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長ランリーゼントで、母の介護

私の高校時代は、☞「長ラン・リーゼントの学級委員長 1 初めての学級委員長だったので、読んで下さった方は理解してくれていると思いますが、実は、「なぜ、そこまでツッパッたのか?」、その理由を思い出したので、ここに記録します。

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中学3年生になった年の4月は、同時に、4つ上の兄が札幌に就職したので、両親と私の「3人家族」になりました。

秋のおコメの収穫が終わると、酒を飲みに行こうと農協の貯金の残高を見た父が赤字だったので、家に戻った父は、「田んぼを増やした借金があるので、俺が出稼ぎに行くことを決めた!」と言い出しました。

それも、すぐ明日から働く仕事が見つかったので、山に入って木を切り、運び出す仕事に行ってしまいました。

戻るのは、正月の3日間だけだし、11月から3月までは、母と私の二人だけの生活になりました。

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いろんなことに頭に来ていた中学2年生の頃から、「母とは一切、口を効かない生活」を続けていたのに、二人だけになると、そうはいきません。

会話する相手がいない母は、どんどん生きる気力を失い、ある日の夕方、家に戻ると茶の間に一人で座り込んでいました。

家にいるなら、電気くらいつければいいでしょ!

 

何をやってるの!

電気くらい、お前がつけてくれればいいでしょ!

 

私は立ち上がる気力も無くなったので、もう動けないからお前が電灯をつけてちょうだい。

ご飯はどうするの?

 

作ったの?

朝からご飯を食べる気にもならないので、ずっと、ここに座っていたけど、動かないと腹は空かないものだね・・・。

今日はいいけど、早く布団に入って寝なよ!

 

俺は勝手に飯を作って寝るからね!

冷やご飯にお湯をかけて、梅干し1個だけ食べて寝ましたが、朝になって1階の茶の間に行くと、昨日と同じ洋服で、同じ場所に母が座っていました。

どうして、布団まで歩いて行かないの?

 

どこか体でも、悪いの?

 

富山の薬箱を持ってくるね!

薬は、効かないと思うなあ・・・。

 

だって、昨日から何も食べてないけど、腹は空かないし、気力も出ないし、動くこともできないのさ。

 

だから、私の体をこのまま倒して、毛布をかけておいて、あんたは学校に行きなさい!

 

朝ごはんも作ってあげられなくて、ごめんね!

 

お昼のお弁当も作れないから、そこの財布から小銭を持って行きなさい。

 

じゃあ、いってらっしゃい!

あの気丈な母が言うことではないので、どうしたものかを考えながら、その日は、寄り道せずに家に真っ直ぐに帰りました。

11月になると日も短いので、また、真っ暗な家の中に母が、朝のまま、横になっていました。

どこか、痛いところはないの?

 

水は、飲んだのかい?

喉が渇いたけど、朝から体が動かないので、お前が戻ってくるまで待っていたのさ。

 

だから、コップ1杯の水を持ってきてちょうだい!

言われたとおりに、水を持っていくと、ゴクゴク飲めたので安心しました。

「おかわりの水」を3杯飲むと、また眠ってしまったので、何かとても疲れていることだけはわかりました。

体は動かしていないので、ここまで疲れる理由は、やはり、父と兄が二人ともいなくて、「寂しい」のだとわかりました。

だから、父の写真を母の寝顔の前において、自分が作ったご飯と味噌汁と漬物をお盆に乗せて置き、一人で2階に上がって寝ました。

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翌朝も、まだ、横になっていたので、朝ごはんを作り直して、味噌汁も作り直して、鶏の卵を混ぜて、お粥を作って食べさせました。

スプーンで一口づつ差し出すと食べるので、ご飯茶碗1杯を食べるまで時間がかかりました。

家から1kmあるバス停までの時間を考える間に合わないけど、食べない生活が三日目なので「きちんと食べさせないと死ぬ」と思ったので、ご飯を味噌汁と漬物を時間をかけて食べさせました。

今まで怒鳴り散らして、口も聞かない理由も教えない自分に悲しくなりましたが、何も言わず食べてくれる母を見ていると、自分が情けなく涙がでました。

幼稚園から小学生までたくさん迷惑をかけてきたうえに、中学1年になった時、学校の裏の井戸の中に、3日間も隠れて死のうと思ったことを思い出して、また、悲しくなりました。

