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【神奈川県】ヤマトタケルと弟橘媛 走水神社・安房口神社 

ヤマトタケルと弟橘媛のことが2月の相模国神事で出たので、横須賀にある「走水神社(はしりみずじんじゃ)」へ行きました。(2014/03/14)

◎走水神社  神奈川県横須賀市走水2-12-5
(由 緒)走水神社は、12代景行天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱をお祀りしております。

景行天皇即位40年、東国の騒動を静めるため日本武尊にその鎮定を命じました。勅命を奉じて日本武尊は、伊勢神宮に参詣され戦勝祈願をなし、神宮の斎宮であった叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)より神宝の雨叢雲之剣(あめのむらくものつるぎ)と火打袋を授けられ、東国に東征の軍を起こされました。

途中、静岡(焼津)において賊にだまされ火攻めの難に遭遇されましたが、雨叢雲之剣で草を薙払い向火を放ち形勢を逆転させて賊を討伐したといわれ、これよりこの神宝を草薙之剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれ、以来、熱田神宮の御神宝となっております。日本武尊一行は、焼津、厚木、鎌倉、逗子、葉山を通り走水の地に到着されました。

ここに、御所(御座所)を建てました。(現在の御所が崎といわれています)走水の地において、軍船等の準備をし、上総国に出発する時に村人が日本武尊と弟橘媛命を非常に慕いますので、日本武尊は自分の冠を村人に与えました。村人はこの冠を石櫃に納め土中に埋めその上に社を建てました。(走水神社の創建です)

日本武尊は、上総国へ軍船でいっきに渡ろうと船出されましたが、突然、強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進むことも戻ることもできず転覆するかの危機に、日本武尊に付き添ってこられた御后の弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と御歌を残し、海中に身を投じられました。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来ました。以来、水走る走水と言われております。

上総、下総、常陸、日高見の国々の蝦夷を討ち平らげて大和に帰る途中、碓氷峠から遥か東方に光る走水の海の輝きを望み、その海に身を投じ武運を開いてくれた媛を偲び「あ~吾が妻よ」と嘆き呼びかけられたという、そしてこれをもって東国を東(吾妻)「アズマ」と呼ぶようになったといわれております。

奈良時代の初期に編纂された『古事記』『日本書紀』にも記されております。また、弟橘媛命が御入水されてから数日して海岸に櫛が流れ着きました。

村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛命の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としましたが、明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀されました。












◎摂社:水神社(本殿裏)
ここには子供の御霊が二つか、三つ、入っていました。


◎摂社:真ん中の岩盤がくり抜かれている祠(本殿裏)
仏像が彫られている祠には、お母さんの魂がいました


◎摂社:右側の岩盤がくり抜かれている祠(本殿裏)
屋根瓦を祀っている祠の意味は、家を守る家主、家長の意味なので、この土地にいらっしゃった親分の魂を祀っています。岩を削って社を造る形はすごく昔の造り方ですが、それぞれが同列に並んでいない理由は、家長が妻と子供達の魂を横から守っている意味になります。

◎稲荷神社(本殿横)・・・秦氏メッセージ
 

私達が来た時には、何もなかった。
だが、いろんな者達がたくさん来てそのような目的を持っているとは知らなかったが、いざこざが少しあったからこそ納めるのも大変だったのだぞ。


その為の守りの力として働いているからこそ、こうして祀られているのだが、その事はあまり正しく伝わっておらぬのう。

私達が来た頃にはまだ何も無い、人もほとんど住んでいないような時代だったからこそ、その時に来た時の苦労を伝える者がおらず、その後の事ばかりが話しに出るが、わし達が来た時には生きるのが精一杯だった。

海の魚を取り、山の実を取る事でしか生計を立てられず、苦しい生活をしておったのだぞ。


そういう民がいたからこそ、住み着く民がいたのだという事を、正しく伝えておくれ。よろしく頼む。










◎~本殿後ろの山の中腹に祀られている三社~

◎諏訪神社(左)

