙したままです。
国民は何を信じれば良いのでしょうかね?
戦中戦後の体験をした私の両親たちの「昭和一桁生まれ」は、戦後、「日本は侵略戦争を始めた」と「共産党員の先生と憲兵」に見張られながら、それまで使っていた教科書を全部、墨で真っ黒にぬりつぶした体験を聞いたほど、北朝の裏切り者たちは歴史の真実を消したかったようです。
大東亜戦争が起きた真実の理由は、侵略戦争ではなく「大東亜連合の植民地開放」を助けるための戦争だったのに「北朝の武士」と「宮内庁」と「官僚たち」がアメリカGHQからお金をもらって全く違う歴史にしたせいで、日本人の大事な歴史は全て改竄されてしまい、愚かな日本人は「アメリカと中国が言うことは正しい」と嘘を信じ込まされて「日本人としてのプライド」を徹底的に落とされてしまい現在に至ります。
「歴史事実を消して民衆支配をする方法」は、イギリスが昔からやっていたことなのでアメリカもその真似をしましたが、私が世界中に行って、「自分は日本と天皇家を守り続けた吉岡一門の最後の頭領です」と言い、「戸籍謄本」を見せて土下座しただけで、「国賓扱い」にはなるし、世界中の国王たちが保管していた「正しい歴史書」と「日本軍の軍服に似た服」を見せてもらい、「お互いに悔しいよな!」と泣きながら酒を一緒に飲み交わしました。
1989年11月に行ったインドのモディ首相は、「一緒に大東亜連合の新しい希望を作ろうではないか!!」と言って、「自分の一番若い妻に私の種を入れてくれ!!」と言われたので、翌年、「息子」が生まれたので、私のインドの国王名「サラダ・ムカヒ国王」と「インド国国交大使」が与えられました。
この話を聞いた「大東亜連合の国王たち」全員が、「自分の娘にも種を入れてくれ!」と頼まれたので、毎年、男の子が次々に生まれて「国賓扱い」になりました。
大東亜連合の国々の国王も、自分たちの国王名を私につけたかったようですが、「国の数が多いので同じ名前にして下さい」と頼んだ結果、「ムハド・サディ国王」と「大東亜連合国国交大使」という正式な名前と役職名を頂いたので、「外務省の報告書」には記録されています。
大東亜連合に加盟して日本と一緒にアメリカと戦った写真や、日本兵の軍服に真似たものを自分たちで作り、たくさん一緒に大東亜戦争で死んだ戦没者のリスト」も見せてもらいながら、それぞれの国は「日本が戦争に負けたせいでイギリスの植民地になった」と教えてくれましたが、その思いを払拭するためにも「私の息子」が重要なのです。
インドのモディ首相は、「吉岡学さんは、拳銃で撃っても死なない」と聞いたので、「息子の肩を少しだけ拳銃で撃ってみたが、やはり傷の治り早かったよ!」と教えてくれましたが、素直なとても親しい国王ですので、日本人の皆さんは世界から日本がどう見られているをアジアを回って自分の目と耳で聞いて下さい。
「大事な戦友であった大東亜連合を無視した日本」に対してアジア諸国の国王たちは最初は文句を言い続けていましたが、私は、黙って全ての文句を聞いたあと椅子を降りて床に土下座して謝り、
「信じなくても良いですが、私は天皇家よりも古い先住民のトップの薩摩隼人の父と、卑弥呼の母が産んだ「神武天皇」の子孫の家系で、「日本の武士の最後の生き残り」ですので、日本に文句があるなら私の首を切り落として下さい。
私の吉岡一門の先祖の全ての思いと、皆さんの国の一緒に戦ってくれた兵士たちの御霊に対して、心からお詫び申し上げます。」
と土下座した結果、大東亜連合の全ての国王たちが私を認めてくれて、「新・大東亜連合」が誕生しました。
「戦前の大東亜連合」よりも参加国はたくさん増えたので、私が官僚の仕事から手を引いたあと、安倍晋三総理にお願いしたので、早めに総理を辞めて、「新・大東亜連合の国王」たちに挨拶に行ってくれましたし、「秋篠宮文仁(ふみひと)」も「徳仁(なるひと)天皇」にも伝えておいたので、個人的にお礼とご挨拶に行ってくれています。
それでも日本を裏切っている官僚たちは、あらゆる真実を消したくて、私の大事なものを盗んだ「泥棒」ですので、全員に処分命令を出していますので、「マーゴの戦争が始まる前にネットに真実」を公開して下さい。真実を公開した官僚の命だけは、助けるよう伝えてあります。
「期限は9月9日のパラリンピックの閉会式」までですが、戦争が始まると全ての通信回線は壊れてしまうので、1日も早くYOUTUBEで自白して世の中のマスコミにも出して下さい。これが、最後のチャンスです!
