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【日本民族のカルマ解放】 1 渡来民族とは?

まず前提として、これからシリーズでお伝えする「日本民族のカルマ解放」の歴史の事前調査の内容を読みすすめると、あなたが生まれた土地や住む土地によっては、「違う!」と感じる方がいるはずです。

それは、皆さんが生まれた土地の先人や守護存在が「違う!」とあなたに感じさせるからですが、これからシリーズでお伝えする内容は、本州、特に関西方面までやってきた渡来民族たちの最後の思いを和合する目的でお伝えしますので、その途中に住んだ場所の思いとは変わっている事をご理解下さい。

もし、あなたの中で何か違うと感じた部分があるなら、それは自分の生まれた(住む)土地に残っている思いであり、実はそれが、土地のカルマになっている事にも気づいて下さい。

なぜ、同じ民族の思いが土地によって違うかというと、日本にやってきた全ての渡来民族は、最終的に、天の宣託を受けて「関西の地に神を治めよ」と言われて移動したからですが、移動途中で住み着いた土地にはそれまでの思いと祀った神様が残っていることが原因です。

関西を目指した全ての民族は最終的に、「天皇」という存在を天子と決めて、民族の和合の象徴として日本民族が祀る神を「天照大神」と決めました。

しかし、こういう大切な物事が決まる時ほど裏には様々な思いがあり、「無念ではあるが、大神の本位ならば」と、グッとこらえた民族の思いが、それぞれの土地には残っています。

こういう裏でこらえた人たちがいたおかげで「表の世界」がある事を考えると、何が正しいかを問うこと自体が、争いを産むエネルギーになることも学んで下さい。

これからお伝えする内容は、関西神事に関わった一人一人が調べた情報やサニワして出た情報をすべて公開していますが、それぞれの情報源は書物に残らない情報や間違った情報も出ていると思いますが、実は、関西神事に参加されている関西生まれの方たちは、守護存在を通して必要な情報を調べさせられているからこそ、そのひとつひとつの思いを受け止めることが大切なのです。

生まれた土地の方たちだけは、守護存在を通して伝えたい事や隠したい事が伝承されているからこそ、あえてひとつひとつの情報の正誤を問わず、全ての情報を素直に受け止め続けることによって、それぞれの視点の違いによって物事や情報の判断の仕方が違うことも学んで下さい。

大事な事を守る為に、真実では無い情報を流して民衆に信じさせるのも、昔からある守りの術だからです。だからこそ、ひとつひとつの正誤を問うのではなく、大切なことを生かす為に犠牲になった人たちの思いが隠れているということを理解して読み進めて下さいませ。

ではまず、仲間たちが調べた事前調査資料を順番に公開いたします。

(Aさんの事前資料1)まず、歴史認識のあらましを報告します。

紀元前1世紀頃には、加茂氏(葛城王朝=神武天皇)や三輪氏(三輪王朝=崇神天皇)の銅鐸文化が西日本を中心に栄えていたと思われます。彼らは、出雲神族で国津神に当たる。その後、北九州から武装集団である物部集団(海洋民族)が、四国から淡路を経由して紀伊→大和に入った。彼らは銅剣 銅ほこを大陸から輸入して大量に使用していた。しかし、文献からは銅鐸も使用していた事から、加茂三輪政権を大和で併合したと思われます。

また、旧事本紀(くじほんぎ)という書物には、「天照国照彦・天火明櫛玉・ニギハヤヒノミコト(=ニニギの兄)という神名を使っていることから物部、尾張、度会(ホアカリ系)、海部(海人族=ホアカリの命)、加茂、三輪、多治比氏らは全て同族で和合していて、物部氏が他の古氏族や先住民族をまとめあげ平定していたと思われます。

