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中国の孫文から学びを得た大海商人は長州藩の松下村塾にまで影響を与え商人が日本の政治を変えた!

2025年10月11日午前3時の「夢のメッセージ」をご紹介します。

 

中国の孫文」から学びを得た大海商人(おおみしょうにん)は、長州藩の松下村塾(松下村塾)にまで影響を及ぼした。

その結果、商人も政治経済を正しく学べば「金儲け」だけでなく、日本や世界の政治経済のことまで勉強することで世界は「平和への道」へ辿り着くことができる。

 

 

「中国の革命家孫文」と日本の関係は、

盟友・孫文と梅屋庄吉のゆかりの地、長崎‍ 孫文(孫中山)とは?

をお読み下さい。

 

 

ポイントは、中国と日本は不幸にも戦争をしたが、いまこそ中日両国は団結して中国を植民地化から救わなければならない。

中国の4億の民を救い、アジア人の屈辱をそそぎ、世界の人道を回復するには、清朝を打倒して我が国の改革を成就させる以外ない。私達を支援してほしい。それが引いては東洋を守る第一歩ではないかと熱く語った。

時の経つのも忘れ語り合った孫文と庄吉。必ずや革命を成功させてほしいと願った庄吉は、孫文に次のように告げた。

「君は兵を挙げたまえ。我は財を挙げて支援す」

それは、古代より続いた君主政の伝統を終わらせるべく清国を倒し、人々が平等で平和な社会をつくるという理想に共鳴し結んだ二人の「盟約」だった。

二人の「革命」、そして「友情」

 

明治28年(1895)の「広州起義(こうしゅうきぎ)」にはじまる革命運動の武器、弾薬の調達、機関紙の発行資金、革命へ赴く志士らへの援助金、孫文が外国へ逃れるための旅費、医療救援隊の派遣、飛行場建設から飛行機の調達……孫文が命を賭して成し遂げようとした革命のために莫大な財を投入し続けたのは、映画ビジネスによって莫大な財を築いた庄吉だった。

庄吉は、孫文との出会いから30年、惜しみなく巨額の私財を投じて支援し続けた。

庄吉は、日本を革命活動の基地のひとつとして各地を飛び回り、中国との間を何度も行き来する孫文を東京の自邸でかくまい、精神的に支えたが、庄吉のほかにも後に内閣総理大臣となる犬養毅、宮崎滔天(とうてん)、内田良平、また多くの在留華僑が孫文の革命運動を支援。中国革命を明治維新の第二歩だと考え、日本の支援を要望した孫文は、日本を革命運動の基地とし、革命生涯の実に3分の1を日本で過ごした。

明治44年(1911)「辛亥(しんがい)革命」成功後、初の訪日となった大正2年(1913)2月、庄吉は、孫文にとっておきのプレゼントをしている。

それは、蜂起の際、アメリカにいて革命の現場にいなかった孫文に、辛亥革命の映像を流す“たったひとりの上映会”であった。

庄吉は、現地へカメラマンを派遣していた。映像は、炎上する市街地、革命軍の司令部の様子など、つぶさに撮影された蜂起の情景から、翌年1月1日に開催された孫文の南京入城式典までを追いかけたものであった。

その映像に孫文は感動し、何度も繰り返し上映するよう頼んだという。

また、大正4年(1915)には、庄吉とその妻トクの骨折りで結ばれた孫文と宋慶齢(そうけいれい)の結婚披露宴が東京の梅屋庄吉邸で盛大に行われている。列席者には、やはり犬養毅、宮崎滔天など、孫文の革命を支えた総勢50?60人に及ぶ各界の大物の顔があった。

残された孫文の滞在中の写真を見ると、傍にはいつも庄吉がいる。そこには、どんなときも同じ想いを共有している、という強い絆を感じさせるものである。

孫文と庄吉、「長崎ゆかりの地」

長崎でも多くの人が孫文を支援した。長崎華僑をはじめ、東洋日の出新聞社長の鈴木天眼(てんがん)や同社記者で柔道家の西郷四郎、佐世保出身の金子克己、さらに、かねてより中国との結びつきが強かった土地柄ということもあり一般市民も大いに支援した。

