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【ダイエー】「北海道物産展」を企画したのは、私です!

ダイエーの中内㓛社長に呼び出されて、札幌の高級スナックで二人でお酒を飲んでいる時に、ふと、こんなことを聞かれました。

※名前の正式な用字は「功」ではなく「㓛」(「工+刀」、㓛:U+34DB)、つまり、吉岡一門を支えた「刀職人」が先祖ルーツ。

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中内㓛社長)なあ、吉岡君、何かパッと世間を驚かすような「大きな企画」はないものかな?

「良いものをより安く」をここまで貫いてきたが、時代はそれだけを望んでないと思うが、君はどう思う?

 

吉岡)社長のおっしゃる通り、売り場に立っていると、お客様から「もう安いだけの店はたくさんあるので、ダイエーさんなら、もっと良いものを安く売ることができると思うので、ぜひ、社長さんに言っておいてね!」と言われています。

その奥様はデパートにも行きますが、やはり、ダイエーだけがこだわった「無農薬野菜やお米の味」をしっかりわかる奥様だし、聞いてみると、やっぱり、親が「コメ農家」だとわかり話が盛り上がりました。

 

ですので、社長!

私が長年、懐にあたためていた「新企画」をお聞き下さい。

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まず、本州のお客様は「本当に美味しい北海道の味」を誰も知りません。

なぜかというと、魚も野菜もお米もすべての「北海道産食品」を牛耳っている「釧路の漁業組合長」や「北海道の農協のボスたち」と話した結果、本当に手をかけて作った無農薬のお米や野菜を安い値段で本州に売ることは「やめよう」と決めたからです。

 

まあ、北海道ダイエーだけは商品部のバイヤーに言ってありますので、北海道のダイエーの店舗で販売する分だけは「無農薬の食品とお米を販売する契約」を個人的にしていますので、ご安心下さい。

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さて、この最高に美味しい北海道の野菜とお米をどう日本全国で売るかですが、あのう、社長、昨年まで続けていた「洋上研修会」の名目で日本中のダイエーのリーダーを集めて船の上で成功事例を発表し合う船に私は二度も呼ばれて乗って、「成功事例の研究発表」をしたので、まずは、ありがとうございます。

 

あの時、北海道から沖縄まで移動に使った「日本最大の豪華客船さくら丸」の船長さんと話ししたのですが、どうやら1990年に「3代目にっぽん丸の導入」に伴い、引退した「さくら丸」は、まもなく役目を終えるようです。

 

なので、あの船を借り切って、日本中で「北海道の野菜とお米」を売ってみませんか?

 

日本のダイエーがある場所には、必ず、大きな船が接岸できる「港」があるので、店舗で売るより、直接、船の上と港で臨時のお店を開いて買い物をして貰えば、買い物客も車に積んで帰りやすいしいいじゃないですか?

 

最初はやはり、もっとも食べ物が美味しくない「東京」でやるべきですね!

 

東京の晴海埠頭は埋立地ですので、大きな船もつけられるはずですし、東京都内の人の車移動も混雑せずに捌けると思います。

 

北海道の商品調達は、私が北海道中の無農薬農家と漁師さんたちに声をかけるので、すぐに物は集められますし、きっと、北海道の田舎で苦労して売っている添加物が一切、入っていない美味しい牛乳やアイスクリームを食べたら舌が落ちますよ!

 

酪農の農家さんたちにもたくさん話を聞きましたが、販売単価が安いアイスクリームを本州に送る「輸送費が高い」と言っていたので、北海道のあちこちの港に寄って売りたいものをたくさん船に積み込んで売って貰えば、販売する人の宿泊料も気にしなくていいし、あのさくら丸の部屋は最高にいい部屋だったので、絶対に生産者も消費者にも喜ばれると思います!

 

タイトルは、「北海道フェア」でやりましょう!

前に、デパートが同じ名前を使っていたので直接、デパートで販売した人に聞いてみると、「ものすごく売れてすぐに売る商品が無くなった」と言っていたので、悔しいですが、やはり、北海道の文字が最初に来る「北海道フェア」がいいと思います。

調べてみても「商標登録」はしていないし、デパートの責任者も勝手使ってもいいよと言ってくれたので大丈夫です。

 

ダイエー色を強く出すと「安物」だと思われて良いお客さまがこなくなるので、さりげなく、「ダイエーの社旗」だけ出しておいて、思いっきり北海道の美味しいものをたくさん売りましょうよ!

 

まあ、「さくら丸」に北海道全土の売りたい物を集めれば、売上100億円くらいにはなると思うし、もし途中で商品が無くなれば、すぐに次の船で運ばせれば間に合うので、ぜひ、この企画を私にやらせて下さい。

 

絶対に、成功する自信があります!!

だって、私はコメと野菜を「無農薬」で作っていた農家の次男坊ですもの!

大好きな「北海道の美味しいものの味がわからない本州の人間」にたくさん食べさせてあげましょうよ!