この政権が邪馬台国で、太陽神(アマ)と化身である地の神(クニ)である蛇を信仰しアマテルクニテルをその名に冠するようになった。この政権を三世紀半ば南朝鮮の任那(みまな)からやってきた崇神天皇が外国人である為にオオモノネシを祭ることができなかった。だから、銅鐸文化を破壊し痕跡を消した。それでも物部氏の力は衰えなかった。

しかし、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立し、物部氏が負け大神神社等が廃り持統天皇と藤原不比等が、天孫族に都合の良いように改ざんした。つまり、天照国照であった国祖神を天照大神の女性にすり替え皇祖神とし、三輪の神(天神・地祇・天皇霊)の3の和合を天神と天皇霊を取りだし、最終的に伊勢に移した。

この事が記紀を改ざんし、日本の歴史認識を変えたターニングポイントになったと思われます。

また、その後、イスラエルの民である原始キリスト教の秦氏(秦の始皇帝)のハイテク集団が大和朝廷を愛の助け合いで取り込み、今の天皇家に血筋を入れ込んだと思われます。流れとしまして、北九州から河内国(大阪東部)へ、さらに大和国(奈良県)に入って、山城国(京都南部)に都を移したと思われます。秦氏が、今の神道(原始キリスト教)を布教したと思われます。

八幡信仰や稲荷信仰や籠神社・真名井神社(豊受大神)、志摩の一宮伊雑宮(天照大神)等からダビデの星が隠れています。住吉大社は、ホアカリ系だと思われます。※イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

 

(天無神人の事前資料2) 難波宮(なにわのみや)の神メッセージ

天光(日)を降ろす神立ての剣があった場所は、その昔、太古の人々がこの地を訪れた証であり、宇宙意思を繋ぐ大切なものであった。
その剣は、必要な時に、必要な場所へ移動されたが、その剣を守る為にたくさんの巫女が命をかけて守り続けた歴史がある。
形なきあと、繋ぎ守る天の意思は私たち(御霊)そのものだからこそ、この地が荒れぬようにたくさんの者たちが守っている。
十二神官(人)は全て男であり、一人一人が干支の役目を持つ守り方をしていた。
その中心に座る陰陽の中心が私(天皇)の役目だからこそ、今もこの地を守っている。
宇意天番(宇宙に繋がる魂の意思を持つ人)に繋がるあなたは、いつも大いなる存在たちと対話する事で、大神の意思を伝えてくれているからこそ、私たちもあなた働きに力を貸そう。
天軸・地軸・中軸の繋がりは、いつの時代も最も大切な神祈りの方法だからこそ、それぞれの守りの役目の方たちは力を合わせて新しい統合・調和・産み出しをして欲しい。それが私の唯一の願いです、どうぞ宜しくお願いします。
誰もがその名を呼べば震え上がるほどの力をもつ神がおられるが、その名を口にすることは代々、禁じられている。
天皇口上の中にある一人神事では、その神の名を呼び祈りを捧げる事が許されているが、伝承は全て口述のみであり、記述はない。
本来、神役目の大役を果たす者には必要な神が守り入り、導きをいたすが、必要な役目が終われば神は離れる。
こと新たに物事を始める時、その神の争いを起こさないように禊があるのだ。
身につまる神の思いをどうぞ感じてくれなまし。

(天無神人より)
神の御心を大切に思う皆様はどうぞ自らの神心を尊び、神心以外についた肉の思いは過去の思いの禊と共に、渾身なる思いで守っておられる土地の神々様をご鎮魂下さいませ。

(Bさんの事前資料3) ※難波宮から移動した天皇の意思を確認する必要性

【平城京】
中国の長安城をコピーしたもの。大きさは1/4の大きさだけど、それを90度回転させて縦長にした形。縦長にしたのは大きく見せるため(権力とかも。海外から来た人にも大きく見せて力があるように見せる為)。場所は、陰陽道からで3方を山で囲んでる所。(矢田丘陵、奈良山、長田山)

