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【社長会】 恩返しの社長の体験談

私は31歳の時(1989年)に、労働組合の中央執行委員をしながら、出会った全産業の社長たちからいろんな相談を受けたので、たくさんの企業に「経営アドバイス」をしていました。

一部上場企業や二部上場企業、地域の株式を公開していない会社の社長や全国のあらゆる技術職人の人たちも相談にやってきました。

 

最初は、代金は一切、もらっていませんでしたが、札幌のスナックを借り切ってやっていたので、場所代として払える社長たちには1万円だけ払ってもらいました。

その中で出会った会社同士を合併させたり、企業の統廃合のアドバイスをしたり、資金繰りに悩んでいた人たちには、銀行を紹介して融資にこぎつけて会社を建て直しました。

毎週ですので、3年間で出会った社長と技術者の数は1500社以上になると思います。

でも、3年目になると、毎週、通ってきて話を聞くのに、質問しない男性がいたので、これで最後にすると決めた日に、こう話してくれました。

3年間続けた社長会の最後の時に、やってきた社長の体験談がすごいのでご紹介します。

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私の仕事は、アジアに日本の水を売る仕事です。

でも売れない理由が値段が高かった、現地の水を調べると、配管が古すぎて元水の甘みが無く、不味かったので、日本で使わなくなった鉄管を船で運び、個人のいえや行政施設の配管を安く取り替えました。

すると、多くの人が自分の家も配管を取り替えて欲しいというので、安い鉄管を造らせて山から直接、美しい水が飲める様に配管を取り替えました。

山の上の家から順番に無償で取り替えて、水を取りに来る人にも無料で分け与えました。

すると、下の家の人たちも同じ様にして欲しいと言われ、次々に配管を取り替えると、毎日、水を汲みに来る子供達が減り、「学校に行きたい」と言うので、小さな小学校を作り、社員を先制して日本の教育を始めました。

 

文字の読み書き、算数、人に接する心と「恩返し」を教えると、親も一緒に学びにきました。

 

学校に来る大人や子供たちが増えたので、学校を大きくして、無償で水と教育を続けると、文句を言いにきた行政の人たちが、「山の下にも同じものを作って欲しい!」また、鉄管を船で運び、学校を作りました。

山の水が湧き出る街はよくなりましたが、水が足りない町や村から依頼があったので、地元の人たちと鉄管を作り、隣町まで水を流して学校を作りました。

 

このことを国が知り、怒られるかと思うと、「この国の全ての街に同じことをして欲しい」と言われたので、国と協力して水と学校を作り、多くの街に安全な水と教育を提供できました。

家族と一緒に移住して、あなたの思いを伝えて欲しいと言われましたが、まだ父母が生きているので、日本にいます。

 

ここまでの資金は、高級ホテルの水がまずかったので、日本の水を売り、名前を「神の水」として売り出しました。

お金持ちが買ってくれるお金のおかげで、貧乏な人たちに「水と教育」をできたことは、私は幸運です。

 

だからこれまで以上にこのことを広げるために自分に足りないことを学びに毎週、あなたに会いに北海道へやってきましたが、もう、お金が続かないので、今月を最後に来るのをやめます。

今までありがとうございます。

 

私の給料は、社員と同じ年功序列なので豊かではないですし、妻には苦労をさせていますが、妻は、一切、愚痴を言いません。

子供達が大きくなったら私の会社に入ると言っています。嬉しいことです。

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この会社は、お酢で有名な「ミツカン」の社長が、30年以上前に、バンコクに安全な水を供給した実話ですので、ぜひ、日本の人たちの安全で美味しい水の貴重さを学べる施設を作って下さい、とお願いしました。

ミツカン「水の文化センター」

彼は、▷「日本水道協会」も自分で作り、日本のおいしい水も紹介しています。

美味しいお酢を作るには、「美味しい水」が必須だからこそ、全国を自分の足で歩いて見つけたそうです。

私は、この社長の体験談を聞いていて、涙が止まりませんでした。

すごい人は、こうやって生きているのだと学ばせてもらいました。

 

▷泰日協会学校

学校通信「次の山を目指して」

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