武士の魂(静岡県)

本日、「地球創生メルマガ」で送りましたメッセージは、一人でも多くの方の御霊磨きの為に補足して公開しています。

「地球創生メルマガ」の登録時に、本名・所在地・年齢を登録する意味は、個人を明確にし、集合意識の上昇によって地球の波動を上げる目的がある事をどうぞご理解下さい。

 

昨年8月、静岡県で続けている歴史調査と祈りに対して大神からメッセージが降りました。
このメッセージを私に託した大神の意味は単に静岡県という土地の問題ではなく、当時、日本を治めていた徳川家康公の勢力図における国と国同士の争いのカルマ全てを解消する事が、新・日本国の立て直しに重要な意味を持つからこそ伝えられた内容でした。

静岡県の仲間はこのメッセージが降りてから土地の歴史を調べ、原因となった出来事もほぼ見つける事ができましたが、関東から関西までの土地で起きた争いの歴史は日本全体における国と国との対立の現れだからこそ、本日、お伝えする情報はあなたの住む土地の因縁を解決する為にも重要な要素が含まれている事に気づいて下さい。

実にこの出来事は、現在の日本人の六割以上の魂に因縁が残っていると大神から教えられました。

だからこそ、この情報を広く公開する事で自分の住む土地に起きた同じような思いに気づき、住んでいる土地のカルマ解消へ向けて動き出す人が増える事を願っています。土地の思いや御霊鎮魂は、その土地に住む人たち自身が自分の責任と捉えることで、霊力に関係なく先祖の繋がりによって善悪の感情を超えた「完全調和のお詫びの心の祈り」によってほとんどのことは正す事ができます。

自分が生まれたり、住んでいる土地で過去の問題を正す為に生まれてきた事に気づいた方は、一切の不浄な思いに囚われない大神の心を持って、自分で祈りを捧げて下さる様お願いします。土地に住んだ人たちの御霊鎮魂祈りでは塩・水・酒に加えて、おまんじゅうなどの甘い食べ物や白米のおにぎりなどを御霊たちは歓びます。

夢にまで見ながら食べられなかった白米のおにぎりやおまんじゅうは、ご先祖の祈りと同じように心を込めてあなた自身の手を添えて下さい。土地に手をつき土下座で頭を下げ、過去に起きた全ての出来事の善悪を問わず、ただただひたすらにお詫びと感謝の祈りを唱えて下されば、どんな土地も必ずあなたの力で浄化する事ができます。

生まれながらの霊能者は皆さんが気づかないからこそ御霊たちの思いを伝える役目をしていますが、本来は土地に生まれ人や住んでいる人がお詫びの心を持って祈るほど強い祈りの力はありません。

現実が辛い苦しいと思う時ほど、生かされている事へ感謝する「お詫び祈り」は、土地の浄化や自らの魂の浄化に直接、繋がります。人間関係がうまくいかない時こそ、ご先祖祈りや土地に住んだ人たちの思いが動いていますので、土地のお詫びの祈りをすると不思議にトラブルは解決するものです。

どんな人でも土地に住んだ人の思いを受けているからこそ、先人の思いに支えられている事に気づかなかったお詫びを心からお伝え下さい。土下座の心さえあれば、人生で経験する人の思いの愚かさにも気づくことでしょう。では、心して神メッセージをお読み下さい。

((武士の魂))

おまえたちは、まだ大切な事がわかっていない。
時に時代は遡るが、江戸から密者が訪れた時に、この静岡清水の地で大切な事を見つけて、その事をお上に報告した事によりこの地の扱いが問われた出来事がある。

しかし、それは真実では無く、ある一面からの証言だけを信じた事から問題は起きた。
江戸家老・老中の中にいる者の出身地だからこそ、その謀反の疑いは大きな意味を持ち、一族の信頼を失った一家一族がいた事をわかって欲しい。

その無念な思いをぜひお上に正し、事の真実を説き明かす事をして欲しいのだ。
あなたにはその事をわかってもらえると思うからこそ伝えているのだが、家康氏の胸中を揺るがす事だからこそ内密に処理された出来事なのだ。

