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【外務省】インドのナレンドラ・モディ国王と私の関係

1989年12月、外務省の仕事で「インドのナレンドラ・モディ国王」に初めてお会いした時、第一印象は「老けた人」だと思いましたが、私が30歳、モディ国王が39歳だとわかり驚きました。

さすがに「国王」だから気づかいで老けたのかと聞くと、「私はもともと老け顔だ」と二人で大笑いしました。

インドのナレンドラ・モディ国王&首相は、1950年9月17日 生まれなので現在、74歳、私は「9歳年下」です。

 

 

私の子供がインドに13人いる理由

一番最初のインドの子供は、1989年にあ最初にモディ首相と仲良くなり、お礼の気持ちでベットに「添い寝」してくれた「本妻の女性」で私よりも年上だったし、生理は上がっていたので子供はできませんでした。

世界のトップレベルの人たちは、信頼がおける仲間としてお互いが一番大事にしている女性を抱かせることが「信頼の証」なので、断ると「国交条約」は結べませんし、2度と会ってくれなくなります。

翌朝の朝食の時に「本妻の感想」を聞かれたので、「正直に申しますがと、年上はあまり好みではないです。」と言うと、「私は年上も好きだけどなあ。だったら今夜は一番若い女にするからもう一晩、泊まっていきなさい。」と言われて、中学生くらいの「一番若い背が小さい女性」が「添い寝」をしてくれました。

確か「インドネシアの国王の娘」だと思いますが、「自分の娘を信頼がおける国王の側室に出すのが本物の友達の証で礼儀」だと教えてくれたし、「大東亜連合の国王たちにも自分の娘を側室に出しているし、子供もいるのでいつか会わせたい。」と言ってくれました。

私の「お礼用の女」は一緒に連れて行った外務省の15ヶ国語を話せるデブチビブスの「東大女」がいたので、こんなんでいいのかと迷いましたが「本人の意思」を確認すると「喜んで!」とモディ首相に「添い寝」しましたが、翌朝、モディ国王に「次は違う女にしてほしい」と耳元で囁かれたので、他の外務省の「セックス好きの女」を連れて行きました

 

私に「添い寝」してくれた若い側室は、翌朝、「モディさん、私、妊娠したと思います。それに、男の子だと御先祖が教えてくれました。」と言うので大変でした。

モディ国王は、自分の子供たちは全て「女」ばかりだったので、「初めて世継ぎの男の子」ができたことを「大東亜連合の国王」たちに自慢したようで、翌日から大東亜連合の国王たちに会いに行くことになり、大東亜戦争で一緒に戦って亡くなった人たちの人数を聞いて「御霊上げ」してから、それぞれの国の側室たちの一番若い女が「添い寝」してくれるようになりました。

「大東亜連合」はインド+5カ国(インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン、マレーシア)だったので、そこにも「5人の男の子」が生まれたことが地元の霊媒師たちの読み取りでわかったのですが、「バックアップ要員の次男もお願いします」と言われましたが、インドは遠いので放っておくと、

「国交回復したお礼もしない男なら、やっぱり、日本との国交回復はやめます!」

と電話が来たので慌てて1990年2月に6カ国を回りましたが、「バックアップのバックアップの息子も欲しい」と言われたので「2人添い寝」・「3人添い寝」が普通になり、最後はインドで「5人添い」をしてくれました。

 

また翌朝、全ての国の祈祷師が「全て男の子を受胎したとお告げがありました」と言うので、とても喜んでくれたので、しばらくは行かなくてもいいと思って放っておくと、モディ国王から携帯に電話があり、

インドでは11月に日本と同じ「こどもの日」のような行事がありますが、まさか、来ないのですか?

やっぱり、日本との国交はやっぱり辞めにします。

と言われたので焦って6カ国を回り、また添い寝の人数が増えました。

 

1990年から外務省以外のいろんな「国の仕事」も増えて忙しくなったので放っておくと、

自分の子供が生まれたのに、お祝いも持ってこないし、お土産も持ってこないなら、日本との国交はやっぱりやめます。

とモディ国王から電話が来たたので、慌てて6カ国に誕生祝いを自費で買って持って行きましたが、また、「添い寝の人数」を増やそうとしたので、

「すいませんが、1カ国人3人以内で添い寝はお願いします」と言ったほど、私が行くのを楽しみにしてくれました。

モディ国王に、「吉岡さんは一晩に最大何人まで大丈夫なのか?」と聞かれたので、「今まで20人同時にしたことが何度かありますが疲れるので3人以内でお願いします」とお願いしておきました。

 

