「魏志倭人伝」に出ている日本のことを読めば「先住民アイヌ」が天皇家よりも先に住んでいたとわかります。
私が12歳(1971年)に「吉岡一門頭領襲名式」の翌日、父であり日本刀の師匠の吉岡忠にこう教わりました。
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いいか、日本に「明治政府」ができたのは1868年だが、その時に「南朝の裏切り者の長州藩と薩摩藩は、それまで「武士の頭領の吉岡一門の秘伝書のコピー」を渡していたのに、「古事記」も「日本書紀」も勝手に書き換えやがったのさ。
俺の祖父が日本中の殿様たちに渡したコピーも全部燃やしたし、「国立図書館にあった原本」さえも燃やしやがったアホばかりさ。
ま、「裏切り者」はいつも内部から出ることは予測していたので、「国立図書館にあった原本」と思っていたものも「コピー」だから心配するな。
本物の原本は、「吉岡一門伝承箱」に入れてあるので時期が来たら正しい日本の真実を公開して平和ボケした日本人の目を覚ましてやりなさい。
明治政府の奴らは馬鹿ばかりなので大事な日本歴史の裏付けとなっている中国の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」を見落としていたので、きちんと読めば、日本の始まりが天皇家ではなく、「先住民アイヌ」だとわかるはずさ。
もともとは中国は竹に書いてある文字を俺の部下の学者たちが苦労して本にしたので「最初の原本」も残っているぞ!

大東亜戦争に日本が負けたあと、「文部省は中国共産党」の人間が仕切ることになったので、全ての教科書に書いてある真実を墨で消したが、古い日本の教科書には正しいことが載っているので、自分で調べもしない文部省の官僚たちが言う嘘の歴史なんて信じるなよ!

ま、日本人が使う「漢字」も「ひらがな」も武士の吉岡一門頭領が考えたものだし、カタカナは日本の先住民アイヌが使っていた文字なのに、そのことを正しく書いたものなどどこにないだろう。
お前がいつどういう方法で日本国民に「歴史の真実」を示すのか俺も楽しみだが、きっとその頃には俺は死んでいないと思うので、自分の子供たちに「正しい日本の歴史」を教えてやる教科書にしなさい。
日本国民を目覚めさせるのもお前の仕事なのであとは頼むぞ!!
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魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝()倭人条の略称。
当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。
『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。
倭国の様子
魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。訳文は一部修正してあります。
| 原文 | 日本語訳 |
|---|---|
| 男子無大小、皆黥面文身。 | 男子は大小に拘わらず、みな顔や体に入墨をする。(先住民の意味) |
| 自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。 | 古代からこのかた、その使者が中国に訪問すると、みな自ら大夫(卿の下、士の上の位)と称する。 |
| 夏后少康之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。 | 夏后少康(夏第六代中興の主)の子が、會稽(浙江紹興)に封ぜられ、髪を断ち体に入墨をして、蛟竜(みずちとたつ)の害を避ける。いま倭の水人は、好んで身を沈めて魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。 |
| 諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。 | 諸国の入墨は各々異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大きく、あるいは小さく、身分の上下によって差がある。 |
| 計其道里、當在會稽東治之東。 | その道里を計ってみると、ちょうど會稽の東治(江蘇省紹興市)の東にあたる。 |
| 其風俗不淫。男子皆露紒、以木緜頭。其衣橫幅、但結束相連、略無縫。婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。 |
その風俗は淫らではない。 男子は皆髷を露わにし、木綿 (ゆう)の布を頭に掛けている。 その衣服は横幅の広い布を結び束ねているだけであり、ほとんど縫いつけていない。 婦人は、髪は結髪のたぐいで、衣服は単衣(一重)のように作られ、その中央に孔を明け、頭を突っ込んで着ている。 |
| 種禾稻・紵麻、蠶桑緝績、出細紵・縑・緜。 | 稲・いちび・紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育て、糸を紡いで、織物を作る。(農業を営む) |
| 其地無牛馬虎豹羊鵲。 | その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。 |
| 兵用矛・楯・木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與儋耳・朱崖同。 | 兵器には、矛・盾・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長くし、竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である。風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある。 |