 

そうだ!、沖縄にはダイエーのお店もあるので、最初は、東北、東京、大阪、四国、九州、沖縄と回って北海道の美味しい物を売りまくりましょう!

 

中内㓛社長)吉岡君は、日用品売り場だったはずだが、食品売り場に担当を変えようか?

 

吉岡)いいえ、もう十分、八百屋も魚屋も肉屋のマネージャーもんバイヤーたちとも本気でケンカしたので、もし、私がその分野に行けば、売り場が血だらけになるのでやめて下さい。

 

まずは、社長、あなた自身が北海道の美味しい物を食べにきて下さい。

私が自分で運転してコースを選んでお連れしますので、筆頭取締役か誰か男一人と、綺麗な女性を数名連れてきて下さい。

骨身に染みる温泉で疲れをとりながら、北海道の美味しい物を満喫して下さい。

 

さあ、いつやりましょうか?

 

中内㓛社長)もう君は、準備ができていると思うので、いつでもいいぞ!

テレビや新聞やマスコミに情報を流すのはワシがやるので任せておきなさい。

 

吉岡)じゃあ、今年の夏野菜と秋野菜とお米の収穫をまとめられる時期を農家たちと話してから、商品部のバイヤーたちと時期を決定しますので、本社のバイヤーには私が話します。

さあ、1週間で100億円、売りますよ!!!

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結果、初年度の売り上げは120億円を突破して大成功でした!

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中内㓛社長は、偉そうに松下幸之助さんに偉そうに自慢したと言ってましたが、「吉岡学の手柄」だと言わないところが、私と中内㓛社長の信頼関係の結果です。

 

日本中の武士をまとめていた「吉岡一門」はあまりにも有名だし、最後の頭領は若くて「あまりに腕が立つ」と有名だったので、果し合いに来る人間が来て、相手を殺すのが嫌だったので、どんな時にも必死で本名が出ないようにお願いしていました。

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大学1年生で防衛省のハードプログラムを組んで幹部になった時も、フルネームを変えて陸上自衛隊員として登録されたので、吉岡学という名前が表に出ることは決してありませんでした。

 

高校時代から日本中で「最後の頭領を探している」と聞こえてきたので、まさか、岡山県の大学で「数学科」に行っているのも不思議だと思うし、そのあとまさかの「食品スーパーダイエー」に就職したことを知る人間はいなかったので、絶対に表に名前が出ることが嫌だったので、中内㓛社長にもそのことは徹底してもらいました。

 

この「北海道フェアの企画」が成功したあとは、いろんなスーパーやデパートも真似てやっていましたが、北海道の農家の信頼は私が直接、責任者と商談したので一番強いし、私より絶対に良いものは手に入らないので他の会社で「本物の無農薬商品」を売れるはずはありません。

 

それが、北海道を一番最初にまとめた「吉岡一門の頭領」の実力なのです!

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ちなみに、私が1982年に「株式会社ダイエー」に入社した年に、荷物を運ぶ取引先が店舗に入荷する作業効率を改善するために「オリコンとカゴ台車」を自分のお金で開発して、その販売権を無償でダイエーにプレゼントして、日本中の全てのスーパーやコンビニに「特許登録」をせずに無償で会社にプレゼントした年に、1993年11月 – 阪神運輸倉庫株式会社が、株式会社ジャパン・カーゴ・システムズと株式会社セントラルコールドチェーンから、営業譲渡を受け、株式会社ダイエー・ロジスティクス・システムズに商号変更させたのも私のアイデアです。(現在のロジワン)

【ダイエー】「物流輸送ツール」を開発した体験談 1 業務改善

https://earthtscu.jp/2023/09/04/shipping/

 

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「ダイエーロジスティクスセンター」という物流システムを千葉県の八千代市に作らせたのも私ですし、1982年にハワイのアラモアナショッピングセンターを買収させたのも私です。

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1984年、株式会社ダイエーのプライベートブランドの名称「ノーブランド」も私のアイデアですし、「セービング」という名称を統合し、商品を食品や日用品や小物家電にアイテムを増やしたのも私のアドバイスです。

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1985年に、売上は順調に毎年の売上の予算は達成していたのに、利益を出せない会社だったので、「誰か他の会社の優秀な人を採用した方がいいですよ」と中内㓛社長に教えた結果、1982年ダイエーのYAMAHAの川島博社長にお願いして、「ダイエーの副社長」に就任してくれた結果、『V字回復」で一気に利益を出してくれたのに、1987年、リッカーの管財人社長に就任させたので、1989年、「ダイエー副会長」に変更するようアドバイスしたのに、最後は中内㓛会長と言い合いになり、九州ダイエーの常務として飛ばされた結果、川島博副社長はダイエーを辞めてしまいました。

日本楽器 川島博社長

 

ダイエーを辞めた後、わざわざ北海道の私に会いに来てくれて、「よくあの頑固者の中内㓛社長を支えたものだ」と褒めてくれて、美味しいお酒をご馳走してくれたほど、人間ができた人でした。