しばらく待っておれ、みんなが待っておるぞ、みんなが待っておるぞ。


みんなが、「お前達が来るのを待っておった」と言っておるぞ。


諏訪ではよく働いてくれたな、よく働いてくれたな、ありがとうなあ。


その思いがしっかり伝わって来ているからこそ、よく働いてくれたなと、よく来てくれたなと、伝えておくぞ。

わしらが、この地に来た時には、いろいろな民族が、出入りし始めていたからこそ、ただ、強力な力を持った出雲族の関係者達と、それ以前に住んでいた秦氏達(中国・朝鮮系の民達)と、それ以外にも、まだ、海から渡って来た四国や九州から渡って来た民達や、反対に、千葉方面から追われて来た民達や船で流れ着いた者達や、いろんな者達がこの地に来ておったのだぞ。

その時に、神力についてはとても難しい時代だったからこそ、それはまだ全国統一がされておらず、国家統一がされていなかったからこそ、神の思いをどこに運ぶか、どこに繋ぐかは領主の許可を得てその組み立てが変わるが、ここの領主は、お前達が知っているとおり大事に神を、先祖を守ってきたからこそ、こうやって、わしらがここにおるわけだ。その事を正しくわかっておくれ。

※つまり、ヤマトタケルと諏訪族は先祖の関わりがあるという意味です。

その事が、色々ややこしい民族の思いとしてではなく、この地を守り、この地に大切な社を立てた意味であり、それまでの多くの民族に対する感謝の意を込めて祀られている事を正しく理解して伝えておくれ。よろしく頼むな。ありがとう。

◎須賀神社(右)


ここに祀られている者達は、九州からやって来たヤマトタケル一団において大切な剣を守った方達であり、その剣の意味は神力であり、守護・加護力であり、大元に意志でもあるからこそ、その意味を持って親元の地の繋がりの意味さえ持ってそれを守って来た者達、その命(めい)を受け、その命を守った者達としてここに祀られておるのだぞ。その事をわかっておけ。よろしく頼む。
 

吉岡解説:須賀神社に祀られている魂が言っている「剣」の意味は、草薙の剣ではないけれど、ヤマトタケルが親(王)の言いつけをちゃんとやるかどうかという親の目も含め、親の加護力と同じ一番大事なものを守って来た方々の意味であり、親のいる土地の繋がりを剣に換えて守ってきた「知恵のおじい様達」を、第二位の位置で守っているという意味です。

◎神明社(真ん中)

この神明は、お前達が知っている通り、出雲のアマテラスの事。


つまり、神巫女の事を言っている。そして、三名連れて来ている。


一名の巫女を守る為に、二名侍女がいて、この三名で神力を繋ぎ、このヤマトタケルを支えるべく守り繋いで来た神力の元である。その意味であるという事を理解しておくれ、よろしく頼む。

※ヤマトタケルの神力を守る為に従者として三名の巫女がいた事が、この言葉で判明しました。

◎別宮(本殿左横)   ※新しく作り替えています

弟橘媛については、いくつかの話しがありまするが、私達が言えるところまではお話しましょうか。


あなたが言う通り、確かに、(ヤマトタケル)は先住民の血筋ではありまするが、中でもこの地域の長(おさ)は文明を取り入れて進化をし、一般の現代風の生活をするようにしていた「長(おさ)」がいたわけで、そのいろいろな文化を取り入れる事によって商業交流も含め、生き残る術や知恵を持っていた長がこの地域にはおりました。

その長(おさ)がこの地に住んでいた所にいろいろな民達がやって来て、「交流せよ」という場合と、「この土地を明け渡せ」という場合と、いろいろな意味がありましたからこそ、常に、その時にはいろいろな方法を使って和合をしようと努力をしていました。

いずれにしても、「国家平定」という大きな意味においては従うしかなかったからこそ、その手段において様々な手を尽くそうと他の部族達にも声を掛け働きましたが、私達が出来る事は直接の事ではなく、民の命を繋ぐ事を許される為に「弟橘媛」が選ばれた事によって、私達が大切な方をお守りするという役目をもらう事になり、また、その一族が生き延びる事や命を保証される事にもなったからこそ、大切なお役目として守っておりました。

そしてその後、海に入水されたところから誰が、弟橘媛の魂を守るのかというところですから、私達がその亡き身ではなく、弟橘媛の魂を祀る巫女として祀られているという意味でご理解下さいませ。


