1992年 マライヤ・キャリーとビヨンセ 1

私が1990年(31歳)の時にスーパーのダイエーに勤めながら「全ての省庁の特別上級国家公務員(無償)」になったので、世界中の国の「国交問題」を解決するために全ての省庁の課長を飛ばして私にキャリア官僚たちから「相談の電話」がくるのでいろいろ指示を出して働いていました。
1992年(33歳)の時には「外務省のアメリカ担当」は3人いて、戦後47年目の最も重要な時期なのに「大きな問題が起きたので手を貸して欲しい」と電話で「大きな仕事」を頼まれました。
キャリア官僚)日米和親条約を小指チンチン鈴木友康が、余計な裏工作をして邪魔をしたせいで更新条件がおり合わず、長引いて困っているので手を貸して欲しいです。
私)アメリカの重要な案件を決める「権限」を持っているのは誰なんだ?
官僚)「はい、アメリカ大統領か、大統領補佐官です。」
と三人が言うので、「大統領補佐官ご夫婦」を日本に招いて接待する計画を立てました。
「外務省の渡辺美智雄(ミッチー)外務大臣」からも「アメリカとの国交を今以上に滑らかにしたいし手柄を立てたい」と言い出し、私に念押しの依頼の電話が来ました。
▶️平成4年版(第36号) 外交青書 「転換期の世界と日本」
なぜ、アメリカ大統領にお願いしなかったのかというと、1992年のアメリカ大統領は「ジョージ・H・W・ブッシュ(68)」ですが、「私は防衛省のトップ」でもあるので、何度も難しい防衛交渉を「ジョージ・H・W・ブッシュ大統領」とテレビ会議で話したのに、頭が悪すぎて私の言うことを理解できないうえに自分の手柄にしたくて見栄を張る奴だったので、「ジェイムズ・ベイカー大統領補佐官(62)」を日本へ招待して接待することに決めました。
私)この大事な「裏接待」に使える予算はいくらまで使えるのか?
官僚:通常の外交の要人接待は外注で一人300億円くらいかかっています。でも今回は特別に重要な案件なので、吉岡さんが使える予算は「無制限」ですので、どうぞ、好きに使って下さい。請求書は全て外務省に回してくれれば処理します。
しかし、「国民の税金」を無駄遣いするのは嫌だったので、極力低コストでやることを決めて、全ての発注業社は「札幌の社長会」の社長たちに頼んだのでとても破格値でやってくれました。持つべきものは「信頼がおける仲間」です。
まず、ジェイムズ・ベイカー大統領補佐官のスケジュールを調べてもらい日本へ招待する日程調整が整ったので、「会場探し」と「ゲスト選び」を私がすることになったので、絶対に「ジェイムズ・ベイカー大統領補佐官ご夫妻を感動させる計画」を一人でじっくり練りあげました。
「私に裏接待の仕事を依頼した官僚は、当日はアメリカに用事があるのでお手伝いできない」と言って逃げた代わりに、「一般官僚2名」と「15カ国語を話せる通訳の女性」しかいないうえに、誰も「外国の要人接待」などしたことがない奴らばかりだったので、全て私一人で綿密に計画を作りあげました。
私は、「ダイエー労働組合の中央執行委員」をする前からダイエーのお店の従業員たちを集めたクリスマスパーティの「企画と司会」は全て私が一人で計画して最高に盛り上げた人間だし、労働組合の中央執行委員になってからも500名以上パートさんを集めて喜ばせる講演会や食事会を何度も企画して司会も私がしたので、「お客様を喜ばせる接待が得意」なので要領は同じでした。
ジェイムズ・ベイカー大統領補佐官のスケジュールが詰まって日本にこれないと連絡が来たので、ジェイムズ・ベイカー大統領補佐官の親友の「ジョン・ボルトン(44)ご夫妻を日本へ招待して接待する」と決めて、お二人の食べ物の嗜好と好きな物を調べてもらい会場となるホテルを選びました。
会場探しの候補地3ヶ所へ行って見てみると、売り上げが悪く改装予定で予算も少なかったホテルを一時的に全館を借り切って3ヶ月間で大幅な改装工事を進めて、「日本らしさとアメリカらしさの融合」をテーマに大幅な改装をしました。
私が会場に決めたホテルは、「箱根宮ノ下 富士屋ホテル」です。