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いつも、「自分は苦しいから何も言わないで!」と、母に文句を言っていた自分を思い出し、自分の愚かさに、また、涙が出てきました。

私はもうすぐ16歳になる年でしたが、26歳で私を産んだ母ですが、当時、母は、42歳でした。

世の中の「42歳の女性の普通」が何かはわかりませんでしたが、この母は誰にも「弱音を吐けない人間」だし、私以上に負けず嫌いなので、どんな状況下でも、全部、「自分のせい」にしてしまう人間です。

だからこそ、意地を張って、「町内一の大きな田んぼ」にするために父も母も頑張って借金を背負って、農家を大きくする努力をしてくれたのです。

そんな母が弱っているなら、「高校なんて行かなくてもいいさ!」と思った時、

お前、高校くらいは行きなさいよ!

 

私は学校に行きたくても、じいちゃんが行かせてくれなかったから、お前たち二人は高校までは出すと、父さんと決めたのさ。

 

本当は、お前だけは中学を卒業したら家を出そうと思っていたのに、父さんが「高校くらい出てないと、これからの時代は困るぞ!」と言うので、仕方なくお前を高校に行かせているんだから、学校には行きないよ!

 

もう一人で、ご飯は食べれるから、学校へ行きなさい!

大丈夫かな?と思いましたが、「言い出したら聞かない母」なので、黙って言うとおりに学校へ行くと、もうお昼時間でした。

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高校の教科書は1年生の春休みに全て見て覚えたので、授業中は暇で暇で、いつも寝てました。

朝から机にうつ伏せて寝て、昼飯だけ食べて、午後も寝る生活の高校に「行く理由」も見つからないまま家に帰ると、気温が一桁なのにストーブも消えてるし、朝作ったご飯も残っているし、横になったまま、母は動きません。

生きてるのか息を確認すると、息をしていたので、「大丈夫?」と声をかけました。

ご飯を食べたらトイレに行きたくなったんだけど、歩けないからお前の帰りを待っていたのさ。

 

だから、私を抱いて、トイレまで連れてって!

母を背中に背負って、ズボンとパンツを脱がせると、パンツが汚れていたので、トイレをさせている間に風呂場で洗い、新しいパンツを履かせてあげました。

フラフラしているので、両親の寝室に寝かせてあげようと思ったのに、

あの部屋は北向きで寒いから、ストーブの前に布団を引いて私を寝かせて!

と言います。

仕方がないので、「布団をひと組み」持ってきて寝かせると、

寂しいから、お前も横に父さんの布団を持ってきて横に寝なさい!

と言います。

猫みたいに背中をくっつけてくるので寝苦しいですが、薪ストーブなので、早く寝ないと部屋がマイナスの温度になるので、布団と毛布を二枚、母にかけて寝ました。

翌朝、珍しく母が起きていたので、どうしたいのか聞くと、

ゆっくり寝れたので、お風呂に入りたいから、お風呂に水を入れて炊いて!

これから「朝ごはん」も作らないといけないし、そこに母のために「お風呂」も沸かせと言うなら、今日も遅刻することは確実なので、諦めて、土鍋で美味しいご飯を炊きながら、お風呂に水を溜めて、お風呂用の薪ストーブに火をつけました。

お風呂の温度を見ながら、ご飯と味噌汁と、寒くなると産まなくなる貴重な「鶏の卵」を調理して、母がお風呂に入っている間に、おかずを作ってテーブルに並べました。

お風呂中で死んでないかを確認しに行くと・・・、

ねえ、体、洗って!

 

動けないのさ!

もう!と頭にきましたが、ここまでくると覚悟して、自分を産んでくれた母の全身を洗い、バスタオルで拭いてあげて、新しい洋服を着せてから、汚れた洋服を洗濯機で回して、一緒に自分が作った料理を食べさせました。

口を開けて、「あーん!」をしているので、完全に、「幼児性」に戻ったのがわかったので、諦めてスプーンでご飯を食べさせてあげました。

お昼近くになったの、もう学校を休もうかと思っていると、「学校だけは行きなさいよ!』と言います。

こういう「幼児性の子供の心」になっているくせに、時々、「母親」に戻るんだと、この時わかりました。

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母の分と自分の分の「おむすび」を結んで、自転車でダッシュして6km行きましたが、もう、お昼休みも終わっていて、午後の授業が始まる前でした。

