【長崎県】宗像三女神の秘密 5
2013年3月4日と5日は、長崎県南島原市に知り合いの神主さんがいらしゃいますので、今回の神事の趣旨をご理解頂いて二日間、同行して頂きました。
20年経って生活は普通になっていますが、やはり、溶岩流が流れた普賢岳を見た人は恐れを感じたはずです。
当時の映像をご覧下さい。
きれいな海を眺められる穏やかな田舎の風景のこの地域は、大きな地元産業がないので、質素な田舎暮らしを好む方には良い環境だと思います。
神主さんに最初に連れて行ってもらった場所は、島原の乱(1637-1638)の百姓一揆で農民と一緒に、天草四郎が最後の死に場所になった「原城跡」です。
自分はただ純粋に神の声を伝え、自らの魂が選ぶ道へ進むべきだと信じていたからこそ、多くの人たちが自分を支えてくれたことに感謝はしていましたが、その人たちが苦しむ姿を見る事は16歳の少年にとってとても辛いことだったようです。
全ての思いを母の懐に戻し、命を与えてくれた天の守護神に、魂の転生を願いました。
島原市には、普賢岳を信仰する「普賢信仰」という修験者たちの集まりがありましたが、噴火前夜、山の小屋に集まった人たちは自然界の異変を肌で感じた為、急遽、山をおりると、すぐに噴火が始まったそうです。
噴火のあと、山にあった鳥居も埋まり、現在では神山に対する信仰も薄れて来ているようですが、昔から「雲仙温泉神社」として山の裾野を守る八社の大元の社にご挨拶に伺いました。
生きながら焼けただれて、もがき苦しむ人たちを棒で押さえつける人の姿が見えましたが、現在、そういう亡くなった人たちの御霊を鎮魂する活動がやっと動き出したそうです。
翌日は、南島原市にある「口之津歴史民俗資料館」で、この土地が与論島と繋がりがあるのを知り驚きました。
島原市は石炭を輸出することで栄えた土地ですが、唄に残っているように身売りされた「からゆきさん」の娘たちの話しや、隠れキリシタンたちが大切にしたマリア観音像などが大切に展示されています。
沖縄・奄美諸島の人たちが故郷を離れる寂しい思いを感じたので、御霊を故郷へ繋ぎました。
境内の重要な木の枝が無惨に切られ神気もないうえに、本殿の神を大切にしていないことは見てすぐにわかったと言っていました。
大日本帝国陸軍の橘周太陸軍中佐という軍神を祀る橘神社は、戦時中は戦いに行く多くの兵隊たちが隊列を組んで軍神を拝み、日本国家を守る為に命を散らして行った若者の決起がみなぎる神社でした。
第二次大戦後、日本軍が負けたことで軍神を祀る社は放置され、20年後、放置された神社を一人で再建しなさいと神社庁に言われ、16年間で長崎県で一番参拝客が集まるほど地元の方たちに指示された有名な神社の宮司さんです。
国から与えられた100本の桜並木が有名なので観光時期になると人は訪れているようですが、地元の方達の足が遠のく理由は、利益優先になってしまった神主さんの日々の行いだと思います。
問題は、ここに祀られている諏訪神社、森崎神社、住吉神社の三神のうち、真ん中の「森崎神社」の神のルーツが、もしかすると、キリストに関係する可能性があることを以前の宮司が神主たちに向けた講演の場で話されていたからです。
諏訪神社の初代宮司は青木賢清といい、江戸前期の修験者・宮司で肥前国佐賀の出身です。
長崎でキリスト教の排撃をし、1624年、長崎奉行所の援助により長崎諏訪神社を復興し、のちに宮司となったと記載されています。
その言葉は、日本神道を守る神主たちにとって命に関わるほど重要なことですが、その言葉の真意を確認する為に全ての末社に挨拶した後、本殿の神に直接、話しを聞きに行きました。
◎厳島神社メッセージ
私の事をイチキシマヒメと呼ばないで下さい。
◎祖霊社メッセージ
そちら側にいらっしゃる方は、誰でしょうか?
