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1996年にNYでビートルズの一人が「ジョン・レノンの死」の真実を教えてくれました。

1996年1月10日、私の37歳の誕生日祝いをマライヤ・キャリーが「アメリカNYのBLUENOTE」で開いてくれた時に、声をかけてくれた人が詳しく「ジョンレノンの死」についての真実を教えてくれました。
 
 
話してくれた内容があまりに衝撃的だったので、裏を取るために知り合いの「江原啓之さん」を通して「美輪明宏さん」の電話番号を聞いたので電話してみると、「オノ・ヨーコの実態」を全部正直に教えてくれました。
 
 
 
 
 
 
 
日本の芸能界の「裏事情」を正しく知っているのは、「美輪明宏さん」だけなので、まず、こう前置きを言われました。
 
 
 
「私は自分が信頼した人間にしか真実は話さないのよ。
 
でもね、吉岡学さんのことは裏も表のことも昔から全て聞こえているし、「◯◯◯でスピ系」で成功した人はいないと思うので、やっと面白い人に会えるので楽しみにしているわ。
 
 
 
 
実際に東京の指定された「シャンソンのクラブ」で美輪明宏さんに二人で会ってお話しすると、また、面白しろがられました。
 
 
あなたは、本当に「生まれ付きの霊能者」なのね。
 
それにとても力が強いので、私でもフラフラするので、ちょっとお酒を飲みながら話を聞くので、一緒に飲みましょう。
 
黙って座っているだけで、あなたを守っている存在たちが私をじっと見ているし、霊力も強いし、過去も未来も見える人なら私の未来も見てちょうだい。
 
 
・・・でも、やっぱり辞めておくわ。
 
 
自分の未来がどうなるかわかっても面白くないので、今後、「オーラの泉の特別バージョン」でも作らせて一緒にテレビに出る気はないの?
 
 
あら、ダメなの、残念ね。
 
 
じゃあ、私の代わりに「玉ねぎおばさん(黒柳徹子」の番組はどう?
 
私の紹介なら絶対にすぐにテレビに出れるし、高いギャラも払ってくれると思うわよ!
 
 
え!!テレビもマスコミにも出てはいけない人なの?
 
 
それは、残念ねえ・・・私はタイプなのに・・・。
 
 
じゃあ、気分を変えるために歌を歌うので「100万本の薔薇」でもタダで歌ってあげようかしら?
 
 
え!「ヨイトマケの唄」に感動して泣いたの。
 
お世辞でも嬉しいわね。
 

 
 
 
 
 
今日は私のほうが楽しかったので、お礼にどこかスポンサーを付けて札幌まで行ってあげるから「私の講演会」にいらっしゃい。
 
連絡先をここに書いておいてちょうだいね。
 
・・・・・
 
 
実際に後日、「NTTドコモ主催の無料招待券」が2枚送ってきたので、大きな会場で大笑いしながら言いたい放題の美輪明宏さんの公演を聞きました。
 
あんな七色の綺麗な衣装が似合う人も少ないと思うけど、やっぱり、男らしいスピーチで楽しい時間でした。
 
 
 
 
これから話すオノ・ヨーコのことは、どう扱うかは吉岡さんに全て任せるわ。
 
 
あの女は昔からとんでもない食わせ物で、安酒場で下手な歌を歌って客に抱かれて金を稼いでいた女だけど、ヤクザに借金した金額が大きくなったのでアメリカに逃げたのよ。
 
 
アメリカでもいろんな人種の男に抱かれながら生活していた時に、偶然、お店にやってきたジョン・レノンを見つけたので「金づる」だと思って親しくしていたようだけど、誰の子かわからない子供を妊娠したので「ジョン・レノンの子供だ」と嘘をついて結婚した「金に汚い女」なのよ。
 
