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松下幸之助社長の最後の言葉

1982年4月1日に行われた「株式会社ダイエーの神戸ワールド記念館の入社式」のあと、初めてお会いした松下幸之助社長は、とても頭が良くて礼儀正しくて優しい人で人でした。

私は1959年1月10日生まれの「23歳」、松下幸之助社長は1894年11月27日生まれの「88歳」、65歳年上の大先輩でした。

▶️神戸山口組 1 三代目 田岡一雄組長との出会い

 

1989年4月27日に94歳で亡くなるまでは、1982年からの7年間は、2、3ヶ月に1回は必ず、わざわざ私の休みの前に私の休日を中内功社長が勝手に調べて札幌まで会いに来てくれたお二人ですが、「ダイエーの中内功社長」はいつも何も言わず「筆頭取締役」から困ったことを相談させるばかりで「お礼のお金は一円ももくれないケチ」で疲れる男でした。

 

それに対して、松下幸之助社長は、「新商品のアイデアやデザインや使い勝手の不満」を聞かれるので、「自分は給料が安いのでパナソニック製品は買えませんが、いろんなお店の電気売り場を回って従業員に質問を浴びせて問題点を聞き出します」と教えて直接、電話すると、すぐに「取締役会」を招集して現場の改善をすぐする人だったので「パナソニックのヒット商品の多くは私のアドバイスと特許商品」がたくさんありました。

「ヒットを出せる商品開発のポイント」や「CMのインパクトやモデル選び」や「従業員の教育体系」を質問する頭の良い人ですが、質問が多くて高いご飯も食べられないで、最後はいつもラーメンを食べて帰りましたが、最後に必ず、「お礼のお金」を渡そうとしますが、「一切、お金を頂かない」と決めたので、一円もアドバイス料は貰っていませんが、とても勉強になる時間でした。

 

「おい、吉岡、酒を飲みに行こう!」と電話するのはいつも松下幸之助社長の「担当」だったので、札幌だけでなく、東京や大阪や神戸にいる時にタイミングよく電話が来るので、「先祖のご縁が深い人だなあ」とご本人言うと、「俺の先祖はきっと吉岡一門に失礼なことはしていないからさ。中内はきっと罪人なんじゃないのか?」と笑って「冷や飯食いの中内功社長」をいつも笑っていたので、いつもいじけている中内功社長でした。

 

松下幸之助社長と二人きりの時の呼び名は決めていて、松下幸之助社長が私を呼ぶ時は「まーちゃん」、私が松下幸之助社長を呼ぶ時は「こうちゃん」と、お互いに子供の頃に親に呼ばれた時の呼び名で東京の銀座の最高級クラブで呼び合うと、聞いていたママは「親子か親戚ですか?」と聞くので、

まーちゃん)「65歳も年上の親はいないので、俺の爺ちゃんより9歳年下の他人です!」と言ってよく笑っていました。

 

幸ちゃん)俺は女一人の子供しかできなかったので、きっと、吉岡一門に失礼をしたと思うので、今、できることは全部やるので何か要望があれば言ってくれ!

 

まーちゃん)じゃあ、歳を取らないでもっと若くなって長生きして下さい。

 

幸ちゃん)では、若造りの整形でもするか?若くなる薬はまだできないのかな?

という人でした。

 

 

東海道新幹線の駅ごとに「女」を囲っていたので、囲っている女に「手切れ金」を持って行ったり、「孫のヒロ松下」がアメリカに行く前に勇気づけてやったりと、色々、お世話をしましたが、お礼に「松下一族の大豪邸」に招待されて奥様の松下むめのさんと長女の松下幸子さんの手料理を食べさせてもらいました。

 

その日の夕方、仕事を終えた松下正幸(パナソニック副会長、孫)、ヒロ松下(レーシングドライバー、孫)、関根大介オープンドア創業者、曾孫)、井植歳男三洋電機創業者、むめのの弟)と一緒にお酒を飲みましたが、酔っ払いすぎて家に泊めてもらった翌朝は、誰も家にいないので、さすが「早起きは三文の徳」の「成功者の家」だと驚きました。

