私が18歳の時に「ロシアのプーチン」が「私の弟子」になった理由
1977年4月(18歳)、「岡山理科大学 応用数学課」に入学して「情報処理課」の授業を受けたキッカケから、5月に「防衛省の陸将補に任命」されて、極秘で「防衛省のハードプログラムと軍事プログラム」を一人で組み上げるために毎月一度は「東京の防衛省」に通い、入力作業を一人でする生活になりました。
ある日、私の岡山県のアパートの電話に呼び出しがあり、一番仲良しの10歳年上の従兄弟の「北山信敏(28歳)さん」から電話があり、「同じ本州にいる同士だから一度くらい東京の僕の家に泊まりにおいでよ!」と声をかけてくれて旅費も送ってくれたので行くことにしました。
「北山信敏(28歳)さん」は「日本大学柔道部の主将」で、「世界柔道選手権」で二度も世界一になったのに、「オリンピック選抜大会」ではいつも緊張しすぎて二度も負けた人なので「気は優しくて力持ちの人」でしたが、吉岡総本家のあや祖母からは「お前は優しすぎるからダメだ。もっとしっかりしなさい!」と厳しく100発ビンタを毎回されるので、小学生の頃からよく愚痴を聞いてあげるほど仲良しでした。
そんな従兄弟の北山信敏ちゃんは、従兄弟のトップの年齢だし、私のことを「まなぶちゃん」と呼ぶ唯一の男なので、私も大好きな従兄弟でした。
「吉岡一門の総本家には厳しい鉄の掟」がいくつもあり、お正月の1月2日とお盆の8月15日にはどんな理由があっても「吉岡一族の親族の子供も孫も全員集まるルール」があるので、唯一、東京の日本大学に通っていた北山信敏ちゃんはアルバイトをしながら柔道をしていたので、アルバイト先に休みをもらえず一度だけ「総本家のお盆」に遅れて8月16日に来たので、二度と吉岡総本家の祝い事に足を踏み入れることはできなくなりました。
「吉岡総本家のルール」は、学校のルールよりも、行政のルールよりも、警察や国の法律よりも最優先な理由は、「日本国の天皇家にタネを入れ続けた一族」だし、「大日本帝国憲法」もそれ以前の憲法も作った一族なので、「吉岡憲法」と呼ばれています。
大昔から「国の役人」の仕事と全ての権限を持っている「十手持ち」なので、天皇も、警察も、裁判官も、役人も「吉岡総本家」には口を挟めないほど権力がある一族なのです。
さらに、日本刀を持っていて「剣術訓練」もしている人間もたくさんいるので、文句を言えば誰であろうと切り捨て御免が許される「裁判官と死刑執行人の役目」もあるので、世で一番怖い一族が「吉岡一門の総本家の頭領」です。
「吉岡総本家」の血が入った一族は、家族親族といえども、自分勝手な理由で「吉岡一門のルールを破る人間」は許されないし、家族親族でも変えられない「厳しい鬼のルール」があるので、従兄弟も叔母さんたちも全員、「祖母のあや婆ちゃん」を陰で「鬼」と呼ぶほど怖い存在でした。
明治27年生まれの「あや婆ちゃん」は、ガタイは168cmと女としてはデカイし、農家の仕事も全部自分でやるし、吉岡総本家の家の周りに住む小作たちに料理を教えたり、田んぼや畑で野菜を作る方法も教える名人だし、「吉岡総本家」に関わる「全ての子供の躾」をした人なので、学校の校長や先生たちに文句を言って「学校で教える内容を変えさせた」ほど有名な女性でした。