 
そうなんだ、彼がこのことをあなたに話したの。
 
さすが、吉岡一門の頭領ね。
 
あなたの情報は私の情報よりリアルでコアね。
 
アメリカの歌手のことは吉岡学さんに聞いたほうが正しいとわかったので、何か聞きたいことがある時は電話するから、オノヨーコの電話番号を教えるので自分でどんな女か見極めてきて教えてちょうだいね。
 
 
・・・・・
 
 
美輪明宏さんから聞いた情報を持って、「オノ・ヨーコ本人」に会って確認すると、あっさり全てを認めて正直に話してくれました。
 
・・・・・
 
オノ・ヨーコ談)
 
私はただ「お金持ちの子供を妊娠すれば結婚してもらえる」と思っただけだし、ジョン・レノンに愛情なんて無いわよ。
 
ただのマネービジネスよ。
 
だって、ジョンレノンが死ねば、私に多額の遺産が残るし、余生を悠々自適に暮らせるので、女なら誰でも考えることよ。
 
でも、私が産んだショーン・レノンの父親は別な男だけど、そんなこと誰も調べないわよ。
 
女はね、少しだけ悲しんだふりさえしておけばいくらでも同情して寄付をくれるし、ジョン・レノンのものならいくらでも高値で買ってくれるので最高のビジネスよ。
 
でもよくこの真実を話した人がいたわよね。
 
誰なの?あなたにこんなことを言った人は?
 
もし、見つけたら絶対に殺してやる!!!
 
 
でも、もしこの情報を表に公開したらあなたを殺すわよ!
 
 
 
と脅されたのでやはりヤバイ女だとわかりました。
 
 
 
簡単に言うと、ジョン・レノンを死に追いやったのは、ビートルズを売り出した「世界の支配者マーゴの命令」だし、ジョン・レノンが「『カンボジア難民救済コンサート』をタダでしたので、オノ・ヨーコがマーゴから多額のお金をもらって「ジョン・レノンのスケジュール」をマーゴに教えた張本人だと言うことです。
 
 
 
 
次にマーゴに会った時に確認すると、
 
「もうビートルズは、十分お金は稼いだのでもういいの。私の言うことを聞かない人間は全て皆殺しにしたやる!!」
 
と怒りまくっているだけで反省の色など全くありません。
 
 
 
 

ジョン・レノン射殺事件(ジョン・レノンしゃさつじけん)とは、1980年12月8日(月)22時50分ごろ、ビートルズのメンバーであったジョン・レノン( John Lennon )がアメリカ・ニューヨーク市にある高級集合住宅ダコタ・ハウスの入口において、マーク・チャップマン(Mark David Chapman)に銃撃され殺害された事件である。

 
 
 
 
ジョン・レノンとポール・マッカートニーは、ザ・ビートルズのメンバーであり、音楽史上最も成功した作曲パートナーシップとして知られています
 
1957年に出会い、ビートルズ結成後、共に数々の名曲を生み出しました。ビートルズ解散後、二人の関係は一時的に悪化しましたが、1980年にレノンが亡くなる前に友情を修復しました。

 
 
 
ポール・マッカートニーとジョン・レノンの間には、

ザ・ビートルズの解散を巡るビジネス上および音楽的な意見の相違から確執が生じましたが、ジョンが亡くなる前に和解し、友情を取り戻していました 

紛争の原因と経緯
  • ビジネス上の対立: ビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインの死後、バンドの運営方針を巡って意見が対立しました。ポールは自身の義父であるリー・イーストマンを推薦しましたが、ジョン、ジョージ、リンゴはアラン・クレインを支持したことで亀裂が生じました。

 

  • 音楽性の違いと主導権争い: 後期ビートルズでは、バンドを引っ張っていこうとするポールに対し、ジョンは妻のオノ・ヨーコの影響もあり、個人の活動に重点を置くようになっていました。ジョンはポールの「サイドマン(付き人)」であることにうんざりしたと語っています。

 

  • 公の場での批判: 解散後、両者はそれぞれのソロアルバムの楽曲やインタビューでお互いを批判し合いました。特にジョンは、ポールとリンダ夫妻を揶揄するようなアルバムジャケットや楽曲を発表したこともありました。

