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関東総社繋ぎ 下総国総社 六所神社

関東全てのお母さん神を繋ぐために、下総国総社の「六所神社」へ行きました。(2014/1/19)

◯下総国領域:千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東辺、東京都東辺(隅田川東岸)
◯祭神は以下の六柱 :大己貴尊 (おおなむちのみこと) 、伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)、素盞嗚尊 (すさのうのみこと)、大宮売尊 (おおみやめのみこと)、布留之御魂 (ふるのみたま)、彦火瓊々杵尊 (ひこほににぎのみこと)。



総社のわりに驚くほど質素な作りの社で、左側にある石仏の思いを読み取ると違和感を感じました。



神社は常に政治や軍事的な侵略によって様々に扱われますが、大きな神社の扱いを間違うと土地に住む人たちの神心に影響するからこそ、先人たちの心の支えとなった神の思いを正しく理解することは重要です。
神の思いと人の思いを整える為にも何故、こういう扱いになったのかを本殿の神に聞いても詳しいことを言わないので、「国繋ぎ一宮宣言祈り」をした関東の男性に調査を依頼しました。

すぐにウイキペディアで調べてわかったことは、1,神社の場所が移されている、2,元々の場所は陸軍の演習地になった、3,元々の場所は現在スポーツ場だとうことが分かりました。

通常、総社のような大きな役目の神社を動かすと土地神を怒らせるため災いが起こりやすいので、相当、大きな力が働かないと総社は動かせないはずです。
天皇家の南北朝の絡みか?政治の力か?陸軍側からの強制力があったとしても、神社庁を脅せるほどの立場の人でなければできない仕業だと思いました。

この場所の六所神社は一番お金のかからないように建てられていますし、本殿左手の祠も墓石にしか見えない粗末な扱いなのに、反対に、下総国一宮の「香取神宮」はとても立派なので総社の扱いとしてはひどいと思ったので千葉県の神社庁に下総国の六所神社のお札が買えるかを確認するようお願いしました。

 

(関東在住の吉田調査員の中間報告)
◯下総国総社の六所神社の神様の思いに気づくべく、国会図書館、有栖川公園の都立中央図書館、市川市中央図書館で調査。

■調査の視点・広がり
・陸軍研究の文献
・市川在住者から記述された民話伝承
・神社を記述した文献

■陸軍の動向
□教導団移転の流れ
・陸軍歩兵大佐渡辺央が東京は武学生の教育には不適当の地であると論じ、有楽町周辺に散在している教導団各隊を江戸川に面した里見義弘の居城跡に集結させたいと建議する。・陸軍省は渡辺教導団団長の意見を取り上げて省議を開き、千葉県葛飾郡国府台へ移転を決定した省議の内容とメンバーを調査予定→例えば、有栖川宮親王は陸軍大将にして伊勢神宮の祭主の経歴、時期が離れますが梨元宮家も陸軍大将にして伊勢神宮の祭主。そういえば、日本の植民地支配は日本神道も戦略的に組み込まれていたと聞いたことがありますし、陸軍と日本神道の繋がりも少し気になります.

□軍用地の整備
・教導団の移転が決まった時点で、国府台の六所神社があった土地を「西練兵場」用地として急きょ買収したとのこと ・1885年、明治18年1月頃、郡用地の建築図完成、2月下旬に地ならしに取りかかる予定と新聞が報じる。1885年、明治18年5月19日、陸軍卿伯爵大山巌により教導団歩兵大隊千葉県下国府台に移転;が通達される(「法令全書」より)→只今、詳細を調査中□ちなみに;「壱大日記」という資料に民有地買い上げ文書で・明治18年5月11日内務卿伯爵松方正義名義で陸軍大山巌宛・明治18年9月22日内務卿伯爵山縣有朋名義で陸軍大山巌宛の通知があったようです→六所神社の土地買い上げ文書も、それほど違わない名前があがるかもしれません。

