【VIP】1996年にアメリカNYでマライヤ・キャリー主催のパーティに招待されました
1990年1月前半に、「中国の天安門広場の問題」を1発で解決した腕を見込まれて、まともな外務省のアメリカ担当のキャリア官僚から電話がきて、「日米交渉がうまく進まないので対策を練って欲しい」と、1990年1月末に頼まれました。
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吉岡:アメリカで最も重要な案件を決める権限を持っている人間は誰だい?
官僚:ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ大統領を補佐している「ブレント・スコウクロフト大統領補佐官」です。
吉岡:じゃあ、ブレント・スコウクロフト大統領補佐官夫妻を日本へ極秘招待して「最高のおもてなし」をしてから交渉するといいと思うよ。
官僚:僕ら官僚は、海外に行って交渉するのが仕事なので、「接待」をすることは仕事ではありませんし、やろうとしてもできませんので、労働組合の活動で慣れている接待のプロの吉岡学さんにお願いしたいと思います。
吉岡:おいおい、また、丸投げかよ!!
お前ら官僚の仕事は、大きなビルも金を抜いて手抜き工事ばかりだけど、人間も手抜きにできているんだな!
お前らそれでよく官僚って仕事をしているもんだな!!
おい、お前!すぐに官僚なんてやめてしまえ!!
どうせ、海外に交渉に何度行っても良い結果を出せないくせに、ジャブジャブ賄賂を渡して、酒と女とシャブをやりまくるのが仕事なんだろう?
お前の家族は知っているのか?
そんな「人間として最低の仕事」をしているくせに、成果も出せず責任も取らず、さらに、他人に自分の仕事を丸投げする人間なんて、聞いたことないぞ!
うちの両親が聞いたら、きっと、殺されると思うな?
お前の両親には、自分の仕事の実態を話したことはあるのか?
官僚:本当のことなんて親に言えるわけないじゃないですか?
男の仕事を理解できるのは父親だけですが、僕は「長男」なので、父親は大嫌いです。
子供の頃から責任ばかり押し付けて、できれば長男を誰かに代わってもらいたいと何度、思ったことか・・・。
そんな話はいいですから、アメリカ大統領補佐官の接待は、全て吉岡学さんにお任せいたしますし、予算は無制限に使ってもいいですが、期限は3ヶ月以内にお願いします。
吉岡:ちょっとお待てよ、今、俺はダイエー苫小牧店のおもちゃ売り場にいるが、12月に日本一の売り上げを作ったので、1月末に札幌店の日用品課に移動が決まっているんだ。
つまり、引越しと、次のお店の売上対策と、部下の指導を徹底するのが一番大事な時期だし、日用品の売上の最大ピークは3月なので忙しいのがカブるじゃないか?
まあ、4月末くらいなギリギリなら大丈夫か?
1ヶ月もあれば、業績回復の目処は立つと思うし、部下の指導ポイントも掌握で切るから、ギリギリ頑張って4月末だな。
官僚:はい、4月末までに全ての接待を終えて、今の日米交渉を正常化して下さい。あのチョロチョロしている「小指チンチン鈴木友康」のせいでこじれたので、日米交渉の正常化をよろしくお願いします。
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当時のダイエーの従業員は1店舗300人以上、社員パートアルバイトがいたので、全ての従業員コミュニケーションの企画をして人を喜ばせるのが得意だったので同じだと思って引き受けました。
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自分の部下はパート・アルバイトを含めて40名近くいましたが、社員を1人増やして3人にしてもらい、その代わり、「私の権限を委譲するので、それぞれが私の代わりができるプロレベルの仕事をしろ!」と命令して、徹底的に社員教育をしてパート・アルバイト全員に「数値目標」を設定させて、「自分が設定した目標を達成したら時給を上げる!」と約束して、実際に、全員の時給を上げながら、あのバブル崩壊の不況のなか、「12ヶ月連続売上利益の予算達成」させました。
日本全国のダイエーグループ650店舗でそんな売り場はないほどみんな頑張ったので、年間7億800万円の売上を上げて最高に幸せな時間でした。
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労働組合の仕事をやるからには、自分の売り場をごちゃごちゃ言われたくないのでで、「結果は出してやるから社員一人くらい増やせよ!」と人事課長に言えるのが、ダイエー労働組合中央執行委員の強さでした。
中内功社長には内緒で、人事課長にだけ「国の仕事を手伝うので、くだらないことをごちゃごちゃ言うと、お前も、店の店長課長も飛ばすぞ!」と脅しておきました。