「インドと大東亜連合の国々」に行く度に「来賓並み」の音楽隊の演奏で迎えられて豪華なパレードと食事になるので、

「すいませんが、できれば普通の人と同じに対応して下さい。もう家族なのですから音楽隊もパレードもいらないし、できれば私もスーツは暑いのでカジュアルでお会いしたいです。」と言うと、全員がカジュアルな服装で会えるようになったし、私専用の「白と黒のシルクのサリー」をプレゼントしてくれました。

またさらに、いろんな仕事が忙しくなったので1年後に行こうと思って放っておくと、また、モディ国王から電話が来たので焦って6カ国分のお土産を自分のお金で買って子供達に会いに行った結果、「3年で1カ国13人づつの子供」が生まれて、合計91名の「国王の子供」を自分の子供として登録する代わりに、「私が全ての国の「国王」でないと困る」とモディ国王が言うので、

「インド国王名はサラダ・ムカヒ国王&インド国国交大使」となり、残りの5カ国は「ムハド・サディ国王&大東亜連合国国交大使」となり、全部の国の国王と「義兄弟」になりました。

あとで、「ベトナム」も増えましたし、「アラブ首長国連合」にも子供が生まれましたのでとても忙しい日々でした。

 

このことを知っているのは、安倍晋三元総理と麻生太郎元総理だけですが、「大東亜連合の国交と防衛と経済交渉」は私しかできなくなったので、「外務省」や他の省庁からも「お願いの電話」があり、とても忙しく世界を飛び回っていました。

世界の158カ国を飛び回り、128カ国に子供が生まれたので、子供の数を数えるのもやめました。

だって、日本にも他の国にもたくさん私の子供がいるからですが、みんな裕福な家の子供になったので、やはりお金持ちじゃないと子供に良い環境は与えてやれないは昔の「日本の士農工商」と同じで、「努力しない貧乏人は結婚できない」のは当然です。

 

13という数字は、インドで悪い数字なのか聞きました。

アメリカは「13」の数字を嫌いますが、インドは、 過去、『26日』に災害が発生したことが多く、「26」が“不吉な数字”とされています。

2001年1月26日、グジャラート州で2万人が死亡する大地震発生。2004年12月26日、インド洋で23万人が死亡する大津波。2007年5月26日、インド北西部のグワハティで大爆発発生。2008年7月26日、アフマダーバードの町で大爆発発生。2008年11月26日、ムンバイ同時多発テロ事件。

 

当然、私はこの「26日に何かの呪詛がかかっている」と判断したので、3度目に行った時にモディさんの「祈り場」からインドの全ての呪詛を外す祈りをした結果、大きな災害は起きなくなりました。

そのあと、私はダイエーの労働組合で働いていたし、労働者の賃金と経営者の経営状態を改善するプロだと教え、「インド経済の状態を確認しましょうか?」と聞くと、「ぜひ、お願いします」と言われたので、一晩かけて「インドの国家経営の100年間未来設計図」を書いて説明したので、現在は、そのとおりに発展しています。

ポイントは、日本のように「農業から工業」、「工業から商業」、商業から「インターネット産業」に行くには時間とお金がかかり無駄なので、一気に「インターネット産業」に移行したほうが「世界と同じレベル」になるし、「環境汚染」も少ないし、「インフラ整備」と一緒にやれば、無駄な国費を使わなくてもインド経済は成長できると説明しました。

 

世界最高峰の理工系大学の「インド大学」は日本の東大よりも優秀な生徒がインド中から集まる学校なので、優秀な子供たちは「国のお金で無償」で学べる大学なので、現在は世界のあらゆる場所でインド人が活躍していますし、私の子供たちも活躍しています。

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さらに、「私の社長会メンバー」の自動車メーカーや鉱物採掘や食品メーカーの工場も建ててもらい、どこよりも早く「EV自動車」を普及させてガソリンのような鉱物資源の無駄遣いを止める国策を練り上げて順調に経済発展をしています。

だから私は、「インド経営戦略アドバイザー(全インド公務職・インド行政職)」という、インドの公務員資格(無給)で頂きました。

 

モディを理解すれば、インドの今が分かる

モディさんは、国父の1人であるサンダール・ヴァッラブバーイー・パテル(左)の再来とも言われています。(写真:TopFoto/アフロ)

