日本を守るために裏から支え続けた「南朝の吉岡一門頭領」の正しい歴史
「熊本県の薩摩隼人」と「宮崎県の卑弥呼」の息子の「神武天皇」は、紀元前711年2月13日生まれて、「紀元前585年4月9日に126歳で死去した」とありますが、実際は「初代・神武」を「天皇」にするまでに「天皇家の息子」を天皇にしたいが為に「神武を殺した事件」が起きました。
吉岡一門頭領は、仕方なくまた卑弥呼に次の子供を産んでもらい天皇家に差し出したのに、また子供を殺して入れ替えて天皇にしようとした結果、すぐに死んでしまったので、「日本国を束ねた吉岡一門の子種が正統である」とやっと天皇家も認めたので「神武天皇が即位」できました。

それでも「吉岡一門の頭領の種が面白くないと思った天皇家」は、「次の天皇は俺たちの息子を天皇にする」と言い出したので、「1代づつ交代」することに決めたのに、また、「吉岡一門頭領の息子」を入れ替えたり、毒で殺す事件が続いたので、「初代神武天皇」と「10代目崇神天皇」の間の2代~9代目の天皇を「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ぶようになりました。
何度も「天皇家」が「吉岡一門の子供を殺す事件」が続いたので「1代づつ交代」ではなく、「2代づつ交代するルール」に決まりました。
しかし、「バカな天皇家」は同じことを繰り返すので、やたらと天皇が長生きしたと書いてある時代は、全てこういう「天皇入れ替え事件」があったと思って下さい。
一番最近の事件としては、「大正天皇」が15年間しか天皇になれず、「北朝皇族」に殺された事件が起きました。
「大正天皇」を殺した理由は、次の天皇から2代が「北朝天皇」になるので1日も早くしたかったという理由です。(昭和天皇・平成天皇は北朝)

この天皇家の詳細な血筋は、「吉岡一門伝承箱」に記録がありますので、いずれ「正式な書物」にして世界に日本語版と英語版を売り出す予定です。
この話を私が「12歳で頭領」になった時に父に教わりましたが、頭に来て腹が立って焼け酒を飲んだほどブチギレました。
「俺だったら絶対に北朝の奴らを皆殺しにするのに、どうしてしなかったの?」と父に聞くと、こう言われました。
父)俺だってな、北朝の奴らを皆殺しにしたいほど頭に来たが、そうできない理由は「吉岡一門の恥」があるからさ。
「武士」にとっては、あってはいけないことなので、俺にはきっとできないと思うが、どうか、お前の代で終わらせてくれ。
「北朝の天皇」はな、南朝の天皇と違って、生まれてから困ったことがないほど贅沢な暮らしをしているので、「誰かを助ける」という気持ちがない人間だし、人を虐めたり苦しめることが生き甲斐になるほど暇人だから、人を殺しても痛みがわからん人間なのさ。
だから人間は、「お金」よりも大事な人との付き合いの中で「助け合い・恩返し」を学びながら生きるものだから、俺も吉岡総本家を出て貧乏な小作になったのさ。」
と教えてくれました。
▶️群馬県の赤城山は、日本全国の吉岡一門の統領を決める山だから、北朝と南朝の因縁は、赤木山で終わるのだ。とご先祖の声が聞こえたので、3度、登って全ての吉岡一門の因縁は終わらせました。
最も大きく武士が二分したのが、「南北朝時代」です。
「南北朝時代」に別れた理由は、勝手に武将の「足利尊氏」が、「偽物の三種の神器」を作って「光厳天皇」を「北朝天皇」にしたせいで、日本の武士も「北朝派と南朝派」に別れてしまいました。
「南朝」は後醍醐天皇が吉野(現在の奈良県)に開きましたし、北朝政権は「鎌倉幕府」に置かれていたので、「奈良県と神奈川県の問題」は現在も続いていますし、▶️【熊本宮崎天皇魂神事】で過去の魂の融合は終わりましたが、「問題は愚かな人間の思い」だけだと思います。
庶民は「天皇家の真実」を知ることは絶対にできないので、私が宮内庁に命令して、2019年(令和元年)4月30日に「北朝天皇」の第125代天皇である明仁(あきひと)は退位させて、5月1日に「上皇天皇」にして退官させました。