だから、わたくし達の思い全てが集まる事によって「弟橘媛の魂」がここにいらっしゃると思って下さって結構です。

そう理解して下さいませ。よろしくお願い致します。

※弟橘媛を守り支える為に多くの侍女がいたことを覚えておいて下さい。

※十王(じゅうおう)とは、道教仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の、いわゆる裁判官的な尊格である。数種の『十王経』類や、恵心僧都源信の『往生要集』に、その詳細が記されている


◎本殿

宮簀媛の時よりは、もっと軽やかな気持ちであろう。それは、ここの彼女が、最も純粋な魂の持ち主というか、われを助くるにあたり、命を差し出すその純粋さに、私も惚れたと言っておこうか。


この地の平定においては、力ではなく知恵を使い、多くの民達と何度も話しを重ねて来たが、なかなか最初は理解してもらえず、とても我々としても苦労をしたからこそ、その従者達の強い思いと、そうではなく、土地の者達との思いを理解する為の時間をかけた場所である。

だからこそ、ここの領主・長であった者の名が記されておらぬ事が残念だが、とても賢い長で、多くの部族達との繋がりを持ちながら、いかにして戦わずに、血を流さずに、民達の生活を守り、我々の本来の役目を果たす事について話し合いを繰り返ししてくれた知恵のある者である。


だからこそ、私がこうやって祀られておるのだ、という事をわかっておくれ。

そして、お祀りされている姫の事については、まだいろいろな面で気付く事があるだろうが、それは、最も大事な統制をする為に身を休める時期でもあり、大切な場所だったという事をわかっておいてくれれば、その姫の純粋な気持ちもわかるであろう。

我が背負っている荷が大きいからこそ、「わたくしに出来る事はございますか?」と、常に、その純粋な心で身を呈してくれた、素晴らしい女であったという事はわかっておくれ。


そして、これからもまたその地の場所が、大切なものを繋いでくれた思いの場所となれば、私も嬉しく思いまする。

どうか宜しく頼みまする。ありがとうございます。

※ヤマトタケルが相模国(さがみのくに)の横須賀から上総国(かずさのくに)へ船で渡る際に海流が荒れ狂ったことを「海の底の神が怒ってらっしゃる」と判断し、身を投じて海の底から荒波を納めた弟橘媛は、龍宮底神の巫女である可能性が高いと思われます。

現在、関東全域を影から守ってくれている母神の神社である「総社つなぎ」を行っていますので、上総国の安房神社にもつながっている横須賀の「安房口神社」へ行きました。

安房口神社   神奈川県横須賀市吉井3丁目95番
(由緒)安房口神社は吉井・明神山の山頂に鎮座する霊石を御霊代として拝する特殊な形態を持つ神社である。御神体とする霊石は、安房国(千葉県)鎮座の安房大社の御祭神である天太玉命の霊代として、東国鎮護のために安房国より吉井明神山の山頂に出現飛来したと伝えられる。その巨石の面が安房国を向いているという事から、古来より安房口明神と尊称してきました。社伝によれば、日本武尊が御東征の折、登山せられて霊石を拝し、東夷征討が速やかに成就されんことを立願せられたという。又、史家によれば、湘南山手開発前の安房口神社の山麓の道筋は、古東海道の一つであると云われている。鎌倉幕府も大事ある時には、当地の群主三浦義澄を代拝させて奉幣祈願を行ったという。創立は詳らかでないが、巨石を以てご神体と仰ぎ、社殿を設けず、神社建築史上からいっても原初的な形態をなしていることなどから、古代の鎮座であることは信憑性のあることであり、又古代の信仰形態を現代にまで伝えている珍しい神社でもある。古代の神道では、大きな石や岩を磐境(いわさか)とか磐座(いわくら)と称し、神の降臨の場所・坐と考へてその前で祭りをしました。その他、山(神奈備・かんなび)や樹木(神籬・ひもろぎ)を御神体とすることもありました。神道の原点の一つは自然崇拝です。神が宿っていそうな巨岩や、清らかな水を湧き出させる泉、あるいは山そのものに神が宿るという事で神まつりが始まります。この吉井の鎮守の森(杜)に鎮まります安房口神社は、古代より吉井の里人が大切にしてきた「ふるさとの森」であり、命を育み豊かな自然の恩恵を祈り、感謝する神社です。日本全国の神社が存在することで森を残し、守り、創ってきたこの森こそ、長い歴史に支えられた鎮守の森であり、世界に誇る日本人の英知であります。今では、「鎮守の森」は国際植生学会などでも世界の公用語になっています。