□軍用地整備の労働力
・教導団が国府台へ来るにあたり、千葉の刑務所から囚人を連れてきて、三角山や射撃場、練兵場を使えるようにさせたとのこと道路建設、兵営の新設、東練兵場や射場も建設、市川松戸道・旅団坂も囚人に作らせたようです。そのため仮の刑務所を国府台の天神さんの裏、通称、監獄山に造り、麦の入ったむすび一個で一日中、足を鎖で繋がれ、激しい労働をさせられたそうです→囚人のお墓もあるようです。

□「西練兵場」での訓練内容
・「西練兵場」は、国府台の「四角の森」といわれる六所神社の跡地付近で、手榴弾の投擲訓練などが行われたり、ガス室があって、防護マスクを付け独立工兵第二十五連隊がガス訓練などをしていたという。西練兵場傍のプラットフォームでは、野戦重砲兵部隊が牽引車や大砲の貨車への卸貨訓練などを実施していたようです戦車が坂から落ちて人が亡くなっているようです。

■六所神社の変遷
国府台の六所神社
・祭礼10月20日 ・1883年前に現在の国府台1丁目、府中の森(「四角の森」「六所の森」)の北に鎮座していたとのこと。真間弘法寺の北の字「府中」にあり「古代~中世の国府」に関連する由緒ある神社だったとのこと。六所之宮との呼び名も戦国時代は里見氏、北条氏、千葉氏の守護を受けていた、徳川氏からは朱印を賜った。
→徳川家康が敗れて逃げてきたときに百日祈願をし、次の戦いから勝つことができたとのこと、徳川よりももっと昔の武士も先勝祈願をしていた
→六所神社は、武士からは「戦の神様」ともみられていたようですが、地元住民からは「(下総国総社というより)国府(地域)の守り神」と見られていたようです。
→市川在住の方々のいろいろな文章を読んでも、村や町単位の意識(対立意識を含む)が強くて、下総国としてまとまった社会文化的意識・規範はあまり感じられませんでした。六所神社は、中世以降の地元住民の意識の上では「下総国の国府という地域にある守り神・氏神様」という位置付けかもしれません。

□中世以降の市川、背景知識 
・古代~平安頃までは国-郡-郷という規則的な律令体制が機能していたが、中世になると関東・下総では辺境の軍事貴族、武士が発生し、国下に郡・郷・荘・保という「所領」が併存していたようです。
・平将門ら辺境の軍事貴族は国府と直接交渉をもち、従わない国府は時に戦火の巷になったといいます。下総国府もほど近い相馬郡に本拠を構えた将門の脅威にさらされていました。
・平維良の乱では実際に下総国府は灰塵に帰しているようですこの灰塵の中から地域を復興した原動力は、各地の豪族的領主の開発で、下総国は豪族的領主・千葉氏に連なる人々が中心となったようです。
→つまり、中世市川界隈は、所領の領主単位の支配力・帰属意識が強く働き、国府・国衙には国単位の支配力・帰属意識はあまり強くなかったようです。

□中世下総の代表的な領地
・国衙領:真間・国府・府中・市川・須和田
・八幡荘:曽谷・大野・中沢
・公領:栗原郷
・行徳:下総国一宮の香取神社
・夏見御厨など、それぞれ暮らしは分かれていたようです。

□六所神社の移転
・1886年、明治19年に境内が陸軍用地になったため須和田に移転。
・六所神社跡地は陸軍教導団の「西練兵場」となる。
・拝殿の前には「イチョウの木」があって、須和田に移転後もしばらくは参道の両脇に並木道が残っていた。参道は、商大の中から市立第二中学校の方へ松の林の中にあったとのこと。
・1950年、昭和25年に野球場ができるときに「四角の森」「六所の森」を壊し、六所神社跡の地面も調査せずに深く掘りおこしてしまう。