あれだけ有名な人なのに、「経営の神様の松下幸之助社長」だけは私の「札幌の社長会」に一人でやってきて、黙って私が他の社長にするアドバイスを聞いてから、

「みんな俺がいると緊張すると思うので、もう帰るけど、あとで、ゆっくりわかりやすく俺にも教えてくれな。」

と言って帰った人なので本当に賢い人でした。

 

 

私が、「武士の吉岡一門の一門の最後の頭領です」と話すと、カバンの中にあるたくさんの「武士の書物」を見せてくれましたが、「これは全部「北朝の話」なので、でっちあげもたくさんあるので信じないで下さい」と言っておきました。

 

まーちゃん)私は岡山理科大学の数学科の出だと話したと思いますが、実は、18歳から防衛省のコンピュータープログラムを全部一人で作りましたが、内緒ですよ!

 

幸ちゃん)また、まーちゃん、あと、幾つ俺に隠し事があるんだい?

 

吉岡)えーと、ダイエーの労働組合の他に「国の仕事」をタダで手伝っておりまして、外務省・総務省・経済産業省・・・合計21個の役職がありますが、全部、タダでやっています。

 

幸ちゃん)空いた口が塞がらないので、歯医者に行くわ。

と言って大笑いしました。

 

まーちゃん)それは「歯医者」じゃなくて、顎なので「整形外科」か「口腔外科」じゃないですか?

だって、私は日本全国の「国立病院の統廃合」を一人でやった人間なので、「医学書」も「六法全書」も全部覚えたので大体のことはわかります。

 

幸ちゃん)じゃあ、今、ちょうど腰が痛いので医者にもらった薬を飲むので見てくれよ。

 

まーちゃん)だったら、私がまず「ヒーリング」をして痛みと取りますよ。

 

幸ちゃん)まーちゃんは、「霊媒師」だったのか?じゃあ、俺がいつまで生きるか教えてくれ。

 

まーちゃん)大丈夫です!死ぬまでは生きますよ!

 

幸ちゃん)女の最後の「イクイク」と言って死なない女と同じじゃないか!

と大笑いした関係です。

 

幸ちゃん)じゃあ、今までエッチした人数は何人くらいいるんだ?

 

まーちゃん)それは聞かないほうがいいですよ。

 

幸ちゃん)俺は今まで「四十七人」としたので、武士の四十七人切り殺した人数と同じだ。

 

まーちゃん)すいません、もう1,000人を超えたので数えるの辞めました。

 

幸ちゃん)まーちゃんは、「仙人」だったのか・・・知らんかったなあ。

と笑える関係でしたが、それを聞いていた銀座のママは、「私はまだして貰っていませんよ(^^)」という綺麗な人でした。

 

まーちゃん)松下幸之助さんの奥さんは、外の女のことは知っているんですか?

 

幸ちゃん)俺は嘘がつけない人間なので全部話したさ。でも隠したほうがいいこともあるらしいな。まーちゃんは奥さんに正直に言ったのかい?

 

吉岡)20名まで同時に付き合っている女の歳や関係性は言いましたが、残りの女は言ってません。それが「思いやり」です。

 

幸ちゃんまいったなあ、俺はまーちゃんに勝てるものがひとつもない老人だなあ。

 

吉岡)いえいえ、年に敵わず、女に敵わず、お金に敵わない、「最高の先輩」なので、早く死なないで下さいね。

とお願いすると、銀座の高級クラブの全員に聞こえるほど大きな声で泣き出して止まらない素直な人でした。

 

 

ご家族でも会社のスタッフでも知らないことはたくさん一緒に体験しましたが、全て私と松下幸之助さんだけの会話なので、初めて今、公開しました。

 

関西で「女体盛り」ができる温泉があるので一緒に行こう!と言ったので、一緒に見て触って食べましたが、松下幸之助社長は、「見ているだけでもういっちまったわ。俺の代わりにセックスしてやってくれ!」という楽しい人でした。

 

 

松下幸之助社長が死ぬ間際に、一緒にパナソニックグループの統廃合をした最も信頼がある男性秘書から電話があり、

「吉岡さん、まもなく松下幸之助はこの世を離れますが、最後に言いたいことがあるそうなので聞いてあげて下さい。」と電話がありました。

 

松下幸之助)吉岡さん、いや、まーちゃん、すまんなあ。

最後の最後まで色々やってくれて・・・。

だからな、「最後の最後の頼み」なのでこれくらいは引き受けてくれよ。

 

俺が残した金は家族の分は十分やったので、最後に残った「松下財団のお金と資産を全部お前にやるから、頼むから「松下グループの社長」になってくれよ!!