「あや婆ちゃん」が厳しく子供を育てる理由は、「社会へ出て困ることがない所作教育」を一番大事にして徹底する人だし、日本刀よりも「薙刀の名手」だったので、小作の嫁たちにいつも「薙刀訓練」を教えるほど腕が立つ人だから、誰も近づけないし声もかけられないほど怖い存在なので、郵便屋さんも玄関の遠くに「郵便です」と郵便物を置いてダッシュして逃げる家でした。
「私の父・吉岡忠」は、12歳の真剣勝負の時に「あや婆ちゃん」の夫の「吉岡西蔵さん」との真剣勝負で勝って「頭領」になったのに、吉岡西蔵夫婦と父親・母親・兄弟姉妹を殺さなかったので、「弱い頭領」と全国に有名になり、「バカな全国の北朝の武士」や小作たちが殺しに来るようになりました。
「吉岡一門の頭領」は、代々、「真剣勝負」で負けた親の妻子や兄弟姉妹を「必ず、全員斬り殺すルール」があるからこそ、日本でも世界でも一番恐れられていた「非情な一族」なのです。
私の祖父の「吉岡西蔵」は、明治2年1月17日午前1時50分に曽祖父の「吉岡文吉」を真剣勝負で切り殺したので、妻(自分の母親)と兄弟姉妹を全員、川に並べて首を切り殺したことが「戸籍謄本」を見ればわかります。
「血のつながりを全員殺す理由」は、その子供や家族が恨みを持って「果し合い」にいづれやってくるので、先に一族全てを殺しておくほうが「相手のためになる」という教えが根底にあります。
この厳しいルールを2000年以上続けてきたのが「吉岡一門の頭領」なので、昔のまともな武士は絶対に「吉岡一門の頭領」に日本刀は抜きません。
それほど「非情」だからこそ、「日本中の武士の頭領」が務まるのですが、親は「自分の心を鬼」にして3歳から「剣術訓練」をさせますが、長男はほとんど弱いので「次男」以降が「頭領」になり、「全ての家督を守るルール」があるので、頭領以外の人間は「頭領が何を守っているのか?」は知りません。
日本刀のことを「人斬り包丁」と呼ぶ理由は、こういう厳しい吉岡一族の兄弟姉妹の殺し合いがあるので、大昔は「吉岡一門」は兄弟の一人が「刀鍛冶」して、もう一人が「日本刀を振りまわす役目」になって代ごとに交代することが決まっていました。
しかし、明治政府が勝手に「側室制度」を無くしたので「戸籍上の子供の男子」の数が減った結果、日本刀を磨くのは「専門の鍛治職人」に任せて、兄弟全てを切り殺すしかなくなったと父は教えてくれたのに、「俺は12人兄弟姉妹を全員殺す覚悟はなかった」と泣きながら教えてくれました。
だって、自分を育ててくれた人たちだぞ!
どれだけ世話になったかわかるか!
俺にはできんかった・・・、と泣きながら教えてくれました。
全ての戦争が終わったら「側室制度」も復活させますし、「妾」として本妻以外に女子供を戸籍に入れられるように変更します。
「外子」がいて戸籍に入れたい女と子供がいる人は準備をして下さい。もともと「側室制度」も「妾制度」も「お金持ちだけの制度」なので、貧乏人は結婚できないし、誰も嫁も夫も来ないのは普通なので諦めて下さい。それも「自己責任」です。
日本国を支えているお金は、「全てお金持ちの資産と資金」を運用しているだけなので、文句を言いたいなら自分でお金を稼いで貯金してお金持ちになって下さい。