◎御神木からの言葉

たたずましい、御霊の数、多かれど、その御霊達の思い、ここの生気となりて、発展し続ける事、これ、先祖達の願いなり。
思い知るは、この地、束ねし者達の思い、その民達の思い、その子孫達の思い。
連なるは、この地、この山、この土地を生き延びる為に苦しみ抑えられ、染められた思い。
一重に、見守りまする神山の力あれど、我ら感謝す。

申し付ける事なく拝みに来る者達多く、その思い、心より感謝す。
土地の者達の、はかばかしく思う。
心の奥底にある思い多かれと、感じておりまする。

いつも、ありがとうございまする。

◎御神体の磐座のメッセージ

上の方からやって来た者達か?それとも土地の下の方からやって来た者達か?

(天無神人)いずれの民でもありませぬ。神の思いを伝える役目をしております。

そうか、そうであれは、この事は伝えておこうか。
昔々、あるところに、いた民族がおってなあ。


その民達が、一生懸命に自分達の思いを繋ぐために石を動かしながら、石を運びながら、船で運んで来た民達がおったそうな。


その民達が、「アワ族」といわれている事は、存じておろう。


そう、千葉の外側も、四国の方もそうであるし、九州の一番南端にあるところにも同じ民が入っており、また、「アワシマ」と呼ばれるところにいる民もそうである。
どちらにしても、東側の多くの民を束ねる為に大切な霊石を祀りたたえ、その霊力を、分け御霊とするがごとく石を運び、また、その石を鎮座させ、石と自然神を繋ぐ事によって、その土地、山、木、水、火においてまで、繋がる力によって、この石に込めておりまする。


その力が強ければ、守る力も強いですし、その力が弱まれば、石だけではなく、山の自然界の力も弱まります。
だからこそ、その神力を守る者達、その神力を信じる者達が、今もなお、手を合わせ、心を合わせ魂を繋ぐ、その魂を繋ぐ意味で、玉石を納めておりまする。


土地の人が(丸い)玉石を神社へ運ぶ姿を見た事があるでしょう。


伊豆諸島の中にもある、玉石を運び納める民達も同じでございます。


その玉石に込められた魂の思いこそ、おおいなる母の魂の元に繋がるその意志、大きな神の意志、大きなその御神体そのものにおいて「我が魂を母の故郷の地にまで繋ぎたまえ」という思いがあってこそ、祀られているものでございます。


どうぞ、その事を、お見知りおき下さいませ。

(質問)神社の玉砂利とかを敷き詰める意味も、アワ族から来ているのですか?

それは違う。
それは、その者達が、自分達の魂の思いを込め、自らがその思いを集めたことをいう思いでその場所に玉石を置くのだが、その事をするのは、本来、神職であり、その方達が守る場所において、神玉・命玉と言って、いろいろな玉石を一カ所に集める事によって神聖な神の思いの玉(魂)、思いが集まる場所としての聖地の意味である。


我々が言っている意味は、民達が自分達の子孫・先祖の元に繋がる意味で、海からわざわざ丸い玉石を運び、母の地へ運ぶという意味である。


その違いは、大きな違いがあるのでよく理解して下さい。

(天無神人説明)
安房口神社の周辺には、すごくたくさんの民が入って来ていることがわかります。

そうでなければ、こんなに沢山の外来種の樹を植林出来ないからです。

※南方系の暖かい地域に生息している種類の樹

この山にあるご神木は全てここに住み着いた人たちの故郷の樹ですが、そうとうすごい人数が来ている証拠です。
※秦氏の前に住み着いたアワ族は、先住民系の方々に知恵と文化を教えた人たちです。

 

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