| 倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。 | 倭の地は温暖で、冬も夏も火を通さず生食する。みな、裸足である。 |
| 有屋室、父母兄弟臥息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。 | 家屋があり、父母兄弟は寝たり休んだりする場所を異にする。朱丹を身体に塗っており、中国で粉を用いるようなものだ。飲食では高坏(たかつき)を用い、手で食べる。 |
| 其死、有棺無槨、封土作冢。始死停喪十餘曰。當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、擧家詣水中澡浴、以如練沐。 | 人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる。死してから十日余りもがり(喪)し、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する。埋葬が終わると、一家をあげて川水中で体を清める。これは練沐のようである。 |
| 其行來渡海詣中國、恒使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人。名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。 | 倭の者が中国に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。 |
| 出真珠・青玉。其山有丹、其木有柟・杼・櫲樟・楺・櫪・投橿・烏號・楓香、其竹篠・簳・桃支。有薑・橘・椒・蘘荷、不知以爲滋味。有獼猴・黒雉。 | 真珠や青玉が産出される。山には丹(あかつち)がある。木には柟(だん。クス)、杼(ちょ。トチ)、櫲樟(よしょう。クスノキ)・楺(ぼう。ボケ)・櫪(れき。クヌギ)・投橿(とうきょう。カシ)・烏号(うごう。ヤマグワ)・楓香(ふうこう。オカツラ)がある。竹には篠(じょう)・簳(かん。ヤタケ)・桃支(とうし。カヅラダケ)がある。薑(きょう。ショウガ)・橘(きつ。タチバナ)・椒(しょう。サンショウ)・蘘荷(じょうか。ミョウガ)があるが、それで味の良い滋養になるものをつくることを知らない。猿、黒雉がいる。 |
| 其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。 | その習俗は、事業を始めるときや、往来などのときは、骨を灼いて卜し、吉凶を占い、まず卜するところを告げる。その辞は令亀の法のように、焼けて出来る裂け目を見て、兆(しるし)を占う。 |
| 其會同坐起、父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬、但搏手以當跪拝。其人壽考、或百年、或八九十年。 | その会同・起坐には、父子男女の別は無い。人は酒好きである。大人の敬するところを見ると、ただ手を打って、跪拝(膝まづき拝する)の代わりにする。人は長生きで、あるいは百歳、あるいは八十、九十歳。 |
| 其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盗竊、少諍訟。其犯法、輕者没其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑各有差序、足相臣服。 |
風習では、国の身分の高い者はみな四、五人の妻を持ち、身分の低い者もあるいは二、三人の妻を持つ。(一夫多妻制) 婦人は淫せず、やきもちを焼かず、盗みかすめず、訴え事は少ない。その法を犯すと、軽い者はその妻子を没収し、重い者は一家及び宗族を滅ぼす。 身分の上下によって、各々差別・順序があり、互いに臣服するに足りる。 |
| 收租賦、有邸閣。 | 租賦(ねんぐ)を収める邸閣が有った。 |
| 國國有市、交易有無使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。 | 国々に市があり、交易を行い、大倭(倭人中の大人)にこれを監督させていた。女王国より北には、特に一大率[注釈 6](いちだいそつ。王の士卒・中軍)を置き諸国を検察させ、諸国はこれを畏れ憚かっていた。常に伊都国で治めていた。国中(中国)の刺史のようなものである。 |
| 王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國。及郡使倭國、皆臨津捜露、傳送文書、賜遣之物詣女王、不得差錯。 | 王が使いを京都(魏都洛陽)・帯方郡・諸韓国に遣わす。郡が倭国に使いするときは、みんなが津に臨んで捜露(そうろ。探し表す)し、文書を伝送し賜遺の物を女王に届けるので、差錯(誤る、間違う)することはない。 |
| 下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭說事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬 對應聲曰噫 比如然諾 |
下戸が大人と道路で互いに逢うと、ためらって草に入り、辞を伝え、事を説く場合には、あるいはうずくまり、あるいはひざまづき、両手は地につけ、恭敬の態度を示す。対応の声を噫(あい)と言い、それは、承知の意味である。 注)武士の「あいわかった」に伝承済み |
| 其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歷年、乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、傳辭出入。居處宮室、樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。 |