1992年当時はバブル崩壊の影響で倒産寸前でしたが、もともとの作りが良かったし、山側の窓から見える朝の景色も素晴らしいので決めました。
たった1泊2日のための「工事費は36億円、工期は3ヶ月間」でしたが、外務省が前払いで全て払い、終わったあとで気に入らない部分は国のお金で直して「現場復帰すると約束した」ので、とても素敵な高級ホテルとなったので、ついでに1997年(平成9年)12月12日に、本館、一号館、二号館、アイリー、花御殿、食堂および菊華荘が、「登録有形文化財」に認定してあげたし、そのあとも色々お金を出したり営業につながる認定を取ってあげました。
お迎えする「ホテルの入り口」から「メイン会場」や、「温泉施設」や「部屋のデザイン」も全て私が一人で「設計施工装飾総合プロデューサー兼デザイナー」となって作ったので、自分のやり方にこだわる職人たちと大喧嘩しながらも最高の舞台が用意できました。
「吉岡設計総合プロデューサーのこだわりポイント」
日本がお願いする立場の「外務省の交渉の場」ですが、アメリカ人に偉そうにされるのは嫌なので、ホテルの入り口に「大きな赤い鳥居」を設置して、ジョン・ボルトンの奥様のヒールの高さも計算して「頭を下げて入らないといけない高さ」に低くしました。
この鳥居は壊れた古い神社の鳥居をタダでもらってきて赤いペンキを塗っただけです。
「鳥居」を潜ると「1枚の自動回転ドア」が開き、アメリカの高級ホテルにある「二人が同時に入れる回転式ドア」をアメリカから取り寄せようとすると、「札幌の社長会」に来ていた日本一のプラスチック業者の「NIPPURA株式会社 | NIPPURA CO.,LTD」の敷山 靖洋社長が、「俺が絶対に作ってやるから俺にやらせろ!」と言ったので任せて成功したので、終わった後は彼の会社に差し上げました。
NIPPURA株式会社は、2002年11月1日に新館オープンした「沖縄美ら海水族館」の成功によって「世界中の水族館の水槽」を作ることになり、大東亜連合の国々にもたくさん大きな水槽を収めてもらい、一気に売り上げが上がりました。
「正面玄関のメインホールはホテルの顔」なので、「日本の美」を演出する庭園をイメージしたので、池坊のトップの「池坊専永」に私がオーダーして、「直径15メートルの三段式ターンテーブル」の上に花を生けてもらいましたが、2度も失敗したので、3度目は私が一人で一晩で作り直して完成させました。
もともと「お花の池坊」も「お茶の裏千家」も「吉岡一門の武士の嗜み」として始めた流派ですが、「池坊専永」が吉岡一門との関わりについてごちゃごちゃ言うので「自分で先祖の資料くらい自分で調べて確認しろ!」と怒ったほどお金が大好きなボンボンでした。
たった半日のために作った花ですが、「池坊専永」がどうしても欲しいと言うので、ギャラの3億円を1億円にネギってを渡したあと、京都からトラックでやってきて自宅に持ち帰り植えたせこい奴です。
「せこい男」で吉岡一門に非礼をしたので、「女」しか生まれない家系になっています。
大きな花を生ける「三段式回転テーブル」の一番下には、ジョン・ボルトンの奥様の「グレチェン・ボルトン」の好きなお花を調べて周りにいっぱい並べたので、絶対に「手で触れたくなる演出」をしました。
思ったとおり、奥様は一段二段と両足を乗せたので、ゆっくり時計回りに回転し始めて、「三段目だけは逆に回転」するようにしたので、周りの風景を360度見ながら、「一番上の池坊の山水」や「天井絵」を360度見れるようにしました。
天井には、「京都・大徳寺本坊:国宝の唐門や狩野探幽」に「竜の天井画」を描いてもらい、京都のお寺にプレゼントしました。
それと「お寺の天井」によくある綺麗なお花の絵を描く職人を見つけて実際に手で描いてもらいましたので、奥様のグレチェン・ボルトンは感動で大きな声をあげて泣いて喜んでくれました。