5月26日にインドの第18代首相になったナレンドラ・モディとはいったいどんな人物なのでしょうか。

モディは、1950年9月17日生まれの6人兄弟姉妹の3番目。中流家庭の出身で、エリート大学を卒業したわけではありません。

学生時代は自分でチャイ屋をやって生計を立てた苦労人で、インド人民党(BJP)における地位も、自ら努力して手に入れました。

強力なリーダーシップや政治的な手腕は何度も直面した難局で鍛えられたもので、彼の関心はただ一つ「インドの国造り」にあります。

モディが全国区の知名度を持つようになったのは、2001~2014年に自身の出身地であるグジャラート州の州首相を3期務め、州の行政と統治の改善に全力を注いだためです。

グジャラート州における成功は2014年総選挙における、モディの最大のセールスポイントになりました。本稿ではモディの政治家としての資質を5つのキーワードで説明します。

 

ソーシャルメディアを使いこなす

1.優れた聞き手、優れた語り手

1800回を超える選挙演説で、モディは知識階級、中間層、日雇い労働者などあらゆる層の国民を一つにまとめ上げるのに成功しました。彼の演説を見たアナリストは「ナレンドラ・モディをまともな演説ができる当世インドで唯一の政治家だ」とまで絶賛していました。

彼はほとんどの演説を即興で行い、原稿を使いません。モディが壇上に上がると会場は静まりかえり、いつでも騒がしいことで有名なあのインド人が一斉に口を閉じるのです。

モディは優れた語り手であると同時に優れた聞き手でもあります。

一度でも議論したことは覚えていて、それを後にタイミングよく適切に話題に盛り込むセンスは抜群なものがあります。彼は情報の扱い方を心得ているともいえます。

モディは「ソーシャルメディアは社会の情報を集めるものであって、プロモーションの手段ではない」と言ったことがあります。モディはソーシャルメディアからその地域の情報を集めて、演説をする際の参考にしているのです。

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グジャラート州はパキスタンと国境を接している人口5000万人超の州だ(wikipediaより)

2.高い規律

モディの任期中、グジャラート州を「もっともビジネスがしやすい州」と評価を受けるようになりました。グジャラート州は電力や水が滞ることなく供給される数少ない州の一つで、道路インフラは他州の羨望の的です。

多くの人がこれはモディの規律に基づく組織運営の成果だと考えています。

規律の正しさは彼の清潔なファッションスタイルにも表れています。モディ自身がデザインした半袖クルタのスタイルは「モディ・クルタ」と呼ばれており、モディを象徴するものです。

日課としてヨガを欠かさず、規律正しく生活して健康管理を怠らない。モディは時間の浪費を嫌い、役人に対して期限通りの結果報告を求めます。私生活でも仕事でも高い規律を求めているのです。

3.ハードワークと忍耐

モディは現場で指揮するタイプの指導者で、自身でも認めるハードワーカーです。仕事中毒ともいえるほどの仕事への飽くなき情熱は、6カ月にわたる選挙戦の間に1800もの演説を行ったことでもわかります。

彼の1日は朝5時に始まり、終わるのは夜の12時。演説やミーティングで彼を見た人は「モディが全てのことに冷静に対処する、疲れ知らずの人に見えた」と言います。選挙運動中だけでなく、首相になってからもモディは熱心な現場指導者であり続けています。

 

パテルやヴィヴェカナンダの再来

4.変革者

BJPの創設者であるアタル・ビハーリー・バジパイ首相(任期1996、1998~2004年)がさまざまな自由化を断行したように、モディは首相として多くの変革を断行しようとしています。

グジャラート州首相時代には、社会が不安定になるほど怒涛のような変革を行いました。多くのインド人は、グジャラート州で行ったような改革が全国レベルに拡がることを願っています。

5.歴史的なリーダーを継ぐ者

モディ支持者はモディに国家指導者や現代の英雄の姿を重ねるようです。インド共和国の建国の父の1人で、インドの「鉄の男」と称されるサンダール・ヴァッラブバーイー・パテルがその典型。彼はインドの独立と統一に中心的な役割を果たしました。

インドが独立した時、500以上あった藩王国もそれぞれに独立をしようとしていたが、サルダール・パテルの説得で考えを翻した。英国が去った後、インドが多くの国に分裂しなかったのは彼の強力なリーダーシップが発揮されたからです。

支持者にとってモディは「第2のサルダール・パテル」、あるいは「鉄の男の現代版」ともいえます。

また、モディはインドにヒンドゥー主義を復活させ、植民地時代のインドにナショナリズムを巻き起こしたレイト・スワミ・ヴィヴェカナンダにも例えられます。

ヴィヴェカナンダの幼名は「ナレンドラ」。1893年に米国シカゴを訪問する際に日本に立ち寄った「スワミ・ヴィヴェカナンダ」は、日本の清潔さに感銘を受け、日本人を「地球上で一番清潔な人々」と評したことで有名です。

 

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