そんな簡単なことさえ分からず努力しないバカ人間は、貧乏人のままのたれ死んだほうが幸せです。そのほうが余計な医療費もかからないし、老後のお金もかからないし、「生活保護費」もかからないので国のためになると思いますし、「親の金」を期待するバカも減ることでしょう。
ちなみに、戦争が終わったら年間3兆8010億円も払っている「生活保護制度」も無くしますし、知り合いの医者に「嘘の鬱や引きこもりの病名」で生活保護費のお金をもらっている人たちは「全て停止させる指示」を出しているのでご覚悟下さい。
吉岡一門頭領の責務
「12歳で頭領」になった私の父・吉岡忠は、「父親の吉岡西蔵」が「祖父の吉岡文吉」との真剣勝負で勝ったので、両親と兄弟姉妹を斬り殺す「介錯人の役目」をしたので、あまりにも辛くて自分から「吉岡総本家」を出て「小作」になり、自分の代で「頭領」を終わらせようとしたことを話してくれました。
私の曽祖父の吉岡文吉(1907ー1927)は、20歳で自分の息子に真剣勝負で負けて殺されましたが、これが、「吉岡一門の頭領が背負う責務」なのです。
私があまりに真面目に「剣術訓練」をするし強くなったので、「真剣勝負で殺せばいい」と思っていた父は、8歳の時の3本勝負で負けたので愕然としてしばらく口を聞いてくれませんでした。
本当は、「父・吉岡忠」が「祖父・吉岡西蔵」に勝った時に「総本家の代理長男の「吉岡信(四男)」を殺せば良かったのに、そうしなかった結果、自分が家長になっても全財産をもらえない腹いせに、1960年に小作に金を渡して「自分の父親の吉岡西蔵」を殺させたあと「頭領気取り」で威張っていましたが、「あや婆ちゃんが後見人」なので、「いい加減にしないと学がお前切り殺すよ!」とよく怒られていました。
「吉岡あや婆ちゃん」は、天皇や皇族たちと付き合いをしながら、日本全国の吉岡一門の客人(天皇や総理や外国の要人)や国会議員に文句を言う仕事も増えたし、「イギリスのエリザベス女王」に英語で文句を言うほど頭の良い女性でした。
イギリスとフランスの「英仏戦争」を終わらせたのは「吉岡一門の頭領」なので、「イギリスとフランスの領土も植民地も全て吉岡一門の領土」となっていたからこそ、よくイライラすると日本酒を飲みながらイギリス女王陛下を電話で呼び出して、ボロクソに文句を言って気分転換していた人だったので、そのたびにイギリスから「銀食器のセット」が送られてきたり、フランスから人形が届いていました。
私が3歳から「剣術訓練」を始めて8歳で父に勝った時、すぐに父・吉岡忠はあや婆ちゃんに報告したので「私だけ特別扱い」になりましたが、「祖父の囲炉裏の席」に座らせてくれることもあったので、本家の従兄弟たちにはいつもイジメられました。
嫁に出た父の姉たちには嫁に行く時に「千両箱に入った小判を一箱づつ」あげているので「当時の価値で3億円以上」もらっているので、誰もが「あや婆ちゃん」の言うことには「絶対服従」だし、嫁に来た「本家の嫁」と「分家の嫁(私の母)は奴隷扱い」なのでいつも二人は泣いていました。
「吉岡の苗字」を名乗る女はそれほど周りから大事にされるので、もとは他人の嫁は当然と言えば当然ですが、「男尊女卑の見本みたいな家」だったので、嫁は毎日、殴る蹴る、ムチで叩かれるなんて当然だったので、気丈な女じゃないと「吉岡の嫁」は務まりません。