「南朝天皇」の徳仁(なるひと、1960年〈昭和35年〉2月23日 – )は「私の弟」なので、日本の第126代南朝天皇(在位: 2019年〈令和元年〉5月1日 – )として即位させました。
御称号は 浩宮 ( ひろのみや ) 、お印は 梓 ( あずさ ) 。 敬称は陛下。 勲等は大勲位。

南朝の吉岡一門の頭領がいた「熊本県」には、熊の親分の住み家があったので「熊本」と地名が名付けられましたが、「熊本県の熊襲(クマソ)」と恐れられた「薩摩隼人」が熊や人をまとめたことで、天皇家が日本に入る前に世界と日本を束ねました。
「北海道のアイヌ」が世界の先住民を束ねた事実は、「国連の世界先住民会議」で正式に認められたので、私が「世界先住民会議の永久議長」になったことで、天皇家が日本に入る前に世界は吉岡一門のものだと認められました。
そのお祝いとして、世界に対して日本が「北海道のアイヌ」をアピールする必要があるので、北海道アイヌのコタン(集落)がある白老で、「ウポポイ 民族共生象徴空間」ができたのですが、私が長年サポートした安倍晋三首相のお礼です。


しかし、「安倍晋三首相」も「白老アイヌの山丸郁夫エカシ(酋長)」も、「財務省の鈴木友康」が命令して殺したのに、のうのうと財務省にいるので、家族親族もろとも処分命令を出しました。
世界のトップの人たちには、今まで「私の世界の土地に勝手に住んだ賃貸料」を請求しましたが、イギリスのエリザベスは「息子の代から分割払いで払います」と言って書面にサインしたので楽しみにしています。
もしイギリスが金を払わない場合は、日本で極秘に開発した「世界一の潜水艦大和」でイギリス領土を破壊して、世界の植民地支配を一気に終わらせると伝えてありますし、エリザベスの息子も同席してサインしたので、楽しみです。
ことをオバマ大統領に伝えると、「ぜひ、よろしくお願いします。アメリカ大陸発見からずっとお金を払わされいるので大変なんです。」とお願いされたので、貸した金はキッチリケリはつけて回収してやります。

President Barack Obama is photographed during a presidential portrait sitting for an official photo in the Oval Office, Dec. 6, 2012. (Official White House Photo by Pete Souza)
世界を実行支配した「吉岡八人衆」はもともと「敵同士」でしたが、最後に集まった熊本県で、三日三晩戦い続けた8名で最も強かったのが、「南朝の吉岡一門頭領」なのです。
「吉岡一門の南朝派の4名」は熊本県から福岡県、山口県、岡山県、京都府、富山県、北海道と日本海側を回って北上し、「北朝派の4名」は熊本県、四国、関東の太平洋側を回って北海道に上陸すると「吉岡一門頭領」が決めたからです。
南北に別れた先住民が戦いあった熊本県は、「日本の和合の地」なので、当然、「南の朝廷」の意味の「南朝」がトップなので「北朝に頭領」はいるわけはありませんし、「北朝の武士」は私が8歳から全18歳になるまでに全員切り殺したので誰も残っていません。
今、日本刀を持っている人間は「小作」か「盗人」しかいませんので、まともな剣術訓練などしていませんのでいつでも真剣勝負の相手をしてやる覚悟はありますが、正式に決闘を申し込む「果し合い状」を出してから武士としての手順を踏んで挑む覚悟は無いと思いますし、「北朝の小作と盗人」を殺しても無駄死になのでやめておいたほうがいいと思います。

それと、「江戸時代までは沖縄と北海道も日本ではなかった」ので、青森県から鹿児島県までが「日本」でしたが、今の日本地図は間違っている為、いづれ正します。
「江戸時代の大名領地MAP」や「主な江戸100藩」の地図を見れば、事実は確認できます。

「主な江戸100藩」

「江戸時代の大名領地MAP」
「南北朝時代」に天皇家が二つに割れたので仕方なく「吉岡一門の頭領」が、自分の意思で「源氏派」と「平家派」に別れるように命令したのです。
結果的に、「源氏」が「平家」を打ち破ったので「源氏本流の文書」ばかりになっていますが、「都が京都の時までは、吉岡一門道場では源氏は平家派も対等に扱っていた」と前頭領の父から聞いておりますが、勝手に「天皇を東京に連れて行った罪」は大きいのでそのツケは長州藩に払って頂きます。