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アメリカ大統領補佐官を招待するために選ぶゲストに悩みましたが、私は子供の頃から歌手にも役者にも全く興味はないので「ファン」になったことはないし、歌手のコンサートにも滅多に行かない人間でした。
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だからパソコンで、アメリカの人気歌手と映画の役者を検索すると、当時、アメリカ人の誰もが知っている「映画ロッキー」のシルベスター・スタローンと、「歌手のマライヤ・キャリー」を招待することに決めました。
きっと、二人のギャラの合計は5億円くらいするだろうと思って覚悟していましたが、「マライヤ5億円、シルベスター・スタローン15〜30億円億円が相場」だと、あとで専門家に聞いて驚きましたが、最後は二人とも私を気に入ってくれたので二人のギャラは「無料」でやってくれました。
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「隠れ接待」の場所は外観が素敵な神奈川県の有名な老舗の「富士屋ホテル」がバブル崩壊の影響で潰れそうだったので、短期間で改装する許可をもらい、最高の接待が成功したので国の援助金でお礼をして全館を改装したので、一気に、素敵なホテルになり予約殺到のホテルに生まれ変わり、オーナー支配人に喜ばれました。
➡️富士屋ホテル https://www.fujiyahotel.jp/
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1990年4月末の接待当日までの1ヶ月間で全ての工事を終わらせるために3つの建築会社の作業員を使い、のべ350名の作業員が徹夜でやってくれましたし、「設計・施工・現場監督」は自分一人でやりましたし、調理スタッフや配膳スタッフも腕のないバカは首にするので、行くたびにいろんな職人とケンカの日々でした。(^^)
だって、私の設計施工や館内全てのインテリアデザインや細かい飾り付け小道具、それに料理メニューや食器やお皿のセンスや、ショーのタイムスケジュール管理も全て自分一人で作り上げたし、「センスが悪くて実力がない人間」にごちゃごちゃ言う人とは仕事はしたくありませんし、頑張った人には会社に給与以外に上乗せ臨時ボーナスを現金であげたので当然ことですよね?
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ちなみに私は、スペイン バルセロナのガウディーの修復を頼まれた「サグラダ・ファミリア主任彫刻家・外尾悦郎さん」に出会った時に、困っていた彼にアドバイスし続けた人間なので、私の「デザインセンスは世界レベルのプロ」ですが、仕事が忙しくなったので外尾悦郎さんのアドバイスをやめたら、本人のやる気も無くなったようで、ガウディはまだ修復が完成していません。
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問題は、場所が神奈川県だったので羽田空港から移動する車が混んで予定時間に遅れそうで困りましたが、さすが「国賓」を呼ぶとなると警察だけでなく「防衛省」も協力してくれて、ゲストの車をヘリで吊って空中移動させてなんとか予定時間に到着しました。
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たった1日だけのために設計施工したホテルの様子をご案内します。
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ゲストが正面玄関の車から降りると、そこには「真っ赤な大きな鳥居が伏見稲荷みたいにいくつも並んで建っている」し、最後の鳥居は自然に頭を下げて入る高さに設計しました。
もともとあった「回転ドアの玄関」は支配人のこだわりだったので丸ごと外してあとで復元できるようにしましたが、私のデザインは、「自動で左右に開く大きな四重貼りの障子戸」を特注で作り、徹底的に「和のおもてなし」を表現しました。イメージは、ジブリ作品の「千と千尋の神隠し」の宿の進化系です。
玄関ホールには真っ赤なジュータンが引き詰められていて、「直径9メートルの白木の円形テーブル」の上に、「直径6メートルの大きな花鉢」を置いて池坊専永に当日の朝、生花を生けてもらい、花を触りたくなると丸い台に乗るはずなので自動的にゆっくり回転するようにしておいて、回るとホテル内の天井やライトのインテリアデザインが「宇宙を表現した」ので風景との360度マッチングを演出してゲストの気持ちを落ち着かせる工夫をしました。