▶️「群馬県の地球屋」に、「世界一の吊るし雛を作って下さい」とお願いしてギリギリで完成し、奥様のグレチェン・ボルトンも感動してくれたので、「全ての吊るし雛を自分の会社に吊りたい」と言ったので制作費や旅費を払ってから差し上げました。(ギネス世界記録に登録されました)
最もこだわったのは、ホテルの入り口から階段を歩く場所に、アメリカ人でも憧れの「ブロードウエイで使う高級な赤い絨毯」を一度、使ったものをすぐに送ってもらって正面玄関に敷きましたが、長さが足りなかったので作っている企業を調べると、高級絨毯を作っているのは「日本企業」だったので、さすが日本の技術だと感心しました。
階段の向きを変えた「踊り場」に壁を作ってある画家に絵を描いてもらいました。
その画家は、北海道札幌市東区出身の「赤富士」で有名な「片岡球子さん」です。
1992年で87歳の片岡球子さんは、「もう歳なので絵は描けない」と言われたと官僚の言葉に頭に来たので、住所を聞いて小樽で有名な「あまとう」の甘くて美味しいお饅頭を持ってお話に行きました。
吉岡)私は球子さんの絵を初めて見た時に、息を呑んで立ち尽くしたほど「心に刺さる赤」がすごくて感動しました。
あの「赤の色」を見ていると「怒り」を感じるので、きっと、子供の頃からご苦労されてきたのだと思います。
いろんな作家の富士山の絵を見ましたが、あの山は富士山じゃないですよね?きっと、「北海道の羊蹄山」じゃないですか?
今日はただご本人が生きている間にお会いしたかったのと、できれば「お願いしたいこと」があるのでやってきました。
片岡球子さん)あらま、あなたは私の絵を褒めているのかと思えば、けなしているのかしら?
でも、確かにあの山は「羊蹄山」よ。
そんなこと気づいた人は誰もいないのに、どうしてわかったの?
吉岡)だって、富士山は近づくとあんな木は周りにないので、あり得ないと思います。
私も「羊蹄山」が大好きでよく女の子を連れてドライブに行きますが、あの山は「お母さんの山」なのでとても癒されます。
羊蹄山がよく見える温泉もありますが、あまりに近すぎて夕日や朝日が見えないので、できれば「希望の朝日が昇る赤富士の絵」を1枚描いてほしくてやってきました。
片岡球子さん)大きさはどれくらいなの?
吉岡)畳6枚ほどですので、3畳ほどになると思います。
飾る場所は、「箱根宮ノ下 富士屋ホテル」ですが、アメリカの有名な政府関係者を呼んで「国の仕事」として接待するのに、どうしても「日本人の日の丸の赤と同じ色の富士山」を描いて、日本の素晴らしさを一目で印象づけたいのです。
「日本国旗の赤」は、大東亜戦争が終わったあと、私の祖父が2度戦争に行って天皇陛下に「岩淵安治陸軍中佐」として表彰されていた隣の部屋で、「日本の陸海空のトップ」と「アメリカの陸海空のトップ」が「戦後の日本の国旗をどうするか?」で揉めていたそうです。
「大日本帝国憲法」の国旗は「植民地開放の戦争」だったので「日章旗」が正しいのですが、アメリカ人は絶対にダメだと喧嘩していたそうです。
昭和天皇は「象徴天皇」なので、会議の場に参加していけないルールがあったので、私の祖父が「大東亜戦争は世界のいろんな国の人間がたくさん死んだ戦争だから、全員の国の人間の血を大きな皿に入れて新しい日本国旗を作ったらいいんじゃないか?」と祖父が言ったおかげで、全員の血を入れてから、昭和天皇の血を入れたら色が濁ったので、そのあと最後に「祖父の血」を入れると「綺麗な赤」になったので、それを白い布に染め写して、「初めて日本人の血とアメリカ人の血が混じった国の赤の国旗ができた」と祖父から聞いております。
その「赤」が、片岡球子さんしか描けない「赤」なので、死ぬ前にぜひ、描いて下さい。代金は1億円払います。
片岡球子さん)「箱根宮ノ下 富士屋ホテル」は何度も泊まったことがあるけど、いいホテルよね?
でも古いから改装するのね?もし、まだ生きていたら行ってみたいわ。
吉岡さんも一緒にお泊まりする?
お金は腐るほどあるけど、もう欲がないのでいらないわよ。
それよりも、あなたが私のホッペにキスをしてちょうだい。
それで代金の支払いにしましょう!