【藤原京】
日本で最初に出来た中国式の都城。ここでは宮殿を真中に置いた。完璧なコピーではない。16年で放棄された理由・・・遣唐使が30年ぶりに復活→長安城の素晴らしさ報告され、遷都を考える→平城京の藤原不比等(平城京のプロデュース)平城京作りに100万人の人が関わってる(当時日本の人口500万)近代化と権力を強めるため、強い国作りのため造られた。技術は、長安城よりすごかったらしい。道のまっすぐさも素晴らしいく、長安城は1000年かけて造られた、平城京は50年で造られた。すでに造られてたものを藤原京から運んできたから短期間で出来た。

◆この頃、お金が出来る。「和同開珎」
◆乙巳の変(いっしのへん)・・・板蓋宮(いたぶきのみや)で蘇我入鹿が暗殺される。

○中臣鎌足(のちの藤原鎌足)・・・神社の神族の役割の一族。身分はそんなに高くない。

○蘇我氏・・・仏教で権力を広げる。天皇化をしのぐ力。蘇我蝦夷が息子の入鹿に紫色の冠をかぶらせる。紫は一番尊い色。天皇に関連している高貴な色。それをかぶせると言うことは、天皇を侮辱している。

だが、入鹿は女帝・皇極天皇と特別な関係となる。皇極天皇の息子中大兄皇子は怒る。この事に対して好機と思っていたのは中臣鎌足。彼は皇族と話す機会がなかったが、蘇我氏の横暴ぶりを話すチャンスが訪れる。

~飛鳥寺で蹴鞠の儀式があった時に客席の方に蹴鞠が飛んでいき、その時に鎌足がひらい話した。その後談山神社の裏山で密談した(645年6月12日)

三韓の朝の日…入鹿が履こうとした靴が何回も転がり、周りからも不吉な事が起こるのでは?と周りからも言われていた。そして鎌足は入鹿の機嫌を取り、入鹿の刀をあずかる。佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田に刀を切らせるが怖くて刀が取れず、中大兄皇子が入鹿を切る。

・・・これが『大化の改新』やと思います。12月の勉強会でアマミさんが言っておられた『仏教(人の道を教える)が政治的に力を持ってしまう=(イコール)神争いが起き→人争いになる。の、ひとつだと思いました。早い話が蘇我一族の権力を落とすために藤原一族が汚い手を使って、のし上がった。今までの歴史は、ねつ造されてるみたいで、全ては藤原不比等が歴史書を改ざんしたみたいです。最終的には、藤原家という血を皇族の中に入れたいと言う感じです。

藤原不比等(鎌足の次男)の娘が、文武天皇(25歳で亡くなる)と結婚。文武天皇がなくなるとその子供首皇子を天皇に即位させようとする。のちの聖武天皇となる。藤原京は、天武天皇の舞台。平城京は、藤原氏の舞台。平城京遷都は、藤原氏の藤原氏による藤原氏のための遷都だったと言うことです。不比等の野望は、天皇家を権威あるもの神格化(権威あるもの)にして、そこに自分の子供を嫁がせたら、自分の子孫は神の子になるって言うプランがあったようです。

藤原京の場所は、今でも大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる畝傍山(うねびやま)、耳成山(耳成山)、香久山(かぐやま)の、地図上で結べば正三角形になるところの、ちょうど真ん中に位置します。いずれも三方を山に囲まれた場所に都が位置されたのが共通です。しかし、藤原京は、現在は平城京のように観光地化されてなく、大極殿の土壇が残っているだけで、周辺は芝生の史跡公園になっているだけです。

藤原京を囲む大和三山の畝傍山:東南に橿原神宮があります。、(かしはらじんぐう・初代天皇とされる神武天皇をお祀りしているが、明治天皇による創建なので比較的新しい。)橿原神宮の社殿のうしろに、山があります。耳成山:北東麓に天神社(耳成山口神社)が鎮座○香久山:大和三山の中で最も神聖視され、山頂の国常立(くにとこたち)神社には、国常立神と竜神が祀られ、山麓には天の岩戸神社や天香山神社が鎮座で、いずれも200m満たない低い山です。