その国は、もとは男子を以て王となし、留まること七、八十年。 倭国が乱れ、互いに攻伐すること歴年、そこで共に一女子を立てて王とした。 卑弥呼という名である。 鬼道につかえ、よく衆を惑わせた。年は既に長大(成人)だが、夫は無く、男弟がおり、補佐して国を治めている。 王となってから、朝見する者は少なく、下女千人を自ら侍らせる。 ただ男子一人がいて、飲食を給し、辞を伝え出入する。居処宮室・楼觀・城柵をおごそかに設け、いつも兵器を持った者が守衛する。 |
| 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里、又有裸國、黒齒國、復在其東南、船行一年可至。 | 女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である、又、侏儒(こびと)国が、その南にある、人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里、又、裸国・黒歯国がある、復その東南にある、船で一年ばかりで着くことができる。 |
| 参問倭地、絶在海中洲㠀之上、或絶或連、周旋可五千餘里。 | 「倭の地」を尋ねると、離れた海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、往来は五千余里ばかり。 |
年表
魏志倭人伝の原文の抜粋と、石原道博編訳の「新訂 魏志倭人伝」を踏まえた日本語訳を収録した。
| 原文 | 日本語訳 |
|---|---|
| 景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都 | 景初二年(西暦二百三十八年)六月、倭の女王が大夫難升米等を遣わし、(帯方)郡に詣り、天子に詣り朝献するよう求めた。太守(郡の長官)劉夏は役人を遣わし、京都まで送らせた。 |
| 其年十二月 詔書報倭女王 曰(中略) | その年の十二月、詔書で、倭の女王に報じていうには、
(中略) |
| 正始元年 太守弓遵遺建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔賜金帛 錦 罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝詔恩 | 正始元年(西暦二百四十年)、太守弓遵は、建中校尉の梯儁らを遺わし、詔書・印綬を奉じて倭国に行き、倭王に拝仮して詔をもたらし、金帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜った。倭王は、使いに因って上表文を奉り、詔恩(天子からの恩典)を答謝した。 |
| 其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布 丹木拊 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬 | その四年、倭王はまた使者の大夫伊声耆・掖邪狗ら八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・綿衣・帛布・丹木拊(搏拊)・短弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。 |
| 其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授 | その六年、詔して、倭の難升米に黃幢を賜い、郡に付して仮に授けた。 |
| 其八年 太守王頎到官 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遺倭載斯 烏越等詣郡 說相攻擊狀 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書 黃幢 拜假難升米 爲檄告喻之 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹 |
その八年、太守王頎が官にやってきた。 倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼(彦尊か)と旧より不和である。 倭の載斯烏越らを遣わして郡に行き、互いに攻擊する状態を説明した。塞曹掾史張政らを遣わして、詔書・黃幢を齎し、難升米に仮に授けて、檄(ふれぶみ)を作り、これを告喻(告げ諭す)した。 卑弥呼の死によって大いに塚が作られた。径百余歩、徇葬した奴婢は百余人。さらに男王を立てたが、国中が服さない。互いに誅殺し合い、当時千余人を殺した。また卑弥呼の宗女の壱与という歳十三の者を立てて王とすると、国中がついに平定した。政(張政)らは檄を以て壱与を告諭した。壱与は倭の大夫の善中郎将掖邪狗ら二十人を遣わし、政(張政)らが還るのを送らせた。よって台(魏都洛陽の中央官庁)に行き、男女生口三十人を献上し、白珠を五千孔、青大勾珠を二枚、異文雑錦を二十匹、貢いだ。 |
倭および魏の使いを年代順に西暦で書くと、238年倭使、240年魏使、243年倭使、247年倭使・魏使・倭使となる。
238年12月の文は詔が出された記事で、実際に届けられたのは240年である。同様に245年の難升米に黃幢を賜える記事も、この年に詔が出され、実際に届けられたのは247年であることに注意。
またよく誤解されるが、247年に魏使が倭に来たのは245年の詔によるものであり、247年の倭使の訴えによるものではない(ただし檄などはこれによるものであろう)。

葛野辰次郎エカシ 1910年(明治43年)4月10日 – 2002年(平成14年)3月27日)

白老 山丸郁夫エカシ