吉岡)はい、喜んでキスさせて頂きます。
※ほっぺたのはずが「唇」でした。
吉岡)期間は3ヶ月を切ったので、できるだけ早くお願いします。
片岡球子さん)わかったわよ、これは簡単には死ねないわね。
今から取り掛かるからあなたが画材を用意して、私が言うとおりに色を合わせてちょうだい。
さ、勝負よ!
片岡球子の最後の絵だもの。
絶対に描き切ってみせるわ!!
こんな体験をしたあと、本当に3ヶ月間のギリギリまでかかったので、片岡球子さんの絵は、防衛省のヘリで横浜のホテルまで運んでもらいましたが、意外にしぶとい女性で2008年1月16日(103歳没)まで生きました。
亡くなったことを家族から電話で聞いたので自宅にお邪魔すると、球子さんが「私に家にある全ての絵を差し上げたい」と描いた手紙を見せられましたが、「きっと、老人ボケだと思うので、どうぞ、ご家族の遺産にして下さい。」と言って終わりました。
ジョン・ボルトン夫妻は、この片岡球子さんの絵を見て足が止まり、階段から降りたり登ったりしてしばらく見とれていました。
片岡球子さんの最後の遺言は、「この絵と一緒に私の体を焼いてね!」と手紙に書いてあったので、そのとおり、ご自宅までお届けして焼き場で焼いたと、ご家族から連絡を頂きました。
この時の写真は全て外務省に保管されていますが、「隠れ接待」だったので正式には「ないこと」になっています。
国の仕事は何でもかんでも隠すので、「公開」したらすごい芸術の記録写真なのになあ・・・。
外務省にデジタルチップで保管されているので、ぜひまともな外務省の人間は公開して下さい。
「336億円の予算」に対して「36億円」で済ませたのに、1円もお礼をもらっていない私は自分でも呆れたほどですが、逆に「336億円の仕事をするチャンス」も人生ではしないので良い経験をしたと思って諦めました。
「アメリカ男性ゲスト」は、1990年に「ロッキー5/最後のドラマ」に出た「シルベスター・スタローン(46歳)」ですが、「アメリカ人は全員がロッキーの大ファン」だと知ったし、私も1985年に新婚旅行でハワイに行った時に、『ロッキー4』を観て感動したのでお願いすると、「当時のボクサーの姿」で登場してくれて大喜びしてくれました。
▶️Rocky 1 – Full Fight Scene
「日本人のお迎え役」は、アメリカ映画に出た千葉真一さんに依頼しようと電話しましたが、「千葉真一さんは忙しい」と言って「真田広之(32歳)」を紹介してくれたので私が直接、趣旨を話してお願いしました。
日本人のゲストとして招いた真田広之にお迎えする日本女性は「真田広之に任せる」と伝えましたが当日まで決まらないままだったので、「私の知り合いの役者を連れてきてもいいですか?」と聞かれたので「芸能人年間」の写真を見てOKを出して急いでやってきた二人が、渡辺謙と小雪です。
二人とも「アメリカ映画会社と契約したい」と言ったので、日本映画会社5社とアメリカ映画会社5社に私が交渉して契約させました。
「シルベスター・スタローン」は予定時刻の午前10時に着きましたが、マライヤ・キャリーが来ない理由が、「道が混んでいるので予定時間に間に合わない」とスタッフが言うので、「防衛省の私の部下」に電話して大きなヘリコプターを迎えに行かせてギリギリ会場に連れてきてくれました。
私は「防衛省の特別統合幕僚長」なので、どんな無理でも言うことを聞く部下はたくさんいますが、「官僚」たちには「私が防衛省の仕事」をしていることは内緒でした。
「シルベスター・スタローン」と「マライヤ・キャリー」に、「今日のゲストはアメリカ大統領補佐官がきますよ」と伝えると大喜びし、最大の協力を約束をしてくれました。
ウエルカムパーティの開始は午前11時ですが、予定しているアメリカ大統領補佐官が来ないので連絡してみると、ジェイムズ・ベイカー大統領補佐官が仕事で急に来れなくなったので、代わりに、家族ぐるみでお付き合いしている友人の「ジョン・ボルトン夫妻」が来ることになり焦りましたがこうなれば腹を決めて現場対応するしかありません。
