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昭和46年(1971年)「吉岡一門 新頭領襲名式」の参加者

私が12歳の元服の時(昭和46年1月10日)、「吉岡一門 新頭領襲名式」に参加するために私だけ「和服の羽織袴」を着て、分家の家族4人が「馬そり」で吹雪の中を「ムシロ」に体を包んで1km先の「吉岡総本家」まで向かいました。

朝8時に家を出たはずなのに、参列者は1500名を超えて吉岡総本家の家から1.5kmも吹雪の中に「白い雪の塊」がたくさん並んでいたので、最初は「白いお地蔵さん」が並んでいるのかと思うと「人間」でした。

父は、人間が座っている道を避けて「田んぼの中」を「馬そり」でジャンプしながら進んだので私の和服は脱げて「ほぼ裸状態」で真冬の冷たい雪を顔と体に吹き当てながらやっと「本家」に辿り着いて、正式なご挨拶を私が最初に祖母の「吉岡あや婆ちゃん」にしました。

大きな声で「入ってよし!!!」と声が掛かったので、一礼して玄関を潜り、自分の年齢と名前を言ってから囲炉裏の横に座って、「今年の抱負」を一人づつ言葉にして許可を得てから台所で濡れた着物を乾かしました。

日本全国から「日本で最後の武士の頭領にひと目会って挨拶したい」と北海道芦別市常磐町の吉岡総本家までたくさんの人が集まっていたことを「祖母の吉岡あや婆ちゃん」が教えてくれましたが、「あんたの父さんの時も同じだったし、勝手に来たい奴が来るだけなので気にするんじゃないよ!」と笑っていました。

パンツ1丁で囲炉裏の前に座らせてもらい、手拭いで体を拭きながら暖かいお茶を飲ませてくれた場所は、誰も座ることが許されなかった亡くなった「前々頭領の祖父の場所」でした。

さすが、吉岡一門の頭領の新襲名式だね。あんたの父さんの時も同じだったけど、「気温はマイナス37度」なので、始まりの「3」と終わりの「7」に守られて、天の雨が雪になって喜んでくれているよ!」

と吉岡あや婆ちゃんが言ったので、さすが人間に食べ物を与えてくれる自然界に祈り続けている「霊力者の吉岡一門の頭領」を守るために、水を雪に変えてお祝いしてくれていると思ったし、余計な人が来れないように「人払い」もしてくれていると気づいたので、外へ出て「風と雪と天と地」に武士の土下座をして感謝するとピタッと風も雪も降り止みました。

吉岡総本家の160畳の和室にも「私の祖父の吉岡西蔵の専用席」ありますので、前頭領の父・吉岡忠が座ろうとするとあや婆ちゃんに怒られて、私が一番上座のトップの席に座らされました。

父は自分から家を出て「小作の分家」になったので「祖父の席」に私が座り、自分の後ろには「長さ100mの廊下の縁側」の外にガラス越しに多くの人が雪の上に正座して待っている姿が見えました。

吉岡家の先祖の仏壇を背にした「上座(左手)」には「吉岡一族の男」たちがずらっと座り、一人づつ「富山塗りの黒い最高級のお膳」の前に陣取り、向かい側(下座)のトップには私の祖母の「あや婆ちゃん」が座り、赤い富山塗りのお膳の前に座りましたが、私のお膳は「富山塗りの赤と黒を混ぜた塗りのお膳」に金箔で大きな「龍」が描かれているし、あや婆ちゃんのお膳にも金箔の鳳凰が金箔で貼ってあったので、触ると金箔が取れるほど鮮やかに描かれていた高価なお膳でした。

「さあ、いいよ!こっちに来て挨拶しなさい!」とあや婆ちゃんが言うと、やって来た人たちから名刺を受け取り、「お前はどこの、どいつだ?」と言葉で「名前と出身地」を言わせていました。

 