武士の魂をどうぞご理解下さい。
2010年8月29日 静岡空港より飛び立つ時に降りたメッセージ

 

原因となっている<大久保長安事件>

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)は、慶長18年(1613年)4月に起こった江戸時代初期の疑獄事件。

江戸幕府成立後、幕府内部では大久保忠隣とその与力といえる大久保長安を中心とした武断派と、本多正信・本多正純を中心とした文治派が互いに派閥を形成し、幕府内部における権力をめぐって激しく闘争していた。
忠隣は家康の青年期から仕えた武将で、徳川四天王に劣らぬ武功を挙げた人物であり、正信は家康の側近としてその知略において幕府創設に貢献した人物である。忠隣には長安や本多忠勝、榊原康政といった正信にかねてから反感を抱いていた武断派が与し、正信には正純や土井利勝、酒井忠世といった徳川氏の家老的存在が与していた。
慶長17年(1612年)、岡本大八事件が起こった。大八は正純の与力であったため、大八が有馬晴信から賄賂として受け取った6000両を、正純が一部受け取ったのではないかという疑惑を招いた。実際、正純は受け取っていなかったと思われるが、この事件により本多正純一派は一時その勢力が衰退し、幕府内での権力闘争で大久保派が優位に立つこととなった。
翌慶長18年(1613年)4月25日、忠隣の有力な仲間であった長安が駿府屋敷にて中風のために死去した。享年69。長安は元・武田信玄の家臣であったが、その経済官僚としての才能を認められて家康に取り立てられ、忠隣の庇護を受けるようになった人物である。長安は家康の期待に応えて一里塚奉行、関東の奉行、金山・銀山における奉行等を歴任して、江戸幕府の初期財政を大きく支えた官僚であった。本多正信・正純親子は、政敵である大久保長安の死に乗じて勢力の巻き返しを謀り、ある謀略を実行に移した。
長安は金山・銀山奉行など、全国各地の鉱山奉行を務めていた。その際、金銀の取り分は家康の命令で四分六分とされていた。幕府側の取り分が四分、長安の取り分が六分である。ただし、鉱山開発における諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちとされていた。これに対して長安はイスパニアのアマルガム法という新たな鉱山開発方法を導入して、できるだけ経費がかからないように工夫していた。経費をできるだけ節減することができれば、それだけ自分の取り分が多くなるからである。ところが、本多親子はそれを利用して、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行なうのである。
さらに長安自身も失敗を犯した。長安は派手好きな人物であったが、自身の死去にあたって、金の棺に自分の遺体を入れるようにという遺言を残してしまったのである。本多親子の虚偽の報告に加えて、「金の棺」の存在を知った家康は激怒し、直ちに駿府町奉行の彦坂光正に調査を命じた。
そして長安死後の5月6日、長安が生前に収賄を犯していたという罪で長安の腹心であった戸田藤左衛門、雨宮忠長、原孫次郎、山村良勝、山田藤右衛門らが逮捕されてしまったのである。このときのことを、徳川実紀は、「六日…此日大久保石見守長安が死せしにより。その属吏をして長安が所管の諸国賦税を会計せしめられしに。長安が数年の罪あらはれ。国々に令してその査検せしめらる。よて長安が属吏等を彦坂九兵衛光正に命じ獄に下さる」と記している。
さらに本多親子は家康に讒言を繰り返した。長安は松平忠輝の付家老で、その忠輝の岳父が伊達政宗であったという経緯から、長安と政宗は親しい関係にあったが、その関係から長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと訴えたのである。また、長安は武田信玄に取り立てられたことがあるという経緯に恩義を感じていたらしく、天正10年(1582年)に織田信長によって武田氏が滅亡した後、信玄の次男・武田信親(龍宝)の子である武田信道(顕了)と信玄の五女・信松尼を庇護していたのである。
本多親子はそれを、長安が密かに武田氏の再興を企んでいると讒訴したのである。さらに長安は池田輝政の娘を次男の大久保藤二郎と、三男の青山成国を青山成重の娘と、六男の大久保権六郎を忠輝の家老・花井吉成の娘と結婚させていた。その他にも池田輝政を通じて浅野幸長や加藤嘉明、山崎家盛、富田信高、高橋元種、佐野信吉、石川康長らとも縁戚関係を結んでいた。
壮大な縁戚関係であるが、本多親子は先の政宗と同じく、それを長安が諸大名を糾合して謀反を起こそうと企んでいたと讒訴したのである。長安としては、本多派に対して優位に立つために諸大名を味方に取り込み派閥を強化しようとしたが、それを逆に利用されてしまったのである。
そして長安の屋敷を調べた結果、多数の金銀が発見された。長安は横領していたわけではないが、本多親子はこれを横領と決めつけ、さらに家康も長安が豊臣氏恩顧の大名と親しかったことを苦々しく感じており、長安の横領を認めたのである。
かくして長安は「奸賊」となってしまった。徳川実紀では長安の罪状について、「長安が生涯寝所の下に石室を設け、その中に黒き箱有りしといふ。依て其箱をめしよせて査検あれば、其中に長安この年頃朝鮮に交通し。私に財宝をかの国に贈りし文書ども入置しが。中には大不敬の事共。又は連座の諸大名も多くあり」「長安、常に寝所の下に黒櫃を置て。其中に朝鮮へ交通せし往復の書をかくし置。又庫中に常に毒酒を数十樽蓄置。又武田の系図。武田の紋幕旗等を蔵せり」と記している。また、「武徳編年集成」においても、「長安は誠に奸賊なり」と記している。

