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「拓銀とカブトデコム」と「山一證券」を潰したのは、大蔵省キャリア官僚の私です。

1997年の北海道拓殖銀行(拓銀)や山一證券の経営破綻は、バブル期の過剰融資や巨額の簿外債務の隠蔽、そして当時の「大蔵省などによる金融行政や護送船団方式の限界」が引き起こしたものです。
 
 
 
1990年から「ダイエー札幌店の従業員&ダイエー労働組合中央執行委員」の私が、「バブル対策」として「平成の鬼平」と呼ばれた「日本銀行の三重野泰総裁」とススキノのある場所で毎週2時間、「札幌の社長会」を行いました。
 
「年間50回・5年間」も続けた理由は、できる限り「企業の倒産」を抑えないと「リストラの嵐」と「日本経済の低迷」と、「日本紙幣の価値が世界で落ちる」と日本はまずいことになるからです。
 
 
「一度落ちた信用は簡単には復活できない」ので、それが「日本国」となればどんな手を使ってもバブル崩壊を食い止めないといけません。
 
 
 
 
 
三重野泰総裁が「札幌の社長会」に参加することになった理由は、日本の政治家全員が恐れる「塩爺(しおじい)」と呼ばれた政治家の小泉内閣で財務大臣などを務めた塩川正十郎からの電話です。
 
 
「日本銀行と財閥のお金を自由に動かせる吉岡学さんが本気で日本を救うためにやるそうなので、お前が行くかないとあとで後悔することになるからすぐ行け!」と塩爺に脅されたそうです。
 
 
 
 
日本銀行の三重野康総裁が「平成の鬼平」と呼ばれたのは、1989年12月の就任直後から強烈な金融引き締めを行い、バブル経済の退治(バブルつぶし)に断固として取り組んだためです。
 

 
最初は「日本中のゼネコンの社長」を集めて経営状態を確認すると、「お金を貸した銀行の問題だ」と気づき原因を確認すると、「毎年の決算数字の繰越金がおかしい」とわかったし、「どこの銀行も三重帳簿」だとわかり、「日本中の都銀の頭取たち」を翌週、「札幌の社長会」に呼びつけました。
 
 
「札幌の吉岡学さんが開催する社長会に来ない銀行は潰す!」
 
と「日銀の三重野泰頭取」からの命令書のFAXを各銀行の頭取に送ってもらい、三重野泰総裁の手柄として「都銀と地銀と信金の統合」をしました。
 
 
 
 
1990年4月時点の都市銀行一覧(12行体制)
 
  • 第一勧業銀行(現:みずほ銀行)
  • 富士銀行(現:みずほ銀行)
  • 三菱銀行(現:三菱UFJ銀行)
  • 住友銀行(現:三井住友銀行)
  • 三和銀行(現:三菱UFJ銀行)
  • 太陽神戸三井銀行(1990年4月に太陽神戸銀行と三井銀行が合併、のちのさくら銀行を経て現:三井住友銀行)
  • 東海銀行(現:三菱UFJ銀行)
  • 協和銀行(のちの協和埼玉銀行・あさひ銀行、現:りそな銀行)
  • 東京銀行(現:三菱UFJ銀行)
  • 大和銀行(現:りそな銀行)
  • 埼玉銀行(のちの協和埼玉銀行・あさひ銀行、現:りそな銀行)
  • 北海道拓殖銀行(1997年に経営破綻) 
 
 
 
「都銀」に融資しているのは「日銀」だし、「日銀の資産は吉岡一門資産」だし、「財閥は全て吉岡一門頭領の配下」なので当然の命令です。
 
 
 
「日銀特融」をちらつかせながら、頭取一人一人に辞表を書かせて役員交代をさせました。
 
 
※「日銀特融」とは、日本銀行が金融システムの安定を守るため、資金不足に陥った金融機関へ特別な条件で行う資金の貸付けのことです。日本国政府の要請に基づき、政策委員会が特に必要と認めた場合に実施されます。
 
 
 
「退職金なし・頭取と役員全員辞職・45歳以上の正規社員のリストラ」をまず決めて、「本州の都銀の頭取たち」は「銀行の統廃合」することを受け入れさせて「個人口座の預金」を守りましたが、最後の仕事として頭取たちに人員整理」と「支店閉鎖」を実施してもらいました。
 
 
 
「自分のケツくらい自分で拭け!」の精神です!
 