また、明治8年(1876)には横浜・神戸発長崎経由の香港・上海行きの航路が就航、大正12年(1923)には長崎?上海の間を結ぶ定期航路「日華連絡船」が開設されたことにより、孫文は長崎を経由して東京へ向かうことも多かった。

明治30年(1897)から亡くなる前年の大正13年(1924)の間、孫文が長崎を訪れた回数は9回にも及ぶ。

 

 

これを読めば、日清戦争も日露戦争も第一次世界大戦も日本が攻撃したのではなく、中国やアジアの民を「植民地解放のために戦った戦争」だと理解できるはずです。

中国人の孫文に「中山」という名字を付けたほど日本人と中国人の深い信頼関係があったと理解して下さい。

 

 

私が初めて中国を訪れた理由は、1989年にダイエーの売り場の仕事をしながら「外務省のキャリア官僚」に頼まれた仕事がキッカケでした。

 

1989年6月4日の「六四天安門事件」によって「日本と中国の国交問題が山積み」だったので外務省のキャリア官僚からお店に電話が来たので電話でアドバイスをしました。

 

1989年11月から、外務省は中国に対して「日本で余っている備蓄米と野菜と医薬品」を大型タンカーで毎月、送り続けた結果、3ヶ月後の1990年1月に中国担当のキャリア官僚から相談の電話がきました。

 

食べ物困っている中国人のために、「日本の備蓄米」と「アメリカ産の野菜果物」をそのまま船で毎週送った結果、中国の鄧小平主席の娘をが私を中国のプライベートジェット機で迎えに来たので、初めて中国の土地に足を踏み入れることになりましたので、当然、事前に中国の歴史を自分で調べてから行きました。

 

【外務省】1989年に「第二天安門事件(六四事件)」を解決して国交を回復したので「特別上級国家公務員」に認定されました <1>

 

【外務省】1989年に「第二天安門事件(六四事件)」を解決して国交を回復したので「特別上級国家公務員」に認定されました <1>

 

【外務省】1989年に「第二天安門事件(六四事件)」を解決して国交を回復したので「特別上級国家公務員」に認定されました <2>

 

六四天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、1989年6月4日中国北京市天安門広場を占拠していた民主化を求めるデモ隊に対し、中国人民解放軍が実力行使し、多数の死傷者を出した事件である。通常、単に「天安門事件」と呼称する場合はこの事件を指すが[1]1976年に起きた四五天安門事件と区別するため「第二次天安門事件」と呼ばれることもある。

 

 

1990年の日本と中国の関係は、天安門事件(1989年)後の国際的な孤立状況から、日本が経済協力を再開し関係改善を図る一方、経済関係は日本側の貿易赤字が拡大する時期でした。
 
 
 
 
日本政府は「円借款凍結の解除」に向けた協議を開始し、経済面での協力強化のために貿易・投資に関する会談も行われました。

 
 
 
政治・外交
  • 関係改善の動き:
    1989年の天安門事件後、国際社会から孤立した中国に対し、日本は「中国を孤立させない」という方針のもと、関係改善に動き始めました。

     
  • 円借款の凍結解除:
    天安門事件で一時凍結されていた円借款の解除に向け、日本政府は協議を始めました。

     
  • 香港問題:
    1997年以降の香港の繁栄と安定維持のため、日本はイギリスと中国の間の「香港新空港建設問題」での合意を歓迎しました。

     
  • 台湾との関係:
    日本は「日中共同声明」の立場を維持しつつ、台湾との関係を進めました。

     
経済
  • 貿易:
    中国の輸入抑制により、日本の対中輸出が落ち込み、日本側の赤字が拡大していました。しかし、90年末頃から中国が輸入規制を緩和したため、91年には輸出が回復しつつありました。
     
  • 貿易協定の更新:
    貿易の安定化のため、90年12月に民間ベースで日中長期貿易取決めが更新されました。
     
  • 投資・技術交流:
    投資保護協定に基づく第1回日中投資合同委員会や、技術移転を促進するための日中技術交流会議も開催されました。

     
     