□六所神社の管轄と氏子
・昔の区画では現在ある市川・国分・曽根・貝塚などという地名はなかった。六所神社は古くは印旛郡六反田村と須和田村の二つの村を守護していた。

□六反田村、六所神社跡地
・現在の真間5丁目の区域は、明治初めまでは六所神社の氏子だった。 六所神社が須和田に移転する際、六反田村の花沢、藤城、栗山、清水、山崎、富川、富川、富川の8軒は、どこまでも六所神社を信仰するために「真間5丁目14番地(いなほ幼稚園の近く)の4~5坪の土地」に六所神社の分社を建てた。鳥居もある。花沢さんの土地が一番広く、元の神社の真下にあることから、花沢さんが中心となり六所神社の分社を建てたという。分社の祭日は本社の祭日に併行して「10月15日」とのこと。

□六反田村、真間へ統合
・1951年、昭和26年、大字・字の名称廃止のため、新たに町名や丁目制を実施した際「国分に加わるか真間に加わるか」を花沢さんたちは問われたが、その時は国分が嫌いだったため、全員一致で真間を選んだという。

□須和田村、六所神社の移転先
・印旛郡の須和田村には増田、田中、三橋、山崎、松塚と桑原の六軒があって、本家の家長はみな「~衛門」とついて増田彦衛門、田中久衛門、三橋むくえ門、山崎左衛門、松塚五衛門という名前だったそうです。桑原は神主で「いずみの守」という名前だったそうです。

□須和田村、国分へ統合
・その後、須和田村は国分村に合併、六所神社の氏子は国分村の須和田を中心に、市川、真間、根本(現在市川四丁目)の鎮守になっていた。

□国分村の氏神様
・国分の氏神は日枝神社で龍珠院の坊さんが管理人、明治に神仏が別れてからは葛飾八幡宮が神主、現在は白幡天神社が管理しているとのこと。

□須和田の六所神社
・須和田二丁目の地には元々は「鷲の宮」(おとりさま)があったという。・須和田二丁目のお宮の北側に「鷲の宮うしろ」という字が残っていた。→1951年、昭和26年、大字・字の名称廃止。元々「鷲の宮」(おとりさま)があった地に、現在の国府台1丁目から六所神社が「ヨイショ、ヨイショ」と担がれてきたという。

□須和田村の桑原氏の出自
桑原氏は、元々、現在の埼玉県の葛飾地方・古利根川流域の出自で鷲宮神社(おおとり様)をおまつりしていたそうです。その後、利根川を下り、下総国府・国衙の在庁官となり、下総国一宮の香取神社の神事にも出席する「国府の六所神社の神主」となり、国衙領の領主であったという説があります→桑原氏は、陸軍による六所神社移転の際、六所神社神主から六所神社氏子総代になったようです。

■今後の調査
・来週から陸軍の内部資料に踏み込み、教導団移転の省議を調べます。神祇全書の内容を精査して、下総国の「総社」と六所神社の関係を調べます→印旛郡と葛飾郡の関係性もおさえていきます。
※下総国六所神社の氏子総代のマスダさんにお電話して、いろいろお話を伺える約束をいただきました。日時:2月17日(月)10:00~ 場所:六所神社境内 →当日は祈年祭ということで、氏子さん皆様勢揃いということです。事前に、①本殿向かって左にお祭りされている神様の名前が知りたい、②六所神社のこれまでの変遷について知りたい、とマスダさんにお伝えすると私(マスダさん)はあまり詳しくないんだけど、資料がいろいろあるから用意しておきますとのこと。奉納酒を1升持って行ってきます。

■アポイントまでの経緯
千葉県神社庁の返事 連絡先:0432613293
・六所神社のことは葛飾八幡宮の神職さんに聞いて下さいとのこと。
葛飾八幡宮の返事 連絡先:0473324488
・六所神社は葛飾八幡宮で管理しています。
・六所神社のご朱印は、葛飾八幡宮で書きます。
・六所神社の御札は毎年12/27に氏子総代のマスダさんに頼んで下さい。
・六所神社の質問はマスダさんにするとよいですよ。
・マスダさんの連絡先も聞きました。