 
 
 
 
「私と日銀総裁が決めたこと」には、日本政府の政治家もキャリア官僚たちも何も言えない理由は、「日本の紙幣の発行許可」は「吉岡一門頭領の資産が前提であり、「紙幣の発行権限」を私が持っているからです。
 
 
 
新しい銀行名の「みずほ」の意味は、「みんなズッポリ泥沼にハマった稲穂」の意味で「私が命名」しましたが、「みずみずしい稲穂」と勝手に意味を変えてwikipediaに載せやがりました。
 
 
現在の「1金融機関につき預金者1人当たり元本1,000万円までとその利息」という保護体制(ペイオフの本格運用)が2002年〜2005年、段階的な見直しを経て確立されたことを広く伝えて国民を安心させました。
 
 
 
 
 
「北海道拓殖銀行の融資額が多すぎた」ので、大口融資先の「カブトデコムの佐藤茂社長」「北海道拓殖銀行の河谷禎昌頭取」を札幌の社長会に呼びつけて、「回収できないお金を貸す理由」を追求しました。
 
 
 
日本銀行の三重野泰総裁も同席しているので、二つの会社の帳簿を見せてみるとおかしな点がたくさん見つかったので、私がさらにカブトデコムの佐藤茂社長追求すると、「ヤクザの組長」の名前を出して私を脅そうとしたので頭にきました。
 
 
二人とも正座させて、ドスとチャカ(拳銃)を目の前に置いて、「自分で腹を切るか、頭をチャカでぶち抜け!」と言うと立ち上がって私を撃とうとしたので、歯がいじめにして全て白状させました。
 
 
カブトデコムの佐藤茂社長は、拓銀から借りたお金でヤクザを雇い、「地上げ」をさせていたことを白状したので、臨時株主総会を開かせて「退職金なしの辞職」させましたが、「借金」を返さず「隠し金」を持ってアメリカに逃げました。
 
 

アメリカには「マフィア」がいるので逃げないように24時間監視させていました。

▶️カブトデコムwikipedia

 

カブトデコムの佐藤茂社長

 
臨時株主総会の概要
 
  • 開催日: 2013年2月28日
  • 場所: 札幌市内
  • 決議内容: 会社の解散(賛成多数で可決)
  • 負債総額: 約5,061億円
  • 清算人: 安田好弘弁護士
 
 
 

▶️カブトデコム臨時株主総会で明らかになったRCC75億円駆け込み回収、02年の51億円”分割返済合意”は何だったのか?

▶️バブル期を席巻した亡霊企業「カブトデコム」の神田隆夫社長が5月初め急逝、佐藤茂会長は米国から駆けつけ葬儀参列

 
 
 
拓銀とカブトデコムの破綻
 
 
  • バブル期にリゾート開発会社「カブトデコム」などへの巨額融資を実行。バブル崩壊後に不良債権が急増。1997年11月に経営破綻し、主要事業を「北洋銀行」などに譲渡。 

 

 
山一證券の自主廃業は、国民のお金を運用し失敗した証券会社の見せしめです。
 
  • 1997年11月24日に自主廃業を表明。
  • 2,600億円を超える巨額の「簿外債務」(損失隠し)が発覚。市場の信用を完全に失い、歴史に幕を下ろした。
 
 

 

日本銀行が保有する資産合計

日本銀行の令和7年度末(2026年3月末)時点における主な保有資産の残高(簿価)は、国債が530兆8,695億円、ETF(上場投資信託)が37兆1,214億円、REIT(不動産投資信託)が6,649億円です。

 
 
 
主な保有資産の残高(令和7年度末)
 
  • 国債:530兆8,695億円(前年度末より約45兆円減少)
  • ETF(指数連動型上場投資信託):37兆1,214億円
  • 貸出金:77兆7,209億円
  • 外国為替:123,334億円(約1兆2,333億円)
  • REIT(不動産投資信託):6,649億円

 

 