「東京に国を動かす機能を一極集中」した結果、原発1発で日本の機能は全て停止するので、何度も「遷都の案」を出したのに何もしなったので、東京をどこかの国が攻めたあとの「日本再生」は私が極秘に吉岡一門の資産でやるのでご安心下さい。

世界の誰が考えても、政治と経済をひとつの場所にする国はないので、「戦争で東京が世界の的」になるのは当然なのです。
やはり、「南朝を裏切った長州藩」は頭が悪いとしか思えませんし、「東京襲撃」に関しては私は東京を守る気は無いので、ここまで「日本国をダメにした金儲け主義の罪」として、どうぞ、東京にお住まいの人たちはまとめてあの世に行って下さい。
「吉岡一門頭領は、武士同士の仲間なので、仲間同士で戦いはするな!自分から刀は抜くな!」
と決めたのに、勝手に武士たちが南北朝に別れて戦いましたが、源氏も平家も全て吉岡一門の頭領の配下なので、私を裏切った一族は根絶やしにします。
皆さんが知っていることは、「北朝派の明治政府」が勝手に作った「偽物の話」を日本中に広めた結果だし、さらに戦後GHQと手を組んだ今の政府が国立図書館の書物を全て燃やしたので、いずれ日本の本当の歴史事実を世に出します。
▶️「南北朝時代」のwikipediaを読めば、「始期を「建武の新政」の始まりである1333年とする場合もある」と書かれているように、南朝派も北朝派の学者たちの意見が違う結果ですが、「本流は南朝派」なので、あとから自分たちの都合の良いように変更したものとは内容が違うのです。
つまり、1333年から日本には二つの歴史書が存在したのですが、「明治政府」を作った北朝派」が、「国立図書館の南朝の資料」を全て燃やしたので、皆さんが学校で習う教科書や歴史書は全て事実ではないものを教わっています。

「北朝」に手を貸した武士たちは、「明治政府」を1868年(明治元年)に作り、武士から「ご領地」を勝手に奪い取り、現在の都道府県にするための「廃藩置県」が行われました。
その結果、殿様や武士たちが持っている「領地」を小作農に強制的に分け与えよと明治政府から命令が出たことにより、地主である武士の殿様たちは長男以外に与える土地がなくなり、「次男以下はどこかよそへ出て行け!」と親から言われ、「北海道開拓」を大義として、日本中の多くの武士たちが農民を連れて家族帯同で北海道の札幌市へやって来ましたが、これは「北朝の武士と農民の記録」で、「南朝の武士の記録」は全く違います。
「南朝の吉岡一門頭領の一団」は、明治政府ができる1868年(明治元年)よりずっと前に西郷隆盛から「明治政府の情報」を掴んでいたので、「南朝の吉岡一門の配下」が北海道中で「お米ができる土地」を探し回り、数名単位で「アイヌ部族」と共に北海道中で生活をしていました。
「戸籍移動」は、住民登録ができるようになった明治19年(1886年)に北海道芦別市常磐町に「富山県砺波市」から船で「苫小牧市」から入ったと記録がありますが、それよりももっと前に山を移動し芦別市常磐町の開拓をして「米作りを基本とした町」を作っていました。
明治政府が出した「屯田兵制度」はロシアや中国から北海道を守るという大義もありましたが、実際は、「資産も食べ物も与えられない貧乏な武士」たちにとって最後の生きる道だったので、江戸を守るためにいた武士たち「江戸千人隊」が北海道へ移住して苫小牧市から入りました。
「江戸千人隊」とは、「八王子千人同心」を指し、日光の東照宮や大猷院などの火災から守る役目を担った「郷士集団」です。


原野の木を切り、住む家を作った日本全国の北朝の武士たち(屯田兵)が集まった場所が札幌市西区の「琴似(ことに)」という場所ですが、移住の許可を出したのは、先に北海道に住んでいた「南朝の吉岡一門の頭領」なのです。

今の日本は嘘ばかりなので、テレビやネットニュースを鵜呑みにしないで自分で真実を調べるようにして下さい。
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