まず、トップバッターは、吉岡一門の資産を管理している「日本銀行の頭取の佐々木直(山口県)」ですが、長州藩の裏切り者」だと分かった途端に、「外に出て吹雪の中に裸で正座しなさい!」と、あや婆ちゃんに怒られてパンツまで脱いで正座しました。

第22代日本銀行総裁:佐々木直(山口県)長州藩の裏切り者

 

次に挨拶に来たのは「佐藤榮作首相」ですが、「お前も長州藩の裏切り者かい、じゃあ、佐々木直と同じようにスッポンポンで正座して反省しなさい。」と怒られました。

第46代 佐藤榮作首相(山口県)長州藩の裏切り者

「吉岡一門の頭領」は昔から「切り捨て御免の裁判官で十手持ち」なので、「東京高等裁判官 岡原昌男」が来ましたが、「岩手県の北朝の裏切り者」なので、「お前も外で裸になって正座しなさい」と怒られたので、3人がスッポンで正座している様子を見て笑ってしまいました。

 

その次に来たのは、「第21代警察庁長官 吉村博人」は「熊本県の南朝」なので、下座のあや婆ちゃんの横のお膳の前に座る許可を初めてもらい喜んでいました。

そのあとは、吉岡一門のお金を運用している「三井銀行、三菱銀行、住友銀行の頭取たち」が並び、名刺を出そうとしますが、

お前たちは私が貸した金も返さずに庶民を苦しめる「金貸業の悪徳商人」だから、全員、吹雪の外へ出て素っ裸で正座していなさい!

と怒られて吹雪の中で素っ裸になっている人が6名に増えました。

 

その次は、武士と同じ「国防を担う防衛省の板谷隆一海将」で、二人目の「お膳の前に座る許可」がでました。「吉岡一門の頭領」は、もともと「国防のために存在」している人間なので、「防衛省」とは昔から深いつながりがあるからです。

「武士」は日本を守るために「天皇と日本国」を守っている一族なので、防衛省の国の仕事として「武士」となり「剣術の腕」を磨いて日本国を守っていたので、私も18歳から防衛省の仕事を無償でした時に、「吉岡一門の資産」から新しい武器弾薬や戦車や戦闘機や潜水艦も作り、数千兆円は使ったと思います。

しかし、私が30歳で「特別統合幕僚長」になってから「歴代の統合幕僚長」に吉岡一門の話をきちんと伝えたのに、新しい統合幕僚長になった時にも「挨拶の電話1本しない裏切り者」ばかりだったので、全員、防衛省のホームページに「顔出し禁止」にしてやりました。

 

その次は、「北海道知事の堂垣内尚弘」ですが、札幌市出身なので「北朝に手を貸した罪」で、外で裸で正座になり「男裸が7名」になりました。

「南朝の吉岡一門」は明治19年に(1886年)に富山県から苫小牧港に入り芦別市常磐町まで馬で荷物を運んで入り、すぐに上川地方・空知地方・石狩地方のお米ができる場所に住みましたが、「北朝の武士」たちは誰もまだ住んでいませんでした。

北朝の一派は、函館五稜郭と小樽から貨物船で入ってきた「盗人」で、札幌に県庁所在地を置くことを勝手に決めて作ったので、祖父の吉岡西蔵と父・吉岡忠が日本刀を持って怒鳴りに行ったことがあると聞きました。

怒った理由は、勝手に北海道開拓の年を「開拓使の設置(1869年)により、蝦夷地が北海道と改称されました」と公開していますが、1869年時は札幌市の場所を決める役人たちのボロ屋が1件あっただけなので「蝦夷地の実効支配」にはなっていませんでした。

吉岡一門が「明治19年」に入ってお米ができる土壌を見つけるために何度も北海道全域住んでいたことを忘れているので「間違った文面を詫びて修正しろ!』と何度も怒鳴り込みに行ったのに何もしない役人ばかりだったからです。

北海道知事の堂垣内尚弘・・・北朝に手を貸した裏切り者

 