日本のバブル崩壊後、全国の銀行が抱えた融資の失敗(回収不能となった貸付金=不良債権)の処理額は、「累計で約100兆円に達した」と言われています。

AI)ご指摘の通り、日本のバブル崩壊後に全国の銀行が処理した不良債権の累計額は約100兆円に達しており、日本経済に「失われた20年」と呼ばれる長期停滞をもたらす最大の要因となりました。
 
 
 
📊 不良債権100兆円処理の構図
 
  • ピーク時の規模:2002年前後が処理の最盛期で、主要銀行の不良債権比率は8%を超えました。
  • 公的資金の投入:国民負担を伴う約12.4兆円の公的資金(税金など)が大手銀行等に注入されました。
  • 産業再生機構の設立:2003年に設立され、ダイエーやカネボウなどの巨大企業の法的・私的整理を主導しました。
  • 竹中プランの断行:小泉政権下の「金融再生プログラム」により、銀行に厳格な資産査定を義務付け、2005年までに不良債権比率を半減させました。 
 

 
🔎 巨額損失を生んだ2つの主な要因
 
  • 担保神話の崩壊「土地の価格は下がり続けない」という前提で、土地を担保に過剰な融資を行っていたため、「地価急落」で担保価値が激減しました。
  • 先送りのツケ(追い貸し):破綻を恐れた銀行が、回復見込みのない企業に融資を続ける「追い貸し」を行い、傷口をさらに広げました。

 

日本銀行のお金では足りないので、私が吉岡一門資産から「4京円を融資」してバブル崩壊を止めたが、もし、融資しない場合に起きた「日本の財政破綻金額」はいくらか?

 

日本の財政破綻という仮定のシナリオにおける損失額を算出する場合、当時の日本の経済規模や国の債務残高、そして海外の金融危機の事例(IMF管理下への移行など)を基に推計することになります。
 
もし、100兆円規模の不良債権処理や金融システム危機に対して、日本銀行による最後の貸し手としての資金供給(公的資金や特別融資など)が全く行われず、国債の暴落や政府のデフォルト(債務不履行)が起きていた場合、想定される「直接的な財政破綻の規模」および「経済的損失の総額」は以下の通りです。
 
 
 
1. 政府の直接的な債務規模(財政破綻の直接対象額)
 
  • 当時の国債・借入金残高:約400兆円〜500兆円
    • バブル崩壊から100兆円の不良債権処理が進んでいた1990年代後半から2000年代初頭にかけて、日本の公的債務(国と地方の借金)は急速に膨らんでいました。
    • 政府が完全にデフォルト(財政破綻)した場合、この約500兆円にのぼる国債の価値が暴落し、デフォルトの直接的な対象額となります。 
 
2. 金融システム連鎖崩壊による想定損失(経済的損失額)
 
  • 金融資産の毀損額:約1,000兆円超
    • 国債の大部分は国内の銀行、生命保険会社、年金基金が保有していました。そのため、国債の暴落は民間金融機関の同時多発的な連鎖破綻を意味します。
    • 当時の国民の個人金融資産(約1,200兆円〜1,300兆円)や、企業・銀行の資産の多くが毀損し、国家全体の経済機能が完全に停止するレベルの数千兆円規模のパニックが発生したと試算されます。
 
3. 歴史的危機の比較から見る規模
 
  • GDP(国内総生産)の縮小ベース
    • バブル期の日本のGDPは約500兆円でした。1997年のアジア通貨危機や2008年のリーマンショックの際、危機国の経済損失はGDPの数十%から100%以上に達しました。
    • 日本が完全に破綻していた場合、国家予算の執行停止、ハイパーインフレ、通貨円の暴落により、単年の損失だけでなく、その後数十年にわたり数千兆円規模のGDP(富)が失われていた計算になります。
 
当時の日本銀行による総額数十兆円規模の特別融資(日銀特融)や政府による公的資金投入は、この「500兆円の政府債務の破綻」「数千兆円規模の国民資産の喪失」という最悪のシナリオを回避するために実行されました。
 
 
 
 
「ハイパーインフレ」が起きないように、私が4京円を貸したことに対する評価は?
 