□六所神社の氏子総代マスダさんへの質問の内容
・移転後の境内の配置について
・現在の本殿に向かって左側にお祭りされている全ての神様の名前と位置を確認します。本殿に近い側で、月読宮と水神社の前に配置されている神様も確認します。

□民族の思いを解きほぐす
・ここの神様が「いつ頃から」「どこから」分祠されてきたのかを確認。
→猿田彦は移転前のご祭神で、「大己貴命、イザナギ尊、スサノオウ尊、大宮乃賣命、経津之御魂、天津彦火瓊瓊杵尊」の六柱を国司の国内参拝を簡略化するために下総国各所から合祀したと文献にありました。その他に移転前の境内には末社が四社あったようです。
→修験系の神様は、市川市の伝承で埼玉県秩父市(吉田の生まれ故郷)の三峰講の話があがっていました。三峰神社との関係を確認します。ちなみに、移転前の所在地・国府台(こうのだい)は鴻之台という表記もあり、ヤマトタケル縁の地名だそうです。秩父と三峰神社もヤマトタケルとご縁があります。→その他、六所神社に縁があった千葉氏、北条氏、里見氏、徳川家の氏神様も調べて確認します。

□移転前の六所神社縁起と境内配置
・平安~中世~明治と、境内の配置がどう変化してきたかが分かれば理想的かなと思いますが、中世の下総国国司は藤原北家の方だったとのこと。

□六所神社移転時の経済状況
→どうして社の扱いが粗末なのか、かなりデリケートな内容ですので、明治政府の仕打ち・外堀から埋めていくのが定石かもしれませんが、氏子総代からどうひきだせばよいのか、正直、考えただけで気が重たくなりましたが、幸い良い文献にあたりましたので次に紹介します。

■「国府台旧所在の六所神社について-古代から近代までの展望」
→市川市市立歴史博物館の学芸員さんが書いた研究報告書ですが、領主神主だった桑原氏が家に伝わる古文書の整理を歴史博物館に依頼して、その資料に基づいて書かれています。

□報告書のポイント
・明治政府が日本の近代化→「富国強兵」を進める過程で、日本人の精神的支柱として国家神道の確立を目指して、版籍奉還→廃藩置県→廃物毀釈・上知令を打ち出して、江戸時代までの旧体勢を再編成していきます。
・下総六所神社も上知令で明治4年に社領を取り上げられて神社経営の基盤を失ったようです。
→移転が明治19年の話ですので、明治政府の政策で地域全体の経済的余裕がまったくなかったのであれば、現在の六所神社の姿もありえるでしょうか。
・明治政府以前の要因としては、中世の任期切れの国司の土着化により生まれた地方貴族、すなわち平将門の脅威や平維良の乱による下総国の国機能の分断や荒廃が挙げられそうです。というのも、明治政府が近代化を進める際の再編成ですが、既に統制が国単位で効率的にとれている地域でしたら、地域のトップ集団を入れ換える、あるいは抱き込めば効率的に済みますが、明治政府視点で千葉県の歴史をみると、それがまったく不可能な位に分断・細分化してたのかなあとも感じられます。一方で、隣町の下総国総鎮守の葛飾八幡宮が繁栄し続けたのは、源氏→徳川家ラインの後ろ楯の力かと思われます。

■市川市歴史博物館学芸員への質問
・研究報告書を書いた学芸員さんにも質問調査をします。

■明治政府の政策まとめ
□1876年(明治9年)国家神道の流れ 
・日本近代化の過程で、欧米を研究したところ、欧米は軍隊・産業だけでなくキリスト教が軸だと気づきました。日本ではどうあるべきかを考え、財政安定化のため、土地・人民・宗教の一元管理に走ります。その過程で、版籍奉還、廃藩置県、キリスト教の弾圧・廃物毀釈・上知令が出ました。