堂垣内尚弘知事のあとには、「北海道内の14支庁のトップの14名とNO2」が挨拶に来ましたが、「勝手に、北海道を14支庁に分割した罪」で、全員、外に出されて素っ裸で正座になりましたので7名+28名=35名の裸の男が正座していて、目の前には小作用の白木のお膳が出されていました。

「文句がある奴は、立ちなさい!!私が薙刀で斬り殺してやる!!」

と言うあや婆ちゃんなので、全員、震えながら正座して会話も禁止されました。

私は、「寝たら死ぬので眠らないで下さい」としか言えませんでした。

この日の「気温はマイナス37度」なので食べ物も味噌汁もすぐに凍る気温なので体の感覚が無くなったとあとで聞きました。

ここで、あや婆ちゃんに「昭和天皇(北朝)」から電話が来て、「今から二人で行きたいが参加していいですか?」と聞かれたようで私の判断を聞いてきたので、こう答えました。

「北海道は吹雪で飛行機も飛ばないと思うので来ないほうがいいと思います。お気持ちだけありがとうございます。」と伝えてもらうと、「新頭領の人捌き」はうまいねえ。と、あや婆ちゃんに褒められました。

歴代の吉岡一門の頭領の妻は、代々、天皇家に食べ物を贈り、時には欲しいものを電話してくるので無償で用立てて送っていたので、「芦別市常磐町の吉岡一門総本家の落成記念日」に明治天皇がやってきて2泊3日の予定が1週間もいた理由はわかると思います。

「明治天皇」も吉岡一門の曽祖父の吉岡文吉さんの種で「南朝」です。

「北朝の天皇」も「南朝の天皇」も「全て吉岡一門頭領のタネ」なので、「天皇を産んだ女(皇族)が南朝か北朝かだけの違い」なので、日本の天皇家は全員、「吉岡一門の頭領のタネ」で親子兄弟だと覚えておいて下さい。

だから、私も30代の時に勝手に許可なく「タネ」を取られたので許しません。

毎日、釧路から最高に美味しい魚やが毎日届くし、利尻礼文の美味しい昆布でダシを取った味噌汁は出るし、具材は小樽の最高の貝やウニや魚が朝昼晩出るし、日本酒は日本中から最高のものが毎日送られてくるので、「明治天皇は、ただ毎日寝て食っていただけだったよ」とあや婆ちゃんが教えてくれました。

私の「新頭領襲名式」に本気で来る気があるなら前日から来ればいいことだし、どうせ、北海道の美味しいものを食べたいか、「お土産」を期待しているだけだと思ったので、「もし、何度も電話が来ても無視して下さい」、とあや婆ちゃんには伝えておきました。

「昭和天皇みたい大東亜戦争を勝手に始めて、勝手にを終わらせた奴に食わすメシはない!と私が怒っていると父・吉岡忠がこう言いました。

今のは、俺も賛成だ。

あの「戦争ゲーム」とやらに乗っかるほど馬鹿な昭和天皇なので早く死ねばいいのに、良いものを食いすぎて長生きしてるから日本がここまで腐っているんだぞ!

お前なら日本刀で首を刎ねても良い資格を持っているので、俺も加勢するからやる時は連絡しろよな!北朝一族を根絶やしにしてやるか!」と笑っていた42歳の父でしたが、こっそり日本酒を盗んで飲んでいたので上機嫌でした。

このあとに挨拶に来たのは、「北海道の東側に住んでいる北朝の武士の農家」たちが100名以上来ましたが、「新頭領に挨拶をしに来ないと殺されることを知っている」ので、じっと土間に正座して黙って待っていましたが始まる前に、「日本刀を自分の後ろに置いて座る許可」をあや婆ちゃんが出しました。

「じゃあ、始めるかい!」とあや婆ちゃんが言うと、女性たちが全員でお椀に味噌汁とご飯茶碗に炊き立てのお米を入れて持ってきて、おかずは漬物だけが配膳されました。

「さあ、新しい頭領の挨拶をお願いします」とあや婆ちゃんが仕切るので、12歳の私が立ち上がって言葉を大声で伝えました。

本日は、お足元の悪い中、そして吹雪で寒い中をようこそお越し下さいましてありがとうございます。

私が本日、元服した「吉岡流 吉岡憲法 吉岡一門 新頭領の吉岡学」です。

どうぞ、お見知りおき下さい!