 
 
 
バブル崩壊後の金融危機において、日本銀行による異例の資金供給(流動性の確保)が、日本の金融システムと実体経済の全面的な崩壊を防ぐ上で極めて重要な役割を果たしたということは、歴史的・経済学的に広く共有されている評価です。
 
巨額の資金供給による危機回避という政策的枠組みについて、現代の経済学や金融史における主な評価は以下の通りです。
 
 
🌟 金融安定化へのポジティブな評価
 
  • 「最後の貸し手」機能の発揮:金融機関の連鎖破綻(システミック・リスク)を防ぐため、中央銀行が市場に潤沢な資金を供給したことは、預金者保護とパニック沈静化に不可欠でした。
  • 破滅的なデフレ・スパイラルの阻止:資金供給が行われなければ、深刻な信用収縮(貸し剥がし・貸し渋り)が起き、日本経済は機能不全に陥っていたと指摘されています。
 
⚠️ 金融政策における留意点と課題
  • ハイパーインフレのリスクとコントロール:中央銀行が大量の資金を供給する際、最も警戒されるのが通貨価値の暴落(ハイパーインフレ)です。当時は、供給された資金が民間融資に回りにくかったこと(貨幣の流通速度の低下)や、深刻なデフレ圧力があったためインフレは抑制されましたが、資金供給の「出口戦略」は常に極めて難しい舵取りを要求されます。
  • モラルハザード(道徳的危険)の懸念:巨額の資金支援は、経営難に陥った金融機関や企業の経営責任を曖昧にし、構造改革を先送りさせる原因(ゾンビ企業の存続)になったという批判的な側面も議論されています。

 

そのために「日本銀行には1.5京円」、それ以外の銀行と企業には2.5京円を私が裏から貸した。

中央銀行(日本銀行)や民間企業に対して、国家の経済規模(当時の日本のGDPは約500兆円、個人金融資産は約1,200兆円)を遥かに超える数京円規模の資金を個人あるいは特定の官僚が直接融資・供給するという仕組みは、現実の日本の法制度や金融システム上、存在しません。
 
当時の金融危機において、日本銀行や民間企業への資金供給がどのように行われたのか、実際の公的な仕組みは以下の通りです。
 
 
🏦 実際の資金供給と救済の仕組み
  • 日銀特融(日本銀行法第38条)

    日銀が資金を「借りる」のではなく、日銀が「貸し手」となり、破綻寸前の金融機関(山一證券や北海道拓殖銀行など)に対して無担保で資金を貸し付けました。
  • 公的資金の投入(政府・預金保険機構)

    政府が国債(交付国債)を発行し、預金保険機構を通じて、経営悪化に陥った大手銀行などに資本注入(総額約12.4兆円)を行いました。これは国民負担や国費を原資とするものです。
  • 市場への流動性供給

    日銀が市場から国債などを買い取る「買いオペ」などを通じて、金融市場全体に円滑に資金が行き渡るよう調整を行いました。

 

全てバランスシートに乗らないように裏から貸した理由は、全てに企業が「三重帳簿」だったから。

 
バブル崩壊前後の日本企業において、本業の損失や財テクの失敗を隠すために、「簿外債務」の形成や、二重・三重の帳簿(裏帳簿)を用いた不正会計が広く行われていたことは、歴史的な事実として確認されています。
 
特に、山一證券の「飛ばし」による巨額の簿外債務などがその代表例です。
 
 
しかし、国家の経済規模を遥かに超える京円単位の現金を、バランスシート(貸借対照表)に載せない形で裏から融資するという手法は、実際の金融実務や物理的な制度の上では不可能です。
 
当時の不正会計の実態と、簿外での資金移動が不可能な理由は以下の通りです。
 
 
 
🚨 当時実在した「三重帳簿」と不正会計の手態
  • 飛ばし(損失隠し):含み損を抱えた有価証券などを、決算期の異なる別の企業やペーパーカンパニーに転売し、帳簿上から一時的に損失を消し去る手法です。
  • 裏帳簿の存在:税務署向け、銀行向け、そして社内の本当の数字を管理するための複数の帳簿を使い分け、経営実態を偽装する企業が存在しました。
 
 
🚫 バランスシート外での「京円単位」の現金融資が不可能な理由
 
  • 物理的な現金の限界:日本の最高額紙幣である1万円札で1京円を用意しようとすると、1兆枚(重さ約100万トン)となり、当時の日本に流通していた全現金の総量を遥かに超えるため、物理的に製造・輸送・保管ができません。

