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【芦別市】生まれ故郷の歴史と先人を慕う

1998年、ゴールデンウイークに故郷の芦別市常磐町に戻ると、「土地の歴史」を調べ直しました。

詳しい資料は、吉岡一門の頭領が声をかけて町民が小金を出して作った「常盤町史」に書かれていたのでこういう貴重な資料を残してくれた人たちに感謝が溢れます。

「芦別」の名前の由来は、アイヌ語のアシュペツ(河底が深く険しい川)から来ているという説が一番しっくりくるほど、山と川に囲まれた町です。

最初の常磐町に住んだ人は、明治26年(1893年)3月、歌志内市で魚商をしていた「佐藤伝次郎」さんは「山形県酒田」の出身でしたが、魚がたくさんとれる「常磐町のパンケホロナイ川」から魚を採って歌志内で売っていました。

山形県は南北朝の内乱の「漆川の戦い」が激しかったので、戦さに嫌気をさした「藤職人」の佐藤伝次郎さんが常磐町に一人で住み始めました。

しかし、佐藤伝次郎さんは「藤棚職人」についた苗字で「商売人」では無かった為に商売がうまくでいかず、常盤(パンケホロナイ)の川にそばに飲み水が湧く場所を見つけて小屋を建てて一人で暮らし始めました。

まだ「未開の地」であった芦別の常盤(アシュペツ・パンケホロナイ=河底が深く険しい大きい川の下流)に最初に住んだ人が、この「佐藤伝次郎」さんでした。

当時、北海道に入植した和人は、険しい川をアイヌ人の木船で渡らせてもらいながら、1メートルもある笹をかき分けながら、道の無い山林の間を進んだそうです。

翌年の明治27年3月、「石川県出身」の沢口期一さんが団長となって石川県から50戸と、「富山県砺波郡薮並村」の村長だった兜谷徳平(かぶとやとくへい)さんに声をかけ、富山県から10戸が常盤の地に入植しました。

総勢78名だったと記録にあり、「石川県出身」の沢口期一が、芦別市に最初に住んだ人間だと記録があります。

明治19年に、富山県から「吉岡一門の長男・吉岡宇右エ門さん」が兄弟を全て連れて「北海道中の土地」をアイヌと周り、「良いコメが作れる田んぼの土地」を探し回った結果、芦別市常磐町を見つけ、一人で暮らしていた「石川県出身」の沢口期一さんに挨拶してから富山県の仲間と食べ物を持って戻ってきたそうです。

これが明治19年から北海道を全て実効支配した「南朝の吉岡一門の頭領」の記録です。

この「富山県」から移住した10戸の農家の一軒が私の先祖である「五代前の吉岡宇右エ門さん(曽祖父)でした。

妻トヨさんと5人の男子、1人の女子を連れてやってきました。

吉岡宇右エ門さんの四男が「吉岡西蔵さん(頭領)」で私の祖父ですが、当時五才だったと記されています。

この吉岡西蔵さんの六男が、私の父の「吉岡忠頭領」です。

耕す土地も畑も無い土地へやってきて、毎日、木を切り燃やしながら「根株」を掘り起こす作業に明け暮れたと書いてあります。

撒いた種もすぐには実らず、とてもひもじい暮らしをしていたようです。こういう辛さに耐えられず生まれ故郷に逃げ帰り、北海道移住をあきらめた人たちも多かったようです。

唯一、食料となったのは「川魚」ですがパンケホロナイ川に人が入っても魚は怖がる気配もないほど一面銀色に魚が集まったと書かれています。

「食料」と言うべき川魚を捕るのは子供の役目だったようですが、そのせいで祖父の吉岡西蔵さんの兄弟の6人のうち3人が川で溺れて亡くなっています。

今は雪解け水で濁っていますが、普段はとてもきれいな川で子供の頃にはよく川釣りにも行きましたし、川の水も飲めました。

右側がパンケホロナイ川、左の川は、三角橋から山の奥へ繋がる「開拓の沢」へ繋がる川でした。

きれいな川の水があるという事は、人間が生活をする「生命線」だった事がよくわかります。

辛く苦しい毎日を支えてくれたの、「神仏に対する心」が唯一の救いであったと書かれていました。

このパンケホロナイ川の常盤橋の横には、馬をたくさん連れてきて田んぼを耕してくれた馬を祀る「馬頭観音」と、吉岡一門の頭領の子種であり、ご先祖の「聖徳太子像」が祀られています。