「一同、礼!」とあや婆ちゃんが大声で怒鳴るので、「北朝の武士」たちは全員両手を畳につけて、正座したまま震えて「首」を出して何かを待っています。

「北朝の武士」を呼んだ理由は、「このまま北海道に住ませていいのか?」を私が決める役目なので、首を洗って待っている状態です。

「どうする?まなぶ頭領、一気に殺すかい?」

と笑顔で聞いてくるあや婆ちゃんの目は「殺す気満々」で、薙刀に手をかけています。

さて、どうするかなあと思って、左側に座っている私の父・吉岡忠前頭領の顔を見ると、「殺すな!!殺すな!」と小声で言っていましたが、その隣に座っている叔父の吉岡信は、「殺せ!殺せ!」と言っていました。

さてさて、どうするものか困ったなあ・・・。

「まなぶ頭領、早く決めないと味噌汁が冷めるので、殺るならさっさと殺ろうじゃないか?(^^)私はもう準備ができているよ!」と薙刀を持って立ち上がるあや婆ちゃん。

ここで「北朝の武士」を殺せば跳ねた頭がたくさんお膳の前に転がるし、美味しいご飯も不味くなるので、生かすしかないかなあと思い、私は立ち上がって大声でこう言いました。

本日、この日をもって「北海道の南朝と北朝の因縁」を全て終わりとする。

文句のある奴は前へ出ろ!!

俺が首をぶった斬ってやる!!!

誰もいないということは、俺が決めたことに文句はないと言うことだな!!

じゃあ、以上で新頭領の挨拶とする!!」

あや婆ちゃんは笑顔で、

「さすが新頭領!キメっぷりが気持ちいいねえ。

さ、酒で乾杯だ!!女たちは酒の準備をしなさい!!

私だけ、赤いお相撲さんの大きな盃に日本酒がたっぷり注がれました。

他の人は、「小さな盃」で乾杯です!!

私は大きな赤い盃を持って立ち上がり、「いざ!乾杯!!!」と声を出すと「おーーーー!」と外でも同じように乾杯してくれました。

私の父は、「少しでいいので残して俺にくれな!」と言いますが、喉が渇いたし、寒いので一気に飲み干しました。

「ゴクゴクゴク、ゴクゴクゴク、ゴクゴクゴク、ぷふぁ〜!!

「完盃」のあとの一言!!

さあここで「上座と下座の者」は場所を入れ変えて「和合の印」を私に見せなさい。

親が子の罪を許すように、「親の南朝」が「子供の北朝」を許さずに、この宴(うたげ)は終われません。

吉岡家の仏壇に拝むことは許しませんが上座に座り、吉岡一門の先祖の思いを背に受けて、今までの先祖の罪を悔い洗い清めなさい!!!

と大声で叫び、上座と下座の人が場所移動してから、私が「北朝の武士」たちに酒を注いで回りました。

神・ご先祖の御前にて、認め、許し、給えることのありがたさを噛み締めて、私の酒を飲み干して下さいませ。

次に、私を育ててくれた吉岡一門の親族にも酒を注がせて頂きますので、大きな盃に入れ替えてお飲み下さい。

吉岡一門は酒好きが多いので、お茶碗でいいかと思います。

じゃあ、全員のお茶碗を盃にして一気に飲み干して下さいませ!

さ、どうぞ!!