「ジョン・ボルトン夫妻」が遅れている間に「マライヤ・キャリー」は連れてきた一人の女の子を紹介してくれました。
自分が幼い頃からサポートしている女性で歌も上手なので、もし時間があれば歌わせてほしいとマライヤが言いました。
それが、今、世界で有名になった「ビヨンセ(12歳)」で、1990年から2005年まで活動していたR&B音楽グループ「デスティニーズ・チャイルド」に出ていることを私は知りませんでした。
「シルベスター・スタローン」も、実は、アメリカ映画界と日本の映画界に売り込みたい人間を連れてきましたが、それが、今のイギリス映画俳優の「トム・クルーズ(30歳)」で、イギリスではあまり売れなかったので、シルベスター・スタローンがイギリスに行った時に頼まれて連れてきたそうなので、彼にも「日本とアメリカ映画会社5社」に私が交渉して契約してあげました。

トム・クルーズ
「ジョン・ボルトン」は、シルベスター・スタローンの大ファンで大喜びしていたし、奥様と娘はマライヤキャリーの大ファンだったので、もう最高に盛り上がりました。
「マライヤキャリーをゲストで呼んで1曲歌ってもらうと1億円」と言われた時代ですので、予算がないので「2曲で」と通訳してもらったのに3曲も歌ってくれてビヨンセにも歌わせたので、マライヤがとても感謝してくれました。
私もマライヤキャリーの気持ちのお礼として、まだ幼い12歳のBeyonceも歌を歌わせると、これがすごい!
「マライヤキャリーみたいに有名になりたい!」とゲストたちの前で言うほど、本気で練習しているのがわかる歌声でした。
日本側の政治家は、「宮沢喜一首相」の時代だったので、宮澤内閣を全てお呼びして、ゲスト対応をしてもらいました。
その結果、「日米和親条約の更新」も無事に調印できたし、相当な額のアメリカの強制的な農薬と食品添加物と医薬品の輸入数を減らすことに成功しましたが、私の名前はどこにも出ていませんし、「外務省の記録」からも私の名前は消してもらいました。
その理由は、外務省のキャリア官僚たちが自分の手柄にできなかった不満があったのと、私はいろんな意味で「表に名前が出ることを避ける必要がある人間」だからです。
▶️1992年当時の外務省の日米交渉の記録は、こちらで確認して下さい。
実は、この1週間後に、アメリカ大統領補佐官のジェイムズ・ベイカー大統領補佐官にジョン・ボルトンが、「日本の接待は最高だったので一緒に夫婦で行こう!」と言ったと本人から電話が来たので、「取り壊し中の作業」をやめさせてもらい「もう一度セッティング」して、同じことを二度やりました。
私が全てお願いした技術者たちや会社は「札幌の社長会」のメンバーなのでお金は出しますと言ったのに「タダで修復します」と言ってくれましたが、「池坊専永だけは「もう1回やるならまた同じ金額の金が欲しい」と言ったので、こう言ってやりました。
吉岡)あのね、前回もほとんど私が直して龍にしてあげたのをあなたの手柄にしてあげたのに、それでまた金を欲しいなんて欲張りすぎだわ。ハッキリ言うけど、「池坊」って誰が始めたのか知ってますか?
池坊専永)「歴史を読めばわかると思いますが、室町時代、京都頂法寺の僧侶である池坊専慶が花をいけ、立て花の名手として知られるようになりましたとも言われ、安土桃山時代、池坊専好(初代)が前田利家邸の四間床に大砂物を立て、池坊一代の出来物と称賛されたとも書いてあり、「池坊専応」がいけばなの理念を確立したとされています。
吉岡)じゃあ、本当のことを教えるけど、池坊の始まりは「吉岡一門の頭領が客人用に生けた花の体系」を教えたものなので、今の説明は全部間違いなので、古い歴史書を読みなさい。
だから今回は私が全て自分で生けるけど、あなたの名前だけ書いておくのでごちゃごちゃ言わないこと!それでいいよね!!!
金儲けしか考えない池坊専永さん、自分でもう生けていないし、弟子たちが生けた花を自分だと言い張ることも弟子たちから聞いているので早く次の代に変わって下さい!じゃあ、さようなら!!