あの時、松下グループの全ての取締役会でも「お前のグループ社長は承認された」ので、お前の「社長の権利」は今も生きているんだぞ!!

いつでもお前がやってくれるなら、すぐに今の社長たちは下がるので、これが俺の最後の願いだから聞いてくれよ!!!な!頼む!

 

吉岡)今、ご家族全員、揃っていますか?

 

松下幸之助)おう、いるぞ!孫もひ孫も全部聞いているぞ!!それに「松下グループの取締役」もみんな来てくれたので聞いているぞ!!

 

吉岡)じゃあ、こうしましょう。

もし、私が立て直した「松下グループ」が存続できないくらいになる前だったら、私が「社長」になってもいいですが、「松下財団」はご家族の家も敷地もあるのでご親族で守って住み続けて下さい。

私は松下幸之助社長があまりに好きすぎてたまらないので行きたいのは山々ですが、知り合いが多すぎるので、きっとお葬式にはいきませんので、ご家族の皆様、取締役の皆様、本当にすいません。

でも、私の人生の出来事の中で、あの「経営の神様」が「神戸山口組のヤクザ」だったという事と、こんな私を可愛がってくれただけでもう十分、お礼は頂いています。

これ以上、ご家族の思いを感じると立っていられないので、もう電話は切ります。

 

最後に、一番信用がおけるスタッフの男性にお願いします。

松下幸之助社長が「煙」になったら電話を下さい。

私が綺麗にこの世の思いを天に上げて御霊を綺麗に磨いて送って差し上げます。

今まで本当にありがとうございます!!失礼します!!

 

・・・・・・

 

平成元(1989)年4月27日、午前10時6分に94歳で永眠

昭和が終わりを告げた春、風邪をひいた幸之助はそのまま気管支肺炎を起こし、94年5ヶ月にわたる生涯を閉じた。

平成元年4月27日午前10時6分。波乱に富んだ人生とは対照的な、安らかな顔で迎えた最期であった。

国内外のマスコミが大きく報じ、訃報は世界を駆け巡った。密葬に1万2千人、松下グルーブ各社の合同葬には約2万人が参列。アメリカ合衆国大統領をはじめ、世界中から多数の弔電が寄せられた。

まだ電灯さえ普及の途にあった明治の終わりに電気の世界に身を投じ、マルチメディア時代を目前にした昭和の終わりに幕を引いた幸之助の生涯は、日本の電化時代を象徴する立志伝であった。

世界の繁栄という大きな願いを、あくまで追い求める高邁な精神と同時に、常に世間の人々と同じ立場に立つ庶民性を併せ持つ不思議な魅力。

そして、火鉢屋の丁椎を振り出しに、幾多の困難を強い信念で乗り越え、自らの「道」を切り拓き続けた生き方は、今もなお、多くの人の心に生き続けている。

・・・・・・

私は知っている人たちが多すぎるので「葬儀」には行きませんでしたが、最後に「弔電と一緒にお手紙」を書いて送ると、葬儀の最後に読み上げてくれたそうで「ビデオテープ」を送ってくれて見ましたが、見ると涙が止まりませんでした。

よく使っていた銀座の最高級クラブで女の子に「希望の言葉」を書いてあげていると、松下幸之助社長が「俺もに何か言葉をくれよ!」と言うので、私が色紙に書いた言葉を大事に持って帰り、社長室に飾っていたそうですが、亡くなったあとは、自宅のお部屋に飾ってくれたそうです。

その言葉とは・・・、

「心を定め 希望を持って歩むならば 必ず道はひらけてくる」

パナソニックグループのホームページに、掲載してくれていますが、「松下財団」はまだ貰っていません。松下グループなら、いつでも社長くらいはやってあげますので、スタッフに連絡を下さい!

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