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15歳の光

2002年6月、知人の高校1年生の長男15歳が急性白血病と診断され入院したことをお父さんから聞きました。

そのことを聞いた瞬間、「死」を感じてしまいました。

しかし15歳の少年には希望溢れる高校成生活が始まったばかりなので、その死を我が身に入れ替えることができないものかと神々に問いました。でも神は、何も答えません。

「できることをする」、そう決めてすぐ病院へ同行しましたが、まだ元気な笑顔を見れば見るほどこの子を生かしてあげたいと強く思います。

家に戻り、何度も自分の命と交換ができないものかと神に尋ねました。

自分の苦しい精神状態だった中学生の時の記憶や生きることに反抗しつづけた高校生活を思い出します。
自分と違ってあんなにいい子なら私の代わりに生かしてあげて欲しいとも願いました。

お母さんが自分の産んだ子供の命と引き変えてほしいという気持ちと同じでしょう。

あまりにも突然な若い命の苦しみは、1999年に自分で命を絶った30代の女性のことも思い出します。

子供二人とご主人を残して突然、死を選んだその女性の行動は、私が無償で人の悩み相談にのった後だったからこそ、もう人を助ける事はやめようと考えた時でもありました。

すべての人の命が尊いからこそ、誰かの「死」に対して集まる人の辛い思いは、その苦しみの感情を誰かのせいにしたがります。

本気で人のためにするということは、そういう人たちの思いに向き合わなければいけないことだと学ばされた経験でした。

このときは私はまだ自分だけは「自己犠牲をよし」としている次期でした。

私自身がどうなろうともこの地球や生きている人間が気付いて行動を変えてくれるなら、どんなに辛い役割でもすると覚悟をしていたからです。

しかしこの自己犠牲の代償は、自分にとっても誰にとっても喜びにならないことを後で学びました。

ガンを宣告された人を治したことも何度もありますが、その半年後に再発したことを聞かされたとき、他人の力で人に命を与えることはできないとわかってその治療も一切やめました。

死を迎える本人とその家族のわだかまりを埋めることは「83歳の光」で経験しましたが、愛と希望に満ち溢れた15歳の子供の命を置き換えることも許されないのかと全ての命を産む出した”命のおおもと”へ泣きながら訴えたことを思い出します。

人間は自分の周りで起きることのすべてから学ぶようになっています。

だから与えられた命のある限り、自分のできることをし続けるしかない事を痛いほど感じました。

医学も霊術も、命を産み出すことはできません。

命を少しばかり長らえる時間を与えるだけの方法です。

だから結果がわかっていても自分にできることは何かと問い続けながら毎日のようにできることをしに病院へいきました。何度も何度も死の危険を乗り越えるためにご家族と本人はその苦しみと闘っていました。

神が私たち人間を試しているという人がいます。

もしそうだとしたらその神は何を試しているのでしょうか?

永遠の光である「死」を与えられているからこそ、この世に生まれる「生」の意味を知るためなのでしょうか?

でも天に召されているご先祖で、生きている家族の苦しみを願う魂はいません。

恨みや嫉妬は、生きている人間が人間に対してしているだけのことです。

ご先祖で自分の子孫を試そうとする魂はひとつもいません。

長い長い闘病生活のあと、その男の子は神になりました。

最後は家族の一人一人に生き方を導く言葉を発するほどの精神状態になって、すべてを受け入れて息を引き取りました。

目の前で15歳の子供の命が終わる瞬間を見届けるのは、家族や医療関係者以外にあまり経験しないことですが、この死を受け入れるまでの家族との経験や辛く悲しい心を持った浮遊霊や人間を導く役割の意味は何なのかと、今も自分自身に問い続けているテーマです。

大切な子供を失った母親の心は今も病み続けています。

昨年は、乳がんになり切除しました。そして今年は、大腸ガンが見つかりました。

そういうお母さんの気持が痛いほどわかるからこそ、自分が何をすればいいのかいつも考えています。
たくさんの子供の命を見送った第二次世界大戦中の母たちは、どう子供たちを導いたのでしょうか?