昔は、「嫁はタダで飯を食える奴隷」として扱われた時代なので、文句を言えば「離縁」されるし、「離縁」されれば吉岡一門からもらった「結納金の小判500両」を返さないといけないので、吉岡家や武士の家の嫁は「離婚」したくても我慢しかないのが当時の時代です。
今の時代の女たちのように勝手に恋愛して「結婚」して「勝手に子供を産んで離婚する女」は許されない時代だし、「結婚」は本人の思いよりも「両家の苗字の縁」を結ぶものなので、好き嫌いでは結婚できないうえに親が結婚相手を選んで「見合いで結婚」させるのが当然で、「男子を産めない嫁は離婚」されるのが普通でした。
私の祖父の「吉岡西蔵」さんの最初の嫁は「女ばかり」産むので離婚されて、戦争で夫が死んで「出戻りのあや婆ちゃん」を嫁にもらい、男を3名も産んだので、とても吉岡西蔵さんは「あや婆ちゃん」を大事にしたと父から聞いています。
「男を産めない女」は心根が悪いか、ご先祖が吉岡一族に失礼をした家」なので、婿をもらって苗字を守るかしか財産を守る方法はないので、嫁に行けない女は独身のまま親の世話をする家が多かったからこそ、貧乏人で老後のお金がない人や親の医療費が払えない家は、「一家心中する家」もあったほど「北海道の開拓時代」は厳しい生活でした。
そんな厳しい家に育った私の従兄弟の「北山信敏ちゃん」の母親は「北山家」に嫁ぎましたが、唯一「芦別女学校」に行った人なので、親族の女たちを仕切るとても口がうるさい人ですが、「夫の北山」の苗字は「北の山は寒いだけで何も食べるものない貧乏な先住民についた苗字」なので、「着物の仕立ての先生」で稼いで息子を二人産み育てた「長男の北山信敏ちゃん」と私が仲良しなので、私の言うことだけは聞いてくれる厳しい叔母さんでした。
18歳で月に一度東京へ通っているとは誰にも言っていないのに、たまたま寮に電話が来て、「東京に遊びにおいで」と呼ばれて行き、北山信敏ちゃんの家に泊めてもらった翌日、「東京の講道館柔道の道場」へ連れて行かれました。
そこで紹介されたのが「ロシアのプーチン」で彼は7歳年上ですが、私は小学1年生の時に従兄弟の北山信敏ちゃんから「講道館柔道の昔の本」をもらって一人で練習して、お正月とお盆に「三度も締め落とした」ので、「隠れ初段の黒帯柔道着」をもらっていました。
北山信敏ちゃんは大学時代に「5段」を持っていたので、自分の段数までは段を与える資格を持っている人なので、小学生の時に私は「初段の黒帯」をもらっていたし「実力は5段」と言われたので、講道館の壁には「私の名前の木札が5段」の場所に下がっていました。
そんな人間が東京の講道館本部に行けば、きちんと正座して「道場の神様」に挨拶して入り、黙って柔道着に着替えて待っていると、「ロシアのプーチン(当時25歳)」を連れてきた従兄弟は、こう言いました。
「学ちゃん、このロシアのプーチンに柔道を教えてよ。
このプーチンは、俺に二度も世界柔道選手権で負けたのが悔しいらしく、どうしても講道館柔道を教えて欲しいと言ってきたけど、俺は後輩たちを教えないといけないので忙しいので頼む!」
と言われたのでやるしかありませんでした。
でも、プーチンは下手なカタコトの日本語で意味不明だったので、
「まず、柔道を覚える前に日本語を覚えろ!!