 

この日のために、北海道中の日本酒の樽酒が数十個も送られてきたので、日本酒さえあれば寒さは我慢できます。

日本中の神社に祀られている日本酒の樽酒は、天皇家の種元の「吉岡一門の頭領」に飲んで欲しくて献杯している樽酒ですが、今ままで私に「神社の奉納酒」を持ってきてくれたのは、「北海道苫小牧市の元樽前山神社の禰宜」だった「椎山賢治さん」だけですが、ご先祖にアイヌの血が入っている人で仲良くなり、「北海道の神社庁のトップ」になったのに「樽前山神社の元宮司」が「椎山賢治さん」を追い出して「夕張神社」に出したほど「神社庁」はお金に汚い世界なのです。

いずれ今の神社庁も壊して「新しい神社庁」を作り直します。

もともと「神社庁」も「宮内庁」も吉岡一門の配下なので、文句を言う奴は切り捨てごめんとします。

本来は、「天皇家の種元の神武天皇を拝むのが神職の勤め」なのに、敗戦後、GHQと昭和天皇が手を組んで吉岡一門頭領の許可なく、「子供を産む女の守り神の天照大神」に祭神を変えたので許しません。

本来の男神職は「神武天皇」を拝み、巫女は「皇族の女たち」を拝む役目を忘れて金儲けに走ったので、今の神職は全員クビでも良いと思います。

もともと「祈りで金を取るのは間違い」だし、氏子が支えるべき役職なのに、勝手に「宗教法人」にして裏金を隠し、金をもらって人殺しやヤクザを「神職」にている職業で、巫女も全員、「手つき女」なので処女ではない女が祈ると神社は霊場になります。

天河弁財天の柿坂 神酒之祐(かきさか みきのすけ) 宮司は、神戸山口組のヤクザだった時に人を殺しすぎたので金を積んで神職になった人だし、柿坂宮司の息子も山口組で修行して帰ってきた奴なので、日本中の神職や仏教の坊主にもたくさん人殺しはいることを覚えておいて下さい。

 

奉納酒を勝手に飲み食いしている神職たちも全員クビにするか、「断食3年間」でもやらせて判断しましょう。

襲名式の外には凍りそうな人たちがたくさん座っていたので、私が一升瓶を数本持って一人づつお茶碗で日本酒を注ぐと、「今日ほど、日本酒がうまいと思ったことはない!!新頭領、ありがとうございます!!」と言ってくれました。

小作」たちにも酒を注ごうとすると父に止められて、

「それはいかん。「小作」を甘えさせると、必ず、俺たちを裏切るので、誰にでも優しくすれば良い訳ではないぞ!!「分不相応」と覚えておけ!!」

じゃあ、みんなのご飯も味噌汁も冷めたので、あの大きな五右衛門風呂みたいな鍋3つに、全ての味噌汁とご飯とおかずを入れて温めて、オジヤにして配りましょう!!

私がそう言うと、全員で大きな鍋に食べ物を入れて、火を炊いて出し汁とお湯を入れて「美味しいオジヤ」にして食べてくれました。

外に正座して並んでいた人たちは「雪だるま」になっていたので、暖かい食べ物を食べられて喜んでいたし、その後ろにはずらっと、「日本中の南朝の武士や小作の妻と子供」が日本刀を持って座っていました。

もし、私が北朝の夫を斬り殺す決断をした時は、「南朝の妻や子供たち」が一緒に「裏切り者の北朝の武士や家族や子供」を斬り殺す準備のためです。

そうならないように私が采配したので、北朝の妻たちは自分の子供を殺して自害するために小刀を胸に隠していたので全員から取り上げました。

「夫の命を助けてくれてありがとうございます」とお礼を言う人もいたので、一人づつ、ご飯茶碗に日本酒をたっぷり注いで飲ませてあげました。

子供でもお正月は「盃1杯」は酒を飲むのが「武士のしきたり」なので、小学生以上の子供にも全て酒を呑ますとぶっ倒れた奴もいましたが、誰も死ぬことはありません。

私が「新頭領襲名式のゲスト」なので、吉岡一門のご先祖は無駄な殺生はしないので、すぐに目を開けて「ありがとうございます」と言葉にするので、さすが「武士の家は親の躾はいい」と思いました。