 

山と川に囲まれた常磐町は、冷害も少ない稲作に適した場所として現在も米農家がほとんどですが、「農業用水」を引いた事でたくさんの人たちが水の恵みを頂いた事を入植100年を期に石碑を建てました。

農家が安定して米を作るようになると、必要な物資を販売する商人が集まり商店街もできました。

当時、一帯の地主であり、着物や反物を販売していた「干場さん」の家とレンガ蔵は当時のまま残っています。

真向かいには、大きな雑貨店として栄えた「南商店」もありました。

人が集まると子供たちに教育が必要だという事で「歌志内」のお寺から「相川了瑞さん」という一人の若い修行僧を吉岡一門の頭領が依頼してやってきましたが、若い僧侶には遊ぶ場所がない常磐町なので三人目の坊主だと父が教えてくれました。

武士と小作の子供たちだけ集めて33人の子供たちに「三国志」などを読み聞かせをしていましたが、教科書を買える子供は三人しかいなかったそうで、みんなで筆で教科書を写して書いたそうです。

掘立小屋の屋根にトタンを引いて「寺子屋とお寺」を開くと、屋根のトタンに太陽が反射してお寺が輝いていると常磐町の人は喜んだそうです。

漢字の読み書きが出来なかった「修行僧」は一年間の努力をしてから常盤にきましたが、午前に子供たちへ教えたあとは、毎日、馬に乗って芦別市全てに移住した人の家を回って布教をしていたそうです。

「我慢と忍耐の教え」を説きながら、生きる辛さを乗り越える勇気を人々に与え続けた素晴らしい方だと書かれていました。

私の「幼稚園時代」もこのお寺が寺子屋だったのでお世話になりましたし、了瑞さんの子供に当たる方が園長さんとお坊さんを兼ねていたのは今も変わりません。

常磐町の住人が増えたのでみんなのために「光明寺」を建てたのは「吉岡一門総本家のあや婆ちゃん」が一人で3億円のお金を出して建てました。

商店街のすぐ横には、「班渓(パンケ)神社(村社)」もありますが、ここが一番最初に建てた「吉岡一門の神社」で祖父の吉岡西蔵さんがお金を出して建てました。

町内会の方たちは今も清掃をしたり、行事の度に集まって大切に守ってくれています。

班渓(パンケ)神社の向かいには消防署がありますが、私の子供の頃は農家の男たちのほとんどが消防団員として自分たちの町を守っていました。

田んぼへ出ていても火事が起きると大きなサイレンが町内中に鳴り響き、農作業の手を止めて急いで家に戻り、防火服を着て消防車に乗り込む父を見た事があります。近所の家が燃えている中を命がけで家財道具を運び出したり、手でポンプの水を組み上げて消火活動をしていました。

父のこの姿を見て、家族の命を守る為には近所の人たちの命を守る覚悟が必要な事を小学生の時に学びました。いつも「常会(じょうかい)だ」と言っては集まってお酒を飲んで帰る父しか見ていなかったので、自分の知らない大人の付き合いがある事もわかりました。

当時の町内会館は廃墟になりましたが、今は新しく立てた会館で老人会や地域の会合が行われています。

「光明寺の寺子屋」の時代から道向かいに小学校と中学校が一緒なった「常盤小中学校」ができて私も通いましたが、現在は児童数が減り廃校になっています。校庭の隅には常盤町の80年を記念して作られた塔があります。

家の周りに見える田んぼ全てが父母の苦労で大きくしたお米を食べて育った記憶は、生涯忘れる事はありません。「この米粒ひとつを作るのに、一年かかるんだよ!」と母に怒られた記憶は、今も茶碗に米粒を残さないくせを身につけてくれました。

地下水を毎日ポンプで汲みあげて飲み水・お風呂・馬の飲み水として使った水は、今も変わらず保健所が素晴らしく安全だと証明書を出すほど美味しい水が飲めます。

子供の頃は自給自足という言葉さえ知らなかったし、貧乏という意味もよくわかりませんでしたが、農家の分家という貧しい暮らしを経験できたおかげで、自然溢れる常磐町の素晴らしさと先人たちの心に歴史を調べる事で触れる事ができました。

117年前に常盤に入植した人たちのおかげで、遠くに見える美しい大雪山山系の力強さと自然の中で育つ環境を与えてくれた先人たちに心から敬意と感謝を送りたいと思います。

 

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