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「破竹の勢い」と呼ばれた当時の中内㓛社長に部下でも意見を言える人間は誰もいない時代に、「私一人だけが本音で意見を言える立場」にいましたが、そんなことを社内で知られると面倒だったし、中内㓛社長に「年収1億円やるから取締役になれ!」と電話で言われても拒否しましたが、次々に当時の取締役たちが私に会いにお店にやって来て説得されましたが、一度、断った話に乗るほど私もヤワじゃないので、

「どんなに大金を積まれてもアドバイスは無償でしますが、会社の役員になったら社長は気分で人を切る人なので絶対にやりません!」と言ったほど、本気で付き合える関係でした。

 

1991年に「北海道ダイエー」を吸収する時も、一切、私に相談せずに決めたので、ボロクソに電話で文句を言いましが、「もともとワシの会社を分社化したので、勝手に統合して何が悪い」と電話で開き直ったので、「ダイエーの赤字を分散するために分社化したくせに、北海道ダイエーの利益が出た途端、吸収合併なんてされものなら、従業員のやる気も無くなるし、どうしてそんなバカなことを考えたのか教えて下さい!」と言うと、「ワシじゃなく、あいつ(筆頭取締役)のアイデアだ」、と言ったので、「バカな部下のアドバイスをそのまま聞いて決めたバカな上司の社長の責任でしょ!」と言い返して電話を切りました。

 

そのあと何度も電話交換手から

「中内㓛社長から何度も電話が来てますが、どうしますか?」

と言われましたが、

「勝手に、北海道ダイエーを潰したせいで仕事が忙しいから、もう、お店に電話するなと言っておいて!」

と伝えると、お店に電話は来なくなりましたが、その分、店長が私を呼びに来るのでさらに面倒でした。

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電話で中内㓛社長にボロクソ言った後、すぐに問題の「筆頭取締役」が北海道まで飛んできて、ススキノで高いお酒を飲みながら謝り続けてくれたこともありました。

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1995年1月17日に「阪神・淡路大震災発生」が発生した時も、個人的に中内功社長から

「今後の会社経営をどうしていいかわからんから教えてくれ。」と電話してきたので、

「こういう時こそ、社長として従業員とお客様にお礼をお詫びをして、心から支えてくれる良いお客様との繋がりを作るメッセージをテレビで話して下さい」

と伝えた結果、初めてテレビの前で頭を下げた中内㓛社長を電話で褒めてあげたこともありました。

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1992年(大正11年)生まれの中内功社長は、他人にも子供にも従業員にも厳しくしか接しられない「戦時中の苦しい親の思いを感じながら育った世代」なので、苦しい時ほど自分の子供や大事にしたい人に厳しく当たるので、その子供たちは「親を嫌い」になるので親子の関係が悪い「団塊世代ジュニア」が生まれてしまったのです。

 

だからこそ、「親に教われないこと」は自分で努力して経験してから人間として成長できる人に会う努力をしない限り、いくら歳を重ねても「人間性」が成長することはありません。

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いつも「電話でしかアドバイスしない関係」だったのに、1992年(大正11年)生まれの中内㓛社長が、札幌パークホテルの地下のレントランを借り切って、8歳年上の1984年(明治27年生まれ)のパナソニックの松下幸之助社長」に合わせてくれた時には驚きました。

パナソニックの松下幸之助社長

 

商売では中内㓛社長と松下幸之助社長は敵対する意思が強かったのですが、実は、人としてはお互いに認め合う「関西の商人同士」としての意地の張り合いだったので、

どうしてお二人はテレビで経済評論家たちが驚くほど揉めているのに、どうしてこんなに仲がいいのですか?」

と質問すると、中内㓛社長が口にしたのは、

「商売と人の付き合いは別だ」と口にして、松下幸之助社長がうなづいただけなので、本当に昔からお互いを信頼している同士だとわかりました。

 

最後に、「こんな優秀な部下を持っているのは俺だけだぞ!」松下幸之助社長に自慢したので、「初めて私を褒めてくれた」と思ったのに、「お前を採用してやったのは俺だ!」と偉そうに言い放ったあと、

「神戸 ワールド記念ホールで1000人の大卒入社式で一人づつ握手した時、後ろにぶっ倒れそうで必死に我慢していたんだぞ」

と話してくれたので、二人で大笑いしたこともありました。

神戸 ワールド記念ホール

 

明治36年生まれの私の祖父の家に、中学生の時に毎週通って、人生経験と戦争体験をたくさん教わりに通ったおかげで、大先輩から教わることの大事さを学びましたし、大先輩たちも若い世代が何を考えているのか知り合いと聞かれる時間のおかげで、私はみなさんにお話しできることが増えたのだと思います。

 

偉大な先輩たちにたくさん合わせてくれた全てのご縁の恩返しのつもり出会った人には必要なアドバイスをしてきましたが、いろんな分野の人にアドバイスできる人間に成長できたご縁に心から感謝します。

ありがとうございます。

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