それ以外にも続々と行列の人が並ぶの2列に座り直してもらい、子供を風下に隠すよう指示を出してから、山のように積んである日本種の樽酒を「吉岡一門の小作」たちに振舞ってもらい、「吉岡一門とのご縁」を結び直しました。

「私が直接、酒を注ぐ意味」と、「私が指示した人が酒を注ぐ意味」は同じだし、絶対に「女が酒を注いではいけない掟」が武士にはありますが、そんなことを知らない「小作や商人たち」は酒を飲む時に自分で勝手に酒を注ぐ女もいるので怒りたい気持ちを抑えていましたが、あまりにひどい時はその場から離れて寝ました。

いくら酒が好きな女でも男の前で堂々と酒を飲んでいいのは「男がいる時だけ」と決まっているのに、「そういう躾」をされたことがない「第三国人やエタ非民」とはもう付き合いたくないとつくづく思いました。

「男所作」と「女所作」の違いも教えられないバカな母親の子供は、親以下の子供になるので、大きな会社の社長たちのご苦労もよくわかりますが、それが今の現実です。

遅れてやってきた人たちも「新頭領の顔を見たい」と日本全国から集まってきてくれた人たちなので「名刺」だけは受け取って、後日、全員に私が筆でお礼状を書いて送りましたが、これは「最低の礼儀」ですので知らない人はすぐに実行して下さい。

電話やLINEで伝える「ありがとう」とは思いも意味も全く違うし、年上の人にはこういうマナーがあることを教えられる親になって下さい。

北海道の南朝と北朝の小作の家族が全員が来ていた中に、戦争に2度行って片足を無くした岩渕安治さん(私の祖父)も片足で正座していたので、足が無いほうの下に雪を固めで左右のバランスをとり、「わざわざ、来てくれてありがとうございます」とだけ伝えて、どんぶり3杯の日本酒を飲んで笑顔になって握手すると、涙を流しながら「新頭領おめでとうございます!」と言ってくれました。

私の父・吉岡忠からは、「お前の式典に来たい奴らが1.5kmにもなったので警察に連絡して、もう常磐町まで来させるな!」と電話したのでパトカー数台で止めてくれました。

「あのまま放っておいたら死人が出たぞ!」と笑ってあとで教えてくれました。

「あや婆ちゃんが呼んでいる」と言われたので家に入ると、

「さ、まなぶ頭領、今日のことをご先祖に報告しなさい。

あの一番奥の大きな床間は、「頭領専用の床間」で、私も手を合わせることができない場所なので、お前一人で行って今日のご報告してきなさい。」と言われました。

大刀、中刀、小刀と古い「吉岡一門の鎧兜数体」が祀ってある床間を見ると、兜の奥から目が見えて、じっと私を睨んでいました。

私用の鎧家具と日本刀も飾ってあったので、正式に祈るとこう言われました。

 

よくできた!!よくできたぞ!

これでお前は日本を守る「吉岡一門の武士の頭領」となった。

あとは、お前の行動次第なので、よろしく頼むぞ!!!

兜の奥の目が泣いて喜んでいるように見えたのも、「吉岡一門歴代頭領たちの目」だと思います。

私の祈りの様子を後ろで見ていた親族の中で、本家の叔父・吉岡信が仏間に足を踏み入れた途端、体が硬直してぶっ倒れましたが、それほど「霊力がない」と祈れない場所が、「頭領の床間」なので、ものすごい神気で守られている場所で私専用の床間でした。

親族家族でも祈れない「床間」だし、私の父・吉岡忠も「頭領ではない」ので手を合わせることはできませんので、ただ正座して「武士の所作」で祈りをしていました。

この時の私の所作対応を見ていた「北海道の堂垣内尚弘知事」は感動して、芦別高校に私が入る年に合わせて、息子を転校させて「私の用心棒」にしましたが、私は1年生、堂垣内知事の息子は3年生で「転校生」はいじめられたので、何度も私が助けて成敗したので誰も手を出さなくなりました。