その方が、ここの神主のお友達・知り合いならば、その事を解き明かしても良いのではないかと言われますが、その事だけはお解り下さいね。
誰にでも言える事ではないという事ですから…。
◎八坂神社メッセージ
はらいたまえ、清めたまえ、国払いたまいて、玉払いたまいて、御霊払いたまいて、国の御霊守りし者達おわしますこの地、ようこそお越し下さいました。
この地おわします血、守りし玉、神の玉、人の玉、ありまするが、それ故に、人の血の色の違いと言えば、解りますか?
国の玉=人の血の玉の色の違い=それ民族の違いなればこそ、その玉色の違いを合わせまする為、また、その汚れなき思い争いなくば、それ一つに洗い清める為の役目、果たしておりまする。
その諭示、ご理解下さいませ。ありがとうございます。
◎玉園稲荷社メッセージ
やっぱりお前が来たのか、その事がわかるのか・・・、本当に大切なのか?
うぬらが美しの世を造るのであれば良いのだが、もしそうでなければ、この世におわします神の元地の思い、さすれば、それを守った民族達の思いが薄れ清め果て、永く続かぬものになるならば、それは神の思いと違える事になりまするが故に、道を間違わず、進むべき者の血の正しをするべき事、これわれらの願いなればこそ、その思い繋がりし守りし事、これたまえ賜りますれば、我らの血の事、それ思いの馳せたまいし守りの事、それに、行く末に続く世の民への思いあればこそ、これ、我ら思い一つとありて、この地、納め守り致しておりまするが故に、この地におわしまする祭神の大きな神元の地の事においては、さしあたれば、本殿の左の所から拝み賜れば承りそうろうでございます。よろしくお願い致します。
※本殿礼拝所でのやり取りを解説
たくさんの人達がこの地を経由して「諏訪の地」まで行って、神を納め守った人たちがいらっしゃいます。
その神を守った封印された、いろいろな山の神、男・女・子供の話がありますが、それを諏訪に封印しているんですが、その大切なものを同じようにここで守った人達がいたので、この人達の思いを今でも大切に守っているのです。
その守りし者達の民達は、古き時代に、ここに来られた人たちの思いを守った人達だからこそ、その人達が繋いでくれた神の思い、神の力、命を産む力を守っておりますと言っています。
「諏訪の封印」というのは、原初キリストのことです。
僕が驚いたのは、これをしゃべったのは、住吉の人たちなんです。
昨日、一昨日も対話したんだけど、住吉の人たちは後から入って来た人達で、ある意味、先人の神を使った人たちだからこそ、勢力的にはナンバー2だね(ここの祀り方でいうと)。
一番の神が、しゃべれないように封印されているみたいです、やっぱり。言葉を出しちゃいけないみたいですよ、真ん中の神は。
この諏訪神社には、諏訪大社の封印と同じようにしゃべってはいけない事が隠されているし、その魂・命を繋ぐものが隠されています。
原初キリストを繋いでくれた民達、神達を守った者達がここに居たからこそ、この地にその思いを繋ぎましたと言っています。
原初キリストを守った方々が、ここに居たことを、住吉の神が話してくれました。
その後に、諏訪の神がちょっと話してくれたんだけれど、「ハイ、その通り」くらいです。
よほど強い神を守る民たちが力を合わせてここを納めているようです。
絶対に、誰にもしゃべらないようにしていますね。
これ以上、詳細な部分は一般公開はできませんが、時代的に考えても十分、あり得ると思って下さい。
ここで、「原初キリスト」について少し触れますが、一番最初に沖縄へ船でやってきた原初キリストの意思を繋いだ方達の時代は、6000年前のことです。
そのあと、何度も多くの民が現在の日本へやってきましたが、黒潮の航海が難しく、何度も、船が遭難した時代が続きました。
原初キリストの意識が大きく日本に影響した時代は、6000年前、4000年前、2000年前の三回ですが、最後の2000年前に現在のキリスト教徒たちがやってきたことは歴史にも残っていますね。