□1869年(明治2年)版籍奉還
・土地と人民が明治政府の管轄になる。大名が藩知事として残る。

□1871年(明治4年)廃藩置県
・欧米列強の植民地化を免れるため、明治政府が年貢を全て取り仕切る ・大蔵大輔大隈重信が新国家設立には「軍事」、教育、司法、財政の確立が必要と主張。・「藩知事統治の藩」から「中央政府より派遣された官吏統治の県」へ移行。→長期的には「律令の世・官吏~武士の世・地方領主~明治政府・官吏」の揺り返し。

□1871(明治4年)上知令
・神社仏閣の所領が明治政府に取り上げられる。
2月17日の氏子さんの酒宴が始まった頃に私は到着し、遅れはしましたが、お話をいろいろ伺うことができました。皆様ありがとうございます。
結果的に、 神主さん・氏子の皆様には私が奉納したお酒よりも私が揃えた六所神社に関する文献資料がお気にめしたようでむさぼるように大いに盛り上がりました。というのも、ご出席の氏子の皆様は年配の方々でしたが代が変わっていて縁起のこと、移転当時のことが伝わっておらず、皆様、六所神社の出自にうえていたというわけです。
神主さん・氏子の皆様からは 六所神社の末社や移転当時のお話はあまり聞けませんでした。むしろ、私が調査結果を大いに報告する形になり、次回、6/30の大祓いにもまた来て下さいねと約束を頂きました。

以上

このように詳細な調査をしてくれた吉田さん、本当にありがとうございます。この続きは、地球創生SNSで公開するとして、氏子の皆様とのご縁が今後の人生において良きご縁が広がる神計らいが必ず起きると感じています。

皆さんも今回の調査内容をお読みになってわかるとおり、本気になれば先人たちや神の思いを自分一人でも正しく理解することができることを理解できたと思いますので、地球を愛し日本国を愛する人達は自分の意識を高めることばかりに気を向けるのではなく、一番大事な足元を守る神の視点に気づくためにもあなたが住む氏神様や産土神、一宮や総社の神についてご自分で調べてみて下さい。

祭神が変わっていたり、移転していたり、人間の勝手な理由で大切にしてきた思いをねじ曲げている社も多いので、先人たちのや神の思いを理解した人たちは、必ず、目に見えない存在の守護と導きを感じるはずです。

神社を中心とする人の繋がりの大切さは、自分や家族や住む土地の人々との強い絆を持つことで、結果的に何か土地の問題が起きた時に守り合う知恵になったり、生き延びるために必要な人間関係も構築できます。

本来、「神社の存在理由」にそういう目的があったこともご理解下さい。
私達大人は時代が変わっても大事な知恵を次の世代へ引き継ぐ役目があるからこそ、土地を守る「神」という視点を通して学びあうことで大切な人間関係を作り上げて下さい。
我々の命を守って下さるご先祖たちや神たちが、願うことはただひとつです。
「あなたは決して一人で生きているのではない」からこそ、遠くに住む親や家族に恩返ししたい気持ちを身近な人達とコミュニケーションを深めることで恩返しをして下さい。

地域に住む子供たちを自分の子供のように同等に育てようとする大きな心の大人たちがいることで、ご近所の安全を守る人間関係も生まれますし、お金を払う側、もらう側という関係を超えたところで、人としてお付き合いが広がるのも神社が存在する良い点です。

都会化し、核家族化し、人と人の接点が薄れた時代だからこそ、人と神を同等に愛する人たちが神社を大切にしようと思うことで育む知恵も生まれますので、どうぞ、お祭りの時には役員席のお年寄りたちに声をかけてみて下さい。

誰かが無償で準備をしているおかげで、ひとつの小さなイベントが次の世代へ続くのですから・・・

いつも、ありがとうございます。

 

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