<因縁>
奸賊となってしまった長安の遺族は5月17日、家康の命令で逮捕され、松平定行や忠隣らに預けられることとなった。7月9日には埋葬されていた長安の遺体が掘り起こされ、事もあろうにかつて岡本大八が処刑されたのと同じく安倍川河原で磔に処された。同日、大久保長安の7人の男児と腹心は処刑となる。
長男・大久保藤十郎(享年37)
次男・大久保藤二郎(享年36)
三男・青山成国(大久保権之助)(享年30)
四男・大久保運十郎(享年29)
五男・大久保藤五郎(享年27)
六男・大久保権六郎(享年23)
七男・大久保藤七郎(享年15)
腹心の戸田藤左衛門と山田藤右衛門、配所で処刑。その後も粛清は続いた。大半は長安と縁戚関係にあったことから、連座処分で粛清された者が多い。
5月、米津正勝、堺奉行を解任されて阿波国に配流(表向きの理由は収賄)。
8月、青山成重が7000石を没収され、幕府年寄役も解任されて閉門処分。
10月19日、石川康長、改易されて豊後国佐伯に配流。弟の石川康勝、石川康次も後に改易(表向きの理由は所領隠匿罪)。
10月24日、富田信高、改易されて奥州岩城へ配流(表向きの理由は坂崎直盛との争い)。同日、高橋元種も信高と同じ理由で改易されて陸奥棚倉藩主・立花宗茂預かりとなった。
明けて慶長19年(1614年)。2月、米津正勝、処刑される。
7月27日、佐野信吉、改易されて信濃国松本藩へ配流。
8月21日、忠輝の家老・花井吉成の自害。武田信玄の孫・顕了とその子である武田信正(教了)は、伊豆国大島に流罪。その他にも、長安と深い関係にあった伊達政宗や池田輝政らであるが、政宗と加藤嘉明は無罪となった。これは家康が彼らが謀反を起こした場合を恐れたためと言われている。
池田輝政は長安より3ヶ月早い慶長18年1月25日に姫路城にて死去(享年50)し、浅野幸長は同年8月に急死(享年38)、山崎家盛は慶長19年10月に死去(享年48)したため、お咎めなしとなった。ただし、幸長はあまりに突然の若すぎる急死だったため、毒殺説も囁かれている。
また、長安の寄親であった忠隣であるが、家康青年期における重度の軍功、さらに徳川秀忠からの信任も厚かったという経緯から、ひとまずは改易を免れた。しかし本多親子にとって目障りな存在である大久保忠隣は翌年、長安事件の余波のほかに、忠隣が家康の豊臣氏討伐に反対していたこと(忠隣の孫娘が豊臣氏家老の片桐且元の甥・片桐貞昌に嫁いでいた)、忠隣の養女と山口重信の無断婚姻などの諸因からまたも本多親子に讒訴されて、慶長19年1月、遂に改易となり近江へ追放された。
家康は忠隣が豊臣氏討伐を反対していることに苦々しさを覚えていたとされ、本多親子は元・武田氏の家臣であった馬場八左衛門という老人を使って、忠隣について家康に讒言させたとも言われている。『徳川十五代史』においても、「大坂を倒すの策に至りては、忠隣の忠愛、性のなしがたき所において、正信父子の好んでこれを為す所なり。
ここにおいては、その相容れざることますます甚だしく、忠隣の大坂の孤危を憐れむもの、却って内通の姦あるやと疑われるに至れり」と、忠隣が豊臣氏討伐に反対し、それにつけこんだ本多父子の陰謀によって改易されたと記されているほどである。
忠隣は改易後、近江国彦根藩の井伊直孝預かりとなった。ただし大久保氏は忠隣の嫡男・大久保忠常(忠常は慶長16年に32歳で早世)の子・大久保忠職(仙丸)が家康の曾孫である事が考慮されて家督と武蔵国騎西藩2万石の所領を継ぐことで、存続を許されたのである。