どう生きる希望と勇気を与えていたのでしょうか?

戦いに敗れて全ての希望を失った男たちや日本人の心を母たちはどう支えてきたのでしょうか?

沖縄にはその戦いの場所となった歴史がたくさんあります。

だからその時代の女性たちの悲痛な苦しみの声が今も土地から聞こえてきます。

私のように生れながらの霊媒体質の人は、自分が望まなくてもその役目を生れながらに与えられています。

それが何のためなのか、人のためにどう使うのかを知るにはとても大変な精神鍛練が必要です。

そして実は世の中にこういう人がたくさんいるということを知っておいて下さい。

この霊界の苦しみは同じ経験をした人でなければわからないものがあります。

反対に神の子として天使性を持って生まれる子供たちも今は増えてきています。

その両方の子供たちがこれからどんな役目になるのかは、その子供たちが出会う人や経験する事からしか選択できません。

社会のなかでその選択の道を与えるのが私たち大人の役目です。

もし今、自分にできることなのにしていないことがあれば、その分、あなたの子供たちがその役目をすることになります。

今、あなたにできることは、あなたが苦しんで乗り越えたことを分け与えることです。

逃げ方がうまい人はその道を教えることもできるでしょう。

自分の経験したすべての出来事が実は、天から与えられている経験という役割なのです。

そのことを悟った人は、自分の周りでどんなことが起きてもその言い訳はできません。

ただ自分のできることをし続けるだけなのです。

自分の心の苦しさから自我が創り上げた暗い想念世界を抱える人たちは、同じ苦しみを持つ不浄霊たちに乗られて、心を誘導されていることに気づかない人もたくさんいます。

だからこそ、その弱い心の逃げ場を壊すことも今までたくさんしてきました。

しかし、もうその次期も過ぎたと感じています。

自分の心が苦しい状態だと同じ苦しみを持つ人に憐れみの心が芽生えて同情するのは人の世の常ですが、同情が愛に変わることはありません。

同情こそ、お互いを恨みあうキッカケになることは人生経験のある方ほどよく知っています。

本物の愛とは、すべての苦しみを乗り越えた人だけが他人に与えられるものだと思っています。

そういう人はどんなことが起きても誰かを批判することは絶対にしませんし、私もその道へ向けて精進しているつもりです。

自分の歩いてきた道を振り返ってそのすべての善悪を超えて、他人を受け入れるために経験を使うならそれはあなたの生き方が知恵になり、地域を守る知恵になり、新しい社会を産み出す力になると感じています。

日本もアメリカのように訴訟社会になりつつありますが、永遠に不完全な人間同士が誰かを批判して勝ったところで何が得られるでしょう。

必ず、得たと思った物より失ったものが多いことを後で知ることになります。

そうならないためにも、地球社会でお互いの弱さを補い合うやさしい心や精神性が必要だと思います。

これは宗教でも神でもなく、人間たちが現実でできるすばらしさ行いだと思います。

そうなるためにも、自分の周りに起きていることは、すべて自分のせいだと認めて学ぶことから始めてみましょう。

「みな神の子、仏の子」という教えが昔からありますが、隣の子と自分の子を同じように扱う強い心を持った母たちが増えない限り、この混乱の世の中を支えることはできないと感じています。

昔からの大切な知恵や勇気を守り継いでくれている、おじーやおばーたちから今、私たちは経験と知恵を学ぶ必要があるのです。

先祖を守ることは、先祖が自然界から借りて住んだ土地に感謝し、その志を守ることです。土地を守る事とは、その土地の自然の生態系バランスを維持することです。

社会がどれだけ豊かになっても人の心が豊かにならない限り、永遠にそのことを学ぶために現実の出来事が繰り返されることでしょう。

15歳で御霊になった子供に言い訳しないですむ生き方を私たちはしていきたいものです。

 

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