この「青字の仕事」は全て私一人が、中国の鄧小平主席と二人で話し合って決めた結果で全ての問題は解決しました。

 

つまり、外務省の官僚たちは何も仕事はしていないのに、「吉岡さんだけ手柄を独り占めするなんてずるい!」と電話きたので、東京で労働組合の会議があった時に外務省官僚と経済産業省のキャリア官僚たちを集めて北海道の美味しいスイーツをお土産で持っていって話を聞いてやりました。

勘違いしたバカ官僚は、「中国はいつもたくさんの賄賂のお金をくれるのが当然なので、吉岡さんもたくさん賄賂をもらったのでしょう?」と言ったので、思いっきり顔をビンタしてからこう言ってやりました。

 

「俺はインドからも大東亜連合も、中国も韓国も一円もお金をもらったことはないぞ!

逆に、国王に頼まれて「男の子が生まれる俺の子種が欲しい」と言われたので息子をたくさん残したので喜ばれたぞ!」

 

 

 

中国の主席は、1982年9月12日1987年11月2日鄧小平主席で、「中国共産党 初代 中央顧問委員会主任」なので、中国政府と軍事の両面のトップは「鄧小平主席」だけなので、江沢民主席も、胡錦濤主席も困った時に電話が来て対応していました。

 

「習近平主席」だけは挨拶の電話が来なかったので、私が直接、中国へ行き、しっかり「私の意思」は伝えておきました。

 

「私を敵にするという意味は、私の子供がいる世界の国のとの政治経済だけでなく、軍事的バランスにも大きな影響があるのでバカなことはするなよ!」

 

ここまでの私の思いを理解してくれた中国の友人のジャッキー・チェーンが監督となり、「映画1911」を制作して、2011年11月5日に公開してくれました。

AmazonPrimeでご覧下さい。

 

角川春樹も私の思いに協力してくれたので、2009年9月に映画 『孫文-100年先を見た男-』を制作公開してくれました。

 

同じ2009年12月に、映画『孫文の義士団』をマーゴが作ってくれたので、まともな人はちゃんと見て歴史の勉強をしてくれたと信じています。

 

 

2025年10月11日に「夢のメッセージ」が届く意味は、今、世界で孤立しているのは「中国の習近平主席」だけだし、「世界の軍事バランスと経済バランスの問題」が山積みですが、多分、対応できるのは私しかいないので、「国連の議長」として習近平主席に伝えたことを思い出して欲しいというメッセージだと思います。

 

同時期に官僚の仕事をした「韓国のサムスン電子」にも私の息子がいるので、「表向きの外交」ではなく、「命のつながりの親族」になった世界の国王たちからはいつもいろんな相談をされるので、「日本と海外との国交のキーポイント人間」としてタダで仕事をしましたが、勝手に私を「全ての省庁の特別上級国家公務員」に任命されただけで給料はもらわずに、いつも電話で海外の仕事に対応していますが、今は「私の分身」が対応しています。

 

「中国人全てが悪い」とは言いませんが、悪いことをする中国人が多いし、ヤクザのヒットマンも50万円で人を殺す仕事を請け負うので、2023年11月に新幹線の中で命を狙われましたが、すぐにヒットマンだと分かったので上手に逃げました。
 
 
 
 
高市早苗首相になり、これから日本は大きく変わりますが、「国民一人一人の考え方が大きな問題」です。
 
 
 
 
自分で貯金をせずに浪費した結果、団塊世代ジュニアの「老後の資金も貯めてない人間」を支えるほど日本は豊かではありません。
 
お金がなくても、欲しいものは買う、やりたいことはやる、遊びには行くし金を使う、子供にも携帯電話を持たせる・・・年金と貯金がある祖父母のお金を期待する団塊世代ジュニアたち・・・
 
 
 
「最悪、生活保護か?」と思う人も多いので、新しい日本には「生活保護制度は廃止」にする予定です。
 
 
 
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