 

<影響とその後>
長安と忠隣の失脚により、幕府は完全に本多親子に牛耳られることとなった。だが、これは同時に本多親子に対する反感を惹起することとなり、後に正純が失脚する一因を作り上げたとも言えるのである。なお、忠隣失脚後、連座として佐野信吉、里見忠義(妻が忠隣の孫娘)、堀利重(妻の母親が忠隣正室の姉)らをはじめとする大久保派が全て改易され、忠隣の居城であった小田原城も破却となった。
さらに、かつての岡本大八事件で大八と晴信がキリシタンであったこと、今回の長安事件においても大久保長安は正式にはキリシタンではなかったが、キリシタンに寛容だったこと(長安と親しかった忠輝、政宗がキリシタンに寛容だったことも)などが考慮されて、今回の事件を契機としてキリシタンは害悪と見なされ、幕府のキリシタンに対する弾圧が開始されることとなるのである。
近年ではこの大久保長安事件は、長安は金の棺に遺体を入れるようにと述べた以外のほとんど全ては、本多親子と家康によって罪を捏造されたことで起こった粛清ではないかと言われている。「徳川実紀」は、本多親子が策動したということをあからさまに記している。
「忠隣と正信は、職を同じくするに及んで、相嫉む事なきにしもあらず。馬場(馬場八左衛門)が八十にあまり。いくほどもなき齢の末に。何事を怨望せるか。また何者に托せられしにや。無恨の妄説をうたへて。終に良臣を讒害するに及ぶ。尤不審と言ふべし」(徳川実紀)但し、長安が豪勢な暮らしをしていたのは間違いない様である。

 

誰一人、ここに罪人はおりません。過去全ての人の行いは過去のカルマの繰り返しによる出来事ですので、誰か一人の思いを掴んで愚かな苦しい心になりませぬよう心からお願い申し上げます。


私たち全てが罪人の子であるからこそ、その弔いと合わせて「和合調和」の為に命が与えられたのでございます。「死を持って生を成す武士の心」もわかりますが、生きてこそ活かされてこそ、やり直しのチャンスが与えられているのでございます。


どうぞあなた自身が今まで経験した幼い心の弔いを含めて、自分の住む土地の思いを浄化転生する祈りを捧げて下さいませ。あなたが心から土下座するその心には、全ての御霊の代理として頭を下げる大きな祈りの力が生まれるのです。

どうぞ宜しくお願いします。

 

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