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「池坊専永」は何度も試作品を作るたびに京都に呼ばれましたが、毎回、「ダメ出し」したので、結局、彼が持ってきた材料で私が生けることになり、当日の朝に「日本とアメリカの和合の花」を完成させましたが、池坊専永は私に「最高の師範の資格をやる」と言いましたが断り、私が生けた花を丸ごとトラックで京都まで自分で運んで庭に飾ったので、料金はタダにしてもらいました。
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ゲストが回転台の花をぐるっと回って見た先の階段には、「ブロードウエイのアカデミー賞で使う特別な真っ赤な絨毯」を裏から手に入れて、階段の上まで敷き詰めて、そこにアメリカゲスト2名と、ゲストをお迎えする日本ホスト5名が並んでいる状態を作りました。
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上り階段を登ると、途中で左に曲がる階段を作り、踊り場の壁には、当時85歳だった「赤富士」で有名な片岡球子さんに私がお願いしに自宅まで行って、
今までに書いた事がない赤富士を幅6メートル、高さ3メートルの特注キャンバスに描いてもらいました。
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展示が終了後、「この絵は、私の遺体と一緒に焼いてもらい天国に持って行きます」と片岡球子さんに喜ばれ、唇にチュウをされました。
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全ての準備が整った当日、真田広之と、渡辺謙と、KOYUKIと私と通訳の5名が2階で並んでいると、1階で大きな女性の声が「ビューティフル!」と花を褒めているし、「この赤い絨毯は、あのブロードウエイの特別製よ!」と大きな声を出すし、なかなか来ないと思って覗いてみると、階段の赤富士に圧倒された奥さんの表情を見たので、いろいろ仕掛けて本当に良かったと思いました。
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しかし、階段を上がってきたのは、ブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官が体調が悪いので代わりに「ジョン・ボルトン夫妻」が来たので、とても申し訳ないと言われましたが、結果時に、いろんな大統領にも全ての要人に顔が効く人だったので、お友達になって本当に良かったと思いました。
料理のメインメニューは、イギリス料理か、フランス料理か悩みましたが、「アメリカは二つの国の植民地」なので、アメリカ人が大好きだけど大統領でも予約できないマンハッタンの「ベニハナ・トーキョー」のオーナーのロッキー青木さんを日本に呼んで目の前で調理してもらいました。
「ジョン・ボルトン夫妻」も感嘆の声と表情でうまい!うまい!と食べてくれましたし、ロッキー青木さんにギャラの話をすると、「ちょうどその頃、日本に戻る予定だし、アメリカのお偉いさんにはたくさんお金を払ってくれたのでタダでいいよ」と言ってくれましたし、お店の無料招待券もいただきましたが、アメリカで活躍する役者たちにプレゼントしました。
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シルベスター・スタローンも、マライヤ・キャリーも有名すぎたので、「大統領でも会えないくらいの有名人」と外務省の人間に聞いたから、ゲストに選んだのです。
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お迎えする「日本のホスト」も必要なので、アメリカ映画に出て有名だった千葉真一さんにオファーすると、「忙しくて無理だが、弟分の真田広之」を紹介してくれました。
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男一人で出迎えても絵にならないので、綺麗な女性を探していると同じ芸能プロダクションに「小雪」という役者の卵の綺麗な女性がいたので、「日本の花」として選びました。
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当日、真田広之が急に連れてきたのは、「渡辺謙」。
真田広之は、「自分が育てたい役者だし、アメリカ映画にも出たいと言っていたので連れてきた」と言うので、渡辺謙と握手しようとすると、
「お前は役者か?