『なぜ、藤原京がわずか16年で見捨てられたのか?』についてシェアします。

理由・・・遣唐使が30年ぶりに復活→長安城の報告→平城京遷都。これをもう少しわかりやすく言うと、藤原京完成後、自信満々で中国へ向かった朝廷使節は、中国の都の構造が藤原京と違い、コンプレックスに感じた。藤原京は、中心に宮廷があるけど、その構造はすでに時代遅れで、当時中国の都は、宮廷が一番北辺の中心にあった。都市自体が身分を示しているので、律令国家に生まれ変わったつもりの使節はショックをうけ、中国にならった平城京を急遽建てた。また、現実的な原因としては、生活必需品の『水』の不足。天皇家と藤原家の対立。渡来人である天皇家に対して、藤原家は在地豪族。天皇家よりも古い物部家・卜部家との確執・怨霊・祟りなどの要因から、歴代天皇は、即位すると都を移すことが一般的だったようです。

 

(天無神人の事前情報4) 

大阪 難波宮で祈ってわかったことは、海からやってきた渡来民族(海人族)と土地に住んでいた豪族との関わりが大きく日本人の精神性に影響を与えているうえに、時代ごとに何度も新しい民族が入り、新しい集団的思想と文化を持っていた為、それまでの神の名前や場所を移して民衆の思想を統一してきましたが、それは現在の日本神道の存在理由も同じです。

関西の土地に住み着いた様々な集団は独自の思想を持ち、今でもその確執カルマは消えていないと感じますが、民の心を導くのは神だからこそ天皇の存在意味は大きく日本人の思想に関わり続けています。その為にはどうしても神武天皇の御陵に挨拶し、神儀を問い、神の化身となって心を合わせる人たちが足を運ぶ必要に気づきました。

過去の人間が意図した愚かな物だけを見るのではなく、その人間を常に守り導き続けた大神の心を知り、日本民族として本当の思想統一が必要な時期に入ったのです。

「他を問わず自らを問わず、神の御心に生きる人間」は、常に完全を目指しながら不完全を許し続ける事で成長していきます。

神事に参加される皆様の魂レベルがひとつでも上がる気づきになります事を心から願い、神事を行いますのでご協力をお願いします。

 

(Cさんの事前情報5) 歴史の追加報告

日本には紀元前にキリストが生まれる前のイスラエル 10支族のユダヤ人の秦氏がやって来ました。 この人たちはお祈りをするときに、動物の生け贄を捧げていました。のちに、原始キリスト教のユダヤ人が来て、お祈りの時に生け贄の血に触れると言うことで、最初に来たユダヤ人を迫害した。この人たちが 現在 大阪 奈良に多い非差別部落で、日本人のカルマとして残っていると思われます。彼らは沖縄 北海道に追いやられました。追いやられる時に、現地の人と結婚し布教が全国的に広がったと思われます。

また次に 南北朝時代 587年 用明天皇が崩御すると、親仏派の 蘇我 馬子 と 排仏派の物部守屋との間で武力衝突が起こり、守屋側が敗れると 大神神社 大和神社 石上神社の神威も 次第に衰えていった。第41代 持統天皇と渡来系氏族の藤原(中臣)不比等 が共謀して、国津神の業績と歴史を切り捨て、天孫族の都合の良いように改ざんした。この事が 南北朝時代から江戸時代末期まで、天皇の祭儀は全て仏式で行われていたわけです。明治時代になって、伊勢神宮が日本の皇室の祖神として復活するのです。