 

  • 解散の決定的な要因: 長年、ポールの訴訟が解散の原因とされてきましたが、ポール自身は後に、ジョンがバンドからの脱退を宣言したことが解散の本当の始まりだったと明かしています。正式な解散合意書へのサインは1975年1月に行われました。 
 
和解とその後
確執は数年間続きましたが、最終的に二人は関係を修復しました。
  • 和解の時期: 1970年代半ば、ジョンがニューヨークに滞在していた頃に、二人は再び連絡を取り合い、ビジネス上の問題を乗り越えて友情を取り戻しました。

 

  • 最後の会話: ポールは、ジョンが1980年に亡くなる前に和解できていたことを「ありがたく思っている」と度々語っています。彼らの絆は世間が考えていたよりも固いものだったと振り返っています。
  •  
  • 追悼: ジョンの死後、ポールは深い悲しみを表明し、ジョージ・ハリスンは追悼曲「過ぎ去りし日々(All Those Years Ago)」を発表しました。この曲では、ポールとリンゴも共演しています。 
現在、ポールはインタビューなどでジョンとの思い出や友情について頻繁に語っており、二人の関係は複雑ながらも深い絆で結ばれていたことが強調されています。 
 
 
 
 
ジョン・レノンの死
 
 
 

1980年12月8日午前、ダコタ・ハウス。写真家が見た愛のカタチ

アニー・リーボヴィッツ──彼女の名前を聞いて一体何を思い浮かべるだろう?あらゆるミュージシャンの表情をとらえたロックなカメラマン。
映画スターや経済人たちセレブリティ御用達のカメラマン。
最先端のファッションメディアで斬新なイメージを撮り続けるカメラマン。政治や戦争の代償を切り取るジャーナリストとしてのカメラマン。
世界中を年中飛び回るスターカメラマン。そして家族や風景といった素朴な写真を愛するカメラマン。

そのどれもが彼女の本当の姿であり、世界で最も有名な肖像写真家であることには間違いない。

アニーは1949年10月、大家族の三女としてアメリカのコネチカット州で生まれた。軍人だった父の影響で引越しが多く、そのたびに車に乗って移動した。

 
幼い女の子は車窓というフレームを通して常に人々や風景を観察していたのだろう。ベトナム戦争の赴任でフィリピンにも移り住んだことがあるようだが、アニーは高校生になるとサンフランシスコへ戻った。

時は1960年代後半。シスコの街にはヒッピーが集い、愛の思想を世界に広げようとしていた。アニーは美術学校で写真を学ぶことになり、通りで反戦運動を撮ったり、アパートでロックミュージックに目覚めていった。

ちょうどその頃、シスコではヤン・ウェナーが『ローリング・ストーン』誌を創刊させる。自由な編集方針で書き手たちに好きなことを書かせて、ロック・ジャーナリズムの礎を築こうとしていた。アニーはすぐに編集部を訪れ、自分を売り込んだ。

必死で仕事をしていると、ジョン・レノンのインタビュー撮影の機会に恵まれた。20歳という若さ、無名のカメラマンの自分。そんな不安はすぐに現場で吹き飛んだ。ジョンは彼女を一人の人間として変わらずに扱ってくれたという。

数年後、チーフカメラマンとなったアニーは、『ローリング・ストーン』を舞台にあらゆるミュージシャンたちをフィルムに収めていく。ロック界のスターたちはいつも一緒にいるアニーをそのうち気にしなくなり、空気のような存在になったので、心を許して自由に写真を撮らせた。

しかし、ローリング・ストーンズの1975年のツアー同行は、周囲に猛反対された。そこにはドラッグの誘惑があり、ヤンに言わせれば「みんなヤク中になって帰ってくる」のがオチらしい。この頃のツアー先のホテルでの記憶が一切ないというキース・リチャーズは、アニーが撮った自分の姿を見つめながらこう言った。「俺が見えないものを見てる」。