道場の端に正座して1時間、日本語の本を暗記しろ!!」
と放っておくと眠っていたので、思いっきり後ろから回し蹴りをして右腕の骨がボキッと折れたので、病院に行くかと思うと自分で包帯をきつくしめて正座し続けていました。
「やる気と覚悟だけはある」のはわかったので、次は、「正式な挨拶の所作」を教えました。
柔道も剣術訓練も同じで、「最初と最後は所作に始まり所作に終わる」ので、正座して正しい挨拶を教えると畳に頭をつけたので、思いっきりケツを蹴り飛ばしてケツの骨にヒビが入り正座できなくなったので、「もう、ロシアに帰れ!」と言って放置して私も岡山県に帰りました。
「テレホンナンバー プリーズ!」とプーチンが言うので、寮の電話を教えましたが、日本語が下手なのでいつも寮母さんに「変な日本語を使う外人に電話はさせないで」と怒られました。
だからそれ以降は、「下手な日本語の電話は禁止」にして、手紙を書いて次に日本の道場へ来れる日程を聞いてくるので、従兄弟の北山信敏ちゃんに頼んで「岡山県のと東京の警察の柔道場」でも練習できるようにしてくれたので、何度か岡山県と東京の警察の道場で稽古をつけてやりました。
当然、このことは親族も周りの人も誰も知らないことだし、ただの「白人の柔道愛好家」が来たので私が手ほどきしているだけでしたが、プーチンを私が足で蹴ると骨が折れるので、壁にあった「竹刀」でいつも叩くようになり、暇な時は「竹刀で素振りの練習」をしている時に「岡山県の警察官の剣道家」が話しをしに来たので、こっそり「私が吉岡一門の最後の頭領です」と正体を教えると「1対5で試合」になり、あっという間に全員の骨を折るケガをさせたので、岡山警察の道場は「出入り禁止」になりました。
だから、「吉岡一門の吉岡流と剣道は違う」と言ったはずなのに、いつも同じことの繰り返しなので嫌になります。
型はないし、どんなに汚い手を使っても勝てばいいのが「吉岡流の戦い方」なので、「人殺し殺法」と呼ばれているのが「吉岡流」なので興味本位で勝負を挑まないで下さい。
私は真剣になると、相手が誰であろうと「殺すか半殺し」までやる人間なので、どうぞ、よろしくお願いします。
さらに、私の世代は「中学時代に極真空手の大山倍達」がテレビで流行り、「高校時代はブルー・スリー」が映画で流行ったなので、毎日中学と高校から戻ると、60kgの米俵に上段蹴り、中段蹴り、下段蹴り100回と、左右の回し蹴り100回づつ、両足の前蹴り100回づつ、空手の正拳で上段突き、中段突き、下段突き100本づつをやってから「腕振り1000回」をする日々だったので、動物の餌やりと糞の掃除と、家の掃除をしてから夕食を作りながらお風呂を炊くのが私の仕事だったので、「私の蹴りと手刀」はハンパではないので遊びでは挑まないで下さい。
私の部下の「別班の隊員」たちも全員、外国の傭兵だったり戦闘のプロですが、私が訓練として体のどこかにケガをさせたほど「厳しい訓練」をしているので、怒っても絶対に席を立ち上がらないように言ってあるので、恐怖で部下を指導している「鬼教官」と有名です。
私の高校の同級生の空手部の奴と遊びで練習試合をした時に、すぐに相手の手の甲の骨を手刀で叩くとヒビが入ったので、もう二度と「練習試合」もしないことにしています。
「勝負で手を抜くこと」は絶対に許されない訓練を3歳からしている人間だし、刃物や長いものを持つと簡単に相手を殺せるので、戦いを挑むほうがバカなのです。ボールペン1本で、人は簡単に殺せます。
私が23歳で株式会社ダイエーに勤めるようになってからも、「頭が悪い課長」が私を殴ろうとすることもよくあったので、2、3人の足の太ももの骨にヒビが入れたほど「私の回し蹴り」は重くて痛いし、「前蹴り」をされた人間は鳩尾(みぞおち)の骨が折れたヤクザもいたほど重くて早くて痛い蹴りなので、私のことを知っている人間は誰も私に勝負は挑みません。
私が18歳、ロシアのプーチンは25歳からの47年間の付き合いなので、「講道館柔道の正式な師弟関係の契約」をしたので、死ぬまで「私の弟子」なのです。
従兄弟の北山信敏ちゃんは歳をとっても柔道を教えに日本大学の学生に通っていましたが、二度、「生徒との練習試合」で負けたので柔道から手を引いて、日大高校で社会科の先生として教鞭をとっていましたが、定年退職しても一人で柔道の練習をしていて骨を折って入院した時に「財務省の鈴木友康」に殺されてしまいました。
「財務省の鈴木友康」が病院へ行き、「一晩で原因不明で確実に死ぬ薬」を管に注射して「心筋梗塞」で殺したのです。