もし役者ならキャラが被るし、敵になるので握手はしない。」
と言うほどプライドが高い人間だったので面倒な男でした。
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日本の男女2名で出迎える予定が3名になったので、仕方なく私も並んで男3名、通訳のデブ女と小雪を入れて5名で出迎えることにしました。正式な「出迎えの人数の意味」を知っている人なら当然です。
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最初にやってきたのは、シルベスター・スタローンで、さすが、英雄らしいウエスタンブーツとテンガルーハットとボクシンググローブをつけたスタイルで、アメリカをアピールしてくれました。
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着替えに時間がかかったマライヤ・キャリーは「ごめんなさい」と日本語で言ったあと、「この娘も一緒にステージに出させて下さい」と言った女の子が「DESTINY’S CHILD」で歌っていた「ビヨンセ」でした。
https://youtu.be/Wmc8bQoL-J0?si=YIeoqG1fS-Jv6D1H
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1990年当時、「マライヤ・キャリー」は、1969年生まれの「21歳」で、連れてきた「ビヨンセ」は、1981年生まれの9歳の女の子で、私は31歳でした。
「マライヤ・キャリー」は、1969年生まれの私より10歳年下でしたが、20歳で「アイル・ビー・ゼア」が全米一位になり、イギリスでも全英2位を獲得したほど有名だったのでゲスト依頼しました。
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「マライヤ・キャリー」と「ビヨンセ」の二人とはこの時から仲良くなり、日米交渉のあとも個人的に交流していましたし、健康に関することや歌やダンスのこともいろいろアドバイスしていた関係が10年以上、続きました。
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「マライヤ・キャリー」には、伸びる声以外の声の出し方や表情と目線、メイク指導から始まり、女性らしい立ち姿や腰の振り方など、大人の女性らしさをもっとアピールすべきだと教え、これからの時代は「動画」に残るので曲の順番やイメージ作りの写真のポージングを細かく指導したので、そのあとのジャケットが素晴らしいとアメリカファンに喜ばれて爆発的にレコードもCDも売れまくりました。
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「ビヨンセ」も、子供ながらにとても綺麗な声をしていましたが、「12歳頃は変声期になるので、その時期を過ぎてからデビューしろ」と言っておいたのに、「アメリカでは女性の変声期はない」のが通説らしく、レコード会社が勝手に「デスティニーズ・チャイルド」の契約をさせてデビューさせましたが、思ったとおり3人とも声変わりが起きて思春期の体の変調も起きたので「活動中止」になっていました。
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子供の頃から「Beyonce」は、いつも、マライヤ・キャリーの真似をして歌っていたので、
「自分らしさを表現しないと、アメリカでは生き残れないので、自分の特徴を見せなさい」
と言うと、楽々とブリッジをして見せたので
「股関節が柔らかいならダンスが向いているので、俺の得意のSOUL TRAINダンスを教えるからそれを真似して自分のものにしなさい」
と、日本に来るたびにいろんなダンスを見せてビデオに録画して練習していましたし、踊りながら歌うなら、腹筋・背筋と喉の声帯も鍛えないといけないので、日本の専門家に聞いたことを咀嚼して細かいアドバイスをしていました。
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私も中学生の頃から「SOULTRAIN」の音楽とダンスが大好きでテレビで見て真似て踊っていたので、手足が長い特徴を活かして一人で踊る「フリーダンス」を徹底的に中学・高校・大学・サラリーマン時代も踊り続けたので、いつも、ダンスホールを独り占めしていたほどダンスは上手でした。
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私が「マライヤ・キャリー」と「ビヨンセ」に教えたお礼は、いつも、自宅に「ここまで頑張ったよ!のDVD」が送られてきたので妻にも見せましたが、「興味がない」と全て捨てられてしまいました。
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「ビヨンセ」の動画メドレーのおすすめは、Beyoncé – Love On Top (Official Video)のバックダンサーの一人のTシャツに「日本国旗」をつけさせたのもBeyonceのお礼の気持ちの動画です。
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いつも、「マライヤ・キャリー」が日本に来た時は、「ビヨンセ」もくっついてくるので、一緒に歌の歌い方や綺麗な声を長く出せる筋肉をつける方法や、背が伸びる食べ物や、おっぱいが大きくなる実家の無農薬の豆類をたくさん煮込んでたくさん食べさせましたので、とても綺麗な大きなおっぱいとナイスバディになったようです。
