【外務省】を手伝うことになったキッカケ
外務省を手伝うことになったキッカケ
1989年10月(30歳)から「外務省」の仕事を無償で手伝うことになった理由は、「ダイエー苫小牧店のマネージャー」だった私を勝手にダイエー労働組合の元委員長に「中央執行委員」にされた流れで「国の仕事」を無償で手伝うことになりました。
「元委員長」に東京で会わされたのが、明治大学2年生の嘘つきの「小指チンチン鈴木友康」ですが、頭は悪いのに嘘だけはうまいし、国のお金を盗むことしか口にしないので、「まともな官僚を呼べ!」と部屋を追い出して、東大出の全ての省庁の官僚とキャリア官僚が「浜松町の隠れ料亭」に集まり話し合いをしました。
「官僚でもない鈴木友康」は、お父さんの「入省カード」をチラつかせていろんな省庁を出入りしてお金をばら撒いて悪いことをしていたし、ダイエーの元委員長は「私と鈴木友康を組ませて悪いお金稼ぎの手伝い」をさせたかったようですが、全て断りました。
私は相手が誰であっても絶対に、「賄賂」は受けとらないし嘘を言わない男」なので、よく拳銃で撃たれたりヤクザを使って私を殺そうとされたので、最終的に元委員長と鈴木友康と仲間のヤクザの「世界の隠し口座」をマーゴに調べてもらい、隠してあった全てのお金を日本国に戻してから「霊視」で元委員長の居場所を見つけて脳を破壊して自殺してもらいました。

「外務省の官僚」が最もややこしい問題を抱えていたので「まず、中国の外交問題を解決して下さい。これは1回目のテストです。」と言ったので対応策を教えてやった結果、中国の鄧小平主席からお迎えの飛行機がきたので「中国共産党大会」の真っ最中に会場に入り、鄧小平主席ご本人から「中国国家主席のバッチ」をもらい、「長女の鄧林(とうりん)に子供を授けてくれ」と頼まれて、翌年で男の子が生まれたので親族扱いになりました。

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「中国は終わったぞ!全てうまくいったぞ!」と中国担当官僚に電話すると、
「韓国もアメリカと難しい状況だし、終わったはずの従軍慰安婦問題を持ち出して何度もお金をせびるのですぐに行って解決して欲しい」と言うので、政治家では解決できないと思ったので、韓国の経済人のトップの「SAMSUNの李 健煕(イ・ゴンヒ)会長」に合わせてもらって交渉した結果、外交問題は全てなくなり信頼され、「長女の李富真(イ・ブジン)に子供の種を入れて下さい」と頼まれ、翌年、男の子が生まれたので親族になりました。


最も難しい二つの国の国交回復をしたのに、「最後のテストです」と言いやがったので我慢して、誰もできなかった「インドのモディ首相」と仲良しになり、「新しい国交の始まり」と「大東連合の復活」と一番若い側室に「私の息子」が生まれたので、インドの土地と「国王名」も下さり、最も信頼がおける先輩であり義父になりました。

1989年10月から12月までの3ヶ月間で中国・韓国・インドの三つの国の「国交回復」を果たし、新しい「外交上の条約」と「防衛上の条約」と経済的な条約を結んだので、全ての省庁の官僚から頭を下げて仕事をお願いされるようになりました。(全て無償)
翌年の1990年には「外務省」の他の国の手伝いもたくさんしたので、次々に新しい国の「国交回復」をした結果、「ビザ(査証)とパスポートの発行許可(外務省)」、「航空会社の出発到着便の許可(国土交通省)」も与えたし、大東亜連合に「大手一部上場企業の工場を大東亜連合に出す契約(経済産業省)」や「人材交流の留学制度の就労支援金(文部科学省)」も作ったので、多くの企業の輸入コストや人件費も下がり収益改善もできた結果、企業が国に収める「法人税(財務省)」が増えました。
首相たちとの繋がりができた理由
1990年に「第74代竹下登首相」から「全ての省庁の特別上級国家公務員」という資格をもらい全ての省庁の仕事を手伝うようになりました。

1990年当時は「1府22省庁」と数が多かったし、東京で月に一度か二度の全ての省庁のキャリア官僚と課長たちを集めて一気に問題解決をしたので「毎週の札幌の社長会」と同時開催だったので忙しい日々を送りました。
話を聞けば聞くほど「各省庁の仕事の無駄」がたくさんわかったので、森喜朗内閣総理大臣に頼んで、総理府、法務省、外務省、大蔵省、文部省、厚生省、農林水産省、通商産業省、運輸省、労働省、郵政省建設省、郵政省、労働省、建設省、自治省の「1府22省庁」を減らす法案を通して、内閣府、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省の「1府12省庁」にしてもらいました。(2001年1月6日中央省庁再編)