どの教科の先生も、最初はいつも寝ている私を見て怒りますが、黒板に書いた説明の間違いは指摘するし、教科書の文字の読み間違いも指摘するので、どの先生も、「お前はずっと寝ておけ!」と言われる生徒でした。

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見た目は、「長ランリーゼント」のツッパリスタイルでも、「学級委員長」なので、問題が起きた時だけは起きて働きます。

学校の用事が終わると、ダッシュで自転車を漕いて、6kmの登り坂を急ぐと、毎日、家は真っ暗なので、また、同じことの繰り返しでした。

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冬になると、自転車には乗れないので「バス通学」ですが、吹雪でバスが遅れることもあるので、母の1日の準備を全て整えてから6kmを雪の中、ダッシュで高校まで走る毎日でした。

お正月の三ヶ日と、春の3月まで父は家にいないのですが、父が帰ってくると、介護していたはずの母が急に元気になり、「何もなかったこと」になりました。

そんな高校生活を3年間、繰り返しながら、誰にも言えずに学生鞄を空にして、スーパーで買った食品を入れて持ち帰り、母のための調理をしていたことは、親族も兄も父も誰も知りません。

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「他人に弱みを見せるのが大嫌いな母」ですので、息子としては母を守るのは当然だからこそ、文句を言い合いながら父親の代わりに説教をしたり、言い返したりしながら、時々、母と晩酌をしながら、二人だけの時間を過ごしました。

息子なら、親の世話をするのは当然でしょ!

と言い張る母は、自分の実家の「父母の世話」ができないことを泣いていました。

私がどんなに父母に感謝していても、兄嫁がいるから、私は実家に行けないのさ。

 

だから、お前がたまに行って、様子を見ておいでね!

人に物事を頼む時は、「行って見てきてね!」と言うべきでしょ!

 

どうして、人にものを頼むのに、見ておいでね!」になるわけ?

 

わけがわからん母親だわ!

そういうお前も、わけがわからん息子なので、子供の頃から苦しんだ私の気持ちも分かりなさい!

 

だから、これは命令です!

 

私の両親を見てきて、報告しなさい!

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もう、喧嘩にならない言い合いが毎日なので、これが「母の張り合い」になるのならと3年間、諦めて付き合いました。

大学に行くつもりはなかったのに、急に、父が預金通帳を見せてくれて、

俺たちが一生懸命に苦労して貯めた金に「高い利子」がついているので、安い大学なら行かせてやれるから、行きたいところへ行け!

 

これが俺たち親が、お前にできる最後の「子供奉公」だと思えよ!

どうして、長男には大学に行かせなかったのに、次男を大学へ行かせて好き勝手にさせるの?

 

そんなのおかしいでしょ!

コイツには、申し訳ないくらい俺たち親は、子供に失礼なことをし続けてきたんだぞ!

 

だから、そのお詫びに、大学くらい出してやろうじゃないか!

 

これが最後に俺たちが子供にできることだから、卒業したら、金持ちになって「恩返し」してくれよな!(^^)

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こういう父と母のおかげで、私は岡山理科大学に行けましたが、父を最後の最後に見送ったのは母と兄だし、90歳の母を最後まで、兄と二人でできることをしようと思っているのが、今の現実です。

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皆さんのご家族もいろんな思いを抱えて生きていると思いますが、高校生で母の介護をして、「60代で妻の介護」をするとは思っていませんでしたが、これも私の人生の「あたわり」だと思って受けれています。

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この人生は、「今、辛いことを乗り越えた人たち」だけに、チャンスが与えられるようになっていることを覚えておいて下さい。

今、成功して楽をしている人たちは、今後、予想もしない大きなトラブルに巻き込まれることを覚悟して下さい。

ご先祖と神様たちは、いつも、あなたが口にしたことではなく、やったことを全て見て記録していることも覚えておいて下さいね。

苦労させてももらって、ありがとうございます!父上、母上!

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芦別高校普通科3組の奴らは、黙って俺のことを支えてくれた本気の仲間たちですので、喧嘩もしましたが、クラスの仲間を守るためには本気で協力するあつい奴らです。

ありがとうな!ワガママな学級委員長に付き合ってくれて!!!

 

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