武士の戦いは「天皇家の南北朝の戦い」から始まった
天皇家の始まりは、紀元前660年に即位した「神武天皇」とされています。
この「神武天皇」は、日本の先住民のトップである熊本県にいた「薩摩隼人」と中国から来て宮崎県に住んでいた「卑弥呼」との子供であり、最初に日の出と共に生まれた女の子を「天照大神」」と名づけ、次に生まれた男の子を神力と武力を併せ持った「神武」と名づけて、天皇家との戦いを避けるために天皇家へ差し出したので「神武天皇」と呼ばれるようになりました。
この日本の先住民のトップの「薩摩隼人」が、「吉岡一門の頭領」のことなのです。
令和天皇徳仁(なるひと)は昔から私のブログを読んでいたそうですが、自分は忙しくて行けないので「秋篠宮文仁に代わりに行ってくれないですか?」と伝えたそうで、「秋篠宮文仁」が「宮古島の新城定吉さんの石庭」を訪れた時に答えた言葉は、「百済から来たと聞いております」と答えたと新城貞吉さんが私に教えてくれました。
「国譲りの神話」では、天照大神(あまてらすおおかみ)の御子(みこ)の「大国主神(おおくにぬしのかみ)」が治めていた「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を天皇家に譲った、とされていますが、この「大国主神」こそ「吉岡一門の頭領」のことで、出雲「八重垣神社」にいた卑弥呼と薩摩隼人のことなのです。
現在、世の中に出回っている古事記や日本書紀に書かれている内容は、全て「北朝の裏切り者」が書き換えたものだし「日本神話も作り直した」とを覚えておいて下さい。