ただし、現代のキリスト信仰と「原初キリスト」の教えは、大きく違っています。
私が現代のキリスト教と原初キリストを分ける理由は、古来は、イエス・キリストという人間を祀ったのではなく、世界中に広まっているシャーマニズム、アミニズムの原点ともいえる自然崇拝の信仰の心が、原初キリストの根源愛であり、精神だからです。
驚くことに、人間の魂は何度も転生するたびに、先祖や自分の魂が訪れた土地へ足を運ぶという魂回帰の本能がある点でしょう。
現代でも、日本の各地や世界の国々へ旅をする人たちは、実は、知らず知らずに自分の魂が住んでいた場所へ導かれていることを覚えておいて下さい。
大切なことを思い出す為に・・・大切な魂の約束を思い出す為に・・・あなたは旅をしているのです。
長崎県の諏訪神社をあとにして、私が気になる場所へ向かってもらいましたが、そこは「伊王島」という島です。
沖縄本島の周りにある島で「伊」の文字が付く島が多い事に気付くと思いますが、実は、「伊」の文字が付く島は神の島、つまり、「原初キリスト」の民が立ち寄った島だと神人から聞いていたからです。
伊王島の岬には、長崎で初めて1本の桜が満開になっていました。(3月4日)
伊王島灯台の先端で祈りをすると、当時の様子を神と御霊たちが教えてくれました。
◎伊王島メッセージ
この地は我々の先祖が足を踏み入れた場所であり、この地に住む事が出来た者は、やっとここの島まで辿り着いたと、とても喜んでいました。
それは、それまでの島の人達の受け入れが歓迎されなかった事があった為ですが、ここの島の人達は、とても我々を温かく迎え入れてくれた為に、この地に安住する事になりました。
だからこそ、この島の方達にも、我々を大事にしてくれた事と、心から厚く丁寧な対応をしてくれた事に感謝しています。
その事が、今、この島にある形で示されていると思いますが、この地は、我々がこの地域から先の地区へ進むことに関して、初めから何をどのような言葉で、どのようなやり方で、物事を進めればよいかを考えた相談して決めた場所です。
だからこの島は、「知恵を沸き出した島」とも言えるかもしれませんね。
その当時いた最初の按司(あじ)=親分は、我々の持って来た物(植物の種)を活かし喜んでくれたので、我々も努力して教えましたが、その方たちも努力をして、さいなまれた民達への拝みや、海で無くなった者達への拝み、そして、長い航海を労う姿には我々も感銘を受けたものです。
その後の歴史はいろいろありますが、やはり、こうして最初に受け入れてくれた者達がいたからこそ、我々は、次の地へ向かう勇気を得られた事を、ここの地の学びとして愛と感謝の地として、この島にその印を刻んだのです。
よく見て下さい、この島の岩にある刻みこそが、我々が入った歴史の印なのです。
その事が、語りるがれているかはどうかはわかりませんが、岩に人の文字をかたどるのではなく、星の形を祀った物が我々が生かされた意味であり、繋いだ魂の光であることだけは解っておいて下さい。
どうにかして、その事を正しく伝えたいと思っていたからこそ、どうぞ宜しくお願い致します。ありがとうございます。
次に、一番西に飛び出した野母半島の先端にある灯台へ向かいました。
おわします神々の元地、繋がりまするは修験の山の山々、この神の元地の神繋がりおわします神の山神の繋がり、これ皆、民の願いなればこのおわします神の元地へ繋がります感謝のお詫びの地でございまするが故に、お詫びごとございますれば、共に手、心合わしまして願いたまわすれば、今日のこの日の願い通りましょう。
長崎市内に戻り、弾圧されたキリストと原爆に関わる場所も見て回りました。
たった二日間でしたが、地元の神主さんが同行して下さったおかげで、一気に大切なことがわかったことを感謝しています。
日々、一歩一歩、私たちがその真実を受け止められる魂の成長に合わせて真実を公開して行きますので、どうぞ、暖かく見守って下さいませ。ご支援、ありがとうございます。