南朝の末裔に、後醍醐天皇の孫にあたる大室虎之祐を伊藤博文や桂小五郎らが、本来の天皇の血脈に帰る計略をした。南朝の末裔の虎之祐は、南朝に仕えていた毛利家長州藩の武士たちにかくまわれて、ぼそぼそと生き延びていた。北畠親房の尊皇思想に目覚めた勝海舟・坂本龍馬・西郷隆盛の本家の菊池家が、南朝側にあったことから薩摩と長州が同盟を結び、幕府側に勝ち、徳川慶喜の大政奉還に繋がった。

北朝の天皇家には足利義満以来、天皇の血脈が流れていない為に、明治維新の時に 北朝の睦仁親王を殺めて、南朝の虎之助と入れ替えて 即位した。 この天皇家のカルマもあると思われます。

 

(天無神人の事前情報6) 神降りしたサニワ情報

私たちに大神が気づかせたい事は、「この時の天皇家のひっくり返し」の因縁の清算が、ひとつあります。

平安京に永く居座った藤原家の問題は、神仏の扱いを変えたり、それまでの天皇家を守った守護存在の意思をないがしろにした意味があり、大神たちはこの事を正せと言っているのです。

もうひとつの意味は、イノシシは山の神の使いですから地の神・伊吹山の神と取るのはOKですが、では鹿の意味となると「天の使い」という意味と、山々を繋ぐ神という意味になりますかね。

猪と鹿では行動半径も違いますので、守っている範囲と役割が違うからです。 「北斗七星の祈り」はエジプト時代からある重要な神事ですが、日本では神仏両方にその祈りは実在します。

ただこの神事は、宇宙の星の記憶も蘇りますし、日本に入った渡来民族の魂の星の目的(12支族)にまで繋がる意味があります。北極星も同じです。

北半球の全民族は、この北極星と北斗七星の力を使ってあらゆる霊力や知恵を降ろし、宇宙と更新していました。

さあー、ここまでの話についてこれてますか?

天皇家の問題を触る時、宇宙と交信していた高度な知恵や繋がりに触る神事だからこそ、一般公開は、まだできないのです。陰陽師の五芒星とユダヤの六芒星の意味が、ここに隠されているからです。

皆さんの守護存在も、どちらかに強く影響を受けているからこそ、感情が動かされないように注意しながら互いの気持ちを理解し合い、和合する為にここに参加していることを考えて下さいね。

天皇家の血筋を何度も変えた人たちの背後には、この五芒星と六芒星の守護の力が働いています。

わかりますか?これが渡来民族が日本にやってきた目的ですし、その争いが今も起きているのです。なぜ世界の全民族が、ここ日本を目指したのか?

それは日本が、「日(火・陽)の出ずる国」だからです。宇宙と地球を繋ぐ大切な場所として、日本という島が生まれたからです。私たち日本人は、世界の、そして宇宙の全てのカルマを外す為に、自らの因縁の土地を選び生まれてきました。

そして、今住んでいる土地があなたの役目を果たす場所なのです。今まで一度もこの全容を一切公開しなかったのですが、皆さんにここで公開した理由は、ここ関西の土地が最も大切な和合の場所だからこそ、神々が終結しているのです。

皆さん一人一人が、その神々の代表なのです。

だからこそ、私は皆さんから許可と導きを頂きながら、全ての和合をする為に七次元までの守護が入り、役目として神事を行っています。

全ての神事が終わればこの情報も公開できますが、取り組む前にこの話をすると大きな混乱が起きますので、他言無用でお願しますね。

 

◎この事前情報を直接、神様に聞くために行ったのが、以下の関西神事です。

奈良県 平城京神事 2011.2.8

奈良県 藤原京神事 2011.2.8

奈良県 橿原神宮・神武天皇 2011.2.8

奈良県 飛鳥京・葦原中国・八咫烏 2011.4.22

滋賀県 大津京・佐久奈度神社 2011.4.23

滋賀県 鏡神社・鏡山(竜王山) 2011.4.23

滋賀県 白髭神社・竹生島 2011.4.24

すべての神事にご協力下さいました皆様、本当にありがとうございます。

 

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