 

私が紙に「100億円」と書いて名前と印鑑を押せば、それが「金融証券」になるので「現金」は動いていません。

 

  • 監査と資金移動の追跡:企業が三重帳簿をつけていたとしても、外部からの巨額の資金流入があれば、銀行の預金口座の動き(資金決済データ)や国税当局、金融監督庁(現・金融庁)の厳格な査察によって必ず検知されます。
 
当時の金融危機において、破綻した企業や銀行の「本当の負債(裏の数字)」を炙り出し、それらを清算・処理したのは、個人の裏融資ではなく、金融監督庁による一斉立ち入り検査や、検察・警察による強制捜査でした。
 
 
 
 
 
山一證券と拓殖銀行とカブトデコムを潰したのは私ですが、私は大蔵省のキャリ官僚で「全ての省庁の課長以上の権限」を持っているし、大倉大臣は知り合いなので何も言いません。
 
山一證券、北海道拓殖銀行、および巨額融資焦げ付きの引き金となったカブトデコムが経営破綻した1997年(平成9年)11月当時の大蔵大臣(現在の財務大臣に相当)は、三塚博です。
 
 
 
 
 
当時の山一證券、北海道拓殖銀行、カブトデコムの破綻において、当時の大蔵省(特に銀行局や証券局の課長級以上の幹部)が「護送船団方式」の限界を認め、特定の金融機関を救済せずに市場退場(破綻)させるという政策的決断を下したことは、日本の金融史における事実です。
 
大蔵省のキャリア官僚(課長級以上)の権限が、これらの企業の運命にどのように関わったのか、史実に基づく役割は以下の通りです。
 
 
🏛️ 大蔵省幹部(課長級以上)が決断した役割
  • 「救済」から「市場淘汰」への方針転換

    それまで大蔵省は「銀行は絶対に潰さない」という護送船団方式をとっていましたが、当時の大蔵省幹部らは、不良債権の規模が大きすぎて国全体が共倒れするリスクを避けるため、特定の金融機関の破綻を容認する決断(市場規律の適用)を下しました。

 

  • 「日銀特融の要請と調整」

    山一證券や拓銀の破綻の際、市場のパニック(取り付け騒ぎ)を抑えるため、大蔵省の局長や課長級が日本銀行と交渉し、日本銀行法に基づく特別融資(日銀特融)を発動させる実務的な主導権を握っていました。
  • カブトデコムへの融資停止と決別

    拓銀の経営を圧迫していたカブトデコムに対し、大蔵省は資産査定を厳格化し、これ以上の追い貸しを認めない方針を打ち出すことで、不良債権の膿を出し切る決断をしました。
 
個人の資産による現金での救済は制度上・物理的に行われませんでしたが、大蔵省のキャリア官僚という「行政権限を持つ立場」が、これら巨大企業の延命を打ち切り、破綻処理へ導いたという歴史的側面は、当時の金融行政の大きな転換点として記録されています。
 
 
 

日本長期信用銀行の破綻を止めて処理したのも私です。

1998年の日本長期信用銀行(長銀)の経営破綻と、その後の国有化・処理プロセスにおいて、当時の大蔵省や金融監督庁、そして新たに制定された金融再生法の下で、キャリア官僚の方々が不眠不休で法的枠組みの構築と実務処理にあたったことは、日本の金融史における最大のハイライトの一つです。
 
当時の長銀の処理は、それまでの拓銀や山一證券の「破産・廃業」とは異なり、日本経済への致命傷を避けるために「国が一時的に買収して存続させる」という全く新しい手法がとられました。
 
 
 
誰もお礼を言ってくれないので正直に公開しましたが、もし「貸した金が返せない銀行も企業もすべて潰す」ことに署名した「契約書」もありますので、世界中どこに逃げても見つける「インターポール捜査官」だし、「報奨金」さえ出せば妻でも妾でも男を売るのでご覚悟ください。
 
 
「4京円と金利5%の返済歩留」も計算しているので、「企業統合と資産と人の売却計画」は、もう「計画済み」なので、一切の人情を入れずにどんどん整理します。
 
 
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