母親から電話が来たので、すぐに「警察庁の名刺」を見せて「病院の録画カメラの映像」を確認しましたが、確かに鈴木友康が従兄弟の病室に入り、笑いながら薬を注射して殺した映像が残っていたので絶対に許しません。
従兄弟の死後、すぐに従兄弟の奥様から電話が来て、「誰にも言わないけど、あなたが国の仕事をしているせいで殺されたと思うので、もう二度と電話をしないで下さい。お葬式にも来ないでね!」と言われてしまいました。
さらに、従兄弟の北山信敏ちゃんの「ネット情報」も全て消されているので、いかに、私とプーチンの関係が表に出ると官僚たちにとって都合が悪いのかわかると思います。
日本国の官僚がやることは、お金のためなら平気で人を殺すバカが多いので、関係者は気をつけて下さい。
「私とプーチンとの関係」を知らない他のキャリア官僚たちは、30歳で「外務省の仕事」を手伝ってからは「ロシアの外務省の問題」は全て私が電話1本で済ませるので「日本国とロシアの問題」でまずいことなるわけはありませんし、私と友人の世界の要人たちと会わせてあげたので、ロシアと友好国は多いのに、そのことを知らないのは「バカな日本人」だけです。
プーチンは、「北方領土はもともと日本の領土だし、実効支配は一度もしていないのでいつでも返したいのに、日本の官僚たちが揉めていることにして、いつも俺にお金をせびるので、簡単に北方領土を返還させないようにしているのは日本の官僚たちなので、「いつも俺は悪者さ」とプーチンは嘆いていました。
「北方領土四島」が日本に戻れば、いくらでも美味しい食べ物は作れるし、漁業権も手に入るので、美味しい魚やカニもたくさん安く手に入るのに自分たちの賄賂をもらうために「北方領土四島同時変換」をしないのは日本の悪者のキャリア官僚たちと、各省庁の課長と、全ての省庁の国会議員たちなので呆れます。
日本の官僚たちで、本気で日本を良くしようと思っている奴は一人もいませんし、ほとんどの政治家も自分にいくらお金が入るかだけを計算している奴らなので、もうこの国を動かす人間は全員腐っていますので絶対に信用しません。
防衛省も「ロシアと北朝鮮を敵国設定」にしているので、「マーゴが日本を攻撃」することがわかった時にプーチンには、
最後まで徹底的に日本の上空を偵察して「敵」だと思わせておけ!
と伝えてあります。
これが平和ボケした日本人の目を覚ますための「最後の通告」だし、本当の意味で戦争のあとの「新しい日本」を作るための戦略です。
勝負に勝つには、「敵を騙すよりも、まず味方から」の戦術です。
この戦法を使った理由は、これから起きる「電磁パルス攻撃と戦争」が始まった時に対応できる人を増やすために真実を伝えています。
今、北海道と沖縄の上空を飛ぶ「緊急スクランブル」の外国の偵察機の数は増えていますが、その数が増えることが「日本攻撃の準備をしている」とは誰も思わないほど平和ボケした国民なので、「日本人への注意勧告」のために偵察機をたくさん飛ばしているのです。
2022年度の空自機による緊急発進(スクランブル)回数は778回(中国機に対し575回、ロシア機に対し150回、その他53回)であった。 近年、中国機の飛行形態は変化し、活動範囲は東シナ海のみならず、太平洋や日本海にも拡大している。
私がどれだけ多くの犠牲を払って日本を守ってきたのか誰も知らないし、「全て無償の仕事」なので誰かを怒る気持ちはありませんが、「平和ボケした日本人」は問題が起きると必ず人を裏切るし騙すので、真実を教えてあげているだけなので「全て自己責任」で考えて行動して下さい。
1990年代から「私がロシア専門の担当官僚」にもなったので、アメリカは当然としても、インドと大東亜連合、オーストラリア、ロシア、アメリカ、中国、韓国、北朝鮮の国際問題が発生するといつも私に電話が来るので、日本国を動かしている「官僚や政治家のバカさ」に嫌気がさしたので、もう、手伝うのはやめました。
「最終作戦」を成功させるために自分の全ての感情も人情も捨てて、昔の重要な人との繋がりの連絡先も頂いた物も全て捨ててまで「記憶」を消しました。
そこまでした理由は、私に家に勝手に入ってきて物色された経験が何度もあるし、札幌のマンションも業者を使って全ての窓に「盗聴装置」を付けるほど大掛かりな工事をする「小指チンチン鈴木友康」なので、最低限自分ができることはやりましたが、私の大事な人たちををたくさん殺しても何とも思わない人間を相手にしているので同情などやめて下さい。