一方で失敗もある。反核コンサートで意気投合していたブルース・スプリングスティーンやボニー・レイットやジャクソン・ブラウンらがスタジオに集まった時、アニーは平凡な写真しか撮れず、革命的な機会を逃したとベテランに怒られた。以来、被写体である人が何者であるかを伝えることを心掛けるようになり、一度見たら忘れられないような写真を残すことに成功。

例えば、フリートウッド・マックでは世界的な成功の裏でバラバラだったメンバーたちをベッドに上下方向で並べたり、映画『ローズ』の公開があったベット・ミドラーには、バラの花の絨毯を作って(1本1本トゲを抜いた!)寝かせたり、ブルース・ブラザースはベルーシとエイクロイドの顔が青く塗られたりした。

でも、一番有名なのはジョン・レノンとオノ・ヨーコの写真だろう。

それは1980年12月8日午前のこと。二人が住むダコタ・ハウスのベッドでの撮影。脱ぐことに抵抗があったヨーコは服を着たまま横たわった。すると裸になったジョンがキスをして抱きしめる。アニーがその一瞬をとらえる……その夜、ジョンが死んだことを知った。

 
この写真は追悼号の表紙として何の見出しもつけずに印刷された。たった1枚の写真の力に、多くの人が涙した。

スクリーンショット 2015-12-07 18.51.16

 
 
ジョン・レノンとオノ・ヨーコは、1969年に結婚した芸術家カップルで、平和活動や音楽、創作活動を共に行いました。ビートルズ解散後の1971年にはニューヨークへ移住し、1973年には「失われた週末」と呼ばれる18ヶ月間の別居期間がありました。 
 
 
「ジョン・レノン 失われた週末」場面写真

「ジョン・レノン 失われた週末」場面写真

「ジョン・レノン 失われた週末」ポスタービジュアル

「ジョン・レノン 失われた週末」ポスタービジュアル 

本作は、ジョン・レノンオノ・ヨーコが別居していた“失われた週末”と呼ばれる日々に迫るドキュメンタリー。ジョンとヨーコの個人秘書であり、プロダクションアシスタントを務めていたメイ・パンの証言によって、ジョンがヨーコの強い希望でメイと過ごすことになった、1973年秋から1975年初頭にかけての18カ月間がつづられる。

なおジョンは、この期間にメイの助けを借りて長男と再会。商業的にも成功した時期を過ごした。作中には、ジョンによる楽曲の数々やアーカイブ映像、ジョンとメイが互いの姿を捉えたプライベートな写真などが収められている。

イヴ・ブランドスタインリチャード・カウフマンスチュアート・サミュエルズが監督を務め、ジュリアン・レノンポール・マッカートニーデヴィッド・ボウイエルトン・ジョンが出演した。

 

私は「芸能界の三面記事」には興味がない人間だし、ビートルズ世代は団塊世代の人たちなので、音楽は聞いてはいますが、本気である人に頼まれたのでやるべきことをしただけです。

▶️ポール・マッカートニー死亡説

 

あとでオノ・ヨーコのことを教えてくれた人に電話で私の体験を全て正直に話ししましたので、とても感謝してくれて「サイン入りのレコード」を送ってくれましたが、ビートルズファンにプレゼントしました。

 

だって、私は「ビートルズファン」ではないし、売って金儲けしようとは思わない人間だし、興味があって自分で買った物でもすぐに人にあげてしまう人なので、物にも人にも執着はありません。

 

私がこだわるのは、「生き方と考え方」だけです。

それさえしっかりした人間と付き合えば、人生で迷っても道は開けます。

ほとんどの人は人生の道を彷徨っているか、それとも辛いことを避けて生きている人が多いので、辛い時はトコトン落ち込んで泣きまくってから堂々と道のど真ん中のを歩いて行けば、「犬も棒に当たります」人生とは、そういうものです。

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