出演者たちからもゲストからもたくさんお礼を言われましたが、私の名前は伝えていないままだったのですが、1996年1月に出会った「マーゴ」のおかげで、2003年12月に「ラストサムライ」という形でお礼をしてくれたので映画になりました。
マーゴ)「吉岡学さんがそこまでしてくれたのならアメリカ人としてお返しをしないと恥なので「自分の責任で映画を作ります」と言ってくれたし、「テーマは武士の苦悩を表現して欲しい」と私がお願いしたものが「ラストサムライ」です。
接待の場のメインゲストは、「映画ロッキー(1976)」のシルベスター・スタローン (1946年7月6日生まれ当時46歳)と、女性は1991年にグラミー賞を取った「マライヤ・キャリー(1969年3月27日生まれ当時23歳)」をメインゲストに決めました。
「シルベスター・スタローン」が連れてきた俳優は、イギリスの「トム・クルーズ(1962年7月3日生まれ当時30歳)で、「マライヤ・キャリー」が連れてきたのは「ビヨンセ(1981年9月4日生まれ当時11歳)」でした。

12歳の頃の「ガールズ・タイム」のビヨンセ

子供頃のビヨンセ

自分の娘たちを犯して体を売らせていたマライヤ・キャリー両親
・・・・・・
▶️マライヤ・キャリーのウイキペディアには、以下のように書かれています。
・・・・・
ベネズエラ系移民の父アルフレッド・ロイ(アフリカ系ベネズエラ人とアフリカ系アメリカ人の血を引く)とアイルランド系アメリカ人の母パトリシア(白人)の間に3人兄弟の末っ子として、ニューヨーク州ロングアイランドに生まれました。
両親は、アメリカで白人と黒人が結婚することが合法的に許されるようになってまだ2年という時代に結婚し、マライアと彼女の兄弟は「ミックス人種」として人種差別を受けていました。
マライアが3歳の時に両親は離婚しているが、実兄による家庭内暴力や、中学生の時に、実姉に売春宿に売られそうなったり、薬物を飲まされるという過酷な幼少期を過ごした。
実兄モーガンや実姉パトリシアを告発後のインタビューやスピーチ、自伝本でその頃からの生きる糧が「音楽」であったと度々語っている。
この頃から自身で作曲や作詞をするようになった。 だが、自伝について兄と姉から名誉毀損で訴訟を起こされ、実姉も幼い頃に実母から性的虐待を受けたとして実母を訴訟したと書かれていますが、事実はもっとひどい状態だったので泣きながら全てを教えてくれました。
・・・・・・
「自分の辛い体験を本にしなさい」と教えたのも私ですが、理由は、同じような体験をした人たちがたくさんいるが、誰も表にできない人たちがたくさんいるからこそ、世界で有名なマライヤが実体験本を書いて世の中の人が知るべきだと伝えたからです。
子供の頃に父親から性暴力DVを受けていたし、「近所の大人たちに体を売って稼いでこい!」と言われて母親に相談すると、「お姉ちゃんも体を売って家庭を支えているのでお前たちも遊んでないで早く体を売って稼いでこい!!」と母親と姉に言われ、仕方なく近所の大人たちに体を売り続け、両親がお金が欲しい時に自分の体を売る「ATMみたいだった」と教えてくれました。
こんな生活を続けたくないと思い、家を飛び出して「NYのスラム街」で同じような経験をした人たちと一緒に暮らしたそうですが、定期的にスラム街の子供達を拉致していたのが、「マーゴ」でした。
1996年のマライヤ・パーティのあと、一緒にNYのスラム街を見に行きましたが、「私がマフィアのボス」だと知った瞬間に拳銃を隠して「お金を下さい」と言ったほど、「命の保証がない場所」がスラム街で警察も近づかない場所でした。
マライヤは歌上手いので、犯されることはあったけど、誰も殺さなかったから運がよかったと教えてくれました。
マライヤ・キャリーは有名になってからも、自分が育った「スラム街」に定期的に食べ物を持って渡していたそうですが、自分と同じような体験をして股間から血を流しながら一人で歌を歌っていた「ビヨンセの声」を聞いて、「親代わりに育てる」と決めたので「お姉さんとお母さんの役目」をしていた「マライヤ・キャリーとビヨンセ」でした。