私はロシアのプーチンがいくら「マーゴの商品」であっても、「大東亜戦争で日本を裏切った国」だとしても、私の言うことには絶対に逆らえないプーチンなので、「ロシアの大統領」として頑張って「嫌われ者」をやってくれていますが、それでも「私の信用」を裏切って攻撃した途端、世界がロシアを一斉に攻撃する用意はしてあるので、全ての戦争が終わったら「ロシアを日本国の属国」にしてやります。
クリスマスまでもう少しなので、誰も私と話ができないようになるので、最後のコミュニケーションだと思って私のブログをお読み下さい。
プーチンと私の信頼関係があるので、「ロシアのコロシアム」でビヨンセのPEPSIコーラの撮影ができたのです。全て無償でやってくれたのも、ビヨンセの私への恩返しです!
ウラジーミル・プーチンの職歴
1975年-1991年(KGB)、KGBは「ソ連国家保安委員会」のこと、裏の秘密組織と表の支配を世界中に持っている組織で私が相談役。
1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し[注釈 4]、同年5月にレニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。1991年8月の共産党解体までは共産党を離党せず、本人曰く「党員証」は今も持っている。→私の指示。
1997年6月、プーチンはサンクトペテルブルク国立鉱山大学に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、2007年にアメリカ合衆国の学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。
→この論文を書いたのは、私がダイエーを辞めたあとなので、ロシア大統領なるためのアピールです。
1998年5月、プーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている[35]。同年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官に就任。この時、当時の大統領ボリス・エリツィンのマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。
→「政治家のエリツイン」と「KGBのプーチン」の力を合わせるために、仲良くさせました。
プーチンはエリツィンによって1999年8月9日に第一副首相に任命された(同日首相であったセルゲイ・ステパーシンが解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた[36]。さらに1週間後の8月16日には正式に首相に任命される。首相に就任するとロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕を振るい、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得した。記者会見で言い放った「テロリストはどこまでも追跡する。たとえ便所にいてもやつらを捕まえてぶち殺す」という発言の容赦なさや下品さが話題になったのもこのころである[37][38]。当時、次期大統領選のプーチンの有力な対抗馬として元首相のプリマコフがいたが、同年12月19日に行われたロシア下院選挙で、プーチンを支持する与党・「統一」の獲得議席数がプリマコフらによって結党された「祖国・全ロシア」の議席数を超えてロシア連邦共産党に次ぐ第2党となったことにより、プーチンは次期大統領の座にさらに近づいた(後にプリマコフは次期大統領選挙への出馬を断念した)。そして同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したボリス・エリツィンによって大統領代行に指名される。
その後のプーチンは、ウラジーミル・プーチンをお読み下さい。
小泉総理の訪露(2003年1月)
安倍総理の訪露(2013年4月)
安倍総理のソチ非公式訪問(2016年5月)
プーチン大統領の訪日(2016年12月)
シンガポールでの首脳会談(2018年11月)
プーチン大統領の訪日(2019年6月)
日露首脳電話会談(2020年9月)
日露首脳電話会談(2021年10月)
2019年9月5日、日露首脳会談の開催にこぎつけ、安倍晋三首相とのパイプを太くさせました。