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当時から「マライヤ・キャリー」は世界中のコンサートで忙しく飛び回っていましたが、体調が悪い時もよくあったので、食事内容を聞いてみると、ほとんどが「アメリカの冷凍ハンバーグや食品添加物」ばかり食べているので病気になりかけだったので、私が日本製の最高級の炊飯器を買ってあげて、実家の美味しい水を運び、プライベートジェット機の中でお米の炊き方を教え、「塩おむすび」の作り方も教えて、「フリーズドライの味噌汁を毎日、飲みなさい」と教えると、二人ともとても健康になりました。
安売りしているブロイラー卵ではない「平飼いの卵かけご飯」を教えようとすると、「アメリカ人は生で卵は食べません。ボイルしないと絶対に食べません」というので、美味しいキッコーマン醤油をかけて混ぜて食べさせると、「美味しい!!!」と病みつきになり、毎回、日本の卵とキッコーマン醤油とお米とお味噌を買って帰るようになりました。
アメリカでもネット通販している日本の会社を探すと無かったので、交渉した「ホクレン」が注文していただければ航空便で送りますというので、まとめて購入する方法を教えてあげました。
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私は、有名人で居続けたいのなら食事で注意することは、なるべく肉は食べないこと、脂肪分のパンは食べすぎると太るから禁止、ワサビや漬物・豆腐・納豆、味噌汁など日本の健康的な食事療法も教えて毎日食べて周りのお友達に教えるようになりました。
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「マライヤ・キャリー」は医者に出された薬を飲まなくても体調が良くなりましたが、どうしてもパーティにお肉が出るので食べると便秘になると悩んでいたので、「日本の天然塩の粗塩をお水に入れて飲みなさい」と教えると、お通じも改善されて良くなりました。
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アメリカで有名な歌手やドラマスターやスポーツ選手たちも移動が多いので、同じような不健康な食生活をして健康を壊していたので、体に良い安全な日本の食事と、日本一美味しい北海道の無農薬のブドウやイチゴやリンゴやスイカをたくさん買って教えてあげると、みんなが体調が改善されたのでたくさんのお礼の品物も送って頂きましたが、全てキャリア官僚の仲間たちにプレゼントしてあげました。「有名人グッツ」に興味はない人間だからです。
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6年後の1996年(37歳)の2月頃、東京のダイエーの本社で働いていると、突然、「マライヤ・キャリー」から電話があり、「今からあなたを迎えに行くのでアメリカに来て下さい。」と言われたので、ダイエーの仕事が終わったままの格好で成田空港からプライベートジェット機に乗り、ニューヨークのJAZZのメッカの「BLUENOTE」の2階を借り切って、私にお礼をしたい音楽仲間のミュージシャンや映画スターやアメフトの有名選手などがたくさん集まってくれていました。
世界的に有名な歌手や役者やNBAバスケットボール選手やアメリカンフットボールので選手はオリンピック選手も集まってきたので、「ニューヨークの空港に降りられないプライベートジェット機が多すぎて空港が混乱している」とマライヤ・キャリーに電話が入り、BLUENOTEの支配人と相談して3階のもっとも大きなメインフロアに移動することになり、「マライヤ・キャリー」が契約しているコロンビアレコードの社長も遅れてやって来ていろんな契約をしましたが、まだ一円ももらっていませんし、日本の「ソニー・ミュージック」とはマライヤ・キャリーとビヨンセの二本DAY」を濁内販売の契約を私と結んだのに、まだ1円ももらっていません。
NBAのマイケルジョーダンからはサイン入りのバスケットボールと靴をたくさんプレゼントされるし、アメリカ野球のスター選手はサイン入りのグローブやバットをたくさんプレゼントされたり、あらゆるジャンルの有名スターが、「マライヤ・キャリー」に教えた食事療法で健康を回復できたとお礼を伝えてくれたので、プレゼントの数は半端ないほど山になったので、あとで北海道の自宅に送ってもらうように頼み、全て知り合いのキャリア官僚たちに差し上げました。
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私は北海道のコメ農家の息子として育ったし、小さい頃から父の仕事の手伝いをしていたので、体に良い食べ物を食べないとどれくらい酷い病気になるかをたくさん見てきたからこそ、「医者の薬」に頼るのではなく、自分で毎日、食事を作って健康に良いものを食べていないと必ず、体は壊れて病気になることを知っている人間なので、「知っていることを教えるのは当然だ」と思う人間です。
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私がやったこの1日の接待のおかげでアメリカとの交渉は正常化したので、あとで「アメリカの特別国家公務員資格とバッチ」も送られてきましたし、この全ての報告書は外務省にいた通訳の女性が全ての写真を撮って報告書を書いてくれたので、私がサインをして印鑑を押し、外務省の課長と長官の印鑑ももらってからデジタルチップにして私のパスワードをいくつも入れて保管してありますが、接待の内容はどこの会社も公開しないように、外務省も一般公開するホームページにも掲載はされていません。