「まさか、昭和天皇が日本を裏切ったの??!!」と思う人も多いと思いますが、昭和天皇は「室町幕府の足利尊氏」の策略の乗せられて、京都で新たに「光明天皇(北朝・持明院統)」に「偽物の三種の神器」を持たせて勝手に「次の天皇は俺だ!」と言い張ったことから始まった「天皇家を二分した大事件の張本人」なので織田信長に殺されて当然なのです。
日本の武士を束ねていた「吉岡一門の頭領」は、仕方なく日本中の武士に通達文を出して、
南朝でも北朝でもどちらについても「吉岡一門の武士」なのだから「くだらない天皇家の争いごと」だが、武士が天皇家を支えると決めたので、自分が正しいと思うほうに付いて良しとする。」
という「密書」の原本は、「吉岡一門の伝承箱」に保管されていますので、正しい歴史を知っているのは「南朝の最後の頭領」の私だけですが、私は「北朝側についた武士」は許しませんので全員成敗します。
天皇家の歴史は、百済から佐賀県の「唐津市」に入ったことを「秋篠宮文仁(ふみひと)」が「宮古島の新庄定吉さんの石庭」を尋ねた時に新城定吉さんが直接、質問して答えてくれましたが、「私たち天皇家は百済から来たと聞いています」と言ったことを新城定吉さんから教えてもらいましたので「渡来人なのは事実」です。
「秋篠宮文仁(ふみひと)」も「徳仁(なるひと)天皇」も、私の父の「吉岡忠の種」なので、私は二人の兄であり、「三人は兄弟」だと「血液検査」だと3人は確認しておりますし、「吉岡一門伝承箱」に入れて保管してあります。
「秋篠宮文仁(ふみひと)」も「徳仁(なるひと)天皇」も、2005年から私のブログを読んでいたそうで、本当は「徳仁(なるひと)」が「宮古島の石庭」に行きたかったそうですが、代わりに「秋篠宮文仁(ふみひと)」が行ったと本人たちから直接、話しを聞き、私のブログのどこが面白いかを聞くと、「吉岡学兄さんみたいに日本にも世界にもあちこち行けるのが羨ましいです」と徳仁(なるひと)が言ってました。
天皇家の始まりとされている「神武天皇」から、「吉岡一門の頭領の種」を入れているので、私の種も「裏天皇」と呼ばれている「皇室の女」に精子を注射器で取られたので、現在は冷凍保存されて次の準備に入っていると思いますが、とっくに世界中にも日本中にも「私の息子は300人以上います」ので、時が来たら「上皇天皇昭仁」には死んでもらい、
「上皇天皇徳仁(なるひと)&秋篠宮文仁(ふみひと)天皇」にして「正しい南朝の血筋」に戻してから「北朝の皇族(女)」たちは全員引退してもらうことは決まっていますので、北朝の裏切り者たちはあと少しの命でございます。
だから、1日も早く「国を裏切っている官僚と長官」は、テレビとネットで世界中にお詫びをしてから真実を告げて下さい。そうしないと家族も子供も全員処分されますよ!
「裏切り者の官僚と長官の家族の戸籍謄本」は全て手に入れているので、最近、福岡 国道でバスと軽乗用車が正面衝突 7歳と5歳の姉妹死亡事件も「暗殺集団の仕事」ですので、1日も早い内部告発を全国民も楽しみに待っています。
「財務省の小指チンチン鈴木友康」だけは、家族親族・祖父母の親族にも「全員の暗殺命令」が出ています。鈴木友康が殺した人数は数千人いますので、当然の処罰です。鈴木友康のスパイたちは早めに連絡してあげて下さい。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240818/k10014551961000.html
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天皇家が日本に入った正しいルート:
朝鮮半島 狗邪(くや)⇒対馬(つしま)⇒壱岐(いき)⇒末盧国(唐津市)
南北朝時代 (日本)
日本の歴史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい、旧字体:南北朝時代)は、日本の歴史区分の一つ。鎌倉時代と(狭義の)室町時代に挟まれる時代で、広義の室町時代に含まれる[1]。始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)[2][注釈 1]、終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である[2]。始期を建武の新政の始まりである1333年とする場合もある[3]。
室町幕府
室町幕府(むろまちばくふ)は、室町時代における日本の武家政権。征夷大将軍となる足利尊氏が京都で創始した。 その称は3代将軍足利義満が移した、花の御所に由来する。足利幕府(あしかがばくふ)ともいう。 義満の時代に南北朝が合一(明徳の和約)され、全盛期を迎える。嘉吉の乱によって白昼堂々と6代将軍足利義教が殺害されると、足利将軍の権威は低下、管領細川氏、細川氏の家臣三好長慶に実権を奪われ、最後は織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。