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祖父の1本足の初めての飛行機

生まれて初めて飛行機に乗った母の父親(祖父)のお話しです。

子供の頃から人生を厳しく生き抜いた右足が無い母の実家の祖父は、苦悩と葛藤の人生だと思いましたが、武士の家系なので吉岡家にも負けない厳しさがあります。

お盆と正月に、母の実家を家族四人で訪れると、まず玄関先で私の父が先に挨拶をします。
当然、敷居はまだ、またいでいません。

家長が他の家を正式に訪れる時は、相手側の家長が出てきて、「どうぞ、お入りください」と言うまで、敷居をまたいではいけないのが常識だからです。

父が敷居をまたぐと、次に、母も敷居の手前で挨拶をして、許可を得てから幼稚園の私と一緒に敷居を超えます。

小学生になっていた兄は、母とは別に敷居の前で挨拶ができないと、「やり直し!」と言われて、なかなか家にはあげてもらえません。

そんな母の実家の所作の厳しさが気になったので、中学生の頃に、祖父に直接、話を聞きに行きました。

 

戦争体験も聞きたかったし、祖父がどんな思いをして片足で戦争から生きて帰り、農家を営んだのかを詳しく知りたかったからです。

祖父に、「実家に帰る母がいつも緊張しているのはなぜですか?」と聞くと・・・。

「娘は私の家(岩渕家)を出て行った娘なので、もう、他人と同じなんだ。

だからいくら娘でも、嫁にいったら吉岡の嫁なので、他人の家に行くのと同じ礼儀をしなければいけないんだ。」と教えてくれました。

ふーん、厳しいんだなあ。

苗字が変わる意味はそれだけ厳しいものなんだなあと言うと・・・。

「だってな、吉岡家に嫁に行ったということは、死んだ時に墓に入るのは、吉岡の墓なんだぞ。

それは、他人の墓だからこそ、勝手に他人の墓に手は合わせないだろう。

それくらい、苗字の重みはあることは覚えておきなさい。」確かに、吉岡家の本家も、家の敷居をまたぐ時に、小学生になったら、一人前の人間として厳しく扱われました。

何度も玄関先で怒られて、「やり直し」を言われました。「そうか、吉岡家の本家の婆さんも、厳しく子供を育てているのか。

吉岡の本家の爺さんは、お前が生まれる1年前に亡くなったので、お前は知らんと思うが、家の周りの小作農たちの暮らしを支えているはずだから、自分の子供でも甘い教育はできんもんな。」

「はい、お正月に吉岡家の親族40名ほどが1月2日集まりますが、そのあとに、近所の人たちが子供を連れてご夫婦で、一年のご挨拶に列をなしてやってきます。

僕もその姿を見て、吉岡家の本家のすごさに驚きました。」

「うち(岩渕家)の先祖も武士だが、吉岡家のほうが大きな力があることは知っていたが、よほど、富山県で大きな武士の家柄だったんだな。ありがとうな、教えてくれて。」

「いえいえ、僕のほうこそ、母に厳しくするおじいちゃんの気持ちがよくわかったので、嬉しいです。ありがとうございます。」とお礼を言いました。

お昼ご飯の時間になったので、おじいちゃんが、おばあちゃんや、おばさんや、三姉妹の従姉妹たちに、「おい、今日は、学が吉岡家の代表としてきているので、ここで一緒に飯を食うぞ。準備しろ!」と言いました。

今日は、私の父が来ていないこともあり、自分も中学生になったので、「家長代理」として扱われることに驚きました。

8畳間に一人でソファーに座りテレビを見ている祖父は、いつも、一人で食事をしています。

祖父の息子(私のおじさん)でさえ、祖父の前には座れないほど、厳しいルールがあるのです。台所がある6畳間の狭いテーブルには、私の母、おばさん、おばあちゃんと3姉妹が順番に食事をする前で、私は8畳間で、祖父と「1対1」で初めて食事をすることになったのです。

それはもう、味がわからないくらい緊張しました。
恥ずかしくない食べ方がわからないので、母にそっと聞くと、「おじいちゃんを真似て食べなさい」と言われました。
祖父は、「1品食い」なので、それを真似て食べる癖も祖父の影響です。
食事のあとも祖父は、自分の娘にも言っていないいろんな体験談を話してくれました。
毎週のように祖父に会いに行った中学生の私も、高校、大学へ進み、岡山県に一人住まいを始めました。

祖父も母も、一人住まいをしたことがないせいか、母から電話で「おじいちゃんが、お前の様子を見に行きたいと言うんだけど、いいかね?」と言われました。普段は、特別な用事がないと絶対に出かけない祖父なのに、なぜか、私がいる岡山まで見に行きたいと言われ、驚きました。

母と祖父は、二人で大阪まで飛行機に乗り、新幹線で岡山まで来てくれました。岡山駅まで迎えに行き、バスに乗って、木の重たい松葉杖をつきながら、祖父は私のアパートを見にきてくれました.

 

4畳半一間に、小さなテーブルひとつと、段ボール箱に入った洋服を見て、「お前はここで一人で暮らしているのか?」と、祖父に聞かれ、「ハイ、そうです」と答えると、「わかった、じゃあ、帰る」と、祖父は部屋を出て行きました。

狭い部屋だけど、三人で寝るのかと思っていたのに、祖父は、「宿を探して泊まるから明日、会いに来い」と言うと、アパートを母と二人で出て行きました。

翌日は、三人で小豆島へ行ってフラミンゴを見て、蝋人形館のリアルさに驚きました。
歩く道に、砂利が敷いてあるので、松葉杖ではコケる可能性が大きいと心配しましたが、祖父はまったく手を借りようとはしませんでした。

子供の頃に、ソファーから立ち上がろうとした祖父に手を貸そうとすると、「余計なことをするんじゃない!」と怒られました。

「自分で出来ることは自分でやる。自分で何もできなくなった時は、お前にも手を借りる。だからそれまでは、一切、俺に手を貸すな!」と言われた記憶は鮮明です。

それなのに、どうしてもフラつくので後ろから見守っていると、「おい、学、肩をかせ!」と言って、私の肩を松葉杖代わりに使ってくれたことが、最も嬉しい思い出です。

あとで、母がこっそり教えてくれましたが、今回の旅行は、祖父が私の母の「骨休め」と思って、吉岡の父に電話して家を空ける許可をもらったそうです。

母も、初めての父と一緒の旅行をできたことが生涯の思い出だと泣いて話してくれました。

それと、あの厳しい祖父が飛行機に乗ってエンジンがかかると、必死に椅子にしがみついて震えていたそうです。

大阪に着陸するまで緊張しっぱなしの祖父が、「死ぬかと思った」と言った言葉を聞いて、母は初めて自分の父を可愛いと思ったと言っていました。

無口で厳しい祖父でしたが、私はたくさんお小遣いを頂き、教えてもらったことも多いので、サラリーマンの最初のボーナス5万円で、羽根布団を祖父に持って行ったことが、数少ない「恩返し」でした。

その時、初めて祖父のうれし涙を見ました。

その数年後、祖父が亡くなり、少しでも恩返しができたことに感謝しかありません。

自分より先に生まれた人たちは、たくさん苦しい時代を乗り越えてきたのに、それを伝える方法が、今はありません。ぜひ、あなたも、生きているうちに、祖父や祖母に話を聞きにいって下さい。

「生きてるうちに、恩返し!」

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