私の父・吉岡忠はこの「堂垣内尚弘知事」が気に入ったようで、国会議員にするための票を集めましたが最後まで成し得ませんでしたので、その悔しい思いを「アイヌの萱野 茂(かやの しげる、1926年6月15日 – 2006年5月6日)」を1994年に国会議員に当選させました。

しかし、思ったように票が集まらず苦戦していたので、投票日が終わったあとに当選した奴に1本電話して「体調が悪いと辞職願」を出させて「アイヌの萱野 茂を繰り上げ当選」させました。

「萱野茂が落選」したと気落ちしていた父に当選の電話が届いたあと、私に電話が来て、「お前、裏で手を回したな。まあ、結果的に良かったのでありがとうな。」とだけ言ってくれました。

それがどこの企業も政治家も恐れる「ダイエー労働組合の力」で、私の実力なのです。ただのスーパーの店員ではなかったのですよ!

これで、18歳から防衛省の仕事をしながら29歳から官僚の仕事もした私の人脈がわかりましたか?

世界の国王や首相たちも全員私のことは知っていますが、「絶対に名前を表に出さない約束」をした理由は、2025年から始まる「新しい日本の建国」の為だったのです。

世界のVIPたちにも私の本名を知っているのは数名で、「ラン(Learn)先生」で名前は通っています。

「世界のVIPたちに歌やダンスや作詞や作曲をしてくれたラン先生を知っていますか?」と聞けば、わかると思いますよ!

 

12歳でこんな偉い人たちにたくさん会っていれば、18歳で岡山理科大学で「防衛省の陸将保」になると、いろんな人たちが挨拶の電話が来たり、お金を持ってきますが、面倒な接待は全て断りました。

「普通の大学生活を経験したい」のと、同級生から変な扱いを受けるのが嫌だからです。

でも、「歴代の日本銀行の総裁」だけは、総裁が変わるたびに電話で挨拶されますし、秘書が後から100万円を持ってくるので、福祉施設や重度障害者施設に全て寄付しました。

私の祖父が身障者だし、国の助成金では足りないので、「当然のお返し」です。

基本的に、日本銀行総裁は「南朝の人間がなる暗黙のルール」がある理由は、「吉岡一門の資産」を管理しているからです。

だから、1989年から3年間、第26代三重野康総裁と一緒に頑張ってバブル崩壊を止めた「社長会」はとても仲良くできたおかげで「バブル崩壊」を止められたし、日本中の全ての社長たちと知り合いになったので、数えきれない特許を無償であげたので今も生き残ってくれています。

今の「32代植田和男(うえだかずお)総裁」は三重野康総裁の秘蔵っ子で1990年代に紹介された人ですが、「マサチューセッツ工科大学」も「ブリティッシュ・コロンビア大学」も私は「永久資格の名誉教授」なので、何度も驚いて電話をくれましたが、「新しい日本を作るための仕事」を与えたので今も無表情で頑張ってくれています。

日本の首相全員にも当然、私の名前は有名なので、「歴代首相」は必ず、電話で挨拶をしれくれますし、100万円のお金を持ってやってきますが、全て福祉施設や重度障害者施設に寄付したので、私は「ただの貧乏人」で自分の貯金でやりくりして暮らしています。

「102代首相の「石破のバカ」は、頭が悪くて石に頭をぶつけて石を割るほど石頭についた一族だし、私に挨拶もしない人間で「防衛省に別班はいます」と言ったバカなので許しません。誰のおかげで首相ができているのか忘れたようなので、これから目にもの見せてやります!

「新しい首相」になったのに私に連絡しなかった首相は、「衆議院議員の任期満了(4年)の1期のみ」と決めていますが、それ以外の人は全てきちんと挨拶に来て100万円のご祝儀を持ってきてくれたほど、私は全ての首相たちにも政治家にも有名で怖がられていた存在でした。

 

 

さあ、これから何が起きても生きるしかないので、「新しい希望の日本国」を作り直しましょう!!!

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